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迷走行路

作者: 吉田逍児

 昭和41年(1966年)4月、吉岡昇平はアメリカの有名機械メーカー『ドナルド社』とライセンス契約をしたばかりの横浜の機械メーカー『オリエント機械』に入社した。彼はこの年の3月に『М大学』の商学部を卒業したばかりで、どちらかというと、文系であり、機械の知識や化学的知識のある理系社員では無かった。つまり『東京オリンピック』後、大企業が新卒者の求人をしない中、何とか親戚を頼りに、縁故で就職先を手にした新卒社員だった。そんな商学部の若者を採用したことから、『オリエント機械』は、今まで、販売窓口を商社『オリエント貿易』に委託し、営業部を持たなかったが、今までの業務部を発展させ、遠藤業務部長が資材部と営業部を統括する常務となり、営業部を新設した。もと設計課長、川内裕次を営業部長にし、業務係長、岡田高弘を営業課長にし、『オリエント貿易』の出向社員、田浦哲也を営業係長に据えた。昇平は、そういった上司の下で働くことになったが、自社で製造している機械の知識が全く無く、苦労した。まずは機械の名称を覚える事から始まった。昇平は高校時代、漫画家から助手にならないかと声をかけられたことがある程、描画が上手だったから、機械の組立工場の現場に出て、機械のスケッチをして、機械の名称を覚えた。設立10年の『オリエント機械』は、この年、初めて大学卒業生の新卒を採用したこともあり、新卒大学生社員は、学士さんということで、社内でも一目おかれる存在だった。昇平と同期入社した大学生は、昇平の他に3人いた。三浦照男、田中俊明、宮里敦司の3人とも、工学部出身だった。三浦は『N大学」、田中は『S大学』、宮里は『Y大学』と、それぞれ異なった大学で、3人は設計部に配属され、初めから製図板に向かっての仕事だった。彼らは設計技術者として特別扱いされた。だが、昇平は得意先の工場長の親戚ということで、また別の扱いをされた。昇平が『オリエント機械』に就職することを決めた時、昇平は母方の親戚である萩原俊夫叔父から、釘を刺された。

「石の上にも3年。入社したからには3年、『オリエント機械』で頑張ってくれ。それで自分が望む芽が出ないと思ったら、更に努力しようと、そこで精進するか、あるいは転職しても構わない。だが私が紹介したからには、どんなに辛い事があっても、3年間は辞めないで欲しい」

 昇平は、その言葉を肝に銘じて、頑張ることにした。昇平は同期入社の3人と直ぐに親しくなったが、何故か三浦照男とは、馴染めなかった。三浦は、昇平より、3歳年上で、『オリエント貿易』に高校時代の同期生、藤木澄夫がいて、まるで『オリエント貿易』から推薦されて入社したといった高慢なところがあった。従って、昇平は仕事が終わると宮里敦司、田中俊明たちと、一緒に会社を出て、武蔵小杉あたりの喫茶店で、仕事の話や個人的話をした。宮里は昇平が下宿している麻布の深沢家と同じような府中の一般的サラリーマン家庭育ちの長男で、『Y大学』の岡本教授の推薦で入社した真面目な男だった。しかし田中俊明は大田区にある『田中電装機器』の田中栄作社長の息子で、裕福な家庭に育った次男坊だった。自社以外の勤務を経験させ、他社の経営方針、組織運営、特殊技術などを学ばせようと、父親によって『オリエント機械』に送り出された修行の身だった。彼は厳しい父親の監視のもと、『S大学』での規則正しい大学生生活を送って来たらしく、『オリエント機械』に入社すると開放感に溢れ、昇平たちと遊びたがった。休日など父親の愛車、ドイツ製『ターナス』に乗って、昇平が下宿する東京タワー近くの麻布の家まで、遊びの誘いに来た。深澤家の利江叔母は、そんな田中の誘いに乗って、甥の昇平が遊びに出掛けるのを許してくれた。田中と宮里は学生時代、神田、新宿、渋谷で遊んでいた昇平のことを、とても頼もしく思っていた。2人とも東京育ちなのに、田舎出の昇平に較べ、繁華街に出掛けたりせず、勉学に傾注した分、奥手だった。工学部出身だから、固いのかも知れないが、その真面目さは昇平の従兄の忠雄に、とても良く似ていた。東京の地図などを知っていると思ったら、詳細が分かっておらず、渋谷で遊んだ後、『ターナス』に乗って大田区へ向かうところを、間違って真夜中の環八通りを板橋の方まで行って引き返したりするといった失敗を繰り返した。そんな純情な2人を昇平は新宿の『コマダンス』などに連れて行き、女性とダンスを躍らせた。顔見知りの踊り子が、昇平に声をかけたりするので、2人は目を丸くした。昇平はかように同期入社の設計者と遊んだが、『オリエント機械』では、1階、窓口の受付嬢、浅岡陽子と営業部の向井静子と宮本知子ら女性陣と机を並べて座り、真面目に接客係も兼務した。独身の岡田課長と田浦係長は『オリエント貿易』の営業マンと受注活動に奔走し、何故か見積作業を昇平に指示したが、昇平は詳しく理解出来ず、川内部長に相談した。川内部長は、もと設計技術者だけあって、機械装置の構成の詳細を説明し、過去の実績を教えてくれた。その指導により、昇平は『オリエント機械』ではコスト計算がどんぶり勘定であると気づいた。大まかな材料費だけでコスト計算をしていた。設計費、組立費などの費用をコスト計算に加えていなかった。ここで昇平には『立花建設』や『A電気』の部品表に設計工数、組立工数という項目があったのを思い出し、自分なりにコスト計算を行い、それの倍掛けを売価と決め、見積書を作成した。見積書は文字を綺麗に書く向井静子と昇平の2人で手書きし、それを岡田課長と田浦係長が『オリエント貿易』に提出し、営業に走り回った。昇平は販売の仕事をしたかったのであるが、販売に行かされず、暇な時は、工場に出て、納入機械の試運転の手伝いをした。特攻帰りの高野課長が、不器用な昇平に機械装置の運転方法などを指導してくれた。高野課長は昇平の叔父が勤務する工場にも機械装置を納入したことがあるらしく、昇平にとても優しかった。そうこうしているうちに月末になった25日の月曜日、昇平は川内部長から初任給を受け取った。今まで大学に通いながらアルバイトをして、アルバイト代をいただいて生活していた自分が、大学を卒業し、『オリエント機械』に正規雇用され、初めて給料を受け取った時の感激は、何とも言えなかった。給料袋を渡す川内部長も嬉しそうに渡してくれた。その日の帰り、昇平は武蔵小杉の喫茶店『ブラジル』で、田中俊明と宮里敦司の3人で初任給祝いのコーヒーを飲んだ。給料袋を開け、給料明細を見て、昇平は今までのアルバイト代よりも、5千円アップしているので、胸が躍った。しかし、田中と宮里の給料が2万円なのに、自分の給料が1万9千円と差を付けられているので、一瞬、くしゅんとなった。昇平は、2人に事実を告げた。

「何で、俺は皆より千円安いんだ」

「多分、吉岡が文系だからじゃあないかな。機械メーカーだから、設計技術者を大切にするのさ。採用試験の時、給料の話、しなかったのか?」

「うん。縁故で入社したから、給料の話など一切しなかった」

「それじゃあ、文句を言えんな」

 昇平は田中たちの言う通りだと思った。いずれにせよ、初任給をいただいたことは嬉しかった。自分の力で給料をもらい生活して行くということは、自立といえた。昇平は自分をこれまでにしてくれた家族、親戚縁者に感謝せねばならないと思った。そこで、帰りがけ中目黒駅で下車してから、商店街の洋菓子屋に立ち寄って、ケーキを買って、麻布の深澤家に帰った。利江叔母に給料明細を見せ、これまで自分の面倒を見てくれて来た深澤家の家族に感謝の意をこめて、ケーキを差し出した。そして給料袋の中から1万円を自分で受け取り、後の9千円は下宿代と貯金に配分してもらうよう利江叔母に依頼した。利江叔母は今まで通り、下宿代をいただき、残りは従妹の高子が勤める『М銀行』に貯金してやると言ってくれた。


         〇

 5月になった。昇平は5月6日の金曜日を休ませてもらい、5日から田舎へ帰った。昇平の実家は祖父、慶次郎の1周忌の準備で多忙だった。昇平は川崎の照代叔母と麻布の利江叔母たちと一緒の電車に乗り、西松井田駅で兄、政夫の車に乗せてもらい、『吉岡家』に行き、1周忌の準備を手伝った。『吉岡家』は、大勢の客を泊めるよう、昇平の勉強部屋のあった2階の蚕室の板の間を更に広い座敷に改装していた。昇平は、そこの部屋に荷物を置き、故郷の自然に、元気でいると語りかけた。祖父の1周忌は翌日、行われた。大勢の親戚縁者が『吉岡家』に集まり、昇平の親友の父親の僧侶が来て、仏壇前で読経した後、『吉岡家』の墓地にぞろぞろと出かけ、そこに花を飾り、塔婆を立て、僧侶の読経の中、参列者が線香を立て焼香を行い、祖父の冥福を祈った。その墓参りが終わると、再び『吉岡家』に戻って、父、大介が簡単な挨拶をして精進落としの食事が始まった。故人を偲び、祖父のいろんな過去の話を先輩たちが、酒を飲みながら語ってくれた。昇平はそんな親戚縁者の話を聞いて、祖父の偉大さを知った。翌日、川崎と麻布の叔母たちは、昇平より一足先に家に帰ったが、昇平は、積もる話もあり、田舎に残った。そんな時、何処から聞きつけたのか、小池早苗から、会いたいと電話があったので、昇平は東京へ帰る途中、高崎で会うことにした。5月8日の日曜日の午前11時、昇平は高崎駅の改札口で小池早苗と合流した。

「やあ、久しぶり」

「お久しぶりです。何処に行きますか」

「荷物が重いから、『ナポリ』に行って、コーヒーを飲みながら話そう」

 昇平は、そう言って、早苗と高崎駅西口近くの喫茶店『ナポリ』まで歩き、『ナポリ』の2階の席で話をした。窓辺の席だったので、駅前通りを見下ろすことが出来た。正月、白衣大観音をお参りして、映画を観て以来の再会だった。昇平は4月から横浜の『オリエント機械』に勤務している状況を早苗に話した。

「僕の通っている会社は、清水が間借りしている家の近くなんだ。清水には、まだ会っていないが、落ち着いたら会う予定にしている」

「北条さんは?」

「彼は鶴見の『総持寺』で修業に入り、面会不可能だ。当分、厳しい修行で外部との接触は禁じられている。手紙のやりとりも、許可制になっていて、滅多に手紙を出せないらしい。数年、会えそうにないよ」

「まあっ、そんなに厳しいの」

「うん。だが鍛えられれば鍛えられる程、立派な僧侶になれると思うよ」

 昇平は、幼少期からの親友、北条常雄のことを思った。また清水真三にも会いたいと思った。早苗は現在、高崎の『F電気』に勤めていて、会社の仕事にも慣れて来たと語った。経理の仕事だと説明してから、ポツリと言った。

「ところで私が東京へ行ったら,駄目かしら?」

「それって、東京に遊びに来るってこと、それとも、また東京で働くってこと?」

「東京で働いて、生活するってことよ」

「高崎での仕事に慣れたのだから、それは考えない方が良いんじゃあないかな」

「どうして?」

「高崎なら、自分の家から通えるのだから安心だろう。僕なんか就職してからも、肩身の狭い思いをして、親戚の家から通っているんだ」

「まあっ。大学を卒業したのに、親戚の家から会社に通っているの。それはいけない事だわ」

「どうして?」

「親戚の家にとっては迷惑なことよ。大学を卒業して、会社勤めしているのだから自立しないと。貴男の親戚の家では、出て行けと言えず、悩んでいるのじゃあないの。きっと貴男は始末の悪い、好ましくない存在になっているに違いないわ。親戚でなければ、会社通勤に便利な所に移りなさいと言う筈よ。独立するって言いながら、それでは何時まで経っても、独立出来ないわよ」

 昇平は早苗が、珍しく姉さん気取りで、自分に注告したので驚いた。考えてみれば家族や親戚の束縛から、一時も早く逃避したいと願って来たのに、未だ親戚に頼ろうとしている自分の甘さに浸かっている自分がいた。昇平は、早苗の言う通りだと思った。自分は深澤家の子供ではない。何時までも居候していてはならない。

「ありがとう。言われてみれば、早苗ちゃんの言う通りだ。東京に帰ったら、直ぐに何処かアパートを探し、清水のように一人暮らしを始めてみるよ」

「そうね。そしたら、私、遊びに行くわ」

「そうだな」

 昇平は、そう答えて笑った。早苗は眩しそうに眼をまたたかせて、微笑み返した。昇平は頭の中で計算した。自分の給料で、独り立ち出来るであろうか。出来ない筈は無い。清水真三だって1人暮らしをしているのだ。昇平は東京に戻ったら、アパート探しをすることにした。昇平には時間が無かった。昇平と早苗はカレーライスを『ナポリ』で食べて別れることにした。カレーライスを食べる早苗はゆっくりで、昇平との別れを惜しんでいるようだった。昇平は『ナポリ』を出ると、改札口広場で『磯部せんべい』などの土産物を買い、早苗と別れて、高崎駅から、上野行き電車に乗って東京へ帰った。


         〇

 東京に戻った昇平は『オリエント機械』に勤めながら、アパート探しを始めた。都内で横浜への通勤に便利な場所は何処か考えた。今現在、麻布の深澤家から都電8番系統の電車に乗り、中目黒で下車し、東横線に乗替え、中目黒駅から桜木町行きの電車に乗り、綱島まで通っているので、中目黒駅近辺に、安いアパートがないか探した。だが目黒川近辺のアパートの家賃は高く、昇平の収入に見合った家賃のアパートは見つからなかった。昇平は会社の仕事を終えてから、アパート探しを続けた。そした或る日、昇平は仕事が終わってから製造部の高野課長に誘われ、高野課長の部下の小川光司主任と原田隆夫との3人で、綱島温泉で酒を飲んだ。高野課長は部下に仕事を頑張ってもらう為に、時々、部下に御馳走をするらしく、昇平は入社してから、工場に出て、時々、高野課長から機械運転に関する教授を受けていたので、その誘いに従った。綱島駅近い商店街には沢山の飲食店があり、先ず、屋台の立飲み屋で、揚げ出し豆腐やイカのゲソ、コンニャク、ソーセージ、漬物などを肴に酒を飲み、そこで昇平は高野課長に50円を支払った。そして、そこで切り上げるのかと思い、昇平が家に帰ろうとすると、高野課長が行きつけのバー『カトレア』に行くので、小川主任たちと一緒に付き合えと言われた。昇平は断る訳にも行かず、『カトレア』に連れて行かれた。バー『カトレア』は、それほど大きくは無かったが、接客女性は5,6人いて、結構、賑わっていた。高野課長が店に入って行くと直ぐに高野課長の御贔屓の小松真由が高野課長に跳び付いて来た。

「いらっしゃい」

 小川主任も原田も、『カトレア』では慣れっ子で、小松真由の勧めるテーブル席に座り、水割りを注文した。テーブル席には小松真由の他に及川綾乃が座って、対応した。昇平は、ふと神保町のバー『火影』の笛村真織のことを思い出した。彼女は、今も『火影』でアルバイトをしているのだろうか。そんなことを考えていると、『カトレア』のママ、金田律子がやって来て、高野課長に言った。

「タカちゃん。いらっしゃい。この若い子、初めて。誰?」

「ああ、4月からうちの会社で働いてる新入社員の吉岡君だよ」

「吉岡です。よろしくお願いします」

「まあっ、そうなの。私、ここのママ、律子。よろしくね」

 律子ママは、そう言うと、直ぐに名刺を差し出した。そして矢継ぎ早に質問して来た。

「今年、高校を卒業して、『オリエント機械』に就職したのね。何処に住んでいるの?」

「ママ、吉岡君は大学を卒業して、『オリエント機械』の営業部に配属になり、今、俺の指導を受けているんだ。我社にとって大事な宝、希望の星だ」

「金の卵ね。期待しているわ。そう。大学は何処。何処に住んでいるの」

 昇平は、そう訊かれて、自信をもって答えた。

「大学は『М大学』です。今、麻布に住んでいます。通勤に時間がかかるので東横線沿線に部屋を借りようと思っています」

「まあ『М大学』の卒業生、優秀ね。麻布からの通勤だと遠いわね」

「はい。2時間近くかかります」

「なら、私の所に居候しても良いわよ」

 律子ママが、そう言って昇平を、からかうと、高野課長が怒った。

「ママ、止めてくれよ。純情な新入社員なんだから」

「そうよね。生まれは何処」

「群馬です」

「そう。この店にも、この間まで、群馬出身の女の子がいたのよ。群馬から駆け落ちして来たの。今は隣りの日吉のクラブで働いているけどね。光子っていうの」

「そうですか。会いたかったな」

「貴男、恋人いるの?」

「振られて、今はいません」

「おいおい。ママ、止めてくれよ。綾乃ちゃんとも話させなよ」

 高野課長が、そう言うと、律子ママはちょっと膨れて、席を立った。

「はいはい。分かりました。ではごゆっくり」

 律子ママが去ってから昇平は高野課長や小川主任たちが、小松真由や及川綾乃と世間話や卑猥な話をするのを聞いて過ごした。時間が過ぎるのは早い。酒に酔っているうちに10時を過ぎてしまっていた。昇平は慌てて高野課長に言った。

「高野課長、僕、遠いから先に帰らせていただきます。飲み代、いくら支払えば良いでしょう」

「ああ、そうか。家が遠いからな。2次会は俺のおごりだ。心配せずに、帰って良いよ」

「そうですか。ありがとう御座います。では、お先に失礼させていただきます」

 昇平は、そう言って頭を深く下げ、一足先に『カトレア』を出て、麻布の家に向かった。中目黒で都電の最終電車に跳び乗り、中ノ橋駅で下車し、『深澤家』に酔っぱらって辿り着いた。すると何時も開けてもらっている裏出入り口の鍵が閉まっていた。時刻は深夜を過ぎ、翌日になっていた。昇平はドンドン玄関扉を叩く訳にも行かず、仕方なしに、寝場所を探した。森元商店街の何処の店も閉まって、大都会東京も眠っている。東京タワーだけが、赤く夜空に向かって聳えている。昇平は東京タワーの下の芝生広場を思い出し、そこへ歩いて行った。芝生広場の周辺には外灯が並び、真夜中なのに昼のように明るかった。昇平は、そこのベンチの上にカバンを置き、それを枕にし、背広を脱いで、腹の上にかけて横になったが、寒くて良く眠れなかった。犬が来たりしたが、酒の匂いを嗅いで、犬の方が、逃げて行った。何とか3時間程度は寝られた気がした。明け方の5時半過ぎ、昇平は芝公園から赤羽橋に移動し、そこから都電に乗り、中目黒へ行った。そこで東横線の高架下にあるうどん屋で、タヌキうどんを食べ、何事も無かったように、『オリエント機械』に出勤した。


         〇

 翌日、『オリエント機械』で1日働き、会社から麻布の『深澤家』に帰り、昇平は利江叔母に、こっぴどく叱られた。昇平は1年前、川崎の照代叔母の手紙に書かれていた忠告を思い出した。深沢家に迷惑をかけるな。利江を苦しめてはなりません。その通りだと思った。田舎に帰った時、小池早苗にも、親戚の家を出なければ、独り立ち出来ないわよと言われた事も、その通りだと思った。昇平は会社の帰りがけ、綱島駅近くの坂道で、小学校時代からの親友、清水真三の帰りを待った。夕方7時前、清水は自由が丘の勤め先から帰って来て、坂道に佇んでいる昇平を見て、びっくりした。

「どうしたんだ。こんな所で、俺を待ってるなんて」

「うん。そろそろ、独り立ちしようと思ってな」

「アパート探しか?」

「良く分かるな」

「吉岡君の顔に、そう書いてある」

「夕飯でも食べながら聞いてくれるか」

「じゃあ、そこの定食屋へ入ろう。何時も俺が立ち寄るところだ」

 昇平は清水に案内され、定食屋に入り、カッ丼を食べた。そこで、昇平は、一時も早く、深沢家から出たいと話した。すると清水は、こう言った。

「吉岡君の勤め先に俺の借りてる所が近いんだから、何なら、俺と一緒に暮らさないか?」

「うん。会社通勤には近くて便利だけれど、余り近すぎてもな」

「俺と暮らすのは嫌か」

「そういう事ではないけど」

「なら俺の所に来て部屋を見てくれ」

 昇平は、そう言われ、定食屋を出てから、丘の上の清水が借りている家に行った。清水は古い民家の離れを借りていて想像していたより広い部屋を使っていた。家の窓からの景色も素晴らしかった。都内の東横線沿線に、安いアパートが見つからなかったら、ここでも良いかなと昇平は思った。清水は昇平に確認した。

