nth color
「あ、やっほ。起きてる?起きてるよね?」
なんだ、ここは。今の今まで、カインと戦っていたはずなのに。虚無、何もない、真っ黒な空間の中に僕はいて。
誰だ、こいつは。見知らぬ少女が一人、僕の目の前に座っていた。
「あ、誰だって思ってるでしょ。そりゃそうだよね、僕たちが出会うのは初めて。っていうか、君が僕を認識したのが今日初めてってだけだけど。薬の神の時に出ても良かったけど、あの時は出る必要がなかったからね」
…何だって?駄目だ、頭が回らない。話は聞こえてくるはずなのに、それを咀嚼できない。飲み込めない。
「大丈夫、無理しなくていいよ。僕が一方的に話すから、覚えてくれればいいよ。だから、お願い。死は、これ以上使わないで」
「僕が、君を乗っ取ってしまうから」
何が、何の話だ?死を使うなって言うのは、前にもハジメから言われたけど、ていうか、彼女は誰だ?
「遅れたけど、自己紹介。僕はメメントモリ、君に訪れる結末、だったもの。腕さんによって遠ざけられ、征服者のお嬢さんによって捻じ曲がってしまった僕は、最早死よりも残酷な結末になった」
「今の君に影はいない。僕を抑えるものは何もない。あの大陸に置いてきてしまった。それでも、君が力を使わなければ、僕は大人しくしていられる。だから、絶対、僕を使わないで」
そう言って、彼女は僕の小指に、小指を結んで、指切りげんまんと言った。
「ああ、そろそろ日本につく。君も目覚める時だ」
それから、彼女は僕の頬にキスをした。
「愛してるよ、タクト」
*
「―はっ!」
何だったんだ今のは、夢?嫌、夢とも思えない。だって、何故なら、僕の目の前に広がるこの光景は。
「こ、こは」
一宮院市、間違いない。僕が生まれ、育った故郷。立ち上がって、歩いて、くしゃっと鳴って、砂浜を歩いていることに気付く。
全身が水浸しで砂まみれで、気持ち悪い。一刻も早く、洗い流したい。ていうか、今、僕、何着てる?流石に浮くよな―。
「…この服って、もしかして」
僕があの大陸に迷い込んだ時に着ていた服だ。もうボロボロになってしまったはずの服が、あの時のままで僕の身に纏っていた。
時空間が滅茶苦茶になってる。日本、っていうかこっちの世界とあっちの大陸で。あー、嫌な予感がする。これが何を意味するにしろ、まずは行動すべきだ。考えても、結局、どこまで行っても推論に過ぎない。
「…観測は、もうされてるだろうな」
影が起動しないから確認は出来ないけれど、これを見逃す九窓監視局じゃない。露さんが来る前に移動しよう。
「どう動くべきかな」
ハジメの話によると、この世界の僕はどうやら院との繋がりを断っている。なら、僕が足を運んでも門前払いされてしまうかもしれない。海辺なら少し話せば、事情を全て察してくれただろうが、彼はもういない。
「とりあえず、情報が欲しいな」
こうして突っ立っているだけじゃ何も始まらない。僕はコンビニに向かってみることにした。
「しゃいませー」
ずぶぬれの僕を見ても動じずに、嫌、無関心に挨拶してくれる店員に、嬉しいのと懐かしさで泣きそうになりながら、僕は新聞を手に取った。
どこかの船で感染症があって隔離中だとか、マスクが品切れだとか、見覚えのあるニュースが並んでいるのを見る。
「…ん?」
ちょっと待て。これって、僕の世界でもあったことだ。征服者に世界が破壊される、少し前の出来事。思い出せ、ハジメがいたのは何年だって言ってた?駄目だ、思い出せない。彼女が言ってたのかも微妙だ。ここは、僕が今いるこの場所は、一体、いつなんだ?まさか、まだ、征服者は、完全起動に至っていない?
