第二話
また明日、という言葉通りに、翌朝もコタはエンとすれ違うことになった。
コタがエンの姿に気づいたのは、その大らかな車体がまだ右前方500メートルにいるときだ。朝の通勤ラッシュの緩慢な流れのなかで、エンの向日葵の色に似た鮮やかな車体はよく映えていた。
脇見運転は御法度だと知りながらも、コタはこっそりと背伸びをしてエンを窺うことをやめられなかった。車内では席に着いた子どもたちが、にこにこと満面の笑みで何かを歌っている。そしてその歌声を聴いて、エンも柔和に微笑んでいるのだ。コタのエンジンルームがほのかに熱を持つ。
——あの子たちはいいなぁ。いつもエンさんに運んでもらえるんだから……。
ふと浮かんでしまった考えを、コタはワイパーを一振りして打ち消した。ただの軽自動車でしかない自分が、そんなことを思うことすらおこがましい。バスに慣れるのは、どうあがいても人間だけだ。
自己嫌悪でコタはしょんぼりと肩を落とす。やがてエンとの距離が近づき目が合った瞬間、優しく穏やかな園児バスは瞳を二度、チカチカッとパッシングさせた。
「!」
「おはよう、コタ」
「おっ、おはようございます、エンさん!」
「今日も元気だね。いってらっしゃい」
声が裏返ってしまったコタに笑いかけながら、エンは颯爽と走り去って行った。視界の隅にカラフルな花とにこやかな動物たちの絵柄がよぎる。
後ろについていたワゴン車が「なんだ今のパッシング? この先検問か?」と首を捻り、コタはフェンダーを熱くした。混雑したこの時間帯に、パッシングをする車なんてそうそういない。悪目立ちしてしまうだろうに、エンはわざわざ目配せをしてくれたのだ。……まるで、コタにウインクを投げかけるように。
——エンさんはただ挨拶をしてくれただけなのに、僕はいちいち動揺して……!
赤みを帯びた頬をごまかすように、コタは普段よりも荒っぽくタイヤを進ませた。ほどなく交差点、というところで右折レーンに入る。今日はやけに車列が詰まっている。信号が青に変わっても、対向車が途切れないせいでなかなか右へ曲がれないのだ。
「う〜、じれったいなぁ」
コタは苛々と呟いた。このままでは野呂さんが遅刻してしまう。信号はもうすぐ黄色へ変わる。時計を見て小さく唸った野呂さんの声に後押しされるようにして、コタは強引に前に続こうとした。だが、
「あ、しまった……!」
コタはうまく曲がりきれず、交差点のど真ん中に取り残される羽目になってしまった。周囲を通る車たちが迷惑そうに視線を投げかけていく。「これだから軽自動車は」という声も聞こえて、コタのフェンダーは申し訳なさで外れてしまいそうだった。
「野呂さん、ごめんなさい……」
野呂さんも恥ずかしそうにはしていたものの、「全然いいよ」とハンドルを撫でてくる。その優しさが身に沁みて、コタはテラコッタピンクの小さな車体をますます小さくさせた。
◆◆◆
野呂さんの職場に着いてからも、コタは胸のもやが晴れずにいた。始業時間にはなんとか間に合ったものの、乗り主に恥をかかせるなんて車失格だ、と深いため息を吐く。
そんなとき、コタの後方から静かな声が響いた。
「コタ、どうしたの」
「わっ! ……な、なんだぁ、プリスくんか」
忍び寄ってきた声の主はコタの友人のコンパクトカー、プリスだった。パールホワイトの車体の彼の乗り主は野呂さんの同僚であり、よくこうして駐車場で話すうちに仲良くなったのだ。
「本当に静かですごいや。さすがハイブリッドは違うね」
「取り柄なんてそれくらいだよ。それよりコタ、そんなに難しい顔をしてどうしたのさ。バッテリーが上がってしまうよ」
「だ、大丈夫だよ……この前バッテリー交換したばっかりだし」
ごまかそうとするコタを、プリスは瞳を細めて見つめる。聡明なプリスはなんでもお見通しだ。モーターエンジンには敵わないな、と苦笑してから、コタは自分の悩みを打ち明けることにした。
「……その、エンさんとのことで」
「エンさん? ああ、あの優しそうな園児バスの?」
「そう。エンさんはいつもすっごく優しくてかっこよくて、僕なんかに声を掛けてくれるんだけど……そのたびに僕、動揺して失敗してばかりで」
ボンネットと給油口を間違えて開けたり、交差点の真ん中で立ち往生をしたり。みんなの人気者であるエンは、知り合いのひとりとしてコタに構ってくれているだけだというのに、コタが変に意識してしまっている。
「僕、エンさんに間抜けな軽自動車だって思われてるんじゃないかな……」
「話を聞く限り、むしろコタのこと気に入ってると思うけど」
「まさか。僕なんて、税金が普通車より安いくらいしか取り柄がないのに……」
「ネガティブだなぁ」
プリスが困ったように笑う。しかし、事実として車社会では軽自動車は軽んじて見られがちだ。外装も薄く、スピードを出すのにも向いていない。コタは街乗り車としての自分の小回りを誇りに思っていたが、近ごろの失敗続きで自信をなくしていた。
プリスは周りを見渡すと、声をひそめてコタに言った。
「コタ、好きなんだね。エンさんのこと」
「え……っ?」
「だってそうでしょう。好きだから格好悪いところ見せたくない、って思うんじゃない?」
「そ、そんなことないよ!」
突然の言葉に狼狽して、コタはウォッシャー液をフロントガラスに勢いよく噴射してしまった。「わわ」と驚いてワイパーでキュキュッと拭き上げげるコタに、プリスは笑って続けた。
「良いじゃないか。素敵な園児バスに心を奪われたって」
「だから、僕はそういうのじゃ……」
「僕は応援するよ、コタ」
「…………」
プリスがゆっくりとドアミラーを開閉する。コタは照れくさいやら恥ずかしいやらで、フォグランプを明滅させた。
——僕が、エンさんを、好き……?