「どうだ。一緒に暮らさないか?」

「俺は都内で暮らそうと思っている。君の勤めている会社の近くに、良い物件ないかな」

「うん。俺の会社は自由ヶ丘に近いから、何処も家賃が高い。特に田園調布方面は。だから俺は、ここを借りているんだ。どうだ、ここに住まないか。そうすれば俺の家賃負担も少なく出来る」

「しかし、俺の会社の人に住処を知られ、遊びに来られたら困る。下手をすると遊び部屋にされてしまい、君にも迷惑をかける。だから俺は都内に借りる」

「なら学芸大前か武蔵小山あたりが良いと思うが、どうかな」

「そうか。じゃあ、そこいらを当たってみるよ。駄目だったら、また相談に乗ってくれ」

「うん。分かった」

 昇平は清水とそんな会話をして、次の日曜日、東横線沿線の不動産屋をあたった。清水のアドバイスに従い、学芸大駅で下車し、駅近くの不動産屋の物件を当たった。だが何処の家賃も、1万円以上で、昇平の給料で支払える金額ではなかった。そこで昇平は、駒沢通りを越え、五本木商店街近くの不動産屋を訪ねた。するとその『五本木不動産』の奥田社長は、祐天寺に適当な家賃のアパートがあるからと、連れて行ってくれた。そこは駒沢通りと祐天寺駅の中間あたりにある、傾斜地のオンボロアパートだった。アパートの裏に大きな欅の木のあるアパートで、その白の漆喰の建物が、昇平には、何となく西洋的で、気に入った。空いている部屋は、その建物の2階の4畳半で、小さな勝手がついているだけの殺風景な部屋だった。古いガス台が一つで、料理を作れる部屋ではなかった。それだけに月額家賃、7千円と格安だった。昇平は借りるべきか、他を探すべきか悩んだ。奥田社長は、直ぐにでも決めたいらしかった。

「お客さん。早く決めないと直ぐに埋まってしまいますよ。どうします」

「どうしますって、どうすれば良いのです」

「大家さんに会っていただき、契約書を交わし、前家賃、敷金、礼金を支払っていただくことになります」

「どのくらいの金額になりますか?」

「2万8千円になります」

 そう言われても昇平には手持ち資金が無かった。就職祝いで川崎の照代叔母や妙義の清子叔母からもらった1万円があった。あと1万円あれば何とかなると思った。昇平はそこで決断し、大家の玉木夫人に会った。彼女は、母と同じくらいの年齢で、昇平の素性を確認すると、その場で奥田社長と契約書を作り、昇平にサインをさせた。昇平は言われるままにサインし、5月中に家賃と契約金を不動産屋にまとめて支払い、そこで部屋の鍵を受け取り、入居する約束をした。玉木夫人は契約が済むとにこやかに笑って言った。

「真面目な人が見つかって良かったわ。百合ちゃんを紹介するから、来て」

 玉木夫人は、2階から階段で1階に降り、1階の部屋のドアをノックした。すると40歳過ぎの女性がドアを開けて出て来て、玉木夫人に挨拶した。

「あら、玉木さん。こんにちは」

「こんにちわ。紹介するわ。来月から2階の部屋を借りてもらう事になった吉岡さん」

「吉岡昇平です。よろしくお願いします」

「石川百合と申します。こちらこそ、よろしくお願いしますわ」

「分からない事があったら、百合ちゃんに教えてもらうのよ。それから6月末からの家賃は百合ちゃんに渡してね。百合ちゃんから私が受け取るから」

「はい」

「では、そういうことで、皆さんよろしく」

 玉木夫人は、そう言うと、契約書を1部、奥田社長から受け取り、駒沢通りの方へ去って行った。昇平はアパートの管理人の石川百合に頭を下げ、奥田社長と『五本木不動産』に戻り、詳細確認をした。兎に角、契約書の2万8千円を受け取り次第、部屋の鍵と契約書の控えを渡してくれるという事だった。昇平はあと1万円、何処からか借りることを考えた。清水真三に借りようと思ったが、彼に資金的余裕があるとは思えなかった。だからといって、『М大学』時代の仲間に借金したくなかった。考えた挙句、昇平は尾形代議士事務所の矢野秘書に相談してみることにした。月曜日の昼休み、昇平は尾形事務所の矢野秘書に電話して、1万円を貸してもらえないか依頼した。すると矢野秘書はこう言った。

「分かった。兎に角、久しぶりに会いたいから、今夜、尾形先生の王子の家に来てくれ。その時、金を渡すから」

「有難う御座います。今夜、先生の王子の御自宅にお伺いします」

 昇平は矢野五郎秘書の言葉を聞いて、ほっとした。そして『オリエント機械』での仕事を終えてから、急いで尾形憲三代議士の自宅へ向かった。東横線の電車で渋谷まで行き、そこから山手線で新宿に出て、新宿から中央線で神田まで行って、京浜東北線の電車に乗り替え、王子駅で下車した。そこから徒歩で坂道を登り、『尾形邸』に訪問した。『尾形邸』では、お手伝いの秋山希和が準備した料理を前に、尾形憲三代議士はじめ、矢野秘書、船田助手、書生の古川俊貴の4人が昇平の来訪を今か今かと待ち構えていた。希和の案内に従い広間に昇平が顔を出すと、皆、明るい顔で昇平を迎えた。

「遅くなりまして申し訳ありません」

「お疲れさん。良く来てくれた。さあ、乾杯しよう。吉岡君。就職、おめでとう」

 尾形代議士が音頭を取り、昇平の就職祝いをしてくれた。まさか国会議員に就職祝いをしてもらうなどとは思ってもいなかった。昇平は、涙声で、お礼を言った。

「有難う御座います。何のお役にも立てなかったのに申し訳ありません」

「何を言っているんだ。君には『群馬稲門会』の他に『群馬情衆会』や『未来産業研究会』の人集めの手助けをしてもらったのだ。感謝してるよ。なあ、矢野君」

「はい。でも、俺たちからすると、ちょっと物足りなかったです。吉岡君は『W大』出身で無いので、多分、遠慮していたのでしょう。しかし、年末からは、また協力してもらうよ」

「年末から?」

「そう。次の選挙の準備だ。正月休みに帰省したら、親戚や友達に先生に投票するよう先生の素晴らしさを吹聴してくれ」

「分かりました」

 矢野秘書は尾形代議士の参謀として、もう次の選挙のことを考えていた。それは当然であろう。彼にも夢があるのだ。尾形代議士は、それ以上に真剣だった。次の選挙に当選しなかったら、結婚の夢が遠のいてしまうかもしれない。

「吉岡君。君の地区の有力者の所に挨拶回りしようと思うのだが、何処に訪問したら良いか教えてくれ」

 昇平は、そう問われて、何処に訪問したら良いのか、頭をひねった。昇平が直ぐに答えないでいると矢野秘書が言った。

「俺の出身地の富岡の親戚はどうか?」

「ああ、富岡の叔父さんの所は駄目です。申し訳ありませんが、無理です」

「何故、無理なんだ?」

「息子に康弘と名づける程ですから」

「そうか。他に思い当たる所は?」

「そうですね。村の親戚に『上原家』があります。その上原一族の中に、荒船清十郎運輸大臣の家に娘を嫁がせた家があります。嫁いだのは僕の父の従妹です。上原一族の団結は強固です。その上原家の挨拶回りをすれば良いでしょう」

「成程」

「その他に、安中の『西群運送』の小山禧一専務に会ってみて下さい。選挙の手ほどきをしてくれると思います」

 昇平は、思いつくまま喋った。それから政局の話になった。『共和精糖』への不正融資事件や『吹原産業』事件など、自民党内閣が野党から突き上げられている話になった。また縁戚の荒船清十郎代議士が深谷駅に急行を停車させるよう国鉄に陳情している案件が、問題視される可能性があるなどと、昇平の知らない話になった。そこで昇平は、それそろ時間なので退去したいと矢野秘書に、そっと話した。すると矢野秘書が尾形代議士に告げた。

「先生。吉岡君が帰るそうです」

「おお、そうか。吉岡君、今日は良く来てくれた。選挙になったら、また力を貸してくれ。これ、就職祝いだ。受取ってくれ。アパート代の足しにでもしてくれ」

 尾形代議士が、そう言って、紅白の水引の付いたのし袋を昇平に差し出した。昇平は矢野秘書の計らいで、借金では無く祝い金として、支援してくれるのだと理解した。希望の金額を入手することが出来て嬉しかった。涙が出る程、有難かった。

「有難う御座います。皆さんの心使いに感謝申し上げ失礼します」

 昇平は、一同に深く頭を下げ、『尾形邸』から外に出た。すると、本当に涙が溢れ出て来て、涙を拭きながら王子駅までの坂道を下った。


         〇

 5月31日、吉岡昇平は『オリエント機械』の仕事を終え、『五本木不動産』に訪問し、奥田社長に、契約金と前家賃を支払い、契約書と祐天寺のアパート2階、202号室の鍵を受け取った。借りた部屋のあるアパートは『春風荘』という名で、昇平にとって、心地良い名称だった。昇平は、明日からでも入居出来るのだが、寝具などが無いので、土曜日、引っ越しする計画を立てた。6月になると昇平は毎朝、出勤時、小物を持って出勤し、帰りに『春風荘』に立ち寄り、荷物を置いて、麻布の家に戻った。そして6月4日の土曜日、同期入社の田中俊明に頼んで、彼の運転する『ターナス』を利用させてもらい、午後一番で、引っ越しを実行した。その日は、喜一郎叔父と従兄の忠雄と従妹の高子は銀座で買い物をするという事で、午後から深沢家にいなかった。午後、田中が深澤家の前に車を停め、訪ねて来ると、利江叔母は何事かと首を傾げた。その利江叔母に昇平は布団の入った大袋を抱えながら言った。

「これから引っ越しします」

「えっ。何だって。突然、何を言うの」

「アパートを借りたんです。荷物を運んだら、改めて挨拶に来ます」

「な、何を言うの。私たちに相談も無しに」

「叔母さん。邪魔をしないで下さい。危ないですよ」

 昇平は、そう言って、田中に手伝ってもらい、布団類の入った大袋を、後ろのトランクに押し込み、勉強机を書籍類や創作ノートと一緒に、後部座席に積み込んだ。利江叔母は慌てふためくが、昇平たちは、さっさと作業を終わらせ、車に乗り込んだ。

「では、叔母さん、夜、挨拶に来ますから」

 昇平は、そう挨拶すると、田中に車を発進させた。田中は麻布十番、古川橋、広尾、恵比寿と車を快調に走らせた。駒沢通りの坂を下り、中目黒を経て、祐天寺への坂を上った所で、昇平は田中に右折させて、細道を進ませ、『春風荘』に辿り着いた。まずは1階の管理人、石川百合に挨拶し、今晩から、住み込むことを伝えた。そして田中と2人で、勉強机や布団を2階の202号室に運び込んだ。田中は、荷物を運び終えてから言った。

「俺も、こんな部屋で1人暮らししてみたいな」

「何、言っているんだ。俺の居候とは違うんだ。東京に家があって家族と暮らせる君は、仕合せだよ」

「そうかなあ」

「そうだよ。引っ越し蕎麦と言いたいところだが、部屋に出前を頼む訳にもいかないので、近くのレストランに行こう」

 昇平は、そう言って、田中の車を『春風荘』の脇に停めさせてもらい、田中を近くのレストラン『ナイアガラ』に連れて行った。そこでピラフを食べながら、『オリエント機械』のことや将来のことについて語り合った。田中は3年程、勤めたら、父親の経営する『田中電装機器』に入社し、技術者として働くのだと、コーヒーをゆっくり味わいながら、本音を漏らした。昇平も3年経ったら、自分の方向性を見定めると語った。『ナイアガラ』を出て、『春風荘』に戻ると、田中は昇平の引っ越しの手伝いを終え、『ターナス』に乗って、自宅へ帰って行った。昇平はそれから坂道を下り、中目黒商店街に行き、トースターを買ったり、食器類を買ったり、銭湯の場所を確かめたりして、『春風荘』に戻った。部屋に入り、勉強机を窓辺に置き、布団を押入れに収納したりすると、衣類と書籍や創作ノートなどが畳の上に残った。昇平は洋服ダンスと本棚の必要性を感じた。だが時間が無いので、後日、不足品を購入することにして、再び中目黒商店街の和菓子屋に行き、和菓子を買って、夕暮れの中目黒駅から都電の電車に乗った。行きたくなかったが、行かねばならなかった。3年半以上、お世話になったのだ。それに喜一郎叔父にはアルバイト先や『東京船員保険病院』まで、紹介してもらったのだ。築地行き電車に乗りながら、昇平は麻布の深澤家に御世話になった数々のことを振り返った。本当に沢山、お世話になった。昇平は中ノ橋駅で下車し、深沢家に訪問した。勝手知ったる玄関に入ると、従妹の高子が跳び出して来た。

「昇ちゃん。皆、カンカンよ」

「うん。分かっている」

 昇平は叱られることを覚悟し、深沢家の居間に顔を出した。皆で夕食の最中だった。利江叔母夫婦と従兄の忠雄の3人が、高子に連れられて居間に入った昇平を睨みつけた。昇平はすかさず畳に両手をついて謝った。

「叔父さん、叔母さん。相談も無しに、勝手に引っ越しを決めてしまって申し訳ありません。許して下さい。長い間、大変、お世話になりながら、水臭いと思われましょうが、相談したら止められると思い、無断で引っ越しを決めてしまいました。叔父さん、叔母さんに長い間、我が子同然に可愛がっていただきました。ですが、僕は深澤家の子供ではありません。これ以上、深澤家の皆さまに御迷惑をおかけする訳には行きません。そこで引っ越しを決めました。許して下さい」

 涙声で謝る昇平の言葉を聞いて、喜一郎叔父も利江叔母も戸惑った。昇平の涙は本物だろう。先程まで、忠雄や高子と食事をしながら、後ろ足で砂をかけるような奴だと言っていたのに、喜一郎叔父は珍しい生き物を見るかのように、昇平をじっと見つめた。それから、優しい口調で、昇平に話しかける様に言った。

「昇ちゃんの気持ち、良く分かった。今まで4年間、苦学して大学を卒業し、横浜の会社に就職するまで、本当によく頑張った。辛い事が沢山あったと思う。叔父さんも大学を卒業するまで、苦しい経験をしたことがあるので、昇ちゃんの努力と忍耐強さに感心している。引っ越しに関して、許すも許さないも無い。昇ちゃんが決めたことだ。ところで、引っ越し先は何処かな」

「東横線の祐天寺駅近くです」

「おお、そうか。今より通勤時間が30分、短くなるね」

「はい」

「電話はあるのかい?」

「はい。共同で使用するピンク電話が1台あります。住所と電話番号は、ここに書いて来ました」

 昇平は、そう言って、『春風荘』の住所と電話番号を書いたメモ用紙を喜一郎叔父に渡した。昇平は初め緊張していたが、雰囲気が和やかになったので、ホッとした。利江叔母もホッとしたみたいだった。

「昇平。夕御飯、まだなのでしょう。食べて行きなさい」

「はい」

 昇平は、そう答えて、中目黒の和菓子屋から買って行った和菓子入りの菓子箱を利江叔母に渡した。喜一郎叔父は、昇平が訪問したのを良い事に、飲んでいた酒を追加し、息子の忠雄と一緒に昇平を激励した。


         〇

 6月5日の日曜日、昇平は祐天寺商店街に行き、『石川家具店』で洋服ダンスと食器棚を買って、午後、『春風荘』に届けてもらった。尾形代議士に資金援助してもらったお陰で、何とか1人暮らしが出来る恰好がついた。書棚も買いたかったが、そこまで経済的余裕が無いし、部屋も狭いので、書棚の購入は諦めた。書物は勉強机の下と洋服ダンスの脇に積んで置くことにした。そういえば4年前、田舎から上京し、初めて暮らした駒込千駄木町の『松江家』の2階の部屋も、四畳半だった。その時は、勉強机も洋服ダンスも無かった。家具らしき物は円形の小さな折り畳みテーブル1つだった。その時に較べれば、『春風荘』の部屋には台所があり、洗濯物を干せる出窓があった。一階には共同トイレと共同電話があり、玄関も広く、靴箱も大きかった。千駄木町時代より、快適に過ごせそうだった。午後4時過ぎ、昇平は祐天寺商店街に行き、明日からの食料品の調達に出掛けた。部屋で食べるのは朝食と夜の果物程度でなので、それ程、大量の買い物でなかった。食パン、バター、トマト、インスタントジュース程度だった。その帰りがけ、クリーニング屋が何処にあるかも確かめた。兎に角、1人で生活して行くには、いろいろと知っておく事が多かった。夕方は石川管理人に何処の銭湯が良いか教えてもらって、中目黒商店街に行き、中華料理店でラーメンを食べてから、『松の湯』に行き、身体を綺麗に洗った。浴槽に入り眺める景色は、ここでも富士山と三保の松原だった。すっきりした気持ちで、『春風荘』の部屋に戻ると、何故か、寂しい気持ちになった。何時もなら深澤家でテレビ番組『シャボン玉ホリデー』の音楽バラエティを観て、吉沢家の家族と一緒に、笑っている時刻だった。だが部屋にテレビは無かった。昇平はふと、『中央文学』の赤川謙先生や鳥居章、荒木清貴たちのことを思い出し、今まで放り出していた創作を机に向かって再開した。すると、あっという間に深夜近くなった。昇平は、創作活動で一疲れし、布団に入ると、ぐっすり眠ることが出来た。そして翌朝、6時半に起床し、洗顔し、トースターでパンを焼き、バターを塗って食べた。その他にトマトとオレンジジュースの安上がりの朝食を済ませて、白いYシャツと背広姿に着替えた。一応、ネクタイを締め、黒の手提げカバンを持って、『春風荘』からの初出勤をした。今までよりも30分、通勤時間が短縮出来た。それによって、気が楽になった。こうして昇平の『春風荘』での、一人暮らしは始まった。昇平が会社の仕事に慣れて来ると、『オリエント貿易』の営業マンが、昇平の出張要請を川内部長や岡田課長にするようになった。何故なら、客先訪問するのに1人より2人の方が気楽になるからだった。特に技術的話の際、メーカーの者が同行していると、商社の営業マンは落ち着いて客先と商談を進める事が出来るらしかった。商社の者が客先担当者と問答し、メーカーの者が打合せ内容を記録する。このことは『オリエント貿易』の営業マンにとって、心強い事だった。この商社の者とメーカーの者による二人三脚は功を奏し、幾つかの受注に結び付いた。特に値引き要請があった時、コストを把握している昇平が、ウンと合図すれば、その金額で受注出来た。そのような中、ペルーへの機械輸出の商談が、『信越化学工業』より、直接、『オリエント機械』に舞い込んで来た。『信越化学工業』が直接の輸出先になるので、『オリエント貿易』の介在は不要との条件で、『信越化学工業』と『オリエント機械』の直接取引となった。海外輸出ということで、その取引の担当者として、昇平に白羽の矢が当たった。昇平は『信越化学工業』の磯部工場に中学や高校時代の同級生が勤務しているので、『信越化学工業』のことは良く知っていた。小坂徳三郎社長の名も知っていて、何となく親近感があった。昇平の仕事は『信越化学工業』の仕事だけでは無かった。『オリエント貿易』の若手営業マン、島崎正彦、藤木澄夫、小林直之といったメンバーと一緒に、受注活動に走り回った。川内部長や岡田課長は『オリエント貿易』の古株営業マンと行動を共にした。そして昇平は6月末から、『オリエント貿易』との月に一度、開催される営業会議に出席することを許可された。その6月24日、金曜日の営業会議の場所は『オリエント機械』の会議室では無く、綱島温泉の割烹旅館『入船』だった。『オリエント貿易』から10名、『オリエント機械』から10名、合計20名の重要会議だった。『オリエント貿易』側は大野常務、太田部長他、10名のメンバーで、『オリエント機械』側は磯部社長、遠藤常務、新井設計部長、金沢資材部長、工藤製造部長、岩崎総務部長、川内営業部長、岡田営業課長、田浦営業係長、それに吉岡昇平のメンバーだった。重要会議というが、『オリエント貿易』の太田部長が司会を務め、山崎次長が、現在の引合い状況を説明し、作戦会議を行うもので、どちらかというと、『オリエント貿易』への接待会議だった。その為、『オリエント貿易』の機械部の売上実績などは発表されず、昇平には納得が行かなかった。営業会議には販売目標の達成率等が必要ではないのか。昇平は、この接待会議に疑問を抱いた。割烹旅館『入船』での飲み食いが終わってから、『オリエント貿易』の常務兼『オリエント機械』の大野副社長が専用車で帰ると、両社の重役たちは、『入船』の個室に入り、麻雀を楽しんだ。昇平は上司の田浦哲也係長の誘いに従い、『オリエント貿易』の島崎正彦、藤木澄夫と綱島駅近くの雀荘『喜泉』で麻雀をし、親交を深めた。昇平は住まいが麻布の深澤家から、祐天寺の『春風荘』に移ったので、時間を気にすることは無かった。『М大学』の学友、小平たちに鍛えられたお陰で、麻雀で大損することは無かった。むしろ、ちょっと小遣い稼ぎになった。麻雀を終えて『春風荘』に帰ってから、『М大学』の学友たちのことを思い出し、船木や梅沢に、『春風荘』に移ったことを報告した。すると26日の日曜日、船木省三が『春風荘』に遊びに来た。船木は、昇平の1人暮らしを羨ましがった。彼はまだ『若菜病院』の事務棟の2階の部屋を借りているのだと言う。