新聞をたたんで外に出る。呼吸が荒くなる。自然と足が、実家の方へ向かう。駆け足になる。確証はない。ただ、その可能性が浮上したというだけ。だけど、もう、居ても立っても居られない。僕がどういう扱いを受けようが、これを確かめなきゃ、何も始まらない。
「はあ、はあ、はあ、はあ!」
この世界にはまだ、ハジメが来ていないんじゃないかという、疑念を確かめなきゃ。
この世界は、ハジメが来るより前の時代なんじゃないかという、想像を確かめなきゃ。
*
実家まで、徒歩で1時間近くかかった。出来るだけ人通りの多い道を選んで、朝早くから散歩をしていたお爺さんやランニングをしていた女性に奇異の視線を向けられながらも、僕は実家に辿り着くことが出来た。
相変わらずの、日本家屋だ。古ぼけた、と言うには余りに広く、そして趣がある、大邸宅だ。何年も帰っていなかったから、そんな他人事のような感想さえ抱いてしまう。住んでた頃は、二条院や三礼の現代的な建築が羨ましく思えたものだけど。
「…さっさと、インターホンを鳴らそう」
心臓がばくばくしてきた。そう、声に出さないと乗り切れないくらい、心臓の音が大きくなる。指先が震えてきた。笑っちゃう、なんで実家に顔を出す程度のことでこんなに緊張してるんだ。
震える指先がようやくボタンに辿り着いて、そのまま少し力を入れるだけで、ディンドーンとベルが鳴った。
【誰だー?】
…光。彼女の声を聴いただけで、さっきまでの緊張なんてどこかへ消えてしまって、代わりに涙が込み上げた。上手く、話せそうにもないくらいに、涙がすぐそこまで近づいてきて、必死で僕は言葉を紡いだ。
「光、ぼ、くだよ。タク、タク、タクト」
【おータクトか、幽霊か?】
ああ、そうか、やっぱり、この世界の僕はもう、死んでいたんだな。だったら、さっきの僕の想像も、また、現実に近づく。
【光、知り合いか?】【タクトだって。幽霊って本当にいるのか?】【何を馬鹿な…】
あ、不味い。破魔矢だ。破魔矢の声を聴けたのは嬉しいけど、この状況で出てこられるとややこしいだけなので止めてほしい。
【おい、あんたが誰かは知らないが、悪趣味な真似は―】
「七天院破魔矢、7月8日生まれ19歳。七天院震天の長子、七天院腕の甥、七天院光の兄、七天院タクト及び天燐の従兄弟。異能の名前は【破天荒】、弓矢を生み出し操る異能。と表向きには思われているが、実質的には膨大な質量を射出する異能であり、弓矢の形にしているのはその質量を抑えるため。それにより、本来【院】の特級戦力に数えられるはずだったところを、震天と腕の発案により隠蔽することに―」
【…何故それを】
「僕が、七天院タクトだからだよ。破魔矢」
ここまで言ってしまったら、後は賭けだ。次の要求を、破魔矢が飲んでくれることを祈るしかない。
「ここを開けてくれ、破魔矢。父さんがいるなら、父さんに判断させなよ。あの人なら、分かるって知ってるだろ?」
【…はあ、全く、まともな来客がいない】
溜め息をつくと、彼はインターホンを切って、玄関までやってきた。
「おー、本当にタクトだ」
「…確かに、見た目はタクトに瓜二つだな」
彼らは僕を中に促した。少しばかり迂闊じゃないかと言いたくはなるけれど、実のところ、この二人がいれば単体の侵入者程度、容易に制圧可能だ。それに、光。あいつが、破魔矢を説得してくれたに違いない。
「光、元気だった?」
「まー、元気だよ。そっちの知ってる私より元気かは知らんけどな」
だろうね。光の感は尋常じゃなく鋭い。僕が抱えている事情も、今までのやり取りの中である程度は理解したんだろう。僕が本物だという確信も。
「そっちって僕の部屋じゃない?カマかけ?」
