第三話
コタの頭にはそれ以降もずっとエンの後ろ姿があった。正確には、エンの後部に描かれた、テラコッタピンクの小さな車が。
見間違いかもしれない、とコタは思ったが、明くる日も、そのまた明くる日にも、エンのそこには間違いなく可愛らしい姿の車が描かれていた。
「おはよう、コタ」
「おはようございます……。エンさん、あ、あの……!」
「ん?」
「う、なんでも、ないです……」
小首を傾げたエンにじっと見つめられると、途端に言葉が出なくなってしまう。本当は「あなたの後ろに描かれている車は誰なんですか」と聞いてしまいたいのに、その答えを聞くのが怖いのだ。
そのままエンは車の流れに押され、「それじゃあ」とコタとは反対方向へ去っていく。未練がましくドアミラーで小さな車の絵を映すたび、コタはなんとももどかしい気持ちになってしまう。
——で、でも、テラコッタピンクの車なんてたくさんあるし……。
コタと同じデザインの軽自動車は、M市内でもよく見かける人気車種だ。そのポップさと街乗りのしやすさで、主に若年層に多く乗られている。
車同士で見れば皆顔つきが違うのがわかるが、エンの車体に描かれた絵だけでは、当然どんな顔の軽自動車かまでは判別できない。つまりあれは、コタと同じ車種の別の車の可能性もあるのだ。
『そう。子どもたちに、俺の好きなものを描いてくれってお願いしたんだ』
「うぐ……!」
エンの向日葵色の微笑みを思い出して、コタは身悶えする代わりにワイパーをしゅんしゅんっと最速で振った。
好きなもの。もしかしたら、エンの好きなものというのは……と考えたところで、いつもボンネットから煙が出そうになる。野呂さんが「今のコタからだったらボンネットで目玉焼きが焼けそうだ」と笑うのを、コタは面白くない気持ちで聞いていた。
◆
初めてコタがエンに会ったのは、コタが野呂さんのもとに納車されて間もなくのことだった。
乗り主を得たコタは「絶対に事故を起こさないぞ……!」と意気込みすぎて、はたから見てもぎこちない走行となっていた。そんなときに、すれ違いざまに声を掛けてくれたのがエンだった。その日は偶然車が少なかったのを、コタはよく覚えている。
「こんにちは。あまり見ない顔だね。この辺りの道は初めて?」
「は、はい。僕、納車されたばかりで、緊張しちゃって……」
「はは、本当だ。そんなに緊張していたら、ハンドルロックがかかってしまうかも」
「ええっ!?」
素直な性格のコタは、驚きのあまりその場で強くブレーキを掛けてしまった。野呂さんが車内でつんのめり、慌てて「ごめんなさい!」とドアミラーをパタパタ動かす。
泣き出しそうになったコタに、エンが「こっちこそごめんよ」とピラーを光らせた。
「冗談だよ。驚かせて申し訳ない」
「いえ、僕、本当に鈍くさくて……」
「そんなことないさ。さあ、前を向いて。大丈夫だよ、車のライトは本来ならハイビームが基本だっていうじゃないか」
エンの優しい声で、コタは自分が地面ばかりに視線を落としていたことに気がついた。ぱっと顔を上げてみると、進むべき道がずっと遠くまで続いている。
「君の素敵なまんまるの瞳なら、道をきちんと見通せるはずだよ」
「あ、ありがとうございます……!」
文字通り視界がひらけた気分になり、コタはぺこりと頭を下げた。そして再び視線を戻したとき、ふと、向日葵の鮮やかな車体に目を奪われる。
「あなたも、見るだけで気持ちが明るくなるような車体をしていますね」
「え?」
「あっ、えっと、失礼なことを言っていたらすみません!」
「……いや、失礼なんかじゃないよ。ありがとう」
穏やかな園児バスは、自らの名前を「エン」と名乗った。
それからもエンは、コタと顔を合わせるたびに声を掛けてくれた。内気で奥手な自分がこの街に早々に溶け込めたのもエンのおかげだ、とコタは考えている。
「もっとエンさんと、話してみたいな……」
野呂さんの駐車場でぽつりと呟いたその言葉を、隣に駐車していたプリスは聞き逃さなかった。彼はじりじりとコタに近づくと、内緒話でもするように言う。