「俺も、こんな所に引っ越ししたいよ」

「うん。親戚からの束縛から逃れられたが、経済的には大変だよ。若い女に囲まれて、『若菜病院』に生活していられる君が、羨ましいよ」

「仕事の方はどうだ。上手く行っているか?」

「まあな。機械の部品名や構造についての工学的知識が無く、苦労しているが、焦らず、一つ一つ学んで行けば、何とかなると分かった」

「そうか。俺は2ヶ月間の研修が終わり、6月から個人宅を訪問して、生命保険の勧誘を始めている。だが会社からもらっている説明資料では、説明が難しい。そこで、今日は、お前のアパート確認と、仕事のの手伝いをしてもらいたくてやって来た」

「おお、そうか。金がないけど、一応、安い金額の生命保険に入ってやるよ」

「その他に頼みたいことがあるんだ」

「何だ?」

「保健金額と保障内容、本人の年齢や健康状態についての説明を、お前の得意な漫画やグラフで描いて欲しいんだ」

「そうか。じゃあ、今、この場で描いてやる」

 昇平は、画用紙5枚ほどに、生命保険加入のメリットと詳細説明を漫画で描いた。もともと絵画が好きだったので、12色の色鉛筆を持っていたことから、あっと言う間に、その資料を色づけて仕上げ、船木に説明した。

「この絵を紙芝居風に、1枚1枚見せて、ゆっくり時間をかけて説明するんだ。そうすれば、家庭の主婦は、女に優しいそうな甘い顔をしているお前の語りかけに酔って、契約してくれるよ」

「有難う。じゃあ、お礼に渋谷にでも遊びに行こうか」

「うん、そうだな」

 昇平たちは、『春風荘』を出て、祐天寺から渋谷に移動した。渋谷の街はイギリスのロックバンド、『ビートルズ』が6月30日から7月2日、『日本武道館』で日本公演を行うという、ビラ配りなどで、賑わっていた。昇平はには『ビートルズ』の良さが分からなかった。エルビス・プレスリーの歌は好きだが、最近、テレビを観ていない所為か、『ビートルズ』のことは分からなかった。昇平は船木と『渋谷東急ビル』近くの喫茶店『ルノアール』に入り、船木に『ビートルズ』のことを訊いた。

「渋谷は『ビートルズ』のことで随分、賑やかだけど、あいつらの何処が良いんだか分かるか?」

「うん。彼らの演奏する『抱きしめたい』がアメリカで有名になり、それが、日本にも伝播して来たのさ。その後、『イエスタデイ』などの曲がヒツトし、日本での若大将、加山雄三のロックバンドやブルーコメッツのバンドなどの人気と相まって、日本公演が決まったのさ。俺たちが卒業式に出た『日本武道館』での公演だ。あそこで演奏するなんて、凄いよな」

 船木は昇平より、『ビートルズ』のことを知っていた。昇平は自分がテレビなど観る機会が無く、一般的視野が狭い事に気づいた。船木はその後、『ルノアール』でコーヒーを飲んでから、『全線座」の隣りにある『ハッピーバレー』に行かないかと昇平を誘った。昇平は、同意し『ハッピーバレー』に行って、ダンスを躍りながら、ガールハントを試みた。だが適当な相手が見つからなかった。そこで『ハッピーバレー』を出て、居酒屋『子天狗』に行き、おでんを食べて、渋谷駅前で、船木と別れた。


         〇

 あっという間に7月になった。昇平は『オリエント機械』の仕事にも、会社の先輩たちにも慣れ、営業活動の範囲も広がった。時々、都内の客先に出掛け、その帰りに日本橋の書店『丸善』に立ち寄ったりして、文芸雑誌を立ち読みした。或る日、そこで手にした『講談社』発行の月刊文芸雑誌『群像』に同人誌会員募集の広告が載っているのを目にした。同人誌の名は『新生』で、主幹は森秋穂先生。その発行本部の住所が駒込千駄木町になっているので、昇平は何故か懐かしさを感じた。昇平は昨年末、『中央文学』から脱会していたので、その会員募集に興味を抱き、『新生』宛てに入会希望の手紙を送った。すると直ぐに返信が来て、7月10日の日曜日、千駄木町の喫茶店『カヤバ珈琲』で、会合があるので、その場に出席し、入会届をするよう記されてあった。そこで昇平は10日の日曜日、東横線の祐天寺駅から、渋谷に出て、そこから山手線の電車に乗り、まず上野へ行った。上野で下車し、不忍池の畔に行き、そこから都電34番系統の電車に乗り、千駄木町終点まで乗った。昇平は4年前、上京して千駄木町に下宿していた頃、道路向いの谷中にある『カヤバ珈琲』に入った事があるので、定刻2時に『カヤバ珈琲』に入った。幸子ママが、久しぶりに見る昇平に笑顔を見せた。そこへ若い女性が昇平に近づいて来て訊いた。

「吉岡昇平さんですか」

「はい。そうです」

「会合の席は2階です。どうぞ」

 昇平は彼女の案内に従い、2階に上がり、広い和室の座敷部屋に入った。新入りの昇平に先に来ている同人たちの視線が集まった。部屋の奥の中央に座っている和服姿の中年男が昇平に言った。

「いらっしゃい」

 昇平は慌てて挨拶した。

「初めまして。吉岡昇平です。よろしくお願いします」

「ようこそ参加してくれました。後、2名来たら座談会を始めますので、その辺に座っていて下さい」

 昇平は森主幹らしき人物の指示に従い、空いている席の座布団の上に座って、全員が集まるのを待った。しばらくすると、先程の女性と幸子ママが2人の女性を2階に連れて来て、お茶を入れたりして回り、座談会が始まった。副主幹の根本久三が司会を務めた。まず,森秋穂主幹に挨拶をお願いした。森秋穂先生は、着物の襟を整えてから喋った。

「皆さん、こんにちは。本日は、今回、『群像』で『新生』の新会員の募集を行い、5名の方が加わり、『新生』の会員が20名を超える大所帯となったことをお伝えします。実に喜ばしいことです。では根本さん、新会員の皆様を紹介して下さい」

「はい。では新会員の名前を呼び上げますので、呼ばれた方は立ち上がって、一言、挨拶して下さい。まずは羽島流一さん」

 そう名を呼ばれると、羽島流一は立ち上がって挨拶した。

「羽島流一です。『新生』の同人、青木泰彦さんの紹介で、今回、入会することになりました。よろしくお願いします」

 すると森先生が、率先して歓迎の拍手をした。同人たちも、それに合わせ拍手した。続いて昇平の名が呼ばれた。昇平は立ち上がり、挨拶した。

「吉岡昇平です。目黒区の祐天寺から来ました。よろしくお願いします」

 昇平は、高校時代から文学に興味を抱いて来たことを話そうと思ったが、初めてなので、何処に住んでいるかを話して挨拶とした。すると岬百合香、山田鈴江、輪島百代も同様に、港区、新宿区から来たなどと挨拶した。その新人の紹介と挨拶が終わると森先生がまた弁じた。

「新会員の皆さん。入会、おめでとう。諸君は今日から同人誌『新生』の会員として歩き出すことになりますが、固くならず、リラックスして参加して下さい。どんなテーマをどんな風に描くか。それは皆さんの自由です。その表現した作品が、皆さんの生き方や姿となるのです。何を描くにしても総て新雪を初めて踏むようなものです。これから多分、苦労して創作した作品を同人に批評され、失敗だったと思う事が多々、あるかと思います。でもそんな事は諸君だけの事ではありません。気にしてはなりません。参考にして下さい。私も先輩たちも、その失敗を繰り返し、成長しています。だから、文学を愛する諸君には失敗を恐れず、どしどし作品を提供して欲しいです。自分が面白いぞと思う作品を沢山、書いて欲しいです。私は諸君の新しい感覚の作品を見たくて仕方ありません。期待してます。頑張って下さい。以上、歓迎の挨拶を終わります」

 森先生の、この言葉で、新会員の紹介が終わった。その後、芥川龍之介の勉強会となった。同人たちは『中央文学』の座談会と同じく、皆、実によく喋った。『カヤバ珈琲』でのコーヒーやお茶を飲みながらの勉強会が終わってから、『新生』の同人は数人に別れて、行動した。昇平たち新人会員は青木泰彦や石田光彦、山形茂子に誘われ、根津八重垣町から池之端に移動し、居酒屋『吉兵衛』に入り、親睦を深めた。青木泰彦は『W大学』を卒業し、『アテネ・フランセ』でフランス語を学び、フランス文学に興味を持ち、フランス文学的ドラマチックな作品の創作に挑戦していると語った。石田光彦は作品の読者は文学青年で無く、一般大衆であると理解し、一般人を主人公にした覗き見的な作品に挑戦し、その結末は決まって明るくしたいと語った。山形茂子は時代を超えて、人々の心に響くような詩を書き、内面的に美しく生きたいと語った。昇平たち新人5人は、そんな先輩たちの話を、酒やジュースを飲むのも忘れ、夢中になって聞いた。


         〇

 昇平は『オリエント機械』の仕事を終え、祐天寺駅で下車すると、駅西口、五本木の食堂『信濃屋』で、夕食を食べて帰るのが習慣となった。無口な主人と明るい女将と若い板前の他に愛想の良い娘がいる『信濃屋』は何故か居心地が良かった。何時も注文して食べるのはタヌキうどんだった。この店のタヌキうどんを食べる度に昇平は4年前、上京した時、練馬に下宿していた兄、政夫に連れて行ってもらった江古田の大衆食堂での出来事を思い出した。大学受験に上京した時のことで、今にも雪が降って来そうな夕暮れだった。大衆食堂のガラス戸を開け、中に入ると仕事帰りの大人たちが、温かい食堂の中で、食事をしながら酒を飲んでいた。兄の政夫は長テーブル席に腰を下ろすと昇平に隣りに座るよう指示して、直ぐにタヌキうどんを注文した。それを受けた女将は主人に声を掛け、昇平が政夫と、大学受験の話をしている間に、タヌキうどんをテーブルに運んで来た。昇平は出来立てのタヌキうどんを兄と食べながら、母親の作るうどんを思い出して言った。

「おいしいね」

「うん。おふくろの味だ」

 大学生の兄と高校生の弟が仲良く肩を並べて食べている姿を見て、隣りのテーブル席にいた労務者風の男が、女将にカキフライを注文した。そして皿に載せたカキフライが運ばれて来ると、昇平の前に、そのカキフライの皿を出して言った。

「仲の良い兄弟だね。これ食べな」

 昇平は見ず知らずの男に、突然、そう言われ戸惑った。とても美味そうなカキフライだった。昇平が、それを素直にいただこうとすると、政夫が昇平を叱った。

「昇平。知らない人からいただくんじゃあねえ。俺たちは貧しくとも乞食ではないんだ」

 昇平は兄に怒鳴られ、びつくりした。そんな戸惑う昇平を見て、男は言った。

「東京に出稼ぎに来ている俺にも、田舎にお前さんたちのような、可愛い男の子がいるんだ。遠慮せず食べてけろ」

「申し訳ありません。遠慮します。昇平、食べ終わったか。店を出るぞ」

 政夫は、隣席の男の親切心を無視して、昇平を店から連れ出した。それは『吉岡家』の長男たる兄の矜持のように思えた。あんなに美味しそうなカキフライを素直にいただけば良いのにと、昇平は思った。もし1人の時に、そうされたら、頭を下げていただいていたかもしれない。そんな記憶のあるタヌキうどんだから、『信濃屋』で昇平が注文する夕食は何時もタヌキうどんだった。昇平は、『信濃屋』の片隅のテーブルに座って、タヌキうどんが出来上がる合間、何時もお茶を飲みながら、小説を読んだり、時には、創作のペンを走らせて過ごした。従って店の主人や女将、従業員にとって、昇平は近所仲間と晩酌を楽しみに来る客や一般の食事客と異なり、変わり者だった。何者なのか、気になって仕方なかった。瘦せっぽっちで、何時も同じ背広を着て、同じ席に座り、タヌキうどんを注文する蒼白い顔の青年。主人は、或る日、女将と相談し、夕方からアルバイトをしてもらっている花屋の娘、早坂桐子に不審青年の素性を訊き出すよう指示した。桐子も気になっていたので、夕方、店のガラス戸を開けて、昇平が店の中の片隅のテーブルに座ると、まずは何時ものように声をかけた。

「いらっしゃいませ」

「タヌキうどん」

 それを聞いて、普段なら、カウンター奥の厨房にタヌキうどんと合図する桐子だが、桐子は主人と女将をチラリと見て、昇平に言った。

「あのう。たまには別のものを注文してみては如何ですか?」

「別の物?」

「そう。何時も同じ物で無く、月見うどんとか、カレーライスを頼んでみては」

「ならカレーライス」

 昇平はカレーライスと聞いて、大学生時代、あの駿河台校舎の地下食堂で、カツカレーライスを、毎日のように食べていたのを思い出した。ホットケーキを食べる女優の松原智恵子と会話しながら、カツカレーライスを食べた事もあった。注文したカレーライスが出来上がると、桐子がそれを嬉しそうに運んで来た。

「ここのカレーライスは茄子入りなのよ。とても美味しいわよ」

「茄子入りのカレーライスなんて初めてだ」

「ところで貴男、学生さん?」

「いえ、違います。入社1年目のサラリーマンです」

「まあっ、そうなの。私の名前は桐子。貴男の名前は?」

「吉岡昇平です。お世話になっております。よろしく」

「こちらこそ」

 桐子はそう言うと、嬉しそうに腰を振って、女将の所へ移動した。昇平は茄子入りのカレーライスを口にした。何故かハヤシライスに似た不思議な味で、美味しかった。昇平は、こんな事から始まって、『信濃屋』の実情を知ることが出来た。滝沢主人夫婦には息子が2人いて、2人とも、京都で料理の修行をしているという。従業員の丸山という板前は主人の甥で、まだ独身らしい。アルバイトの娘2人は、近くにある花屋『早坂生花』の娘で、藤子が姉、桐子が妹だという。昇平は『信濃屋』のカレーライスも美味しいが、その後もタヌキうどんを注文することが多かった。理由は言うまでもない。食費節減が目的だった。


         〇

 生活費に困窮していた昇平に『オリエント機械』から、ボーナスが支給された。入社して間もないので、三浦、田中、宮里、吉岡の4人への支給金額は金一封、5千円だった。だが金欠状態の昇平には実に有難いボーナス支給だった。昇平は会社の帰りがけ、自由ヶ丘の菓子屋に立ち寄り、最近、人気の『ナボナ』を買って、そこから麻布の深澤家に直行した。予告なしの訪問に、利江叔母や喜一郎叔父たちが、びっくりした。昇平は初めて賞与をいただいたので、居候していた頃にお世話になった感謝の意を込めて、菓子を買って届けに来たと挨拶した。すると晩酌を始めていた喜一郎叔父が笑顔で言った。

「昇ちゃん、有難う。昇ちゃんの元気な姿を見せてもらうだけで、叔父さんは嬉しいよ。じゃあ忠雄と3人で、一杯飲もう。母さん、お猪口を一つ」

「お父さん。昇平は飲めないのだから、駄目ですよ」

「会社員になったんだ。それも営業部だ。酒が飲めなくては良い仕事も出来ない。お猪口を早く持って来い」

「はいはい。では高子、昇平にお猪口を出して上げなさい。私は昇平の夕ご飯の用意をするから」

 深澤家の家族は、久しぶりに訪問した昇平を、優しく迎え入れてくれた。昇平は深澤家の自分に対する家族の一員のような温かさに胸を打たれた。今、自分があるのは、この深澤家のお陰であると、夕食を共にしながら、痛感した。昇平はそんな深澤家の雰囲気もあり、月に1度程度、深澤家に顔見せに訪問するよう努力した。また住んでいる所が都内であるから、『オリエント貿易』へ届ける書類があると、昇平に、それを届けるようにと声がかかった。昇平は、その時、『春風荘』から中目黒まで歩き、そこから地下鉄日比谷線の電車で、銀座まで行き、日本橋のビルに入っている『オリエント貿易』へ行った。祐天寺から渋谷に出て、銀座線の電車に乗り替えて行っても良いのであるが、東横線で渋谷に行くまでの電車賃が余計にかかるので、アパートから中目黒駅に行った。中目黒駅の脇に、『永井商店』があり、或る日、そこの息子、永井秀雄に声を掛けられた。

「おお、吉岡君、久しぶり。こんなに早く、出勤か?」

「ああ、永井さん。お久しぶりです。これから日本橋まで行くところです」

「あれっ。横浜の会社に就職したんじゃなかったの?」

「そうです。横浜の会社に就職し、今、祐天寺でアパート暮らししてます」

「あっ、そう。菊池さんたちが会いたがっているから、電話番号を教えろよ」

 昇平は、そう言われ、永井に『春風荘』の電話番号を教えて、中目黒駅から日比谷線の電車に乗って、都心に向かった。銀座線の日本橋駅で下車し、『オリエント貿易』の入っているビルの4階の機械部に顔を出すと機械部の太田部長をはじめ山崎次長、石本課長、藤木澄夫たちが昇平を笑顔で迎えた。昇平は『オリエント機械』で机を並べる向井静子が作成し、岡田課長が検閲した当月分の請求書を岡田課長に言われた通り山崎次長に渡した。すると山崎次長は、その請求書内容に、さっと目を通し、それを女子事務員、中村美保に渡した。その後、昇平は藤木澄夫や島崎正彦たちと情報交換し、1時間程で帰ることにした。太田部長や山崎次長以下に挨拶し、さあこれから『丸善』に寄って、会社に出勤しようとして、4階のエレベータードアの前に立って、エレベーターケージが下りて来るを待っていると、突然、中村美保が昇平の所に走って来た。

「吉岡さん。まだ帰らないで下さい」

「他に何かあるの?」

「大野常務が呼んでいます」

「何で大野常務が?」

「カンカンに怒っています。私の後について来て下さい」

 昇平は、そう言われ、中村美保の大きなお尻を見ながら、4階から5階への階段を上った。5階に上がると、役員室が幾つかあり、昇平は美保に案内され、大野常務のいる常務室に入った。大野常務は中央の立派な机の奥のこれまた立派な大きな椅子に座り、昇平を待っていた。大野常務の他に、秘書の女性もいた。昇平は大野常務に挨拶した

「お早ようございます」

 すると一声、大野常務が怒鳴った。

「もう、お早うではないだろう。吉岡君。君はそれでも営業マンだと思っているのか。私から見たら、君は営業マン失格だよ。物事をわきまえ給え。営業マンとしての分別が足らん」

 昇平には良く分からなかった。2人の女性、中村美保と秘書の前で、怒鳴られ、カッとなって、大野常務に訊き返した。

「分別が足らんとは、どういうことですか?教えて下さい」

「私は、『オリエント機械』の副社長であり、『オリエント貿易』の常務だ。『オリエント貿易』に来たら、私の処に挨拶に来るのが常識だろう。違うかね」

「私は、機械部に書類を届けに来たのであって、副社長に挨拶するのが目的で、来たのでは在りません。階が違うのに、私が来ていると良く分かりましたね」

「うん。先程、合成樹脂部の部長が来て、『オリエント機械』の社員が来ていると言ったものだから、君を呼んだのだ。『オリエント貿易』に来たら、私の処に挨拶に来るのが常識だと、教える為にね。分かったかね、吉岡君。君の常識の無さが・・」