「…悪いが、私はまだ、あんたを信用してないんでね」
悪いけど意味ないよ、破魔矢。疑うのも分かるけど。案内もいらないんだ、本来。
それからは素直に先導してくれた。信じてくれた訳ではなく、その程度の情報を持ってると判断しただけなんだろうけど、まあ話が早くて助かる。
「ここで待て」
「じゃね」
二人はそう言って、監視もつけずに行ってしまった。監視もつけなくていいのだろうか、と少しだけ思ったものの、考えてみれば【明座】のメンバーがここにはぞろぞろといる訳だ。侵入者が暴れようが、すぐに鎮圧可能だということなんだろう。最悪でも、破魔矢と光、いるかは知らないけど天燐が駆けつければいい。
そうと決まれば、好きにくつろがせてもらおう。こちとら数年ぶりの日本なんだ。そう思うと、もう食べたいものが溢れてくる。ジャンクなものとか甘いものとか、普通に寿司とかもありだしラーメンも食べたいなあ。喉も乾いてるし、ひとまずは飲み物か。
何を頼むか考えていると、外で足音が聞こえた。頼むチャンスだ。
襖を開けると、僕と同年代の女の子が、目を丸くしていた。ああ、良かった。こっちの世界にもいてくれたか。僕が死んでも、七天に残ってくれたのか。
「羽計、クリームソーダを頂戴」
「―かしこまりました。タクト様」
彼女はそれからすぐに、いつもの無表情を見せてくれた。長すぎた数年には、その表情が余りにも懐かしく思えて、また僕は泣きそうになった。
涙をこらえている内に、外から足音が聞こえた。
「早かったね―」
僕はその足音を羽計だと思って、そう言って振り返った。
振り向くと、そこにいたのは、死んだはずの、僕の友人。
「…海辺」
二条院海辺だった。
「やあ、友よ。生きて再会できたことを喜ぶべきか?それとも―」
「お前の世界が終わったことを悲しんでやるべきか?」
ああ、クソ野郎。この世界でも、何も変わっちゃいない親友の二やついた笑みを見て、僕は何度もこらえてきた涙が、遂に溢れた。
「死んだんじゃないのかよ…」
「誰情報だよ、それ。まあ、死んでることにしたのはその通りだが」
まあ、そうだよな。こいつがそう簡単に死ぬわけがない。そして、こいつがいるならもう一人、僕の友人がこの場にはいるはずだ。
「出てきなよ、篝。海辺がいて、お前がいないなんてことはあり得ない」
僕がそう言うと、海辺は笑って、指を鳴らした。あーあ、また篝怒るよそれ。
それから、ようやく篝は現れた。何もなかったはずの空間から、突然出現したように。驚くことじゃない。篝にとってこの程度の隠密は息をするように容易い。
「…本当に、これがタクトだと信じているのか、お前は」
「当然。僕らを騙すつもりなら、わざわざあいつの名を騙る必要がない」
やっぱり、篝は僕を疑っていた。こいつと言い、破魔矢と言い、まともな人間は損だな。海辺とか光みたいなねじの外れた奴に振り回されて。この場合、ねじの外れた側に僕も混じるというのは考えないでおく。
「それに見て見ろよ、この間抜け顔。あいつ以外にこんな顔できる奴いるか?」
「お前そんな風に思ってたの?」
初めて聞いたけど、怒るべきなんだろうけど、笑みしか出てこなかった。ああ、懐かしい。こんなやり取りがまた出来たことが、嬉しすぎて。
「仮にだ。お前の言うことを信用したとして、こいつは何なんだ?俺たちは確かに、葬儀でタクトの死に顔を見た。それだけじゃない、死に際の、何本も点滴を打って、まともに会話もできないあいつを見ただろ。なんで、生きてるんだ。死んだ、はずだろう?」
「釈迦堂曼荼羅」
「何?」
矢継ぎ早に言った篝に対して、海辺は一人の名前を答えた。その唐突とも思えた名前に、思わず篝は問い返す。
