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第五話



「エン……さん……?」


 コタは目を疑った。大きな車体が不埒なセダン車から、コタを守るように割り込んでいたのだ。……いや、守るように、ではない。事実、エンは衝突される危険も顧みずに、コタを守ってくれたのだ。


「幼稚園の近所の車たちが、この辺りでセダン車とテラコッタピンクの軽自動車が揉めていると話していてね。まさかとは思ったけれど、来てみて正解だ」

「は、ははっ、今度はお気楽柄のバスまで登場したってわけか」


 セダン車はギイギイとホイールを鳴らしてみせたが、それが強がりであることはコタから見てもわかった。エンの身体はセダン車よりも遥かに大きく、そして眼光はフロントガラスが割れそうなほどに険しいものだったからだ。


 ——エンさん、今……愛する車、って……?


 こんな状況で確かめられるはずがない。だが、コタは確かにそのドアミラーで聞いたのだ。ずっと憧れていた園児バスが、コタを何と呼んだのかを。

 エンの太めのピラーが、ぎらりと勇ましく光る。


「俺のことは好きに罵ったらいい。だが、コタにはこれ以上近寄るな」

「へぇ……随分カッコつけたことを言うじゃねぇか。その軽自動車、お前の情夫イロか?」

「悪いが無礼な問いに答えるつもりはないね。君のような無法者には、コタの声を聞かせるのも惜しいくらいだ」

「何ぃ?」


 エンさん、と再び呼ぼうとするが、声にはならなかった。

 園児バスである彼が、こんな日中に道路を走っているはずがない。でも、理由はわからないけれど……こうやって来てくれた。エンはバックミラーにコタを映すと、そっと囁く。


「……コタ、行ってくれ」

「え?」

「あとは俺に任せて。君はこんなところにいちゃいけない」

「お前ら、何コソコソ話してんだぁ!?」


 言葉を交わす二台の空気を壊すように、セダン車ががなり立てる。彼の車体からは唸りに似た音が響き……それはやがて金属を殴りつけるようなものに変わった。


「う……っ、うぐぅ!」

「な、何!?」


 見れば、ボンネットの隙間からわずかに白煙が立ち上っている。ライトもチカチカと点滅を繰り返し、明らかに様子がおかしい。

 コタは眉根を寄せてその様子を見つめ、そして気づいた。


「まさか……燃焼室異常オーバーヒート!?」


 そう、それは車両が最も恐れる病だ。コタたち車の心臓であるエンジンは、極度の高熱に達するとエンジンそのものが自らを焼き付けてしまうのだ。セダンはがたがたと車体を揺らし、不気味な声を漏らし始める。


「ゔ……ゔぅ……」

「おそらくそうだね。ラジエーターかウォーターポンプか、もしくはサーモスタットか冷却用ファン……もしかしたら、その全てが故障しているのかも」

「そんな……!」

「彼のあの身体を見る限り、乗り主は車への愛情が足りていないだろうからね」


 冷却システムの故障は、経年劣化によるものも多いが、事故等によっても引き起こされる。そして今、セダン車にも限界が訪れつつあるのだ。

 コタは改めてセダン車を見た。傷だらけで修理の形跡がない車体、元のデザインを著しく損なう改造の仕方。煽りと衝突を繰り返し、セダン車は遂に限界を迎えたのかもしれない。乗り主さえ違えば、高級車である彼には、もっと違う車生じんせいがあったのかもしれないのに。