「分かりません。一方的に、そんなことを言われても。不愉快です。失礼します」

 昇平は、大野常務に深く頭を下げると、常務室から跳び出した。

「おい、おい、吉岡君」

 大野常務が手を伸ばしたのを見て、秘書の女性と中村美保が追いかけて来た。5階のエレベーター前に立つ昇平の手を掴むようにして、お願いした。

「吉岡さん、戻って下さい。大野常務に謝って下さい。お願いです」

「僕は謝らないよ。不愉快だから帰るよ」

 昇平は、そのまま上がって来たエレベーターに乗り、『オリエント貿易』から退去した。数日後、『オリエント機械』にやって来た藤木澄夫が、昇平に訊いた。

「大野常務に大胆なことをしてくれたな。磯部社長や遠藤さんに注意されなかったか?」

「怒られるような事をしていませんので、誰からも何も言われていません」

「そうか、それなら良いのだが。大野常務は堅物だから」

「分かっています。真面目な人だと思っています」

 昇平が、そう言うと、藤木は、昇平の肩を、ポンと叩いて笑った。


         〇

 昇平が『春風荘』で暮らしているのを嗅ぎつけると、『A電気』でアルバイトをしていた時の知り合いが、日曜日、麻雀をしないかと電話して来た。永井秀雄から電話情報を得たらしい。電話をして来たのは広沢良夫で、彼は何故か昇平に憧れのようなものを抱いていた。広沢にとって苦学して大学で学び卒業した昇平が羨ましくてならないみたいだった。そんな広沢からの声かけだったので、昇平は了解した。

「ああ、良いよ」

「では、家にある麻雀パイを持って行くので、吉岡君のアパートの部屋で麻雀をするっていうことで良いかな」

「ああ、良いよ」

「2時頃行くけど良いかな」

「うん。祐天寺駅の改札で待っているよ」

 昇平は、そう答えて慌てて部屋掃除をした。その後、『ナイヤガラ』で、カレーライスを食べ、その後、駒沢通り近くの『石川家具店』に行き、正方形のコタツ板を買って、帰った。コタツ本体も買いたかったが費用もかかるし、季節外れなので、年末近くなってから、コタツ本体を買うことにした。午後2時前、昇平は祐天寺駅改札口で、広沢たちが来るのを待った。定刻、広沢たちが東横線祐天寺駅の改札口に現れた。一緒に来たのは『A電気』でアルバイトをしていた時、可愛がってもらった菊池係長と永井秀雄だった。昇平は、その3人を『春風荘』の部屋に案内した。狭い部屋だったが、3人は余り驚かなかった。アパートの部屋の大きさは、何処でもこんな狭さだと理解していた。昇平は早速、勉強机の上に毛布を敷いて、その上に『石川家具店』から購入したばかりの正方形コタツ板を裏側にして、麻雀席の準備をした。コタツ板の裏側には緑色のフェルトが貼ってあって、ひっくり返せば直ぐにジャン卓になったので、皆、喜んだ。早速、広沢が持って来た麻雀パイを、そのジャン卓の上に出してから、点棒を確認して、麻雀ゲームを開始した。麻雀パイをジャラジャラ掻き回す音が、何とも言えなかった。大学生時代、学友、松崎利男が借りていた武蔵小山のアパートの部屋に行き、何度、徹夜麻雀をしたことか。その為に川崎の日野照代叔母から厳しい注意の手紙を受けたことがあった。だが深澤家の居候で無くなった今は、そんなことを気にする理由は無く、昇平の自由だった。昇平は『春風荘』の部屋で菊池係長、広沢良夫、永井秀雄との麻雀を楽しんだ。昇平の麻雀の手法は、まず最初に、どんなに小さく安い手でも上がることに努めた。ノーテンを避ける為である。それから中盤にかけて、役満などの大きな手を狙う。後半はリーチをかけず、ヤミテンで細かく上がって稼ぎ、相手に決して振り込まないように対処し勝利する手法だった。これは雀士、小平義之に教えてもらった流儀であり、昇平は、それをずっと守って来た。千点10円の掛け金だが、ゲームに入ると、皆、顔色を変えて、勝負に熱中した。夕暮れになって、ゲームを終え、計算すると、菊池係長と昇平が勝利し、広沢と永井が負け金を2人に支払った。菊池係長が昇平に言った。

「相変わらず、良い腕をしているな。新しい勤め先でも麻雀やっているのか?」

「はい。営業部所属なので、菊池さんたちに教えてもらったのが役立っています」

「おお、そうか。それは良かったな。じゃあ、これから一杯、飲みに行くか」

 昇平たち4人は『春風荘』を出ると、中目黒商店街まで歩き、ガード脇の居酒屋『秀次郎』に入り、食事をしながら、酒を飲んだ。3人は『A電気』の内部事情を語った。総務部に勤める麻布の喜一郎叔父が厚木事業所への人事異動の件で、悩んでいるとの話だった。菊池係長は、小原課長や寺島係長と一緒に、厚木事業所に移動する覚悟をしていたが、都内に実家のある広沢と永井は、その時が来たら、『A電気』を辞めるかもしれないと話した。昇平はふと、お世話になった藤原律子、野村みどり、関野尚子たちのことを懐かしく思った。また『A電気』の仕事を終えてから、十番あたりで自棄酒を飲んで、深澤家に帰る喜一郎叔父のことを想像した。植木等の『ドント節』の歌詞のように、サラリーマンは決して気楽な稼業では無い。昇平は『オリエント機械』に入社して、アルバイト時代以上に、それを感じた。『秀次郎』を出たのは8時半近かった。昇平は3人と別れると、酒に酔っているのに『松の湯』で手拭いを買い、銭湯に入って、『春風荘』に帰った。


         〇

 『オリエント機械』が『信越化学工業』から受注した機械装置が工場で組み上がった。その試運転に、ペルーの納入先は来なかったが、『信越化学工業』の海外事業部の赤沢部長と松島課長が、金曜日の午後にやって来た。昇平は製造部技術課の高野昭吉課長や小川光司たちと、午後から来訪者の前で輸出機械の試運転を行った。異常は見られず、正常運転を実証した。午後4時から、川内部長と岡田課長に同席してもらい、運転確認の結果報告と指定倉庫への搬入日などの打合せを行った。そして夕方6時から、場所を駅前割烹『和田兼』に移動し、そこでまたペルーの話や機械装置の話などをしながら、新鮮な魚介類の日本料理をいただき、酒を酌み交わし、『信越化学工業』の2人を接待した。『和田兼』での客先接待は8時半に終わった。昇平は客先の2人と一緒に、綱島駅から渋谷方面の電車に乗って帰っても良かったのであるが、綱島駅の改札口で、川内部長たちと、深く頭を下げて、客先の2人を見送った。それから、川内部長が、もう1杯やろうと、武蔵小杉のバー『エリカ』に連れて行ってくれた。前田真由子ママと保坂園子を相手に、川内部長はご機嫌だった。

「うちはペルーに機械を輸出するんだ。将来、岡田君や吉岡君が、機械輸出を海外に拡大させ、まさに『オリエント機械』の名に相応しいアジアから中近東までを我社の市場におさめてくれると期待している」

「まあ、雄大だわね」

「当り前だ。俺たちはアメリカの有名企業と技術提携し、世界に羽ばたくんだ」

 川内部長が、バーのママたちに笑顔で自慢するのを見て、昇平は岡田課長と腹をかかえて笑った。その翌日から、昇平は忙しかった。機械装置の寸法を測り、重量を測定し、パッキングリストを作成した。英文タイプは『オリエント貿易』から総務部に出向して来ている榎本課長に依頼した。榎本課長は『東京大学』出身だが、大人しい人で、昇平の希望通りに、英文の資料をタイプアップしてくれた。それから昇平は横浜の輸出梱包業者を探し、機械にタグ付けをし、輸出梱包し、シッピングマークと梱包寸法、重量を梱包箱ごとに刻印させた。その後は梱包業者に依頼して、『信越化学工業』が指定する横浜の倉庫に搬入させた。遠藤常務はじめ川内部長や岡田課長は、こういった一連の仕事をこなす昇平の仕事ぶりを見て、見る目を変えた。能力の無い大学卒業生では無かった。商学部で輸出業務の勉強をして来たことが、実証された。また『オリエント機械』の若い女性たちも、昇平と同期の設計者たち同様、昇平を見る様になった。『オリエント機械』の若い女性たちにとって、学卒の昇平たちは憧れの的だった。そんな風だったから、昼休みなど、時々、浅岡陽子、向井静子、石本房子などから声をかけられた。昇平は田端の萩原俊夫叔父から、社内の女には気を付けろと言われていたので、社内の女性と個人的接触をしないよう心がけた。その為、社内の女性たちより、社外の女性たちとの付合いの方が多かった。とはいっても、大学卒業と同時に、ほとんどの女性との連絡を途絶えさせていたので、身近で会話する女性は大衆食堂『信濃屋』でアルバイトをしている『早川生花』の娘、藤子と桐子くらいだった。それ以外は同人誌『新生』の会員、山田鈴江、岬百合香、輪島百代たちで、彼女たちや羽島流一たちと会話すると、何時も『新生』への発表作品を、早く仕上げねばならないと急き立てられた。昇平はどんな作品を発表したら良いのか苦悩した。そこで普段、創作ノートになぐり書きしている考えを作品風にして、ぶつけてみることにした。『君に問う、僕は異端者か』と題して、同人誌『新生』に投稿した。その内容は異性や神に対する以下のような文章からなっていた。


:君は君自身の内にあるものが、見えていないようだ。仕方あるまい。君は鏡の力を借りなければ、自分の背中が見えないのと同様、鏡に相応しい信頼出来る相手がいないのだから。

;君は性的色彩を帯びた出来事を、何でも白眼視する。だが良く考えてみるべきだ。君自身が、何によって造られ、どこで成長し、何処から、どのようにして、この世に抜け出し、這い出して来たかということを・・・。

:君は何故、異性を遠ざける。自分と異質と考える。それでいながらも、その異性の中の特別な人だけを愛そうと願うのだ。それは間違っている。異性全員を愛することの出来ぬ人間が、本当に特定の相手を信じ続けることが出来るであろうか。出来ないだろう。きっと秋という季節がやって来る。

;君は動物の生殖行為を見たことがあると思う。その時、君は君自身がどんな顔をしているか想像したことがあるか。おそらく誰にも、そんな余裕は無いであろう。つまり、その時の君は、君自身を忘れ、その創造の不思議を見ていたのだ。それは君に創造に対する興味があり、君自身、その行為に惹かれたからだ。

;男女が結合する行為を不潔と感じる。それは君自身が不潔であるからだ。いやらしく感じる。それは君自身がいやらしいからだ。つまり総ての感覚というものは、独自のものであり、他をもって、感じることが出来ないものだ。不潔と感じるのは、君自身が、それを不潔と感じるからだ。

:人間の中には、先輩たちから教えられた不潔という感覚が存在する。その教えられた不潔に対する知覚が、君自身に不潔を感じさせるのだ。不潔ねという人は、その人自身が不潔なのです。エッチねと言う人は、その人自身がエッチなのです。不潔とも思わず、いやらしくも感じない人は、何も感ぜず、ただ黙っている。まるで賢者のように・・。

:君は人に向かって忠告しようとする。人を批評しようとする。だが、気を付けろ。それは自分の未熟さを公表することになってしまう可能性が大だ。何故なら、人は人、自分は自分だから・・・。

:君は文章を読む時、思索しながら読もうとしていないように見受けられる。だから君は単純な人間と呼ばれるのだ。君には文章のドラマの向こうにある世界を考えたことが無いのか。桜の花が美しく咲く理由を考えたことが無いのか。美しいものの陰にあるものを見たことが無いのか。

:君は君自身の法を持っているか。もし持っていないなら、君は、そのことについて考えるべきだ。そして気づくであろう。自分が他人と同じ風呂の中に浸かっていて、自己を忘れていたということを・・・。

:君は他に奉仕し、相手を喜ばせることを『愛』と考えているのか。もし、そう考えているとするなら、それは間違っているのではないだろうか。『愛』は自分の為に他から奪い取る事であるような気がするが・・。

:君は偉そうに他人に忠告し、他人を批評するような立派な人物であると自分の事を思っているようだが、良く考えろ。君はまだ、そのような柄では無い。君自身が自己の内面に向かって、反省し、忠告すべきではないのか。他の者を批評し、忠告する暇があったなら、その時間を自己内面に向けよ。

:人間という生き物は絶えず『死』の上に立っている。君は、何故、そのように『死』を恐れるのか。何も、そのような恐怖を感じなくても良いではないか。『死』は咲き終えた花が散る様に美しいものだ。何も、そう慄くことはない。この世で悪事をしていなければ、あの世でも無罪だ。それとも、あの世で、裁かれるような隠し事でもあるのか。

:我々は世の流れの中で生きている。君は、その流れの中で、他人に動かされている。自分というものを忘れている。自分から動き泳ごうとしていない。だから君は、溺れそうになり、苦しい苦しいと叫んでいるのだ。

:聖者の瞳は澄んでいる。なのに聖者の額は、深い皺に覆われている。何故なら聖者は純粋な瞳で人を見つめ、見詰めた者の保有する清らかなものを瞳の中に吸引し、汚いものを額に露出するのだ。だから君は見るだろう。聖者が深い沈黙の中で、額に深い皺を寄せて悩んでいるのを。それは総て君の所為なのだ。

:聖者は黙っている。彼には喋る暇さえ無いのだ。それは自己探求の彼の姿だ。見るが良い。沈黙している彼の美しいことを。沈黙により、総てが輝いていることを。君自身の目で・・・。

:女は空袋なり。男は満タン袋なり。それ故、女は男の袋の中にある生命を空袋に吸い取り、嬉々と輝き、男は大事な袋から生命を抜き取られ、落胆し、死者のように蒼白になり、果ては滅びる。

:君は自分自身を知り、己の中にあるものを、汚いと言って、捨て去ることが出来るか。出来ると思うなら、早く火葬場に行くが良い。そうすれば煙となった君を天の神が迎えてくれる。

:生きる事が辛くなって死にたいと思ったなら、躊躇なく死ぬが良い。戸惑ったりしたら、更に苦しみ、後になって、死ななかったことを後悔するから・・・。

:君は清廉潔白だと言う。君は何を根拠に、そう言えるのだろうか。それはただ自分でそう思っていることではないのか。あるいは他人が、そう言っただけのことではないのか。総ての決定は、沈黙せる神の審判によるものだ。

:潔白な人間などいないと神は言ったのだろうか。君が自分の事を神に尋ねたら、神は返事をしなかったから、そうだと思うのか。あるいは潔白な人間がいると神は言ったのだろうか。君が尋ねたら返事をしなかったから。もう一度、考えて欲しい。罪ある人間の肉体について・・・。

:君は変態的異端者だ。人間、誰でもそうであるように、哀れな神に想像された性的人間だ。だが倒錯者などと思うなかれ。君は異端者では無く、神が創造した正常者なのかもしれない。

:神は宇宙のデザイナーである。そうではないか。我々が目にする万物は神によって創造されたものである。太陽、月、地球、銀河、海、山河、孔雀、猿、犬、草花など、創造神が注文して造ったものだ。君は神の注文によって、日本国の男女に神が注文して出来上がった創造物だ。

:君は自らの力によって日本国に生まれようとして日本国に生まれて来たのではない。神が、日本人を、もう一人、増やしてやろうと思って注文し、この日本に生まれて来たのだ。もし神が、次に注文する一人を、ブラジル人にしようと思っていたら、君はブラジル人として生まれて、僕と巡り合っていなかったであろう。

:僕たちの肉体は、神の注文によって創造された神の所有物であり、神から借りている物である。従って、この世での勤務の役目が終了すれば、僕たちの肉体は神のもとに戻されなければならない。

:君に問う。以上のような事を君に言う、僕は異端者だろうか。それとも阿保か。この世のことを考えると、僕の頭は混乱し、狂いそうになる。考えれば考える程、分からなくなる。だから最近、難しく考えない事にしている。何故なら神の力によって生かされている時間より、死んでからの時間の方が、もっと長いと思われるからだ。分からない事は永遠というあの世で、ゆっくり考えることのする。

          完

 昇平にとって執筆した内容が、変質的な作品なので何故か恥ずかしかったが、創作したものをダンボール箱にしまっておくのも、可哀想なので、思い切って投稿した。羽島流一も『四尾連湖の休日』という小説を投稿した。山田鈴江たち新人女性は、詩を投稿した。


         〇

 8月になるや大学時代の仲間の手塚と久保の発案で、小型マイクロバスを借りて、海水浴に行く事になった。昇平にも声がかかり、昇平は8月6日、土曜日、『オリエント機械』の仕事を終えてから、待ち合わせ場所の渋谷に行った。そこには、『М大学』時代の遊び仲間のグループ『モエテル』のメンバー、手塚、久保、船木たち7人が集まっていた。その他に、5月の連休に手塚や船木や久保と河口湖で知り合いになった女性4人がいた。道玄坂の途中で、その男女12人全員がマイクロバスに乗り込むと、岩野義孝の運転で、静岡県の土肥海岸にマイクロバスは向かった。岩野は車の運転が得意だった。渋谷から246号線に出て、三軒茶屋を通り、多摩川を越え、神奈川県に入り、川崎から大和、厚木を経て、更に西に車を走らせ、松田から足柄峠を越え、静岡県の御殿場、裾野などを経て、沼津から伊豆に入り、伊豆長岡を経て、夕刻前に土肥海岸にマイクロバスを到着させた。『モエテル』の男たちは、マイクロバスから降りると、手塚の指示に従い、海岸の松原近くの砂浜に4人用テントを3つ張った。女性たちは、マイクロバス近くにレジャーシートを敷き、そこで食事の準備をした。昇平は、貧乏だったから、ショートパンツを買えず、長ズボン姿だったので、虫に食われることが無く、虫に悩まされることが無かった。そのお陰で何時もに無く、活発に動けた。そんな昇平に林田絹子が声をかけたりしたが、昇平は無視した。女性たちは久保や船木や手塚の知り合いであり、何か問題が起こったら、ややこしくなるからだった。夕方6時半、『モエテル』のメンバーと女性4人の飲み会が始まった。ビールやジュースで乾杯し、女性たちが作ってくれた焼き肉や野菜イタメ、焼きそば、その他、缶詰、ソーセージ、おつまみなどを口にしながら、皆、良く喋った。特に久保はお気に入りの女子、橋本美智子と話し、船木は畑中鈴子と話し、手塚は樋口夏子と喋った。そんな手塚を見て、昇平は呆れ返った。『若菜病院』の看護婦、浅野洋子に惚れていると絶えず言っていた手塚なのに、これはどうしたことか。こんな事なら、船木に言って、『若菜病院』の看護婦たちを誘ってみても面白かったのではないかと思った。いずれにせよ、夏の夜の浜辺近くでの男女12人の野外懇親会は楽しかった。9時になると懇親会をお開きにした。女性4人は海辺のテントで眠った。昇平は船木、梅沢、小平と同じテントで眠ったが、手塚、久保、細木、岩野たちのテントが何時までもうるさくて、直ぐに眠れなかった。だが疲れていたのか、何時の間にか日曜日の朝を迎えていた。目覚めると、女性たちと一緒に手塚、岩野、細木が中心になって、朝食の準備をしていた。海上に朝日が輝き、昇平たちは、することが無く、朝食の声がかかる迄、浜辺を散歩した。朝食は、昨夜と同じく、皆、嬉々としていた。その朝食が終わると、手塚や久保たちは女性陣と浜辺を散歩した。昇平は幼い時から川で泳いでいた経験があり、『М大学』に入り、東京で暮らすようになってからも、プールで時々、泳いでいたので、泳ぎには自信があった。なので早く海で泳ぎたかった。そこで逸早く水泳パンツ姿になって泳ぐ準備をした。ろくな物を食べていない貧弱なあばら骨の目立つ身体だったが、気にしなかった。潮風に向かって深呼吸し、開放感を味わった。ところが、仲間が真裸になり、逞しい肉体を曝け出すと、昇平は自らの肉体と仲間の肉体を比較し、劣等感を覚えた。4人の女性たちが豊満な乳房とお尻を目立たたせた水着姿で、近づいて来ると、昇平は尚更、恥ずかしくなり、岩の上から、海中に跳び込んだ。次の瞬間、昇平は海中の岩にぶつかり、激痛を感じたが、そのまま波にもまれ、立ち上がらず、浅瀬の波の中にいた。仲間や女性たちが遠ざかって行くのを確認してから、昇平が浅瀬から立ち上がると、昇平の胸は真っ赤になっていた。昇平は胸から血が出ているのではないかと確認した。だが出血していなかったので、安心した。手塚や細木や船木たちは、岩場で無い、砂浜の先の遠浅の海で泳ぎ、女性たちと戯れ合った。佐渡生まれの船木は、海での泳ぎに慣れていて、昇平より上手に泳いだ。灼熱の太陽は、若者たちの為に、燦々と降り注ぎ、土肥海岸には、時間が経過するにつれ、大勢の海水浴客が集まって来た。昇平はこの時とばかり、船木と一緒になって、寄せて来る白波に乗って泳いだ。正午には、テントに戻り、皆とワイワイ喋りながら、食事をした。その時、久保に訊かれた。

