第一話
車社会の地方都市M市において、軽自動車は立派な交通手段のひとつとなっている。
まんまるの瞳がチャームポイントの軽自動車、コタもそのひとりである。彼はテラコッタピンクの——かわいいのに甘すぎないデザインだ——車体を輝かせ、今日も元気に夕方の県道を走っていた。帰宅ラッシュに入りかけた道路では、連なる車の脇を中高生の自転車が容赦のないスピードで通り抜けていく。
「日が暮れるのが早くなってきたなぁ……」
安全運転を心がけるコタは、そうひとりごちてから乗り主である野呂さんにライトを点けるよう促した。そしてまんまるの瞳がパッと明るくなると同時に、コタは自分のガソリン量が半分以下まで減っているのに気がついた。
まだ余裕はあるが、ガソリンは満タンにしておくに越したことはない。コタは野呂さんに「ちょっとガソリンスタンド寄りましょ」と声を掛け、行きつけのスタンドへと車体を滑り込ませた。
今日はカード会員ポイント5倍デーのせいか、スタンドはいつもよりも混雑していた。給油列に並びながら、コタは野呂さんが軽快に口ずさむ流行歌に合わせて車体を揺らす。
野呂さんはゴールド免許保持者で、運転も常にエコドライブだ。コタが可愛らしい軽自動車であるため、時折心ないセダンタイプに煽られることもあるが、野呂さんは「先に行かせてあげよう」といつも寛大な態度を見せる。コタはそんな理想的な乗り主を得た自分を誇らしく思っていた。
「おっ、そろそろかな」
スタンド店員の華麗な客さばきにより、ほどなくして給油の順番がやってきた。コタはマーガレットモチーフのホイールをキュルキュル鳴らしつつ前に進んでエンジンを止めた。給油口を開けなければ、とひと息吐いたそのときである。
「こんにちは、コタ」
「わ……っ!」
突然後ろから話しかけられた声に、コタは瞳をまたたかせた。バックミラーで見てみれば、彼の後ろには鮮やかなイエローのバスが次の順番を待っていた。
バス、といってもただのバスではない。車体をぐるり飾るようにして、ポップな絵柄の花や動物が描かれた園児バスである。
コタはあたふたとドアミラーを開閉させながら口を開いた。
「エ、エンさん……! いつの間に後ろに?」
「はは、結構前からいたんだけどな」
園児バスのエンは、毎朝県道ですれ違う知り合いだ。はじめのうちは会釈する程度だったが、一年以上すれ違った今は、タイミングが合えば言葉を交わすようにもなった。
ほっぺがふくふくの園児たちをわんさか乗せて、穏やかな微笑みで走行する姿に、コタはいつも目を奪われている。ゆったりとしたその足取りは大人の余裕を感じさせ、コタは密かにエンに憧れていたのだ。
「もう、声を掛けてくださいよ!」
「ごめんごめん。コタが楽しそうに歌っているものだから、邪魔しちゃ悪いなって思ったんだ」
「な……っ!」
「俺だって、気づいてもらえなくて寂しかったよ」
「うう……」
コタは恥ずかしさのあまり、テラコッタピンクの車体をディープピンクに染めた。エンジンがついていれば、彼のマフラーからは白煙が上がっていたところだろう。
——曲にノって浮かれたところを、エンさんに見られていただなんて……!
最悪だ、となおもドアミラーをパカパカさせるコタを見て、エンがくすくすと笑う。園児は皆送り届けたらしく車内はがらんとしているが、エンは柔和な雰囲気を纏ったままだった。コタはうっかり見とれそうになる自分に気づき、ごまかすようにホイールを小さく鳴らす。
「からかって悪かったよ。さあ、コタの番だ。給油してもらわなきゃ」
「は、はい……!」
エンの言葉で我にかえり、コタは「給油、給油」と呟いた。が、彼は激しく動揺していた。そのため、普段ならしないような凡ミスをしてしまった。
ボンッ、と低めの音ともに、コタの車体が揺れる。
「わ、わ……!」
「コタ?」
あろうことか、給油口と間違ってボンネットを開けてしまったのである。その事実に焦って、コタは今度はハザードランプを点滅させてしまった。
「あ〜っ、そうじゃなくて……!」
野呂さんが笑って車から降り、ボンネットを閉めてくれたからいいものの、コタは自分の失態にエンジンを熱くした。すべてを見ていたエンが後方でくすくす笑っているのが聞こえて、ますます居た堪れなくなってしまう。
「笑わないでくださいよぉ……」
「ふふ、悪いね。コタがとても可愛いものだから」
「け、軽自動車をばかにするのはやめてください!」
「そんなつもりはないよ。小回りがきいて羨ましい。それに君のまんまるの瞳が可愛らしいのは事実だからね」
「…………」
静かにそう言われ、コタは言葉に詰まった。エンと会うといつもひとりでテンパってしまう。けれどエンはこうして必ず優しい言葉を差し出してくれるのだ。
「そ、それじゃあ、僕はこれで……」
なんとか無事に給油を終えて、コタは逃げるようにタイヤを転がした。これ以上エンの前にいると、みっともないところばかり見せてしまう気がした。
「うん。じゃあまた明日」
「……また明日」
「暗いから気をつけて」
「……エンさんも」
余計なお世話だろうけど、とほんの少し唇を尖らせて、コタはまた走り出す。
コタはその志のとおり安全運転で野呂さんの自宅へ辿り着いた。しかし「また明日」と口にしたときのエンの慈しむような眼差しが、ずっと頭から離れなかった。