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第2話 星降る部室で

昼休み前に降った夕立は、校舎の影にまだ小さな水たまりを残していた。

湿ったアスファルトが日差しを飲み込む匂い。蝉の声は一層厚みを増し、空の青は洗い直したみたいに澄んでいる。


放課後。理科棟の一番奥、手書きのプレート「天文部」。

昨日より、ほんの少しだけ迷わずにドアをノックできた。


「どうぞ」


落ち着いた声。扉を開けると、今日は遮光布は半分だけ降ろされ、外の光が薄く混じっていた。

スクリーンの前にはプロジェクターと、脚の低いテーブル。その脇に、小さな黒い箱——星の投影機。天井の棚には望遠鏡の三脚、机の上には双眼鏡、そして古びた星座早見盤。扇風機が首を振るたび、薄い紙が乾いた音で揺れた。


「いらっしゃい。来るかなって思ってた」


望月先輩が笑う。白いシャツの袖を肘までまくって、工具箱を開いている。

机の隅には、黒いレンズ拭きと、細いドライバー。


「これ、なんですか」


「投影機のレンズ。七夕の前に磨いておきたくて。ほら、覗いてみる?」


レンズをのぞくと、黒の向こうに、かすかな光の粒が集まっているのが見えた。

装置の内部に潜む“夜”を、昼間にだけ許された角度から覗いてしまった気分になる。


「天文部は工作部でもあるからね。道具の手入れも観測のうち。レンズは皮脂が大敵」


「……指紋、つけません」


慌てて手を引っ込めると、先輩はふっと笑って、レンズ拭きを渡してくれた。

「優しく、円を描くように。——できる?」


「やってみます」


慎重に拭いていると、部室のドアが再び開いた。

眼鏡の女子が「こんにちは」と会釈をして入ってくる。髪は後ろでひとつに結び、首には小さな鍵のネックレス。


「副部長の柏木。機材貸し出しとか書類は彼女が一番詳しい」


望月が紹介すると、柏木先輩はにこりと笑った。


「見学の子? ようこそ。屋上の鍵は私が管理してるから、観測会の日は私に声かけてね。あと安全第一、段差と手すり注意」


メモ帳をぱらりとめくり、七夕の参加希望者リストを見せてくれる。細かく丁寧な字。

その下には、部の連絡先と、当日の持ち物の注意書きが付箋で貼られている。


> 持ち物:水分、タオル、虫よけ、上着(夜は意外と冷える)

> 携帯は輝度を下げ、赤色フィルム推奨(目が暗さに慣れるまで15分)


「赤い……フィルム?」


「スマホの光って白いでしょ。夜目をつぶしちゃうの。赤だと影響が少ないの。百均のセロファンで十分」


“天文知識は生活の知恵に変換される”。そんな言葉が頭に浮かんだ。


「兼部は大丈夫。文芸と両立する子もいるから、無理のない範囲でね」


柏木先輩がそう言ってくれて、胸の中の小さな不安が一つ減る。


「ねえ部長、双眼鏡も拭く?」


「お願い。あとでピント合わせの練習もしよう」


テーブルには“7×50”と書かれた双眼鏡が二台。

望月先輩は、肘を机に固定して持つやり方、呼吸を止めないこと、視度調整リングの意味を、一つずつ教えてくれた。


「最初は昼でいい。遠くの時計とか、電柱のネジを見て、ピントが合う位置を覚える。夜は暗いから、迷わないように」


覗いてみる。

遠くの校舎の時計の縁が、一本の白い線から、細かなギザギザの集合に変わる瞬間——ピントが合うというのは、解像度の上がる快感なんだと知る。


「うまい」


「……たまたまです」


「昨日も聞いたな、それ」


望月先輩が笑うと、部室の空気がいっそう柔らかくなる。


その時、彼のスマホが机の上で小さく震えた。画面に一瞬だけ、メッセージのポップアップが現れて消える。


“相談の件、今日だと何時がいい?”


誰からかは、読み取れなかった。


(相談……?)


