第1話 銀河鉄道の始発駅
七月の午後、黒板のチョークは湿気を吸って、いつもより少しだけ太い線を引いた。
国語の教師が机に肘をつき、涼しい声で「銀河鉄道の夜」を読み上げる。扇風機が教室の空気を攪拌するたびに、ページの端がふわりと波打った。
「──ほんとうの幸いって、なんだろうね」
読み終えた先生は、窓の外に視線を投げたままそう言った。照り返しで白く霞む校庭。蝉の声は、ちょっとした沈黙でもすぐに満ちてくる。
美月は、教科書の余白に小さな星印をいくつも描いていた。幼い頃に読んだときには、カムパネルラの名前はうまく言えなかったし、最後の場面もよくわからなかった。ただ今日は、先生の声と、教室の熱気と、外の光の強さが混ざって、自分の心のどこかが、手の届かない方向に引かれていくのをはっきり感じた。
「天の川って、ほんとうに見えるのかな」
口に出したわけでもないのに、机の木目に吸い込まれた呟きは、自分にだけ聞こえた気がした。ここ数年、夜空をちゃんと見上げることもなかった。家の近所では、星はいつも二つ三つしか見えない。天の川は、絵本の挿絵の中にだけあるものだと思っていた。
チャイムが鳴って、現実が戻ってくる。ノートを閉じ、筆箱を入れ、椅子の脚が床を擦る音の中に溶け込む。
廊下に出ると、むっとした空気に肌が包まれた。窓の外、体育館の屋根の向こうに白い雲が積み上がり、遠くで雷が小さく喉を鳴らしている。
放課後、教室はすぐに空っぽになっていく。
美月は、文芸部の部室に行くか少し迷って、やめた。部誌の締切はだいぶ先だし、最近は顔を出しても、皆がそれぞれの画面や紙に沈んでいて、話すことがない。そういう空気に、自分の言葉が薄まっていくのが怖い日もある。今日は違うところに行きたい、と思った。
階段を降り、掲示板の前で立ち止まる。そこには色とりどりの部活動のポスターが重なり合って貼られていた。サッカー部の大会結果。合唱部の演奏会の告知。
その端の方に、控えめな色で一枚の紙がある。
天文部 見学歓迎
七夕特別観測会のお知らせ
屋上 19:00~ ※天候により中止
手描きの星が散らされた、簡素なポスター。インクが少し滲んで、星の縁がやわらかい。
指先で紙の端を押さえる。七夕は、もうすぐだ。
(……行ってみようかな)
自分の胸に浮かんだその言葉は、驚くほど軽かった。
足は自然に理科棟の方へ向かう。理科準備室の近くの廊下は、いつも薬品の匂いがしている。夏の匂いと混ざると、懐かしい理科室の記憶が呼び出される。ガラスのビーカー、乾いた綿、半分消えかけたラベル。
天文部の部室は、理科棟の一番奥の突き当たりだった。ドアの上には、小さな手書きのプレート。「天文部」。
ドアは半分だけ開いていて、隙間から、夜のような暗さが覗いている。扇風機の回る低い音と、何かのかすかなモーター音が重なって聞こえた。
ノックしてみる。返事がなくて、もう一度。
「どうぞ」
落ち着いた声がした。
恐る恐るドアを開けると、部屋は窓に黒い遮光布がかけられていて、天井の蛍光灯も消されていた。代わりに、前方の白いスクリーンに無数の星が散っている。
天井近くの棚の上に置かれた小さな投影機から、静かに光が溢れていた。
「見学の子?」
スクリーンの脇に立った上級生が、こちらを見て微笑んだ。背は高い方ではないけれど、姿勢がまっすぐで、目が優しい。暗闇に慣れていない目には、輪郭だけがはっきりしている。
「……はい。授業で『銀河鉄道の夜』を読んで、あの……天の川、見てみたくて」
言ってから、急に恥ずかしくなった。文学の話を持ち出すのは場違いだっただろうか。
