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第3話 月と月の出会い

日はゆっくりと西に傾き、校舎の壁が桃色から群青へと移る。その境目を、屋上のコンクリートが静かに受け止めていた。

鉄の扉を抜けると、薄く温まった空気が肌にまとわりつく。足元にはゴムシート、手すりのそばには長いブルーシート。角には灰皿代わりの缶と、赤いセロファンを巻いた懐中電灯が三本。


「暗さに目が慣れるまで、しばらく白い光は禁止ね」


柏木先輩が指差しながら注意事項を復唱する。

新堂がシートを広げ、望月先輩は手すりの影になりやすい場所に折りたたみ椅子を並べた。

美月は、借りている星座早見盤を胸に抱え、こくこくとうなずく。


「じゃ、十分だけ“暗順応”。座って、風の音を聞いてて」


望月先輩の声は、昼間より少し低い。


シートに腰をおろすと、地面の熱が抜けていくのが背中からわかる。

校門の方角からは自転車のブレーキ音、グラウンドからは遅くまで残っている野球部の声。どこかの家の風鈴が、一度だけ鳴った。

目を閉じると、風が髪を撫で、まぶたの裏にゆっくりと夜が濃くなっていく。


「開けてみて」


言われて目を開けると、西の低い空、夕焼けの名残の上に白い一点が浮かんでいた。

にじむように明るい。


「金星。宵の明星。惑星はあまり瞬かない」


望月先輩が囁く。

続いて東の空に、針で刺したような鋭さの点がひとつ。

さっきまで何もなかったところに、確かな位置を占める光。


「ベガ。こと座の一等星」


名前を与えられた瞬間、ただの点ではなくなる。

音のない世界に、発音だけが先に生まれる。「ベガ」。

口の中に置いてみると、冷たくて、きれいな音がした。


「ここからは“待つ”時間。星は急に増えない。少しずつ、じわじわ。……焦らないこと」


柏木先輩が笑って、赤いライトで手元のリストを確認する。


「虫よけは?」

「あります」


ふと鼻先に、どこかの家の蚊取り線香の匂いが流れてきた。線香の煙が見えたわけでもないのに、鼻が覚えている夏の記号に、心が少し落ち着く。


やがて、東の空に二つ目の明るい点。

ベガから南へ少し下がったあたり。


「アルタイル。わし座」


少し遅れて、北東の空に白い星がふっと灯る。

淡いけれど、見つけたらもう見失わない光。


「デネブ。はくちょう座。——三つで、夏の大三角」


美月は早見盤を回し、東の方角に合わせて、楕円の窓の中に三角形を探した。

紙の図と空の配置が一致していくときの、微かな快感。

上空に薄く、白い帯の“気配”が見えるような気がする。

それが気のせいでも、気のせいじゃなくても、今はどちらでもいいと思えた。


「さそり座も低く出てくる。南の低空、赤い星が目印」


しばらく待つと、校舎の向こうに、ゆっくりと赤い火点がにじんだ。

青白い星ばかりの中で、そこだけが温度を持っているように見える。


「アンタレス。さそりの心臓」


“心臓”。


言葉に触れた胸のあたりが、少しだけ熱くなる。

美月は双眼鏡を手に取り、教わった通りに視度を合わせ、呼吸を止めないよう意識して、ベガの周りにそっとピントを合わせた。


一本の線だったものが、細かな粒の集合に変わる。

星は“群れ”になる。昨日の言葉が、実体を得た。


「——うまい」


望月先輩の声。

「たまたま、です」と返しかけて、喉の奥でやめる。

ここでそれを言うのは、もう違う気がした。


新堂が「流れ星、まだですかね」と空を睨む。

「今夜は流星群じゃないから“運”だけど、出会えたらラッキー」と望月。

柏木が「その“運”、七夕まで貯めといて」と肩を軽く小突く。


笑い声が風へ散っていく。


一段落したところで、望月先輩が白い板を抱えて近づいてきた。


「初心者向けミニ講座、今日の課題。——“夏の一等星に、ひとこと”」


「ひとこと?」


「うん。見つけた星に、自分の言葉を一個だけ付けて覚える。ベガは“針”。アルタイルは“通路”。デネブは“渡り”。人によって違っていい」