「吉岡。胸のところが赤いぞ。どうしたんだ?」

「うん。浅瀬で岩にぶつかっちゃったんだ」

「痛くないか?」

「平気だよ。我は海の子、白波の騒ぐ磯部の松原に・・・」

 昇平がおどけて『我は海の子』の歌を唄うと、他の連中も唄った。

「煙漂うと苫屋こそ、我が懐かしき住処なれ。生まれて潮に浴みして、波を子守の歌と聞き・・・」

 『我は海の子』の歌を唄う男女のグループは、まるで、コーラスグループみたいだった。唄い終わったところで、昇平に林田絹子が訊いた。

「吉岡さんは、海のある何処の県で育ったの?」

 昇平は、そう訊かれて、返答に迷った。すると、手塚が昇平に代わって彼女たちに説明した。

「吉岡は関東の海無し県、群馬の出身だよ。海の子で無く、山の子だよ」

「そう。僕はお尻の赤い山猿さ。えっさ、えっさ、えっさ、ほいさっさ、お猿のかごやだ、ほいさっさ・・」」

 昇平が、そう言うと、皆がドッと笑った。昇平は太鼓持ちに徹した。昼食を終えてから、『モエテル』の連中と女性たちのグループは、適当に別れて、泳いだり、ボートに乗ったりした。昇平は林田絹子に誘われ、ボートに乗った。昇平は半ドンの日など、『オリエント機械』の田中俊明や宮里敦司と多摩川で、ボートに乗っていたので、ボートを上手に操作出来た。絹子を岩陰の方まで乗せて、一回りして帰ると、岩野たちに、ひやかされた。その後1時間程、泳ぎ、皆で帰りの支度にかかった。テントやレジャーシートを片付け、マイクロバスのトランクに収納したり、座席脇に食器類を置いたりした。そして2時半に土肥海岸を出発し、三島から箱根の『関所跡』に向かった。だが『関所跡』に到着した時は、『関所跡』は閉まっていて、芦ノ湖などを眺めた。芦ノ湖の見学が終わると、昇平たちを乗せたマイクロバスは岩野と手塚の運転で、夕暮れの箱根峠を小田原まで下り、そこから国道1号線を走り、夜中の9時に渋谷に到着した。皆,泳ぎの疲れが出て来て、フラフラ状態だった。


         〇

 『オリエント機械』の夏休みは、8月13日の土曜日から16日の火曜日までだった。昇平は13日から田舎に帰省することにした。盆休み期間なので、信越線や上越線の長距離電車が混雑するので、昇平は高崎行きの短距離列車に乗って高崎迄行った。その後、高崎駅のホームの立食い蕎麦屋でうどんを食べて、両毛線の列車に乗り、前橋駅で下車して、駅前の八百屋で大きなスイカを買った。それを引っ提げ、ケヤキ並木を歩き、姉、好子が嫁いだ仕出屋『河合商店』に挨拶に行った。昇平は姉、好子が結婚した時、『オリエント機械』の初出勤行事の確認があり、翌日、『М大学』の卒業式だった為、姉の結婚式に出席しておらず、『河合家』の人に会うのは今回が初めてだった。『河合商店』の店先に昇平が現れると、好子は、びっくりした。白いYシャツの袖を半分に折って、黒いズボンを穿き、大きなスイカを手にした昇平は、学生時代とすっかり変わって、男らしく成長していた。

「まあっ、昇平じゃあないか」

「姉ちゃん。お久しぶりです。『河合家』の皆さんに挨拶に来ました。挨拶を済ませたら、直ぐに田舎に帰ります」

「まあっ、そうなの」

 好子と昇平が話していると、店の奥にいた『河合商店』の主人夫婦は、嫁の好子が誰と話しているのか首を傾げた。そして女将の和枝が好子に言った。

「好子。知っている人かい?」

 すると好子は、ためらいながら答えた。

「はい。私の弟です」

「まあっ、そうなの。奥に入ってもらいなさい。弟さん、どうぞ、どうぞ」

「好子の弟の昇平です。宜しくお願い致します。これ、つまらぬ物ですが・・・」

 昇平は手に持っていた大きなスイカを義母、和枝の前に差し出した。すると和枝は、それを義父の幸吉に渡して微笑んだ。

「大きなスイカを有難う。噂通りの好青年だね。市川雷蔵みたいだ。好子。奥の部屋に案内し、正治と3人で、ゆっくり、積もる話をしなさい」

「はい。では甘えさせていただきます。昇平、こちらへ」

 昇平は姉に案内され、『河合家』の離れ部屋に移動した。その離れ部屋は、姉、好子を嫁に迎えるにあたって、新築した新婚部屋のようだった。何処を見ても新しかった。姉が大事に迎え入れられたことが分かった。姉に麦茶を入れてもらい、近況を話していると、姉の夫、正治が部屋に現れて、互いに挨拶して会話した。正治は丸顔の優しい笑顔の人で、あけっぴろげな性格に、昇平は直ぐに馴染むことが出来た。姉が、この人を夫に選んだ理由が分かった。この人となら明るい家庭を築くことが出来ると思ったのであろう。昇平は1時間半ほど話して、『河合家』から辞去し、前橋から高崎に戻り、そこから、実家に帰った。両親、兄弟とも昇平の帰省を喜び、家族で迎え盆を行い、祖父、慶次郎の思い出話や、各人の近況を語った。14日は家の前方にある河原に行って、魚釣りをした。高校時代まであった水車小屋は無くなっていた。川遊びする子供の姿も少なかった。村の人口が減少していることを肌で感じた。時代の変化が不思議でならなかった。昇平が中学生の時、父、大介が田んぼの畔道を歩きながら昇平に言った言葉が思い出された。

「昇平。お前は村に残り、百姓になり、この田んぼやあっちの田んぼや畑、向山など、『吉岡家』の不動産を守って行くんだぞ。政夫は優秀だから東京で活躍してもらうつもりだ。良いか。分かったか」

「はい」

 昇平は、何で自分がと思ったが、はいと答えた。心の中では、自分で無く弟の広志が農家を継げば良いと思った。自分は頭は悪く、学校の成績は悪いが、都会に出て、漫画家になりたかった。その漫画家の夢は叶わなかったが、一応、東京人になれたことは確かだった。かって父、大介が描いた将来とは正反対の現実になっていた。兄、政夫が田舎に戻り、昇平が東京で生活すると言う逆転劇だった。だが故郷の清らかな自然に触れ合うと、故郷が愛しくてたまらなかった。夕方になると、姉、好子が、義兄、正治の運転するライトバンに乗って、実家に帰って来た。昇平は昨日、会ったばかりだが、沢山の生魚などを持って、『吉岡家』に現れ、『吉岡家』は一段と賑やかになった。姉夫婦は、1泊し、翌日、墓参りをして、午後1番で前橋に帰って行った。昇平は、夕方、兄、政夫に西松井田駅まで車で送ってもらい、そこから高崎駅経由で、東京に帰った。夏休みが終わると、昇平は『オリエント機械』の営業活動に奔走した。機械の引合いから始まり、仕様打合せ、コスト計算、見積書の作成と提出、注文確認、注文書の受取り、社内への製作指示等、多忙を極めた。土曜日や休日になると、『A電気』の菊池係長、広沢良夫、永井秀雄が『春風荘』にやって来て、麻雀をしたり、麻布の深澤家に行ったり、田端の萩原家に行ったり、大学時代の仲間、船木省三からの誘いがあったりして、銀座の喫茶店『パリシェ』に行ったりした。『モエテル』の仲間は、土肥海岸に海水浴に一緒に行った『NA石油』の女性たちとグループ交際をしていて、時々、彼女たちと銀座で会っているとのことだった。昇平は銀座に本社のある生命保険会社勤務の船木から、土肥海岸に海水浴に行った時の写真が出来上がったので、皆で銀座で会うという連絡を受けて、銀座の喫茶店『パリシェ』に出掛けた。そこで昇平は『NA石油』の女性たちとも会話するようになった。また彼女たちと別れてから、銀座のバーに飲みに行ったり、休む暇無しだった。そんな中、8月末に、同人誌『新生』の夏季号が出来上がり、9月半ば、その合評会が、千駄木町の喫茶店『カヤバ珈琲』で行われるという通知と一緒に、『春風荘』に送られて来た。自分の作品『君に問う、僕は異端者か』が掲載されている同人誌を見て、昇平は興奮した。『中央文学』の時と同様、自分の作品が批評されることも分かっていたが、合評会で大切なのは、他の同人の作品を正しく読んで、正しく批評する事だった。その為、昇平は通勤カバンに同人誌を入れ、会社の行き帰りの電車の中で読んだ。『信濃屋』での夕食の時、何時もなら書き物を執筆している昇平なのに、変わった本を熱心に読んでいる昇平に気づき、早坂桐子が尋ねた。

「何の本を読んでいるの?」

「同人誌」

「何、同人誌って?」

「文学好きの仲間が集まって発行している文芸誌のことだよ。この文芸誌には僕の書いた作品が掲載されているんだ」

「まあ、本当なの。見せて、見せて」

 桐子が、そう言うので、昇平は『新生』の夏季号を、桐子に見せた。桐子は、『新生』のページをパラパラめくって、女性詩人の詩を読んだりして、昇平に確認した。

「吉岡さんの作品はどれ?」

「分かるだろう。吉岡って作者名があるだろう」

「ああ、これ。吉岡昇太郎ね。これ、吉岡さんのペンネームなんだ」

「そうだよ。読みたければ、この次、1冊、プレゼントするよ」

「そう、ありがとう。楽しみにしているわ」

 昇平は、桐子に『新生』夏季号をプレゼントすることを約束した。同人誌を読んでもらい、桐子の感想も聞いてみたかった。


         〇

 9月18日、日曜日の午後、昇平は千駄木町の向かいにある谷中の『カヤバ珈琲』に行った。その日の同人誌『新生』の合評会で、昇平はひどい目にあった。昇平の作品『君に問う。僕は異端者か』になると、厳しい批判の声が上がった。古株の同人、石黒弘康が、こう批評した。

「この作品は小説でも無ければ、評論でもない。考え方が偏っていて、まさにタイトル通りの異端作品だ」

 続いて、鵜川八郎が言った。石黒弘康が批評したので、喋り易かったようだ。

「人間の存在をセックスによって規定しようとしている。いやらしく下劣だ。生存する為の性交だ、死だとか、作者は哲学的な内容を書いているつもりだろうが、いただけない」

 川村恒夫も同感だった。

「どう読んでも、矢張り不純だ。文芸作品としては認め難い」

 女性の同人からも、意見が出された。篠原勝子はこう言った。

「男性から見ると、下劣な作品と思えるのかも知れませんが、私には、そうには思えません。むしろ宗教的な匂いを感じます。作者の感受性は、私たちの内にもあります」

 その後も、批評は続いた。批評が尽きると、司会の根本久三が昇平に訊いた。

「作者の意見を聞かせて下さい」

 昇平は合評会での自己作品の説明が苦手だった。だが答えなければならなかった。

「この作品の筆者として、皆さんに読んでいただけただけで嬉しいです。正直な所、自分でも何で、こんな作品の書き方をしたのか分かりません。原稿の締め切りが迫り、思いつくまま、彷徨いながら書き上げました。私が吐露した感情が、皆さんの肉体には潜んでおらず、自分がタイトル通り、異端者であることを実感しました」

 昇平は、ちょっとふて腐れ気味に言った。すると森秋穂先生が、昇平を励ますように言った。

「私たちの同人誌は営利目的でなく、各人が積み上げて来たものを発表する場なので、吉岡君の作品が、『新生』の石垣の石を一つ積み上げてくれたと思っています。良いんじゃあないかな。私も篠原さん同様、宗教的な匂いを感じて面白かったよ。人間として、この世に送り出されて来たことは、祝福しなければならないのかも。次の作品を楽しみにしてるよ」

 森先生の優しい言葉に、昇平は救われた。そんな昇平の作品に較べ、同期の新人、羽島流一の作品『四尾連湖の休日』は好評だった。休暇も取らずに仕事に没頭していた青年が、思い切つて休日に山梨県の湖に旅行し、地元の農家の跡取り娘として縛られている女性との触れ合いを描いた作品で、読者の周辺に高原の風を感じさせるような甘美な作品で、作者の優しさが滲み出ているという評価だった。新人女性たちの詩については、ベテラン詩人、土田昌江、中里文子が批評した。『新生』夏季号の合評会が、こうして終わると、昇平は会計の松本典子に作品掲載料を支払い、『新生』夏季号を2冊、購入した。その後、『新生』の同人たちと、何時ものように数人に別れて行動した。昇平は青木泰彦や石田光彦、山形茂子、神崎千香に従って移動し、池之端の居酒屋『吉兵衛』に入り、そこでまた文学談義を始めた。青木泰彦が中心になって、これからの文学について語り合った。昇平は、『中央文学』の同人であった事を、ひた隠し、そこで得た知識を、会話の中で喋ると皆が目を見はった。青木泰彦は羽島流一と三島由紀夫論を交わし、情熱的だった。時間が経って、解散時になったのを見計らって、山形茂子が、昇平たち新人に伝えた。

「来月になったら、『新生』主催の文学者が集まるダンスパーティを『東条会館』で開催するの。皆さんにも参加して欲しいの。パーティ券が沢山、売れたら、会の収入になるから。友達を沢山、誘ってね」

「それは何日ですか?」

「10月29日の夜よ。期待してるわ」

 昇平は、それを聞いて、ダンスが上手くなるよう正式に練習し、上達する必要があると思った。そこで昇平は、会社の仕事を終えてから、ダンス教室に通うことにした。祐天寺の近くにダンス教室がないかと探したが、適当な所が無かった。そして見つけた近場のダンス教室は恵比寿にあった。そのダンス教室は恵比寿駅近くのビルの2階に『恵比寿ダンス教室』の看板を掲げていた。昇平は『オリエント機械』の仕事を終えてから、そのダンス教室に直行し、ダンス教室の会員になり、ダンスの練習をした。ダンス教室の指導の先生は4人程いて、初心者の昇平は夏目綾香先生の指導を受けた。彼女は、姿恰好からして、アメリカ風で、スカートをヒラヒラさせ、その指導も活発だった。下手に踊ると、わざと足を踏みつけられたりした。時代は社交ダンスが大衆文化として広がり始め、生徒が増え始めたので、先生たちも元気だった。或る日の事、昇平は大学生時代、神田のダンス教室で何度か会った事のある引地俊子にダンス教室で出会い、びっくりした。彼女は三浦雅人先生に指導してもらい、小鹿のように踊っていた。昇平が早めに練習を終え、帰ろうとすると、彼女の方から昇平に声をかけて来た。

「お久しぶり」

「お久しぶりです」

「神田のダンス教室に通っていないの?」

「はい。大学を、卒業しましたから」

「私も、こちらの方が近いから、4月から、こちらで習っているのよ」

「そうですか。今後ともよろしく」

 その後、引地俊子とダンス教室で会って、2,3回、話すと、夏目綾香先生が昇平に確認した。

「貴男と彼女、どんな関係?」

「ただの顔見知りです。彼女は有名な御菓子屋のお嬢さんで、僕には不相応な高貴なお方です」

「まあ、そうなの。では私は?」

「僕の先生です」

 昇平は、こうしてダンスの練習を本格的に行うようになり、少しずつ上達した。


         〇

 10月になると、急に秋らしくなった。昇平が営業活動を終え、『オリエント機械』に戻り、机に座ると、受付の浅岡陽子が、後で頼みたい事があるからと言って、お茶を出してくれた。昇平は、何のことか分からず、周りに気を使った。就業時間のチャイムが鳴ると、浅岡陽子が、昇平を応接室に呼び、思わぬことを依頼して来た。

「吉岡さん。私、中村ちゃんにダンスのパーティ券を誰かに売って欲しいと頼まれているの。中村ちゃん、パーティ券販売の割り当てがあって、私に買って欲しいと言われたけど、私が東京に行くのは遠いからと断ったら、都内に住む、吉岡さんに買ってもらえないかって言うのよ。吉岡さん。お友達沢山いるのでしょうから、中村ちゃんからパーティ券、買って上げて」

 昇平は浅岡陽子に泣きつかれ、ダンスパーティ券を買わざるを得ない羽目になった。

「うん。分かった」

「では、今から中村ちゃんに電話するから、パーティ券の受け渡しをどうするか、打合せして」

 陽子はそう言うと、即座に応接室から、『オリエント貿易』機械部の中村美保に電話した。中村美保はまだ仕事中で、陽子からの電話を受けてから、電話口に出た昇平に向かって言った。

「ああ、吉岡さん。パーティ券を買ってくれるって、ありがとう」

「どう致しまして。普段、中村さんには、お世話になっておりますから」

「ところで、どうします。今夜、お会い出来ますか。招待状を渡したいの」

「ああ、良いですよ」

「では渋谷で会いましょう。ハチ公前7時で良いかしら」

「はい」

 昇平は、そう答えて電話を切ろうとした。すると、浅岡陽子が電話を代わり、中村美保と話した。昇平は、その後、『オリエント機械』のタイムカードを押して、綱島駅まで行き、そこから渋谷へと向かった。渋谷のハチ公前に行くと、ブルーのスーツを着た、中村美保が待っていた。少し身長が高く、ちょっと太めの肉付きをしている中村美保は、都会的で魅力的だった。2人はまず喫茶店に入ることにした。美保は道玄坂界隈に詳しいらしく、坂道を先に歩いて行き、昇平を喫茶店『シャルマン』に案内した。昇平は日本橋にある『オリエント貿易』訪問時、何時も美保に親切にしてもらっている上、彼女が親会社の先輩女子社員なので、ぞんざいに扱うことが出来ず、接待役に徹した。

「飲み物は何にされますか?」

「眠れなくなるといけないから、私、紅茶」

 昇平は美保に飲み物を確認し、ボーイに紅茶とコーヒーを注文した。それから、美保からダンスパーティの説明を聞いた。美保は『蛇の目ミシン工業』の女子社員、筒井久美と親友で、彼女とダンスパーティを企画したのだという。パーティ会場は京橋の『蛇の目ミシン工業』の入っているビルの地下広場だという。そこで、昇平は美保と仕事上の付き合いもあるので、ダンスパーティ券、4枚を買って上げることにし、パーティ券代を支払った。美保は昇平に協力してもらい大喜びした。その後、美保と食事でもしようかと思ったが、田端の萩原俊夫叔父から、社内の女性には気を付けろと言われていたので、美保の勤める『オリエント貿易』も『オリエント機械』と親子関係にあることから、そのまま別れる事にした。彼女が色っぽい仕草で昇平を見詰めたが、昇平は応じなかった。『シャルマン』の精算を済ませ、渋谷駅まで一緒に歩き、美保と改札口で別れた。昇平は、そこから東横線の電車に乗って、祐天寺で下車し、『信濃屋』で、タヌキうどんを食べた。桐子が、里芋と人参、油揚げ、小松菜の煮物をサービスしながら昇平に言った。

「この前、いただいた同人誌、読ませていただいているわ。どの作品も、心を込めて書かれているので、感心してるわ。皆さん、どんな風にして、執筆しているのか、一度、見てみたいわ。『春風荘』に行っても良いかしら」

「駄目だよ」

「吉岡さんが、どんな本を読んでいるのか、本棚を見てみたいの」

「駄目だよ。『春風荘』は女人禁制なんだ」

「女人禁制って何?」

 それを傍で聞いていた『信濃屋』の女将、滝沢勝江が桐子に言った。

「桐ちゃん。そんなこと知らないの。女人禁制っていうのは、女が立ち入るのを禁止するって規則のことだよ」

「まあ、そうなの」

「吉岡さんの仕事の妨げになるといけないからね。行っちゃあ駄目だよ」

 勝江女将は、そう言って笑った。昇平が『春風荘』で暮らすようになってからを振り返ると、確かに、『A電気』の連中や『モエテル』の連中が、麻雀をしに来たり、『オリエント機械』の田中や宮里が遊びに来たり、従弟の忠雄が様子を見に来たり、休日での『春風荘』への人の出入りは多かった。これに女性が加わったら、大変なことになる。昇平は、自分の部屋に女性を入れてはならないと思った。今は、仕事とダンス練習に集中すべきだと思った。昇平は『恵比寿ダンス教室』の会員になり、夏目綾香先生の指導を受け、ダンス教室で引地俊子とも踊れるようになった。お陰で、相当、自信がついた。


