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第四話




 一晩ぐっすりと眠り、コタの決意はますます強いものとなっていた。

 エンへの想いが憧れなのか……あるいは別の名前が付くものなのかはわからない。けれど、エンともっと近づきたいと思う気持ちは本物だった。

 秋晴れの澄んだ空をテラコッタピンクのルーフに映し出しながら、コタは軽快にホイールを回していく。今日は野呂さんが有給休暇を取っているため、走る道路は同じでも時間帯がずれているせいか車列の流れはスムーズだ。


 ——今日は、エンさんに言ってみるんだ。今度ふたりでお話しできませんか、って。


 特別な意味で誰かを誘い出したことのないコタにとって、それは途方もなく難しい任務に思えた。けれどプリスに教えてもらった通り、ただひとりで悶々としているだけでは何も変わらないのだ。

 がんばるぞ、と景気付けにコタがフォグランプをチカチカと点滅させた。そして彼はキープレフトを守り左折したのだが……その瞬間、耳をつんざくクラクションの音が辺りに響き渡った。


「な、何……っ?」


 コタは驚いてブレーキを踏んだ。クラクションは一度では終わらず、断続的に何度も繰り返し鼓膜を揺らす。目を凝らすと、どうやらこの耳障りな騒音を作り出しているのは、前方300メートルを走る黒塗りセダン車のようだった。そしてその前を、ミルクベージュの軽自動車がふらふらと走っているのがわかる。


「野呂さん、捕まって!」


 コタは嫌な予感を胸にアクセルを効かせた。軽自動車はデザインが可愛らしく小回りが利く。だがその分、重量のある普通車以上の車からは侮られやすいのだ。

 案の定、コタが黒塗りの車——本革エアシートの旧型高級セダンだ——の後ろに追いつくと、前方から困り果てた悲鳴が上がるのが聞こえた。


「何なんですか! 付いてこないでください!」

「何言ってんだよぉ、オレもこっちの方向に用があんだよ!」


 再び鳴り響く執拗なクラクション。黒塗りのセダン車はナンバーを折り曲げて見えにくくしている上に、車体はあちこち擦れた痕があった。強引に改造されたのか、四輪のタイヤは歪に八の字に取り付けられている。

 目の前で繰り広げられる光景に、コタはエンジンルームが冷える心地がした。


 ——煽り運転だ……!


 それは、車両間で最も恐れられる悪質行為である。

 セダン車はミルクベージュの軽自動車の後部ギリギリまで近づいたかと思えば、すぐ脇までスピードを上げて側面を接触させようとする。ミルクベージュの軽自動車が逃げようとスピードを緩めようとすれば、また後ろに回りクラクションを鳴らすのだ。


 コタは煽り運転を見たのは初めてだった。おまけに蛮行を働いているのは見るからにガラの悪い改造車。本能的に「怖い」と感じたコタはわずかにスピードを緩めた。

 けれどミルクベージュの軽自動車が「助けて!」と泣きそうな声を上げた瞬間、コタは無意識のうちに自分のクラクションを鳴らしていた。


「も、もうやめてください!」

「あぁ……?」


 黒塗りセダンのものに比べて甲高いクラクションの響きが消えると同時に、八の字のタイヤは急に動きを止めた。コタは危うくぶつかりそうになったが、すんでのところでブレーキを効かせ、キッと相手を睨みつける。


「なんだぁ? かわい子ちゃんがよぉ」

「あっ、あなたのやっていることは煽り運転です! やめてくださいと言ったんです!」


 コタは震えていた。製造されてこの方、誰かに声を荒げたことはない。その臆病さを見透かすように、セダン車はフロントグリルに下卑た笑みを浮かべてみせた。


「煽り運転〜? 何言ってんだお前はよぉ、オレはこのミルクベージュちゃんの後ろに『ベイビーインカー』って書いてるからよぉ、どんなベイビーが乗ってんのか見せてもらおうとしただけだぜ?」

「っ、そんなの、言い訳だ!」


 ミルクページュの軽自動車がこちらを恐々と窺っていたが、コタはパッシングをひとつして「行って!」と合図を送った。軽自動車は涙ぐんだライトで応えてから、一目散にその場から走り出す。


「……おいおい、獲物が逃げちまっただろうが」


 エンジン音で獲物の逃亡に気づいたセダン車は笑みを消し、ギャギャギャ!と異音を鳴らして急展開した。威圧感のある顔は傷だらけで、コタはその鋭い眼光でタイヤが外れてしまいそうだった。けれど彼は、そんな自分を見せまいとホイールのセンターキャップを引き締めた。