けれど、彼は嬉しそうにうなずいた。
「わかる。あれで天文に来る子、毎年いるよ。座って」
部屋の中央には、折りたたみ椅子がいくつか並べられている。扇風機は首を振りながら、同じリズムで風を送ってくる。段ボール箱が積まれている隅には、双眼鏡が二台と、古びた星座早見盤が見えた。
美月が椅子に腰を下ろすと、投影機の光が少しだけ強まって、スクリーンの星々が生き物みたいに明滅した。
上級生は、リモコンのボタンを押しながら言った。
「今日は夏の星空を出してる。ここがベガ、こと座の一等星。七夕の織姫星って言うね。で、こっちがアルタイル、わし座の一等星。彦星。最後にデネブ。はくちょう座の一等星」
スクリーンに青白い光の点がふわりと強調され、線で結ばれていく。三つの星が大きな三角形を描き、その内部に、薄い白の帯が、ゆっくりと流れている。
「天の川……」
思わず、声に出ていた。
白い帯は、墨をたっぷり含ませた筆で一度だけ撫でたように、かすかに濃淡がある。その中心がデネブのあたりを通って、画面の端へ消えていく。
「街の明かりがあると、こんなふうには見えないんだけどね。暗い場所に行くと、粉を撒いたみたいに見える。屋上でも、うまくいけば“気配”くらいならわかるよ」
“気配”という言い方が、ちょっと不思議で、好きだと思った。見えないものを、その輪郭だけで感じること。
上級生は、スクリーンの端に目印を出して、指で示した。
「明るい星から覚えるといい。まずはこの三角形。東の空から上がってきて、夜が更けると天頂の方に行く。……星は名前を知ると、見つけやすくなるんだ」
「名前を、知ると」
「うん。人を覚えるのと同じで」
美月は、教科書の余白に描いた星印を思い出した。名前があれば、それはただの点じゃなくなる。自分に向かって光る“誰か”になる。
「星座早見盤、使ってみる?」
上級生が差し出したのは、円盤が重なった青いプラスチックの板だった。中心に穴があり、外側の目盛りには日付と時刻が刻まれている。
くるりと回して、今の時間に合わせると、楕円の窓の中に星座の図が現れる。
「これ、どうやって見るんですか」
「この楕円が、君が見上げる空の範囲。方角を合わせて、地面と平行に持つ。……そう、それで東西南北を確かめる。最初はわかりにくいけど、すぐ慣れるよ」
美月は、ぎこちない手つきで盤を回し、さっき教わった三角形を探す。紙の上の線と、スクリーンの星の位置が、ぴたりとはまる瞬間がある。
その快感は、小さなパズルが解けたときに似ていた。
「うまいね」
褒められることに慣れていない。顔が少し熱くなる。
「いえ、たまたま、です」
「たまたまでも、最初の一回はうれしいもんだよ」
上級生は笑って、扇風機のスイッチを一段強くした。風が髪をほどよく乱す。
スクリーンの星は相変わらず静かで、部室の時間だけが、外より少し遅く流れているようだった。
「天の川、見たいって言ってたよね。七夕の日、屋上で観測会をやる。もし来られるなら、双眼鏡の使い方も教えるよ。肉眼とは違って、星の“まとまり”が見えるようになる」
「双眼鏡で、星、見えるんですか」
「見えるよ。月の縁とか、土星の形とか、アンドロメダ銀河の核の“ぼんやり”とか。最初に感動するのはたぶん、星が“粒”じゃなくて“群れ”だってわかること」
“群れ”。
言葉の選び方が、静かに心に触れる。
美月は、ぎゅっと星座早見盤を握りしめた。
「……行きたい。行ってもいいですか」
「もちろん。見学の子は大歓迎」
上級生は机の引き出しからメモ用紙を取り出し、日時と集合場所を書いて渡してくれた。丁寧な字だ。