“進路相談”なのか、“恋愛相談”なのか——言葉だけでは掴めない。

自分に関係のないことだ、と心の引き出しにそっとしまう。


「さて、少し暗くして、投影テストしようか」


遮光布を下ろし、プロジェクターが静かな光を吐き始める。

スクリーンには、昨日よりも広い空が映し出された。ソフトのメニューが隅に控えめに現れ、望月がリモコンで夏の星空へ切り替える。


「今日は星座線も重ねる。まずは、さそり座。ここ、赤い一等星アンタレス。夏の大三角に行くとき、この“赤”を目印にできる」


赤い星の印がすっと強調される。

アンタレスから南東へ、バランスを取るように伸びる尾。たしかに“さそり”に見えなくもない。想像力が、星と星の間に線を引いていく。


「で、こちらがこと座のベガ。わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブ。三つ合わせて夏の大三角」


「名前を知ると、見えるようになる」


「うん。昨日の復習完璧」


望月はそう言って、スクリーン上に微かな白い帯を重ねた。

天の川。薄墨のグラデーションが、画面の中心を斜めに横切っている。


「七夕の夜、ここがはっきり見えれば最高。……でも、雲と月齢が味方してくれるかは運次第。だから、見えない夜の楽しみ方も用意しておく」


「見えない夜の楽しみ方?」


「星の“名前”遊び。星座早見盤と双眼鏡で、明るい星からたどっていく。夏の一等星を“挨拶順”に覚えるとかね。あと、音。——部室の屋上、夜は風の音が全然違う」


“音”。


天空は音のない世界だと、どこかで思っていた。けれど、見上げる場所にはいつも地上の音がある。

屋上の“風の音”を想像して、胸の奥がひやりとする。


「ところで、一ノ瀬さんは、どうして天文?」


突然の問い。

昨日、自分で言ったはずのことなのに、改めて聞かれると、言葉を並べる順番を探す。


「授業で『銀河鉄道の夜』を読んで。……天の川が“物語”じゃないところにあるって、急に思ったんです。確かめたくて」


「いいね。確認から始まるの、好きだよ」


望月の声は、いつもより少し小さく落ちて、耳の深いところに留まった。

スクリーンには、ベガの青白い光が瞬き、デネブが白く静かにそこにいる。


「先輩は、どうして天文を」


「最初はね、小学校のとき、父さんが流星群に連れていってくれて。空が割れるみたいに光って、怖いくらい綺麗で。……それから、仕組みが知りたくなった。どうして光るのか、どうして落ちるのか。理屈まで辿り着きたくなった」


「理屈まで」


「そう。観測して、仮説立てて、検証して。大学では天体物理をやりたい。来年はここを離れるけど、ちゃんと戻って来られるように、今はできるだけ“橋”を作っておきたい」


「橋?」


「後輩に渡せる道具とか、観測ノートとか、初心者向けの手引きとか。——部室の“記録”って、意外とすぐ行方不明になるんだ。だから、残る形にしたい」


机の上のノート束を指差す。

表紙には「観測ログ」とだけ書いてあり、年月日と天候の欄、使用機材、見えたもの、気づいたこと、という項目が並んでいる。

最初のページに、丁寧な字で“北東の低空、雲多し。ベガの瞬き強め”とある。日付は去年の夏。


「記録は、未来の自分を助けるから」


その言葉に、胸が静かに反応した。

ノートの余白が、昨日の国語ノートの余白と重なる。


「よかったら、一ノ瀬さんも、七夕から書いてみて」


「……はい」


頷くと、ふと机の端に立てかけられた一枚の写真が目に入った。


写っているのは、星空の下の山の稜線。前景に立つ二人の後ろ姿。片方は望月先輩だとすぐにわかり、もう片方は、髪を肩で結んだ、すらりとした同年代の女子。

繊細な顎のライン。長いまつげの影。笑うと目尻が柔らかくなるタイプの人——だと思う。誰かに似ているような気がした。


写真は、上半分が星で、下半分が人。どちらにもピントが合いすぎない、やさしいブレ方。


(……誰だろう)