「どう落とし前つけてくれんだよ、あのふざけた軽はオレの前に強引に割り込んできたんだぜ? 中のベイビーごと傷ものにしてやるつもりだったのによぉ……」

「ひどい! よくそんなひどいこと思いつきますね」

「ひどいだ? 割り込まれたオレの方がずっと可哀想だろ? まんまるお目めちゃん」

「…………!」


 侮辱を含んだ言いように、コタの車体はかっと熱くなった。けれどここで争っていては埒が明かない。二台の脇を、何台もの車が気遣わしげな視線を残して通り過ぎていく。

 どくどくとうるさいエンジンを押さえつけ、コタはきゅるきゅると音を立ててバックした。とにかく、このセダン車から離れなければいけない。しかし。


「何逃げようとしてんだよぉ」

「!」


 ギャッ、と鈍い音ともに、セダン車はコタの進路を塞ぐように前方斜めに車体を滑り込ませてきた。バックで逃げようにも、後方からは次々と車が走っていく。


「……ひひ、よく見れば今流行りの可愛い顔してやがるじゃねぇか」

「う……!」


 至近距離で意味のないハイブームを当てられ、コタは顔を背けた。セダン車が吐き出す排気ガスは悪臭を含み、近づかれただけで気分が悪くなる。


「仕方ねぇな、次はお前と追いかけっこしてやるよ」

「な、何を……」

「どこまで追いかけてほしい? そのちっちゃなホイールがぼろぼろになるくらいの砂利道まで案内してやろうか?」


 セダン車はじりじりと距離を詰めてくる。コタは息を呑んだ。野呂さんに大切にされてきたテラコッタピンクの車体には、ほんのわずかな傷も付いていないのだ。セダン車の舐めるような視線は、それをしっかりと理解していた。息の荒い鼻先がコタの給油口に近づく。


「くく、給油口まで可愛くできてるんだな。ここに軽油を入れたらどうなっちまうかなぁ……? オレ、ちょうど軽油を積んでんだよ……」

「や、やめてください!」


 コタは悲鳴を上げた。軽自動車といえど、コタはガソリン車だ。軽油なんて入れられたら……もう二度と走れないくらいに、からだが壊れてしまう。


「やめて……そんなの、入れないで……」


 無力感に打ちひしがれながら、コタは小さく呟いた。すぐに逃げ出してしまいたい。けれどそれが叶わない。恐怖のあまり、コタはクラクションを鳴らす気力すら失っていた。


「どうした、さっきまでの威勢は。エンジンオイルが漏れそうな顔してるぜ」


 コタの車体は恐怖でカタカタと震えていた。セダン車はそれをせせら笑い、異様なほどにゆったりとバックをしてみせる。

 もしかして逃げられるのだろうか、と思ったのも束の間、セダンはどす黒い排気とともに恐ろしい言葉を吐き出した。


「どれ、まずはその可愛いお顔をへこませてやるか」

「え……?」

「軽自動車の装甲は薄いって知ってるだろ? 軽く生まれたことを後悔するんだな」

「………!」


 そう、セダン車はあろうことか、今このとき、直接コタに衝突しようというのだ。コタはまばたきすら忘れた。年期が入っているといえど、普通車にまともにぶつかられたら、コタの車体はひとたまりもない。彼は最後の勇気を振り絞り、声を張った。


「……いっ、一方的にぶつかってきたら、事故の過失割合であなたが不利になる!」

「ははっ、これだからお利口な車ちゃんはよぉ」

「……どういうことですか」

「オレはな、自賠責にも任意保険にも入ってないんだよ」


 コタは言葉を失った。自分の耳がおかしくなったのかもしれない、とすら思った。


「自賠責、にも……?」


 そんな車が、道路を走っているだなんて夢にも思っていなかった。ライトから光を失ったコタに、セダン車は勝ち誇ったように言い放つ。


「次はもっと男らしいライトを付けてもらうんだな!」

「…………!」


 エンジンの唸りが響き、コタはぎゅっと目を閉じて覚悟を決めた。自分がでしゃばったせいで、大変なことになってしまった。……けれど、何も間違ったことはしていない。野呂さんにはただただ申し訳が立たないが、信念を貫いた結果がこれならば仕方ないのだから。


「…………?」


 しかし、覚悟した衝撃は訪れない。

 コタはおそるおそる顔を上げた。そして最初に視界に入ったのは、


「……俺の愛する車の顔を、どうするって?」


 目が覚めるほど鮮やかな、向日葵色の車体だった。






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