 エンがライトを細めて悔しげに言う。


「どんな車だって、乗り主と楽しく走りたいに決まっている。ましてや同じ仲間である車を煽るだなんて、そんな悲しいこと、誰もしたくないんだ」

「エンさん……」

「自賠責や任意保険だって、車の希望だけでは加入できない。俺たちは契約書にサインもできなければ、判子も押せないからね」

「…………」

「……いいかい、コタ。傷ついた車はこうして心のフレームまで曲がってしまう。フレームが曲がれば、車は真っ直ぐ走れないんだ」


 コタはいまだ車内で震え上がる野呂さんを想った。そして怖がらせたお詫びのつもりで、運転席の座面にヒーターを入れてぽかぽかにしてあげた。

 コタは運良く素晴らしい乗り主を得ただけで、製造ラインから生まれるすべての車が望みを叶えられるわけではない。そのことを、コタは初めて思い知った気がした。


 黒塗りのセダン車にも、エンの言葉が聞こえていたのだろう。彼は憑き物が落ちたかのように、ライトからぽろぽろと冷却液をこぼし始めた。


「うるせぇ! わかったような口ききやがって……オレだって、オレだって……!」

「何もわからないよ。俺はセダン車じゃなく園児バスだからね。でも、」


 白煙を上げ続けるセダン車に、エンはためらいなく近づき、言った。


「君にはまだ、四つのタイヤが付いている。やり直せるよ」

「き、綺麗事を……」

「こんなにたくさん車がいるんだから、一台くらい綺麗事を吐いたっていいじゃないか」

「…………」

「さあ、修理工場へ行こう。良い店を知っているんだ」


 セダン車のライトから、また一粒の冷却液がこぼれ落ちた。コタは固唾を飲んで二台を見守る。

 黒塗りの車はしばらく黙り込んでいたが、やがて顔を上げてエンと対峙した。先ほどまでの下卑た笑みは消え失せ、代わりに高級セダン車本来の誇りを取り戻しているように見える。


「……お節介な奴だ」

「毎日わんぱくな園児を乗せているとお節介にもなるさ」

「ふん、くだらねぇ……。でも、オレも……」


 セダン車が何かを言いかけたそのときだった。彼は突然目を見開き「ゔぅッ!」と身を捩ると、ボンネットからボフンッ、と黒煙を上げたのだ。後部を見ればオイルが漏れてアスファルトを汚している。その異様な様子に、エンはセダン車に


「君、大丈夫か!」

「オ、オレの身体はもうだめだ……構うな! どうなるかわからねぇぞ!」

「エンさん!」


 コタはたまらずエンに寄り添った。

 セダン車が言う通り、その黒い車体はいつどんな状態になってもおかしくなかった。揮発性の高いガソリンとエンジン内部で小さな爆発を起こすことにより生み出される高温。それらが奇跡的なバランスで噛み合って、車は走っている。しかし、そのバランスが崩れた今、ガソリンと高熱が最悪の結果を招く可能性もあるのだ。


「コタ! 君はここから離れるんだ!」

「いやです! エンさんと一緒にいる!」


 野呂さんが車内で悲鳴を上げていたが、コタは聞こえないふりをした。コタは涙をいっぱいに溜めたライトをエンに向け、ゆっくりと五回点滅させた。古来より日本に伝わる愛情表現である。


「コタ……」

「エンさん、僕のこと、愛する車って言ってくれたでしょう」

「……ああ、そうだ」

「僕も愛する車からは離れません。絶対に、離れない」


 コタは可愛らしい軽自動車だ。だが、そのエンジンは鉄以上に強く、勇敢だった。


「……君は、本当に素晴らしい車だ」

「エンさんだって」


 愛おしげな眼差しを受けて、コタは微笑んだ。エンがワイパーを一振りする。


「これほど車であることを悔やんだ日はないな。人間だったら、こんなとき君に口づけるのに。車だと事故になってしまう」

「口づけがなくたって、平気です!」


 二台は小さく笑い合う。そしてコタは、覚悟を決めた。

 たとえ二度と走れない身体になろうと、衝撃でフレームが曲がってしまおうと……エンへの気持ちは曲げない、と。


「っくそ、もうだめだ……ッ!」


 セダン車の車内からポンポンと弾ける音がする。コタは目蓋を閉じ、隣から感じるエンの温もりに浸った。

 しかし、彼らの覚悟は不要なものとなった。聞き覚えのあるサイレンが、幾重にもなって近づいていたからである。


「あの車だな!?」

「よし、全員配置へ!」


 威勢の良い掛け声とともに現れたのは、無数の消防車とパトカーだった。彼らは赤いランプを明滅させ、辺りを取り囲む。

 

「随分状態の悪い車だな……」

「ああ、でもまだ助かる!」


 コタとエンは顔を見合わせた。一体何が起こったのか混乱し、ふたりは周囲を見渡す。そこで、コタは気づいた。


「あ……!」


 警報音とランプが周囲をざわめかせる隙間から、一台のミルクベージュの軽自動車が「大丈夫ですかぁ」とこちらを心配そうに覗き込んでいた。


 



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