         〇

 10月29日の土曜日の夕刻、昇平は半蔵門にある『東条会館』のダンスパーティ会場に行った。赤いジュータンの階段を上ると直ぐに、ダンスパーティの受付があり、松本典子や篠原勝子、土田昌江や伊藤勇斗、石田光彦たちが、参加者を歓迎していた。『文学者ダンス愛好会』と銘打ったダンスパーティは他の同人誌の関係者も参加し、予想していたより盛大だった。森秋穂先生は燕尾服を着て、奥の方で同年配の紳士や婦人方と雑談を交わしていた。昇平は『新生』の青木泰彦や羽島流一たちとパーティが始まるのを待った。開始の定刻、6時15分になるとバンド演奏が始まり、男たちが女たちに声をかけ、広い筈の踊り場は押し合い圧し合いの混雑となった。昇平たちが、その様子を、壁際のベンチの横で眺めていると、輪島百代がやって来て、声をかけた。

「貴男たち、踊らないの?羽島さん、踊れないの?踊れるのでしょう」

「はい、ブルースに合わせてのチークダンス程度なら」

「それなら、大丈夫。私と踊れば、直ぐに上達するわよ。教えて上げる」

「では、お願いします」

 羽島流一が輪島百代に引っぱられて、消えると、青木泰彦は、岬百合香に声をかけ、踊りの波に巻き込まれて行った。昇平は自分から3歩ほどれたところに山田鈴江が立っているのをみつけ、鈴江に声をかけた。

「山田さん。僕でよろしかったら、一曲、踊っていただけませんか?」

「でも、私、踊れないから」

「大丈夫です。僕が教えて上げるから、僕に抱き着いていれば、踊った事になります」

「では、お願いします」

「恥ずかしがらず、僕に抱き着いていて下さい。決して離れようとせずに・・・」

「努力します」

 昇平は、そう言うと、山田鈴江を相手に、大きく胸を張り、バンド演奏のリズムに合わせ、身体を揺すり、鈴江を音楽の波に乗せた。鈴江は心臓をドキドキさせながら、昇平を見詰め、夢見心地だった。演奏されるダンス音楽は、馴染みの曲だった。『月の砂漠』、『浜辺の歌』、『君恋し』、『テネーシーワルツ』、『別れのブルース』、『マンボ・ナンバー5』、『魅惑のワルツ』、『碧空』、『夜のタンゴ』、『サンタ・ルチア』などなど。その他、最近の歌も演奏された。『小指の思い出』、『情熱の花』、『世界は2人の為に』、『寒い朝』、『星影のワルツ』など。途中、休憩時間の時、森秋穂先生がやって来て、昇平に声をかけた。

「吉岡君も、中々、やるね」

「先生に較べたら、まだまだです」

 すると、そこへ弓野咲子が現れたので、昇平は、びっくりした。

「お久しぶり。吉岡さん、『新生』の会員になられたのですってね。今日は寺田量子さんと瀬間智子さんと私の3人が、『中央文学』から出席しているの」

「そうでしたか。皆さん、元気ですか」

「相変わらずよ。もしよろしかったら、私とも踊っていただける。よろしいかしら」

 弓野咲子は、昇平と踊っていた山田鈴江に視線を送り確認した。鈴江は輪島百代や岬百合香の意見を訊き、昇平と咲子が躍ることを了解した。休憩時間が終わると、再び、ダンス音楽が流れ、昇平は弓野咲子と踊った。晩秋に相応しい、『枯葉』、『湖畔の宿』、『見上げてごらん夜の星を』、『旅愁』、『夕陽の丘』、『フライ・ミー・トウ・ザ・ムーン』など、昇平は楽しく踊った。『恵比寿ダンス教室』で夏目綾香に指導され、引地俊子と踊ったりしていることが役立った。そして『ラストダンスは私に』に続き、『蛍の光』の最終曲だ流れ、『文学者ダンス愛好会』主催のダンスパーティは終了した。その後、弓野咲子が、新宿のバーに飲みに行かないかと誘って来たが、昇平は懐が寂しいので、咲子の誘いを断り、半蔵門から都電10番系統の電車に乗り、渋谷に出た。途中で、笛村真織の事を思い浮かべた。彼女は元気にしているだろうか。昇平は渋谷から東横線の電車に乗り、祐天寺で下車し、『春風荘』に帰った。誰もいない四畳半の昇平の部屋の中は、とても冷たかった。自分は、こんな暮らしを続けていて良いのだろうか。昇平は、自問自答した。


         〇

 昇平は『オリエント機械』に入社してから半年以上が経過し、ようやく自分が関与している業界の状況が分かって来た。時代は昭和30年(1955年)日本政府が『石油化学工業育成政策』を発表し、戦後、欧米からプラスチック樹脂原料を輸入して来たが、それを国産化しようと、旧陸軍、海軍の燃料工場跡地に、石油化学コンビナートを完成させ、10年を経た今、千葉、川崎、名古屋、四日市、岡山、山口、大分などで、プラスチック原料を大量に生産する樹脂メーカーが育った。その為、樹脂原料を使って、プラスチック製品を成形する機械の需要が急激に高まり、かって軍事兵器を製造していた三菱重工、日本製鋼所、住友重機械工業、日立造船、芝浦機械、石川島播磨重工業などが、この業界に進出して来た。昇平の勤務する『オリエント機械』は、そんな大企業を相手に、業界で戦っていた。かかる厳しい競合相手がいる中で、何故、『オリエント機械』の設備が求められるのか。それは『オリエント貿易』がアメリカからプラスチック樹脂原料を輸入したり、その成形機をアメリカから輸入している実績があったからだった。『オリエント機械』はアメリカの機械メーカーと技術提携しており、プラスチックに関する知識が豊富で、技術的にも、価格的にも優位だった。また成形機械も、飛行機や大型船を製造する機械メーカーが扱うような重機械では無かった。しかしながら、敗戦により軍事兵器製造を禁止された重機械メーカーとしては、魅力ある市場だったし、その需要も増大する一方だった。昇平の勤務する『オリエント機械』も、その需要合戦の波に乗り、成形装置の受注が急増し、昇平は、目が回る程、忙しかった。昇平は、その忙しさの合間をぬって、友人に会う必要があった。中村美保から買ったダンスパーティ券を誰に買ってもらおうか考え、まず、『モエテル』のメンバーの1人、松崎利男に会うことにした。彼はダンスパーティ会場の近く、日本橋の『IW電気』に勤務していて、ダンスが上手だというのが、昇平が松崎を選んだ理由だった。昇平は、都内出張の帰り、『三越』の近くの喫茶店『ミカド』で、松崎と会った。昇平がコーヒーを飲みながら、小説を読んで、松崎を待っていると、仕事を終えた松崎が店に入って来るなり、言った。

「元気そうな顔をしてるな。何か良い事でもあったのか?」

「いや。仕事に慣れて来た所為じゃあないかな。最近は、入社したての時と違って、業界の事が、少し分かって来たから」

「それは良かったな。ところで、ダンスパーティ券を買ってくれなんて、どういう風の吹き回しだ」

「うん。取引先の女性に頼まれて、仕方なく、4枚買っちゃったんだ。だから、松崎に1枚買ってもらおうと思って」

「そうか。俺の他に誰が買ってくれるか決まっているのか?」

「いや、まだだよ。最初にダンスの上手な君に、まず声をかけてからと思って」

「そうか。なら俺、2枚買って上げるよ」

 松崎の返事を聞いて、昇平は喜びの声を上げた。

「それは有難い。2枚、買っていただければ、あと1枚、さばけば済むので助かるよ」

「残り1枚は、誰に買ってもらう積もりだ?」

「うん。船木あたりに買ってもらおうと思っている」

「俺は彼女を連れて行く。だから、お前も彼女を連れて来いよ。彼女、いっぱいいるんだろう」

「今はいないんだ」

「じゃあ、会社の女か、アルバイトをしていた時の女を誘いなよ」

「そうか。じゃあ、当たってみる」

 昇平は松崎に言われ、女性と参加することを計画することにした。松崎も会社の仕事に慣れて来たらしく、ダンスパーティに連れて来る女性の話をした。相手はうるんだ瞳の浅岡ルリ子に似ている女性で、『白木屋デパート』に勤めているとの説明だった。喫茶店『ミカド』での話を終え、屋台で酒でも飲もうかと昇平が松崎を誘うと、彼は、これから彼女と銀座で会うことになっているからと、昇平の誘いを断った。そこで昇平は、パーティ券を2枚買っていただいたことを松崎に感謝し、祐天寺に帰った。『信濃屋』に行って、タヌキうどんを食べながら、誰をダンスパーティに誘おうか考えた。手っ取り早いのは、目の前にいる早坂桐子だが、彼女には『信濃屋』のアルバイトがあるので、誘い難かった。『明治屋クッキング教室』の寺川晴美とは絶縁状態だったから、誘うのは無理だった。考えられるのは『中央文学』の同人、弓野咲子か、『若菜病院』の大橋花江か、『A電気』の野村みどり、あるいは『NA石油』の林田絹子だった。その中で、『蛇の目ミシン工業』ビルに一番近い場所にある会社に勤務しているのは、林田絹子だった。昇平は絹子とグループ交際しているだけで、個人的付き合いをしていなかったが、土肥海岸に泳ぎに行ってから、絹子と親しくなれたことから、駄目もとで、まず彼女に電話してみる事にした。翌日、川崎の客先に出張する途中、公衆電話ボックスから、『NA石油』の林田絹子に電話した。

「もしもし、林田さんですか。吉岡です。分かりますか?」

 昇平からの突然の電話を受けた林田絹子は、思わぬ相手からの電話を受けて、ドギマギした。

「えっ。吉岡さんて、『モエテル』の?」

「そうです。土肥で一緒にボートに乗った吉岡です。突然、電話してすみません。実は、お宅の会社の近くで催されるダンスパーティ券が1枚、余っていますので、貴女にプレゼントしたいと思いまして電話しました」

「それは有難うございます。でも私、踊れないから、他の人に譲って下さい」

「踊れなくても大丈夫です。男の人がリードしてくれますから」

「でも・・・」

「兎に角、一度、僕と会って下さい。今度の日曜日、時間いただけますか?」

「午後なら大丈夫です」

「有難う御座います。では、日曜日、上野駅中央改札口前の『翼の像』の前で、2時に会いましょう」

「分かりました。2時、『翼の像』前ですね」

「では、当日」

 昇平は林田絹子との約束をとりつけ、心躍らせた。断られたらどうしようと思っていたからだ。弓野咲子や大橋花江、あるいは野村みどりに電話しなければならないと思っていた。それが、一発で、了解を得られたので嬉しかった。だが油断は許されなかった。ダンスパーティに同伴してくれるという約束にまでは至っていなかったからだ。そして、その日曜日となった。昇平は祐天寺駅から電車に乗り、渋谷駅まで行き、そこから山手線の電車に乗り、上野駅に着き、改札口を出て、『翼の像』の前で、林田絹子を待った。彼女を待ちながら、故郷の事を思った。この改札口を経て上京し、この改札口から電車に乗って、帰省した日々の事が、懐かしく思い浮かんで来た。井沢八郎が唄う『あゝ上野駅』の歌詞ではないが、くじけちゃならない人生が、あの日、ここから始まった。今の自分は東京人だ。そんな思いに浸っていると、暖かそうなスーツを着た林田絹子が現れた。

「お待たせ。御免なさい。10分程、遅れちゃった」

「ああ、こちらこそ、大切な日曜日なのに無理を言って御免」

「いいのよ。日曜日の午後はすることないから」

「では、喫茶店で、コーヒーでも飲みながら、話そう」

 昇平は、そう言うと、かって入ったことのある喫茶店『古城』に絹子を案内した。そこで、『蛇の目ミシン工業』ビルでのダンスパーティの説明をし、彼女を説得し、彼女にパーティ券を渡した。それから、グループ交際中に話せなかった個人的なことも話した。互いに会話していて、驚くことが多かった。互いの誕生日が12月であること。田舎が群馬と栃木の兄弟国であること。昇平が千駄木町に下宿していたことがあり、絹子も谷中に住んでいたことがあり、上野が互いに馴染みの場所であることなど。また絹子の会社の同僚、畑中鈴子が祐天寺の隣りの学芸大駅近くに住んでいるなど、いろんなことを話した。昇平は大学を卒業してから、居候していた親戚の家を跳びだし、『春風荘』で一人暮らししていることも語った。すると絹子に質問された。

「1人暮らしって、寂しくないですか?」

「うん。寂しくなんか無いよ。僕は孤独を好む人間だから、狭い部屋で読書や小説の創作に熱中出来て、居候している時より仕合せだよ」

「でも1人では・・」

「寂しいと言えば、貧乏で部屋のカーテンが無くて、夜中、寒さを感じて心細い時、くらいかな。部屋の窓にカーテンが無く、窓ガラスだけの部屋で、これから寒い冬を迎えるので、どうしようかと思っている」

「まあ、大変。窓の大きさは?」

「うん。腰高窓が南と東にあるだけの狭い部屋なので、金が溜まるまで会社から、プラスチックフィルムを持って来て、鋲で止めておこうと思っている」

 昇平は、貧乏な小説家志望の青年を演じた。絹子は『モエテル』の連中が口にしているフランス帰りとは全く異なる昇平の可哀想な一面を知り、同情した。

「それじゃあ、駄目よ。風邪をひいて、会社を休むようになったら大変よ。私がカーテンを作って上げるわよ」

「本当ですか」

「だって、そんな話を聞いたら、放っておけないでしょう。カーテンレールはあるの?」

「うん。前に住んでいた人が、残して行ったカーテンレールが、そのまんま残っているよ」

「そう。なら安心だわ」

 絹子との話は思わぬ方向へと発展した。麻布の利江叔母に、カーテンの事を頼もうと思っていたが、頼まずに済んだ。喫茶店『古城』での話を終えてから、昇平は絹子と上野駅近くのレストラン『聚楽台』に行き、スパゲッティを食べた。絹子は谷中にいた頃、姉、和子と映画館や『緑屋』へ来た帰り、このレストランに立ち寄ったことがあると楽しそうに話した。昇平は、その後、絹子をダンスに誘ってみた。

「これから、ダンスの練習をしに行こうか?」

「明日から仕事なので、遅くなるといけないから、私、帰るわ。姉がダンス上手だから、姉に教えてもらうわ」

「分かった。では常磐線ホームまで送って行くよ」

 昇平は、そう言って絹子を常磐線のホームまで送って行った。そして彼女が乗った電車が、出発し、遠ざかって行くのを見送った。それから山手線電車に乗り、渋谷経由で、祐天寺のアパートの自分の部屋に帰った。


         〇

 昇平のサラーリーマン生活は多忙だった。『オリエント機械』での勤務時間は営業マンとして、全国各地にある客先との接触に専念した。関東地区は勿論の事、名古屋や新潟に出張することもあった。そんな中で、昇平は仕事を終了すると、『春風荘』で小説を書いたり、『恵比寿ダンス教室』でダンスの練習をしたり、麻布の深澤家に訪問したり、夕方からも多忙だった。昇平の実家の父、大介は、昇平が『春風荘』に引越したことについて、承知していたが、昇平への連絡は今まで通り、総て麻布の利江叔母経由だった。昇平の素行監視を今まで通り深澤家に依存しているのだった。その為、昇平は、利江叔母から連絡を受けると麻布の深澤家に出掛けて、実家からの手紙などを受け取ったりした。今回の田舎からの便りは、柿の実と父、大介からの、こんな手紙だった。

〈 昇平。元気か?

 利江から、お前の働きぶりの報告を聞き、家族一同、安心している。

誠実に仕事に取組み、立派な社会人になってくれ。

こちらも家族一同、元気だ。

今年も蔵の前の柿の実が沢山、実った。お前の分も、麻布の家に一緒に送った。麻布の家に行ったら、受け取りなさい。故郷の柿を召し上がりながら、お前が俺たち家族の事を偲んでくれれば、それで満足である。

昨日、昇平の卦を『易入門』で占った。

艱難辛苦の後に幸運を掴めるという卦が出た。頑張れば必ず報われる。頑張れ。

 これから寒さを迎える。健康に留意せよ。

               父より    〉

 利江叔母は昇平が訪問すると昇平の顔を見て、昇平の健康状態を必ず確かめた。昇平が大学生の時、急性肝炎になり、祖父、慶次郎から、監視不行き届きだと、こっ酷く非難されたことがあった事を利江叔母は忘れなかった。利江叔母は昇平が訪問する度に、夕食を一緒にし、家族同様、昇平を大切にした。昇平は喜一郎叔父や従兄の忠雄と、酒を飲みながら、『ザ・スパイダース』に興味を持ち始めた従妹の高子をからかったりした。そして、故郷の柿を持って、『春風荘』に帰り、故郷の柿を生噛りした。故郷の柿を口にすると、少年時代の思い出が蘇り、直ぐに、両親への手紙を書いた。

〈 拝啓

 秋も終わりに近づいて参りました。

故郷の懐かしい庭先には、菊の白や黄色の花が、柔らかな晩秋の光をいっぱいに浴びて咲き匂っていることと思います。

 先日、麻布に伺い、麻布の叔母さんから、父上の励ましの手紙と良く熟れた柿などを頂戴して、アパートに持って帰りました。

皆さん、元気の由。とても安心しました。また社会人になったのに、小遣いなどをいただき、誠に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

四畳半の寂しい部屋の中で故郷の柿を齧りながら、祖父や両親や兄弟と一緒に暮らしていた時のことを思い出すと、いたたまれない程、望郷の念にかられます。生まれ育った故郷の家が、ゆかしく恋しく、偲ばれて参ります。

 会社の仕事は営業だけでなく、工場も忙しくて残業がありますが、アルバイトを終えてから、冷たい風の中を、大学に通った時のことを思えば、残業など、少しも辛くありません。

僕も兄貴や弟に負けぬよう、精励しておりますので、ご安心下さい。

 麻布や川崎の家で変わった様子は見受けられません。皆さん、元気です。

年末になったら、そちらに帰り、母上の手料理を、沢山いただき、父上や兄貴たちと、ゆっくり長話をして、くつろぎたいと、今から楽しみにしております。

 僕も12月8日が来ると、いよいよ24歳になり、個人的にも社会的にも、今までのように人に頼ってばかり、いられなくなります。一時も早く立派になって、多くの人たちに喜んで迎えられるような人物になりたいと思っています。

父上も母上も、空の色が永遠に青であるように、ずっと元気で、僕を見守って下さい。

先ずは御礼かたがた、近況報告まで。

                  敬具

               昇平     〉

 昇平は、手紙に書いたように、『オリエント機械』での残業も多くなった。自分が顧客から受注した装置の納期が迫り、機械装置の組立てが間に合わなくなると、工藤製造部長、高野課長、小川係長などにせっつき、原田隆夫、横山圭太たちと一緒になって機械の組立てをした。きゃしゃな昇平が泣きそうな顔で組立てを手伝うので、製造部の人たちも協力してくれた。そんな最中に、『モエテル』の連中から集会の電話があったりしたが、昇平は残業なので参加出来ないと断った。だが、大橋花江からの誘いがあったりすると、断り切れず、残業を早めに終わらせ、都内に出掛けた。花江とダンスを踊り、食事をして、彼女から恋人について訊かれた。

「吉岡さん。節ちゃんの他に好きな人、見つかった?」

「いや。今は仕事が忙しくて、彼女を見つけてる暇なんて無いよ」

「船木さんも、そうみたい。保険会社の仕事も大変らしいわ。モッちゃんも、冷たくされて、ストレスいっぱいみたいよ」

「そうだろうな。僕たち新入社員は大変なんだ」

「そんな忙しい中、私に会っていただいて、私、仕合せだわ。私、吉岡さんより、年上だけど、どう。結婚相手に?」

「ええっ」

 花江の質問を受けて、昇平は、にわかに緊張した。どう答えれば良いのか、直ぐに言葉が思い浮かばなかった。すると花江が笑って言った。

「驚かないで。ちょっと訊いてみただけ」

「ごめん。僕は、まだ一人前で無いし、小説家になりたい夢があるんだ。その為、職を失ったり、借金したり、貧乏生活が続くと思うんだ。だから僕と結婚する女は不幸になる。僕にとって結婚するなんて夢の夢だよ」

「そんなこと無いわ。看護婦の私が頑張るから大丈夫」

「そうは言っても、花ちゃんより僕の方が背が低いし、年下だし、故郷は北と南で離れていて、親戚付き合いも大変だ」

「何よ。これからは飛行機で、一っ飛びよ」

「そうかもな」

「ねっ。考えといて。姉さん女房は金のわらじを履いてでも探せっていうじゃない」

「そうだね。考えておくよ」

 昇平は、そう言って、その場を切り抜けた。花江は、しきりに『春風荘』に来たがったが、窓のカーテンも無く、炬燵も無い寒々とした殺風景な自分の部屋に、彼女を迎える訳には行かなかった。昇平は彼女の要望を断った。結局、何時もの道玄坂のホテル『ムーンリバー』に入って、ことを済ませた。