美月は、空と早見盤を交互に見ながら、少し考えた。

ベガは、確かに刺すように鋭い。アルタイルは、ベガと結ぶ道の上で、どこか“渡す”役割をしているように見える。

デネブは——白い鳥の根本で、静かに翼を支える光。


「……“起点”」


「デネブが?」


「はい。はくちょう座の根元だから。そこから羽が広がっていく感じがして」


望月先輩は、少し驚いた顔をして、それから満足そうにうなずいた。


「いいね。“起点”。覚えやすい」


言葉を受け取られると、自分の中の小さな確信が固まる。

観測ログに、そのままの字で書ける気がした。


風が一段強くなり、シートの端がぱたぱたと鳴った。

屋上の電灯は落ちている。手すりの向こうに広がる街は明るいのに、ここは暗さを選んでいる。

暗さを選ぶことで見えるものがある、という事実に初めて触れている。


「そろそろ、名前を」


望月先輩がぽつりと言って、白板とペンを差し出してきた。

参加者のリストに、今日来たメンバーが順にサインを書いていく。

新堂が“新堂”、柏木が“柏木”。


差し出された黒いペンを受け取り、美月は少し迷ってから、“一ノ瀬 美月”と書いた。

止めと払いが、いつになく緊張している。


「美月、か」


望月先輩が、声に出して読む。


その瞬間、胸の奥で小さな鐘が鳴ったように感じた。

先輩は白板の別の欄に、さらさらと“望月”と書く。

墨色の文字が並ぶ。

美しい月と、満ちる月を望む月。


一拍、風の音だけが間を埋めた。


「——月が、重なったね」


息がほんの少し詰まった。

言葉は軽かったけれど、置かれた場所だけがやけにはっきりしていた。

美月は返事を探して、見つからなくて、かわりに空を指さした。


「月……今日は細いです」


西の空、電線の向こうに、白い針金で曲げたみたいな三日月。

霞んだオレンジの上で、かろうじて存在を主張している。

望月先輩はうなずき、少し笑った。


「俺の名前はね、昔は好きじゃなかったけど、天文部に入ってからは便利なんだ。“月”の話をすると覚えてもらえるから。——君は?」


「え?」


「自分の名前、好き?」


考えたことがなかった。

呼ばれるたびに少し照れくさくて、でも嫌いではない。

夜、窓から見える白い円を思い出す。

満ち欠けがあって、形が変わるのに、名前は変わらないもの。


「……今、好きになりそうです」


声に出した瞬間、自分で驚いた。

望月先輩は、何も足さず、ただ頷いた。

それだけで十分だった。


「そろそろ片付けよう。七夕のために、今日は“ほどほど”で」


柏木先輩の号令で、ライトが一本だけ赤く灯り、シートがころころと巻かれていく。

双眼鏡をケースに戻し、早見盤を袋にしまう。

美月はもう一度だけ、東の空を見上げた。

三つの光は、さっきよりも少し高い位置で、静かに形を保っている。


階段へ向かう途中、望月先輩がふいに足を止めた。


「観測ログ、書いてみる?」


差し出されたノートの一ページ目に、今日の日付と天候。

“東の空に夏の大三角。ベガは針。デネブは起点。——金星が眩しい”

ペン先が紙の上を滑ると、今日の夜が形を持って残っていく。


扉を閉めると、館内の白い灯りが目に痛い。

廊下を抜ける風は生温かく、どこかの教室から椅子を重ねる音が聞こえた。

昇降口で靴を履き替え、外に出る。

空は完全な夜になっていて、街灯の輪の外側に、さっきより増えた小さな点が散っている。


「七夕で」


望月先輩が短く言う。

「はい」と返す声は、思っていたよりもまっすぐに出た。


校門を出て、振り返る。

理科棟の屋上はもう見えない。けれど、さっきノートに書いた文字は、ポケットの奥で確かな厚みを持っていた。

歩き出す足取りに合わせて、早見盤が小さく鳴る。

風鈴が遠くで応える。


東の空に描かれた三角形と、自分の名前。

そして、静かに重なった“月”のことだけを、何度も心の中でなぞっていた。

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