その紙の端に、小さく自分の名前を書き添える。
望月
苗字だけだった。
「僕は部長の望月。君は?」
「一ノ瀬……美月です」
自分の名前を言うとき、ほんの一瞬だけ、ためらいが生まれた。
けれど望月は、その間に気づいた様子もなく、同じ調子でうなずく。
「一ノ瀬さんね。じゃあ、七夕で」
部室のドアを出ると、廊下はまだ暑かった。遮光布の向こうにいた目が、急に光を浴びて細くなる。
遠くで雷が一度だけ光ったが、音は届かなかった。
理科棟の階段を降りながら、美月は手に持った早見盤を何度も回した。東がどちらかは、窓の外の夕日が教えてくれる。
昇降口を抜けると、空は薄い群青に変わり始めていた。
正門へ続く並木道。葉の間を抜ける風の匂いに、誰かの家の夕飯の気配が混ざる。横断歩道の手前で信号が赤に変わり、立ち止まる。
ポケットから携帯を出して、カメラを起動する。校舎の屋上を指さすように、細い月が引っかかっていた。
シャッターの音を小さく鳴らして、すぐに画面を閉じる。写真は上手くなくてもいい。ただ、今日の“始発駅”を残しておきたかった。
家に向かう道すがら、遠くで花火が一つだけ上がった。音が届くまでの数秒間が、やけに長い。
パン、と空気が弾ける。少し遅れて、胸の中でも同じような音がした。
ほんとうの幸い。
授業の板書の文字が、不意にくっきりと浮かぶ。
それは誰かを救うほど大きいものじゃなくていい。名前を知るだけで、見えるようになる光。
自分の中に、小さな光点がひとつ増えた気がした。
玄関の戸を開けると、冷房の涼しさが頬に触れた。母の「おかえり」の声。台所には茹でたとうもろこしと枝豆の匂い。
「今日、学校どうだった?」
「うん。……天文部、行ってみた」
口に出してみると、思ったよりも自然だった。
母は意外そうに目を丸くして、すぐに笑った。
「へえ、珍しい。文芸じゃなく?」
「うん。七夕の観測会があるんだって。……天の川、見られるかはわからないけど」
言いながら、自分の声が少しだけ弾んでいるのに気づく。
母は「いいね」と言って、冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注いでくれた。冷たさが喉を流れていく。
窓の外はもう暗く、ベランダの隅に置かれたプランターの土は、夕立の名残でしっとりしていた。どこかの家から、かすかに蚊取り線香の匂いが流れてくる。
自室に入って、鞄から早見盤を取り出す。机の上に広げ、窓を開けて、外の方角を確かめる。
東、南、北。
回して、合わせて、覗き込む。
紙の中に、今夜の空が収まっている不思議。部屋の灯りを消し、カーテンの隙間から外を見上げる。
マンションの明かりと街灯の向こうに、ごくわずかな星が滲んでいた。
どれがベガで、どれがアルタイルなのか、まだ判然としない。でも、輪郭はもう、心のどこかに描かれている。
机に戻って、国語のノートを開く。余白の星印の隣に、小さく書き足す。
七夕 屋上 19:00
早見盤、双眼鏡
望月先輩
最後の行を見て、ペン先が一瞬止まった。
“先輩”と書いてから、ゆっくり丸で囲む。
意味はまだ何もない。ただの記録だ。けれど、名前を知ると見えるようになるものが、たしかにある。
窓の外で、風鈴が一度だけ鳴った。
それが誰の家のものか、美月は知らない。
けれど、その音は、夜の始発のベルみたいに聞こえた。
次の駅がどこにあるのかもわからないまま、列車は静かに動き出す。七夕まで、あと少し。
天の川は、今夜はまだ“気配”だけ。
それでも、心のスクリーンには、白い帯が確かに流れていた。