そんなこと、考えたこともなかった。コタは恋を知らない。コタにとってエンは憧れの対象であり、目が合っただけで車体が熱くなるだけで……。
自覚ないんだ、と楽しげに笑うプリスが憎らしくて、コタはきつく睨みつけた。そしてふと、仕返しをしたくなってしまう。
「プリスくんだってレクサくんとどうなの?」
「えっ」
「この前レクサくんと会ったとき、プリスくんが全然相手にしてくれないって嘆いてたけど」
「な、な……」
静寂なはずのプリスが、コタの言葉を聞いた途端、ギシギシとリアバンパーを軋ませ始めた。ホワイトパールの頬がサーモンピンクに染まり、プリスは視線を逸らして言う。
「……僕のことはいいよ。レクサくんは年上の国産車をからかって面白がっているだけなんだから」
レクサ、というのはコタの近所に住む高級外車だ。フラッグシップセダンタイプの彼は、高級車でありながら気さくな性格で、今から三ヶ月前に偶然すれ違ったプリスにどういうわけか一目惚れをしたのだという。
それからレクサは、道で出くわすたびにせっせとプリスを口説いているらしいが、この様子だとまだ想いは成就していないらしい。
普段は冷静なプリスが焦っているのが楽しくて、コタはふりふりと車体を揺らした。
「レクサくん、本気だと思うけどなぁ〜」
「……僕は中古車だ。ぴかぴかの新車の彼には相応しくないよ。彼、ダイアモンドコーティングもしてもらってるし、傷だらけの僕とは大違いだ」
「中古車って言ったって、走行距離1万も行かなかったんでしょ? ほとんど新車じゃないか」
「一度でも乗り主を得て一緒に走ったら、中古車だよ」
「もう、ネガティブなんだから」
今度はプリスがコタを睨みつける番だった。
しかしそのうち互いに可笑しくなってきて、ふたりは同時に笑い声を上げる。プリスの言葉に納得してはいなかったが、彼との会話で、コタの気持ちは軽くなっていた。
◆◆◆
その後三連休を挟み、コタは三日ぶりにエンと顔を合わせることになった。
エンの姿を見たコタは、まんまるの瞳をますます丸くした。なぜなら、エンの車体に描かれていた絵が全く新しいものに変わっていたからだ。前のポップな絵から……おそらく園児が描いたであろう個性的な絵に。
車列が詰まり、たまたまエンの隣でタイヤを止めたコタは、「おはようございます」と言ってからまばたきをしてみせた。
「エンさん。車体の絵、変わったんですね!」
「そう。子どもたちに、俺の好きなものを描いてくれってお願いしたんだ」
色鮮やかな花々に、生き生きとした動物たち。子どもが描いただけあって粗っぽい部分もあるが、独創的な色使いがコタの目を楽しませた。
窓からは園児たちが、誇らしげに小さな手を振ってくる。ほっこりとした気持ちになって、コタは声を弾ませた。
「みんな上手ですね! エンさん、新しい絵もとっても似合ってます」
「ありがとう。コタに褒められると嬉しいよ」
エンが本当に嬉しそうに笑うものだから、コタはくすぐったくなって「へへ」とドアミラーをパタパタ動かした。恋、という単語が浮かんで消え、危うくワイパーまでパタパタさせそうになるのをぐっと堪える。
そのうち前方の車が進み、コタは後ろ髪を引かれる思いでタイヤを転がした。
「それじゃあ、コタ。またね」
「はい! いってらっしゃい、エンさん」
ふたりは反対の方向へ進んでいく。
コタはふと、ドアミラーでエンの後ろ姿を見た。向日葵色の車体と色とりどりの花々と動物。そして、
「え……?」
花々を掻き分け動物を追いかけるようにして、そこには、テラコッタピンクの小さな車が描かれていた。