         〇

 『オリエント貿易』の中村美保に誘われた京橋の『蛇の目ミシン工業』の地下ホールでのダンスパーティの日がやって来た。昇平は池袋の客先を訪問してから、日本橋の『三越』前のライオン像の処で、林田絹子と待ち合わせして、京橋『蛇の目ミシン工業』ビルの地下ホールに行った。そこの受付で『オリエント貿易』の中村美保と斎藤穂波に会い、記帳してから、『蛇の目ミシン工業』の筒井久美を紹介された。筒井久美は、『蛇の目ミシン工業』のパンフレットを絹子に渡し、将来、購入していただけたらとミシンの宣伝をした。そんな挨拶を交わしてからクリスマスイヴの装飾のような飾りつけのされた会場に入って行くと、ホールの中に、既に沢山の男女が、パーティが始まるのを今か今かと待ちながら雑談を交わしていた。昇平は松崎利男が来ているか、人混みの中を、林田絹子の手を引いて探した。だが中々、見つからず、焦っていると、壁際に立っていた松崎が昇平に声をかけた。

「おい、吉岡。ここだよ」

「おお、松崎。そこにいたのか」

 昇平は、松崎を見つけて、ホッとした。松崎は顔見知りの『NA石油』の林田絹子を見て、軽く挨拶した。昇平は松崎の相手がいないので、松崎に訊いた。

「お前の彼女は何処だ」

「そこに立ってるよ」

 松崎に言われた方向に目をやると、三、四歩ばかり離れたところに、混雑に苦笑しながら、昇平たちを見詰めている松崎の恋人が立っていた。うるんだ瞳の浅丘ルリ子に似た完全な美人だった。松崎が昇平たちに彼女を紹介した。

「こちら今村さん。日本橋の『白木屋デパート』に勤めているんだ」

「今村真弓です。よろしくお願いします」

「松崎の友達の吉岡です。よろしくお願いします。こちらは僕の友達の、林田さんです」

「林田です。よろしくお願いします」

 4人はダンスパーティ会場で紹介し合うと、直ぐに親しくなった。やがて『蛇の目ミシン工業ダンス倶楽部』の開始の挨拶があって、ダンスパーティが始まった。昇平はダンスの上手な松崎に負けまいと張り切った。絹子を抱いて、ブルース、ワルツ、ルンバ、チャチャチャ、マンボ、タンゴ、サンバなど、いろんな曲を踊った。『夜霧のブルース」、『ともしび』、『エデンの東』、『再会』、『魅惑のワルツ』、『星影のワルツ』、『水色のワルツ』、『ムーンリバー』、『魅惑のワルツ』、

『コーヒールンバ』、『蘇州夜曲』、『ここに幸あり』、『おもちゃのチャチャチャ』、『マンボ№5』、『碧空』、『ベサメ・ムーチョ』などなど。途中で中村美保の申し出で、中村美保の彼氏、梨本弘之と絹子を躍らせ、中村美保と昇平は、『太陽がいっぱい』、『ドナウ川のさざ波』、『雪の降る町を』などを踊った。『トロイカ』の曲が流れたところで、昇平と美保は、もとのカップルに戻り、踊った。やがて『赤鼻のトナカイ』、『ジングルベル』などのクリスマスソングが流れ、昇平は絹子と『サンタが街にやってくる』、『清しこの夜』などを踊った。かくて『蛍の光』で『蛇の目ミシン工業ダンス俱楽部』のダンスパーティは終了した。昇平はゾロゾロ退場する人たちを見送る主宰者の筒井久美や中村美保の挨拶を受けてから、『蛇の目ミシン工業』の地下ホールから地上に出た。それから松崎と絹子と真弓を連れて、閉店間近の京橋のレストラン『モルチェ』に入り、ハンバーグライスを食べながら雑談した。女性2人が、楽しいダンスパーティだと言ってくれたので、昇平はホッとした。食事を終えるや、昇平と絹子は松崎たちと別れて、地下鉄銀座線で上野駅まで行き、国鉄上野駅の常磐線ホームで別れた。松崎の協力を得て、一応、『オリエント貿易』の中村美保から頼まれたダンスパーティの協力を済ませることが出来た。次の日曜日、昇平は祐天寺の『石川家具店』に行って、コタツとコタツ布団と座布団4枚を注文し、『春風荘』に届けてもらった。安い給料だったが、親戚から離れ、節約に節約を重ね、独立して、何とか、1年を越えられる状態となった。ところが翌週になって、『オリエント貿易』の中村美保と親しい浅岡陽子が、中村美保から、昇平がダンスが得意で、ガールフレンドがいるなどという話を聞いて、社内の女たちの間で、昇平が、プレイボーイであるとの噂が広まった。その為、『オリエント機械』に昇平と同期入社の男性、三浦照男、田中俊明、宮里敦司は工業系の大学を卒業し、真面目で実直だが、矢張り『М大学』を卒業した文系の昇平は軟派なのだという思わしくないレッテルを、『オリエント機械』の女子社員たちによって貼られてしまった。だが昇平は、彼女たちの一方的評価を気にしなかった。川内営業部長や岡田課長や田浦係長の下で、管理部から移って来た宗方博臣と一緒に、営業活動に奔走した。社員の1割程度しかいない女子社員たちは、男性社員たちの憧れの的で、モテモテだったが、女子社員にとっては、昇平たち新卒の男性社員が、憧れの的だった。営業課長として頑張っている独身の岡田課長は社内の出世頭であり、将来が有望視されているが、何故か女性陣に好かれなかった。女性たちは表面上、上役である岡田課長の意見や誘いなどに同調したが、陰では彼の悪口を言っていた。そんな岡田課長は、昇平たち部下に、昇平たちの知らない事を指導してくれた。昇平は川内部長や岡田課長の許可を受けて積極的に行動した。大阪の客先からの要請により出張する時など、夢の超特急、新幹線『ひかり号』に乗ることを営業部長以外に総務部長の特別許可をいただいた。その許可をいただいて、超特急『ひかり号』に乗って営業活動をする昇平は、一般社員たちから羨ましがられた。まさに『オリエント機械』に於ける営業マンは社員の花形のようだった。そんなであるから、昇平は社内で机を並べて仕事をしている最中に、机の下で向井静子に手を握られたりして、焦った。向井静子は岡田課長や田浦係長が惚れていることが分かっているのに、彼女は何ということをするのか。昇平にとって岡田課長や田浦係長が目を付けている向井静子に近づくことは、田端の萩原俊夫叔父から、社内の女性に手を出すなと厳しく禁じられている御法度事項だった。だから昇平は向井静子をはじめとする女子社員たちから誘いがあっても、ことごとく拒否した。


         〇

 12月になった。昇平は、朝起きて、歯を磨き、洗顔し、その後、トースターでパンを焼き、イチゴジャムを塗り、ココアを飲みながら、それを食べ、それからミカン一つを食べて、朝食を終えた。その後、ワイシャツにネクタイを締め、背広姿になり、オーバーコートを引っ掛け、カバンを持って、東横線の電車に乗り、『オリエント機械』に出勤した。朝礼の後。営業部内で、川内営業部長と岡田課長の指示に従い、『オリエント貿易』の担当と、年末の挨拶回りをする計画を立てた。昇平は10日以降、『オリエント貿易』の藤木澄夫と挨拶回りをすることになった。その為、事務仕事を10日前に済ませておかなければならず、月初から多忙だった。そんな中、林田絹子から連絡があり、4日の日曜日の午後、御徒町で彼女と会うことになった。昇平は、当日、曇天の中、午前中から上野に出掛け、船木省三と『アメ横』で買い物をした。船木が恋人にクリスマスのプレゼントをするということで、昇平も宝石店を回りをして、ネックレスを買った。そのネックレスはブルートバースの石を銀のチエーンで吊ったネックレスで、林田絹子にプレゼントすることにした。御徒町は前日に降った雪が、まだ残っていて滑りやすかった。『アメ横』での買い物の後、昇平は船木と足元に気を付けながら、『吉池食堂』に行って、カツ丼を食べ、近況を語り合った。船木は生命保険の勧誘が上手く行かず、大変だとぼやいた。昇平も、営業活動だけでなく、現場作業もあるので大変だとぼやいた。だが新入社員がよくかかる五月病にならなかったのだから、慣れるまで共に頑張ろうと、互いを励まし合った。『吉池食堂』での食事が終わってから、昇平たちは、御徒町駅に行き、林田絹子が現れるのを待った。寒い駅の改札口前で、15分程待つと、温かそうなベージュ色のオーバーコートを着た林田絹子が現れた。大きな荷物を腕に抱えていた。

「遅くなって、御免なさい。あらっ、船木さんも御一緒」

「うん」

 昇平が、そう答えると同時に船木が言った。

「吉岡が久しぶりに『アメ横』に買い物に行くからというので、ついて来たんだ。林田さんも元気そうだね」

「はい。畑中さんも橋本さんも元気よ」

「それは良かった。船木がよろしく言っていたと伝えて下さい。俺、これから別の所で用事あるから、お先に失礼するよ。じゃあ、また」

 船木はそう言い、愛想笑いして手を振り、絹子が出て来た御徒町駅の改札口から、ホームに向かって去って行った。昇平と絹子は船木を見送ってから、喫茶店『古城』に移動した。喫茶店に入って互いにオーバーコートを脱いで、コーヒーを注文した。紫色した毛糸のベストとワンピースのアンサンブル姿になった絹子は笑顔を見せて言った。

「カーテン、持って来るの重かったのよ」

「申し訳ない。無理言って、本当に済まない。遠いから、大変だったね」

「そうよ。雪が降ったから、吉岡さん、ガタガタ震えて、凍え死ぬんじゃあないかと、心配して持って来たのよ」

「有難う。心から感謝してます。カーテンを作ってもらった御礼と誕生日祝いを兼ねて、僕も林田さんにプレゼントを準備しました。これ受取って下さい」

「まあっ。有難う。開けて見て良い?」

「ああ、良いよ」

 昇平が了解すると、絹子は赤いリボンのついたプレゼントケースを開け、ブルートバースのネックレスを取り出し、喜んだ。

「まあ素敵。私、こんなのが欲しかったのよ。付けてみるね」

 絹子は、今まで付けていた金色のネックレスを外し、ブルートバースのネックレスを首に掛けた。

「どう?」

「うん。素敵だよ。予想通りだ。女優みたいだ」

 昇平が褒めると絹子は上機嫌になった。女はプレゼントに弱い。それから2人は個人的生い立ちや将来の希望など、いろんなことを話した。昇平は群馬の山村の教育者の家の次男坊として生まれ、麻布の親戚などの協力を得て、無事、大学を卒業して、現在、横浜にある『オリエント機械』の営業部で働いているが、趣味で創作発表している小説が、出版社の目に留まり、認められ、ヒットすれば、作家になるつもりなどと、夢のようなことを話した。一方、絹子は栃木市内で育ち、幼くして母親を亡くし、今、栃木にいるのは父親と長兄夫婦だけだと説明した。そして長兄以外の兄や姉たちは東京に出て来て、結婚し、独身なのは末っ子の自分だけだと話した。現在、姉夫婦の家に居候しているが早く、そこから出たいと語った。昇平は麻布の深澤家に居候していた経験から、彼女に訊いた。

「居候していて辛くはないかい?」

「姉の旦那さんが優しい人なので、それ程では無いわ」

「それは良かったね。何の悩みも無い事は、仕合せだよ」

「そうでも無いわ。私たち女性は、25歳までに結婚しないと異常だという周囲からの目があり、25歳までに結婚しなければという精神的重圧、焦りがあるのよ」

「何も焦ることは無いよ。友達の目や、世間の目など気にすることはないよ。好きな人と巡り合えた時に、結婚しようと考えれば良いんだ」

 昇平は世の中を達観したようなことを絹子に語った。そして自分には小説家になりたい夢があり、貧乏生活が続くと思うので、独身を貫く覚悟でいると、大橋花江に語ったのと同じような事を喋った。絹子はキョトンとした顔をしてから、昇平に言った。

「では、カーテンの取付けに、吉岡さんのアパートに出掛けましょうか」

「あ、良いよ。自分で出来るから」

「だって、寸法が合わなかったら、修正しないといけないから」

「大丈夫だよ、修正してもらう時は、こちらから君に連絡するから。今日は寒い中、カーテン持って来てくれて有難う。カーテン代、幾らかな?」

「何、言ってるの。いただいたプレゼントで充分。カーテンは私からの誕生日、プレゼントよ」

「有難う。では、遅くなるといけないから、ケーキでも食べて、さよならしよう」

「はい。分かりました」

 それから昇平と絹子は、『古城』のショトトケーキを食べて、上野駅で別れた。昇平は、絹子が持って来たカーテンの入った重い包みを持って、山手線の電車に乗り、渋谷まで行き、そこから東横線の電車に乗り替え、祐天寺の『春風荘』に帰った。『春風荘』の玄関に入ると、郵便受けに、母、信子からの手紙が届いていた。昇平は、カーテンの包みと、その手紙を持って、寒々とした、自分の部屋に入り、コタツのスイッチをひねり、絹子がプレゼントしてくれた緑色のカーテンを東側と南側のガラス窓の内側にあるカーテンレールに吊り下げた。カーテンの長さが、ガラス窓より、20センチ程、長くて、昇平の部屋の窓に、ピッタリだった。有難かった。昇平の部屋は今までより、ぐっと暖かくなった。昇平はカーテン吊りの作業を終えると、コタツの中に足を突っ込み、母、信子からの手紙を読んだ。

〈 昇平様

 今年も、残り少なくなって参りました。

さぞ、お忙しいことと存じます。

こちらは木枯らしが吹きすさぶ頃となりましたが、皆、元気に暮らしております。

その後、お変りございませんか。

会社勤めには慣れましたか。会社の友達や取引先の友達は出来ましたか?

アパートの部屋は寒くはないですか。

3度の食事をちゃんといただいているでしょうね。

節約し過ぎて、ひもじい思いをしていると、また入院するようなことになったら大変ですから注意して下さいね。

お金は足りていますか?

何から何まで1人で頑張っている昇平を、母は立派だと思っています。

僅かですが、お金を同封しますので、何かの時の為に、お納めください。

年末には帰って来て下さいね。

昇平の笑顔を見たくて皆で、帰りを待っております。

必ず、帰って来るのですよ。

寒さ厳しき折、くれぐれもご自愛、ご健勝の程、祈っております。

               かしこ

                 母より 〉

 昇平は自分の性格を誰よりも分かっている母、信子の手紙を読んで、我が子を思う母親の愛情を深く感じ取った。母、信子は、独立独歩を目指す昇平が、正月に戻らないのではないかと危惧しているようだった。そこで昇平は直ぐに返信を書いた。

〈 母上様。

 冬の青空の下、こちらでは山茶花の花びらが冷たい北風に吹き落とされて、通勤路に舞い散り、めっきり寒くなりました。

 そちらでは、もう雪がぱらついたりしていて、随分、寒いのでしょうね。

僕は入社以来、遅刻することなく『オリエント機械』に通っておりますので、ご安心下さい。

会社の人たちは、休暇があるのに、何故、休まないのかなどと言いますが、僕は病気にでもならない限り、1日も休みません。何故なら、会社に出勤すれば、安い費用で昼飯を食べることが出来るからです。従って、母上が心配しているようなひもじい思いはしておりませんので、安心して下さい。

そんな僕ですから、毎月の給料日、皆勤手当て千五百円を余計にもらっております。

もっとも僕が皆勤手当てを貰うのは、幼い時からの事で、何も不思議なことではありません。

思い出して下さい。小、中学校の終業式の日、姉ちゃんや兄ちゃんが、必ず成績優秀の賞状を持ち帰ったように、僕も必ず、皆勤の賞状を持って帰ったでしょう。頭の良くない僕は社会に出ても、コツコツやる事しか能力が無いのです。それにしても熱い夏の日や寒い冬の日の出勤は辛いです。12月になって、特に寒さの厳しい日が続き、とても辛いです、目覚まし時計に起こされて、今にも凍りそうな冷たい水道の水で顔を洗い、パンにジャムを塗って、ガバガバっと食べて、背広に着替え、アパートから駅まで駆けて行くのですから・・・。

 最近など、客先への年末挨拶準備や年度末幹部会議に発表する書類の作成に、遅くまで残業です。如何に大卒とはいえ、新入社員の僕に会社の業績報告と今後、会社が対処すべき課題をまとめさせ、幹部会議の資料にしようなどと、上司が何を考えているのか分かりません。でも僕にとって、それは難しい事ではありません。大学時代の教科書と苦学して得た知識をもとに、国内市場の販路拡大と海外市場への挑戦を提唱すれば良いのですから・・・。

 残業を終えてから、寒い『春風荘』の部屋にも戻ってからも大変です。小さな勝手の冷たい水で、下着や靴下を洗面器に入れて洗濯するのです。お湯を沸かす暇などあったら、眠りたいくらい疲れていますから、それは乱暴な洗濯となります。

 銭湯には1日おきに行っていますが、これも大変です。大風呂の銭湯は気持ち良いですが、頭髪など洗って、外に出たら、アパートに帰る途中、頭が凍ってしまいそうで、ガタガタ震えて帰る有様です。従って、寝る時は熱いお湯を沸かして、昆布茶を飲むことにしています。すると身体が、とても温まります。

寒い部屋での寂しい1人暮らしの生活ですが、この間、コタツを買ったので、幾分、温かな生活が出来るようになりました。ところが、何やかや4千円もかかったので、反対に懐が寒くなってしまいました。そこへ母上からのお手紙とお金が届き、しょぼくれていた僕も、急に元気をいただきました。胸にジンと来て、涙が出そうです。有難う御座います。感謝、感謝です。

 麻布の家には時々、訪問しています。利江叔母さんは、心配する程ではありません。忠雄さんの勤める『Tインキ』のボーナスは2ヶ月とちょっと位とか。銀行に勤める高子は2ヶ月半とか。

 僕の勤める会社は、歴史の浅い小さな会社なので、労働組合も無く、ボーナスは会社が支給するまでは、何ヶ月か分かりません。大きな会社に勤める兄ちゃんや広志が羨ましいです。でも全くボーナスを貰えない事はないと思います。僕が入社して、営業部が出来、『オリエント機械』の売上げが上昇したのですから・・・。

 正月休みには、そちらへ帰ります。30日の朝、東京から出ようと考えています。詳細については、後日、また連絡させていただきます。

 今から、父上や母上、兄弟に会えるのを楽しみにしております。

お手紙とお金をいただいた嬉しさの余り、長々と夜遅くまで、手紙を書いてしまいました。

これ以上、長く書いたら、電気代が高くなってしまいますので、ここで筆を置かさせていただきます。

先ずは、御礼かたがた、近況報告まで。

                昇平    〉

 翌朝、昇平は、その手紙を出勤途中、祐天寺駅前のポストに投函した。東京の冬空は青かった。


         〇

 年末が近づき、『モエテル』の連中との忘年会の日が来た。昇平は『オリエント機械』の仕事を終えてから、『TD不動産』に勤める手塚秀和が利用している三軒茶屋の割烹『大原』に行った。玄関ドアを開け、女将に案内され、『モエテル』の仲間が集まる『桜の間』に入ると、座敷に手塚、久保、船木、梅沢、細木、岩野、小平、下村、松崎の9人が、昇平が現れるのを、今か今かと待っていた。そして全員10名がそろうと、手塚の挨拶で『モエテル』の忘年会が始まった。皆、勤め人になり、大学生時代と異なり、羽振りが良くなったらしく、元気溌剌とした顔をしていて、仲居たちが運んで来た料理をいただきながら、昔話に花を咲かせ、酒をたらふく飲んだ。1時間ちょっとすると、和服を着た中年の美人芸者が2人、部屋に入って来て、酒の御酌をしたり、太鼓や鼓を使い、歌と踊りを披露した。また、『おまわりさん』、『トラトラ』、『金毘羅船々』のジャンケン遊びをしたりした。昇平が、会社のお客様との忘年会があるので、その宴会の座敷で何か良い余興はないかというと、芸者の清花が、屏風の前に昇平を連れ出し、『イロハのイの字』の芸を教えてくれた。清花は和服の裾を、少し開いて、襖に向かって、お尻を左右上下に動かしたり、回したりして、性行為の腰の動きを、エロチックに披露し、教えてくれた。