尋ねるべきか迷っていると、柏木先輩が「屋上、鍵開けてくるね」と告げて出ていった。

望月先輩は、写真立てをこちらに気づかないまま、軽く横にずらして机のスペースを空けた。


「少しだけ、外に出よう。夜になると足元が暗いから、明るいうちに動線確認」


「はい」


屋上へ続く鉄扉を抜けると、熱の残った空気が肌にまとわりつく。

グラウンドの向こう、校舎の窓が夕陽を反射して、オレンジ色の帯になっていた。

手すりの高さ、段差、風の抜け方。足元のタイルが微妙に浮いているところ。柏木先輩は“危ないポイント”に付箋のように注意を貼っていく。


「ライトは赤、手すりに寄りかからない、寝転ぶときはシートを敷く。以上、基本」


「了解です」


西の空には、薄く三日月。

南西の低空に、白く強い光——宵の明星、金星。

街のざわめきの上に、風が薄くたなびいて、屋上の“音”が確かに違って聞こえる。

遠くの国道から聞こえるタイヤの音、どこかの庭で鳴る風鈴、野球部の“ラスト一本!”の声。

それらが層になって、夜の手前の空気に溶けていく。


「見える?」


望月先輩が、金星の方へ顎で合図する。

美月はうなずいて、指の腹でそっと示した。


「明るい。——星って、こんなに早い時間から見えるんですね」


「惑星はね。金星は“明けの明星”“宵の明星”って呼ばれるくらい明るい。七夕の夜は月明かりがどうかな……直前まで天気図とにらめっこだ」


言いながら、望月先輩は部室から持ってきた小さな白板に“七夕観測ToDo”と書き始めた。


■双眼鏡ピント確認

■シート・懐中電灯・虫よけ

■星座早見盤(予備含む)

■初心者向けミニ講座「夏の一等星」

■万一曇天時のワーク:星の名前カード遊び


「曇天、ありうるので」


「名前遊び、楽しそうです」


「語感がいいんだ、星の名前って。ベガ、アルタイル、デネブ。アンタレス、アクルックス、スピカ……言ってるだけで、ちょっと涼しくなる」


たしかに、口の中に冷たい音が転がる感じがする。

美月は、昨日受け取ったメモ用紙を思い出し、ポケットから取り出した。角が少し柔らかくなっている。


“七夕 屋上 19:00”。


その下に、自分の字で小さく“赤いセロファン”と書き足す。


「部長、追加で——」


柏木先輩の声に振り返ると、廊下の向こうからもう一人、背の高い男子が階段を上ってきていた。


「一年の新堂です」


と、人懐っこい笑顔。両手に長いシートと折りたたみ椅子。


「手伝い助かる。——じゃあ今日はここまで。暗くなる前に片付けて、解散」


部室に戻ると、遮光布を上げ、明るさが戻る。


望月先輩は、磨き終えたレンズを丁寧にケースにしまい、投影機を布で覆った。

机の端の写真立ては、いつの間にか伏せられている。

帰り支度をしながら、彼のスマホがまた小さく震えた。


(“今日、ありがとう”——チラリと見えたのは、そんな文字列)


「一ノ瀬さん」


名前を呼ばれて、胸が小さくはねる。

望月先輩は、星座早見盤を一枚、透明な袋に入れて差し出した。表には、細いペンで“貸出・七夕まで”と書かれている。


「これ、持って帰って。東と南、毎日ちょっとでいいから、方角を体に入れておくと、当日ぜんぜん違う」


「ありがとうございます。——返します、必ず」


「返すとき、観測ログも一緒に」


冗談めかした声。

“記録は未来の自分を助けるから”。

昨日の夜、自分がノートに書いた小さな約束が、ふいに現実の重さを持った。


外に出ると、もう空は群青の濃さを増していた。

理科棟の影を抜け、昇降口で靴を履き替える。

扉の外の空気には、蚊取り線香の匂いが混じり、どこかの家の夕飯の支度が始まっている。


校門の近くで立ち止まって、もう一度だけ振り返る。

理科棟の最上階——屋上の手すりの向こう側に、まだ見ぬ夜が積まれている気がした。


七夕まで、あと少し。


星の名前を口の中で転がす。

ベガ、アルタイル、デネブ。

言葉だけでも、涼しい風が喉を通り抜ける。


ポケットの中で、早見盤が軽く鳴った。

紙とプラスチックのぶつかる乾いた音が、なんだか心地いい。

歩き出す足取りは、昨日より、少しだけ軽い。


美月はまだ知らない。


机の端で伏せられた写真の中の彼女のことも、“相談”の文字が、すぐに自分の小さな誤解の芽になることも。

それでも今は、部室で磨いたレンズみたいに、視界が澄んでいる。


夜空のプラネタリウムが、また一段、心の中で明るくなった。

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