「話してみたらいいよ。何かが変わるかも」
「もう、プリスくん……」
「僕もそうだったから」
「えっ?」
からかうのはやめてよ、と続けようとしていたコタは、驚いて聞き返した。よくよく見てみれば、プリスのボディが心なしか普段より艶めいているように映る。
プリスは自嘲して肩をすくめると「レクサくんとのこと」と呟いた。
「コタのことを全然笑えないんだよ。僕、彼とのことを色々考えすぎて……昨日、ショッピングモールの駐車場でバッテリーが上がっちゃったんだ」
「ええっ! そんな、大丈夫? 無理しちゃだめだよ」
「うん、ありがとう。でも、その、実は……」
「ん?」
プリスの頬がほんのりとサーモンピンクに染まる。しばらくの沈黙があってから、パールホワイトのハイブリッド車は息を吐いた。
「僕があたふたしていたら、ちょうど、レクサくんが通りかかってね」
「!」
コタは驚いてぴょんと飛び上がった。着地とともにサスペンションがうまく効き、小さな車体は楽しげに上下する。
「それでそれで? どうなったの?」
「……レクサくん、面倒見がいいでしょう。わざわざ隣に来てくれて、それで、充電してあげるからボンネットを開けてほしいって言われてさ」
「ほわ……」
車は心を許した相手の前でしかボンネットを開かない。ましてや、エンジンルームを晒すのは裸を見られるようなものだ。それを求めるだなんて、随分とレクサも強引に行ったものだ、とコタは感心しながら続きを待った。
「エンジンルームを見せるのなんて恥ずかしいよ、って言ったんだけど、絶対に変なところはみないからって約束してくれて」
「レクサくん、優しいね」
「うん。とっても紳士的だった」
ほう、と何かを思い出すような口ぶりのプリスに、コタはにやにやと笑いを向ける。しかし次の瞬間、ハッとしてフロントグリルを押さえた。
「もしかして、ブースターケーブルを繋いでもらったの……!?」
「そう。コタは誰かと繋げてもらったことある?」
「ないない、ないよ! ほかの車から電気をもらうって、なんか怖そうで。バッテリー上がったこともないし」
「だよね。僕も怖かった」
あんなに緊張したの、初めて試乗されたとき以来だ、とプリスは目蓋を伏せて漏らした。ほかの車とプラス端子とマイナス端子を繋ぐだなんて、と考えただけでどきどきしてしまう。
「それでね……レクサくん、若いから電圧もすごくって」
「わ、わぁ……!」
「とっても情熱的だった……」
「そうなんだぁ……」
コタは聞いているだけでエアバックが出てしまいそうだった。日中に聞いていい話ではない、と思わず周囲を見渡してしまう。
——プリスくん、ブースターケーブルで電気を分けてもらうだなんて、すっごく大人だ……。
コタが「ひええ」と熱くなったフロントガラスをウォッシャー液で冷やすのにも気づかず、プリスは続けた。
「くらくらしてタイヤの空気圧がおかしくなっちゃいそうだったけど……でも、レクサくんの温かい電気に満たされて、僕、嬉しかった」
「プリスくん……」
「それからしばらく一緒に走ろうってことになって、レクサくんと並走して」
そこで色々話すうちに気づいたよ、とプリスはコタを見た。切れ長の目には、これまでにはなかった、大事なものを得た車のきらめきが宿っている。
「僕は自分の気持ちにうそをついていたよ。初めから彼に惹かれていたのに」
「……おめでとう、でいいんだよね?」
「そうかも」
はにかむプリスが眩しくて、コタは冗談混じりに車内のサンバイザーを下ろしてみせる。けれど、プリスは真摯な眼差しを向けてきた。
「コタ、君も素直になったほうがいい。そしてじっくり話すんだ。きっと良い結果になるよ」
「……そんなの、わかんないよ」
「わかるさ。ハイブリッドカーは、燃費も勘も良いんだ」
プリスはそう言うと、悪戯っぽくウインクしてみせた。コタは曖昧な笑みで応じて、その瞳に雲ひとつない空を映す。
「そうだと、いいな……」
コタの心は、差し出された勇気でわずかに熱を持ち始めていた。