「イロハのイの字は、どう書くの。こう書いて、こう書いて、こう書くの・・・」

 清花が腰を使って妖しく演じる余興に『モエテル』の連中は興奮し、爆笑し、拍手した。すると清花が昇平に命じた。

「貴男も、私と一緒にやってみなさい。貴男の名前は何ていうの」

「吉岡です」

「では、始めますよ。吉岡さんのヨの字は、どう書くの。こう書いて、こう書いて、こう書くの」

 清花の歌に合わせて、昇平は清花の横に並んで、襖に向かって、腰を動かした。それを見て、『モエテル』の連中は転げて笑った。昇平は、『モエテル』の忘年会で芸者遊びとは、こういうものなのかと知った。そんな遊び疲れのある中、昇平は『オリエント貿易』の営業マンと一緒に、年末の挨拶回りに都内の客先回りをすることになった。藤木澄夫と島崎正彦と若手3人で、樹脂メーカーの本社の技術部、営業部、資材部巡りをした。東京丸の内の三菱ビル、日比谷の三信ビル、田村町の日石ビルなどの樹脂メーカー巡りは担当者との面談が順調に進み、早めに終えた。そこで、昇平は『オリエント貿易』の藤木と島崎から、日本橋に戻って、麻雀をしようと誘われた。だが昇平は、他に行きたい所があったので、用事があるからと断り、『木村屋』で手土産の菓子を買い、永田町の衆議院第二会館の『尾形代議士事務所』に、年末の挨拶に行った。部屋に入るなり、昇平に気づいた矢野秘書が喜びの声を上げた。

「おお、吉岡君。良い所に来てくれた。こちらから電話しようと思っていたんだ」

「そうですか。近くに来たので年末の挨拶に参りました。今年もいろいろお世話になりました。これ、ほんの気持ちです」

「有難う。」

 矢野秘書は、昇平から手土産を受取ると、それを田島道子に渡して、言った。

「吉岡君も知っての通り、ここのところ自民党に関連する不祥事が多発し、永田町を黒い霧が覆っていると自民党が批判されている。12月1日の総裁選で尾形先生に目をかけてくれている佐藤栄作先生が、対立候補の藤山愛一郎先生を破り、再選されたので、ホッとしているが、油断をしていられないんだ」

「何でですか」

「佐藤首相は内閣を改造し、尾形先生が尊敬する田中角栄先生を幹事長から外し、福田赳夫先生を幹事長にしたんだ。その為、佐藤内閣の求心力は低下し、衆議院解散が囁かれている。従って次の選挙は間近い。吉岡君も正月、田舎に帰るだろうから、親戚縁者や、幼馴染や、高校時代の友達に、尾形先生に投票するよう、お願いしてくれ。それで、君に連絡しようと思っていたんだ。私たちは若くして国会議員になられた尾形先生の政治家人生を何としても続けてもらわねばならぬのだ。よろしく頼むよ、吉岡君」

「はい。分かりました」

 昇平がそう答えて,頷くと、船田宗行が付け加えた。

「俺も古川君も、正月、群馬に戻り、尾形先生の国会での活躍ぶりを、宣伝する計画でいる。君も頼むよ」

「分かりました」

 昇平は、来年早々、衆議院選挙が実施されることを予感して、恐々としている事務所にいる一同を見渡して、返事した。すると、古川俊貴と田島道子も、昇平に頭を下げた。

「よろしく、お願いします」

 考えてみれば、国会議員の秘書というのも恰好は良いが、不安定な職業だった。自分を雇ってくれている代議士が落選すれば、父がよく言うルンペンだ。仕える代議士には何としても連続当選してもらわねば困るのが、実情だ。そこで昇平は、皆に言った。

「皆さん。これから大変でしょうが、力を合わせ頑張って下さい。僕も群馬に帰り、親戚友人に声をかけ、頑張ります。お忙しい所、突然、訪問して済みませんでした」

「何、言ってるの。時々、顔を見せてくれよ」

「有難う御座います。では尾形先生によろしくお伝え下さい。僕はこれにて失礼致します」

 昇平は、矢野秘書たちに、そう挨拶して、第二議員会館から外に出た。夕焼けが、国会議事堂の上で、燃えていた。これからの政局はどうなるのか。昇平は、永田町から銀座線虎ノ門駅に向かいながら、いろんなことを考えた。昇平は、年末までに、田舎に残っている中学時代の同級生や高校時代の同級生に、尾形先生を応援してもらうよう年賀状を送ることを考えた。翌日の昼休み、昇平は年賀ハガキを二百枚、購入した。当日、1・5ヶ月の賞与をいただいたので、直ぐに年賀ハガキを手に入れた。賞与をいただけた事は有難かった。昇平は仕事を終えてから、ルンルン気分で『春風荘』に帰り、群馬にいる川島冬樹、小野克彦、金井智久、渋沢富夫、中山高志、森木圭一たちへの年賀状書きに熱中した。そんな年賀状書きの最中、大橋花江からクリスマス・イヴに会いたいと電話が入った。その日は土曜日なので、麻布に年末の挨拶に行こうと思っていたが、大橋花江とのデートに切り替えた。それにしても年末は忙しかった。客先への年末の挨拶の他、隣りの席に座る向井静子に月末の売上指示もしなければならず、大変だった。その上、23日の金曜日は、綱島温泉の割烹旅館『入船』での忘年会だった。何時もの『オリエント貿易』との営業会議のメンバーとの忘年会で、営業会議の後、芸者を呼んでの飲めや歌えの宴会となった。『オリエント貿易』の大野常務、太田部長、山崎次長らを喜ばそうと、『オリエント機械』の遠藤洋七常務や川内部長が、芸者と一緒に歌を唄ったりして、饗応した。遠藤常務は余興の種が尽きると昇平に命じた。

「吉岡君。橋幸夫の歌でも唄え」

 昇平は、そう命じられたので、綱島芸者と『いつでも夢を』を唄おうと思ったが、座敷の芸者の雰囲気が吉永小百合と違うので、別の余興をすることにした。

「私は歌が苦手なので、踊りを披露します。お姉さん、1人、こちらに来て下さい」

 昇平は、襖の前に芸者を一人呼び、『モエテル』の忘年会の時、三軒茶屋の割烹『大原』の芸者に教えてもらった『イロハのイの字は、どう書くの』の踊りを、芸者と一緒に唄いながら披露した。

「イロハのイの字は、どう書くの。こう書いて、こう書いて、こう書くの。藤木さんのフの字は、どう書くの、こう書いて、こう書いて、こう書くの。小林さんのコの字は、どう書くの、こう書いて、こう書いて、こう書くの・・・」

 同席者の名前を順繰りに使って、芸者が昇平と一緒になって尻を振ると、郡司耕作や浅田泰雄たちも調子に乗って襖の前に来て尻を振った。皆、抱腹絶倒。思わぬ宴会となった。普段、いるのかいないか分からぬような大人しい新入社員の昇平が、思わぬ芸をしたので、『オリエント機械』の磯部社長も遠藤常務も、岩崎総務部長もびっくりした。普段、笑わぬ『オリエント貿易』の大野常務までもが指差して笑った。このことによって、『オリエント貿易』や『オリエント機械』の関係者たちの間で、昇平は『Tインキ』の萩原工場長の血を引く遊び人だということになり、『オリエント貿易』の機械部のメンバーや『オリエント機械』の上司たちの昇平を見る目が変わった。


         〇

 クリスマス・イヴの日が来た。昇平は夕刻、渋谷に行き、『ハチ公』前で大橋花江と会った。まずはダンスホール『ハッピーバレー』に行って踊った。流れる曲はクリスマス・イヴとあって、外国の曲とクリスマスソングが多かった。『ともしび』、『ゴンドラの唄』、『カチューシャ』、『エデンの東』、『ムーンリバー』、『サンタ・ルチア』、『トナイト』、『テネーシーワルツ』『魅惑のワルツ』、『ラ・クンパルシータ』、『碧空』などの後、『雪の降る街を』、『赤鼻のトナカイ』、『トロイカ』、『サンタが街にやってくる』、『ジングルベル』、『清しこの夜』などのクリスマスソングを踊った。昇平と花江は、時間が経つにつれ、ホールが混雑し始め、踊り疲れたので、『ハッピーバレー』を出て、食事をすることにした。2人は恋人たちの行き交う道玄坂の『恋文横丁』から右に入ったレストラン『サラマンジュ』に入り、何とか席を設けてもらい、クリスマスイヴを祝った。ワインを飲み、フランス料理を堪能した。食事をしながら、花江が、ちょっと恥ずかしそうに言った。

「私、吉岡さんにプレゼントがあるんだ」

「えっ。プレゼント」

 花江は昇平に、サッと、プレゼントの入った紙袋を渡した。昇平は、それを受け取り、自分が花江へのプレゼントを用意していなかったことに気づき、焦った。花江は戸惑う昇平のことなど考えず、嬉しそうに言った。

「マフラーよ。帰ってから、首に巻いてみて」

「うん。有難う。僕、花ちゃんへのプレゼントを用意するの忘れてた。ごめん」

「プレゼントなんていいのよ。今夜、会っていただいているだけで充分よ。小説家になりたい夢、応援しているわ」

「有難う。でも会社勤めしていると、中々、小説の創作活動をする時間が無いんだ」

「分かるわ。私も、もっと吉岡さんと会う機会を増やしたいのだけれど、病院の仕事が忙しくて・・」

「うん、お互い時間が無いからね」

「結婚すれば良いのよ」

「前にも言ったろう。僕と結婚する女は不幸になるって。僕は他人を自分の不幸の巻き添えにしたくない。一生、独身でいる積りだ」

「じゃあ、同棲しましょうよ」

「物書きは一人の時間が無いと、良い作品を書けないから、駄目だよ」

「つまんない人ね」

 花江は、そう言って昇平を睨んだ。昇平は、その花江の顔を見て、申し訳なさそうに笑って、『サラマンジュ』の伝票を持って立ち上がった。花江も立ち上がり、2人は『サラマンジュ』を出て、道玄坂のホテル街に行った。何時もの『ムーンリバー』は満室だった。他のホテルに行ってみたが、何処も満室だった。

「仕方ない。帰ろうか」

「困るわ。私、今夜、外泊届を出しているの。だから病院の寮には戻れないわ」

「でも、まだ間に合うのだから、帰れば良いじゃあないか」

「嫌よ。貴男といたいの」

「じゃあ、新宿に行こうか?」

「新宿のホテルも、満室だわ。貴男の所に行っちゃあ駄目なの?」

「駄目だよ」

「では私、『マッチ売りの少女』のように凍え死んでしまうわ。何とかして」

 昇平は花江に泣きつかれ、困惑した。花江を『春風荘』に連れて行って良いのだろうか。今まで自分の部屋のことを女人禁制で貫き通して来たのに、そんなことが許して良いのだろうか。だからといって、寒いクリスマスイヴの人混みの中に、大橋花江を放り出して良いものか。花江のことだ、どこかの悪い男に騙されるかもしれない。昇平は思案し、悩んだ挙句、花江を『春風荘』へ連れて行くことにした。渋谷から東横線の電車に乗り、祐天寺駅で下車し、銀行の脇を通り、商店街を抜け、住宅街を駒沢通り方面に少し歩いた。

「ここが、僕が部屋を借りているアパートだよ」

「まあっ、可愛いのね」

「うん。2階に3部屋あるだけだからね」

 昇平は、そう説明して、大柄な花江を連れて、『春風荘』の玄関に入り、花江に彼女の靴を持たせ、階段を上り、自分の部屋『202号』室に入った。誰もいない部屋の中は寒々としていた。昇平は震えながら、裸電球の灯りを点け、コタツのスイッチを入れた。花江は部屋の片隅の新聞紙の上に靴を置き、昇平が動き回るのを黙って見ていた。昇平はガスコンロのヤカンに火を点け、暖房の準備を済ませると、オーバーを脱ぎながら花江に向かって言った。

「オーバーを脱いで、ここに掛けて」

 花江は昇平の指示に従い、部屋の長押に取り付けられている留め金に、引っかかっているハンガーに、自分のオーバーコ-トを掛けた。それから、昇平が出した座布団に座り、コタツに足を突っ込み、部屋中を眺めた。まさに小説家志望の貧乏青年の部屋だ。花江は昇平が、ミカンの入つている籠を炬燵板の上に置いたので、それを一ついただき、コタツに足を突っ込んだ昇平と向き合った。

「狭い部屋だろう。男臭くて散らかっていて、来なければ良かったと反省しているのじゃないの」

「いいえ。そんなこと無いわ。吉岡さんの生活を、はっきり知ることが出来たわ」

「貧乏小説家はこういった狭い部屋で孤独の生活を送り、愛情乞食になり、恋愛小説を書けるようになるのさ」

 そんな話をしていると、お勝手のガスコンロにかけたヤカンのお湯が沸いた。昇平は、そこで、コーヒーカップにココアを入れてやった。温かいココアを飲みながら、花江が昇平に訊ねた。

「私、結婚してもらわなくても良いから、吉岡さんと一緒に暮らしたい。傍にいて、吉岡さんが小説家になれるか見届けたいの」

「馬鹿な事を言ううんじゃあ無いよ。花ちゃんには、ちゃんとした旦那さんを見つけ、仕合せな家庭を築いてもらいたいんだ」

「吉岡さん。まだ節ちゃんのこと、諦められないんじゃあないの?」

「そんなこと無いよ。花ちゃんと付き合っているうち、優しい花ちゃんのことが好きになった」

「なら、吉岡さん。私のこと、もっと真剣に考えてよ。布団の中で、私を愛していると言ってよ」

「分かった」

 昇平は、そう答えると、コタツを部屋の片隅に寄せて、押入れから布団を2組、運び出した。2組ある布団を見て、花江が質問した。

「何で布団が2組あるの?」

「うん。親戚の家に兄と僕が居候していた時があったんだ。田舎に帰った兄が、その時、使っていた布団を、僕が、自分の布団と一緒に親戚の家からここに運んで来たから・・」

「それって本当なの。まさか恋人の布団じゃあないでしょうね」

「そうじゃあ無いよ。もう12時だ。早く寝よう」

 昇平は布団を敷き終え、衣服を脱ぎ、パジャマに着替え、急いで布団に潜り込んだ。電源を入れたままのコタツを足元に置いているので、上半身は寒かったが、足元は温かだった。花江は部屋の片隅で服を脱ぎ、ハンガーに掛け、下着を脱いだり、折り畳んだりして、ゴソゴソした後、部屋の天井の裸電球のスイッチ紐を引っ張り、部屋の灯りを消して布団に入った。そして横になると昇平の手を握り確認した。

「そっち行って良い?」

 昇平が黙っていると、花江は了解も得ず、真っ裸になり、昇平の横に滑り込んで来た。昇平は『春風荘』の自分の部屋で初めて女を抱く衝動にかられ、昂奮し、花江を抱いた。花江の豊かな身体は昇平を熱く包んだ。口づけの後、昇平は股間の肉棒を花江に握られると、血はたぎり、突撃したい気持ちになったが、直ぐに行動に移さず、自分も花江の股間に手を伸ばし、そこで花びらのように咲く割れ目の襞をなぞった。その後、舌のようにベロベロしたクリトリスをくすぐり、花江の様子を窺った。すると花江の股間の割れ目の奥から、挿入をなめらかにする愛液が滲む出始めた。昇平は、そこで花江に確認した。

「どうだ。気持ち良いだろう」

「ええ。とっても。でも恥ずかしいわ。他の部屋に気づかれないかしら」

「大きな声を立てなければ大丈夫だ」

「なら、早く入れて」

「分かった」

 昇平は、そう答えると、コタツの中に伸ばしていた足を引っ込め、花江の上に四つん這いになり、花江に向かって攻撃を開始した。花江は待ってましたとばかり、昇平が繰り返す愛技の愉悦に狂い乱れた。昇平は1階の管理人、石川百合に気づかれるのではないかと心配した。気づかれた時は気づかれた時だ。管理人の石川百合は中目黒の目黒川沿いにあるバー『百合』のママだ。男女の事は分かってくれるであろう。結局、昇平は花江の要望に応え、真夜中と明け方の2度、彼女と交接をしてしまった。その為、起床したのは、日曜日の9時半過ぎだった。目覚めて昇平は、慌てた。日曜日の午後3時から『新生』の月例会兼忘年会だった。昇平は、まだ寝ていたいような花江を起こし、事情を話し、オーバーコートを着て、花江に貰った襟巻を巻き、花江と『春風荘』を跳び出した。そして近くのレストラン『ナイアガラ』でピラフを2人で食べ、祐天寺駅から渋谷に向かった。渋谷駅に着くと花江が、もう少し、一緒にいたいというので、昇平は、渋谷駅近くの喫茶店『フランセ』で、花江とコーヒーを飲み、新年、再会することを約束して、午後1時半、花江と別れた。それから山手線の電車に乗り、鶯谷駅で下車し、上野の墓地の山を越え、谷中の喫茶店『カヤバ珈琲』へ行った。幸子ママが昇平を見て、笑顔を見せた。彼女は学生服姿の昇平の大学1年生時代を知っているだけに、昇平の成長を頼もしく嬉しく思っているみたいだった。昇平は何時ものように2階に上がり、『新生』の座談会に出席し、簡単な勉強会を楽しんだ。その後、同人費を松本典子に支払った。それを見ていた鴨川八郎が昇平に訊いた。

「吉岡君。君は春季号に作品を投稿しなかったのかね」

「はい。前回のような作品を掲載したら、不評を買うことになりますからね。怖くて投稿出来ません」

「何、言っているんだよ。他人の批評なんか気にしていては駄目だよ。批評を受けた内容を参考にすれば良いんだ。合評会の時、ほとんどの人が、良い評価なんかしてはくれないよ。欠点を見つけようとする粗探しの合評会だからね」

「はい。分かりました。次回、投稿出来るよう頑張ります」

 昇平は、鴨川八郎の気配りに感心した。実のところ、昇平は、『新生』春季号に掲載してもらおうと、『門前町に雪が降る』という小説を書き上げていたのだが掲載料を支払う資金が無かったので、次号の掲載を見送ることにしたのだった。同人誌『新生』の座談会が終わると、同人全員、集まっての忘年会ということで、一同そろって都電に乗り、上野池之端に移動した。忘年会場所の料亭『伊豆栄』の座敷に入ると、既に料理が準備されていて、橋口勇吾の司会で、まずは森秋穂主幹が挨拶と乾杯をして忘年会が始まった。どこでも同じだが、女性たちが、ビールや酒やジュースを注いで回った。ここでも『中央文学』の時と同様で、文学で一旗揚げようという野心家の同人が多かった。特に女性たちは瀬戸内晴美、宇野千代、曽野綾子、戸川昌子などに憧れ、森主幹や根本久三に媚を売った。ベテラン女性だけでなく、山田鈴江、輪島百代、岬香百合なども、そのようだったので、青木泰彦、羽島流一も昇平と同様に、呆れ返った。女とは、そういう生き物だ。


         〇

 クリスマスが終わると、『オリエント機械』への出勤もわずかとなった。年末の客先回りは、もう無くなった。昇平は月末の伝票整理に追われた。そんな年末の押し詰まった時、佐藤内閣では黒い霧事件が相次ぎ、国会が異常事態となり、新聞をはじめ、世論が大騒ぎし始めた。佐藤内閣は、この政局混迷を打開する為には解散する以外に無いと判断した。そして12月27日、第54回国会の召集を行い、佐藤内閣は衆議院を解散した。その結果、第31回衆議院総選挙が来年1月に行われることになった。昇平は、翌日、その衆議院解散の記事を新聞で読んで、びっくりした。昇平は10日程前、都内での年末の挨拶回りの時、永田町の衆議院第二議員会館の『尾形憲三事務所』に立ち寄った時、矢野五郎秘書たちが喋っていた衆議院解散の話が現実のものになったので、緊張した。うかうかしていられない。故郷にいる友人たちに年賀ハガキを書いたが、直接、会って念押しする必要があった。昇平は『オリエント機械』が冬休みになるや、麻布の家に立ち寄ってから、急いで群馬の実家に帰省した。実家の両親や兄弟は、尾形代議士に投票することを決めていて、別段、慌てていなかった。両親は成長した昇平の帰省を心から喜んでくれた。だが、かって『尾形代議士事務所』で御世話になった昇平は尾形代議士に恩義があり、何としても連続当選してもらわねばならなかった。昇平は弟、広志の車に乗せてもらい空っ風の中、青年代議士、尾形憲三先生に投票するよう友人の家を回った。友人、知人の家を回りながら、昇平は故郷に帰り、自分は一体、何をしているのだろうかと思った。白雪の浅間山が青い冬空に白い煙を吐いて笑っていた。この故郷を跳び出し、苦労して大学を卒業し、会社勤めのかたわら、小説家になることを夢見、同人誌仲間に加わり、近寄る女たちと適当に戯れ、政治の世界にも関与する自分は一体、何を目指しているのか。昇平は自分自身の事が自分でも不可解でならなかった。そんな吉岡昇平の人生は、まさに迷走行路、そのものだった。


     〈『迷走行路』終わり 〉

 











 


 



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