「釈迦堂曼荼羅氏が見た、無限の並行世界。だが、驚くべきことに、殆どの世界は、ここの様に知的生命体が誕生しておらず、下手すれば地球すら存在していない、ビッグバン直後の世界すらあった」
…違うな。僕の世界とは。ようやく分かりやすい乖離が見えた。
そもそも曼荼羅氏が見ることが出来た並行世界はずっと、限られていた。彼女が見ることが出来る並行世界は、自分が存在する世界に限られていた。それでも億や兆では足りないのだろうけど、決して、無限などではなかった。そして、他の世界の曼荼羅氏も同様の制限があった。
「僕はね、一つ仮説を立てたんだ。おかしいのは他の世界じゃない、この世界だってね」
だが、もしも、乖離などではなかったら?曼荼羅氏の能力はここでも変わらないものだったら?なら答えは一つだ。
「…紫城美月が一度壊した世界、それを作り直したのが、今ここにある世界、そういうことだよね」
「良く分かったな、タクト。それとも知っていたのかな?」
海辺の問いに僕は曖昧に頷くにとどめた。どこまでこいつは読んでいるのか、この反応ですらも海辺の手のひらの上に思えてならない。大陸のことすらも、こいつは知っているのではないかと疑ってしまう。それだけの頭を、こいつは持っている。
「それで僕は、その壊れた世界にいた方のタクト。納得してくれた?篝」
「…納得できるか。新たに疑問が湧いて出てくるだけの話だ。仮にそれが真実だとして、何故お前は生きている。どうやって終末を生き延びた、どうやって年を取らずに生き続けている、どうやってここに来た?」
篝の矢継ぎ早な問いを聞いて、海辺はにやにやと笑っていた。それで、僕の疑いは確信に変わる。こいつは全てを知っている。だが、それはこいつの頭の中だけで作られた推論ではない。僕以外の、情報筋がある。そしてそれの正体は―。
「お待たせしました」
「ありがと、羽計」
僕がその正体を口にする前に、襖の先から声がした。僕は立ち上がって、襖を開けて受け取った。
流石は羽計、最高のクリームソーダだ。シロップと炭酸水の配分は勿論、アイスクリームも最高だ。滑らかで、シルキーで、そのまま食べても、ソーダに溶かしてもおいしい。懐かしい、もう二度と飲めないと思っていたものを、羽計のクリームソーダを今、僕は飲んでいるんだ。
「うっ、うううう」
「こいつさっきより泣いてないか?」
泣きたくもなる。もう二度と飲めないと思っていた物を飲めたんだ。多分、昼食食べたら、またぼろ泣きする。
「タクト様、お食事をお持ちしましょうか?」
「嫌、羽計、大丈夫。出来れば食事は皆で食べたいから」
「かしこまりました」
ていうか、そろそろシャワー浴びたいな。磯の香りがきつくなってきた。シャワー借りていいか聞こうかな。
「待たせたね」
と、その時、また、襖が開かれた。甚平姿で現れた男は僕を見て、穏やかに笑った。その男を、僕は良く、知っていた。
「父さん」
自然と、そう、呼んでしまう。生前は、前の世界では、素直にそう呼べなかった。僕を生かすために、僕を怪物にしてしまった父のことを、僕は父さんとは呼べなくなってしまっていた。
だから、僕は心から安心した。父のことを、また素直にそう呼べるようになったことに。心残りの一つが晴れたことに、安心していた。
「おかえり、タクト」
「…全然驚かないんだね」
「知っていたからね」
そう何でもないように言ってのけた父さんの背後に、もう一人いることに気付いた。見覚えのある、でも決して見たことがない女性。その正体を、僕は彼女の声を聴いて、ようやく気付くことが出来た。
「や、タクトくん」
「やっぱり、君か」
海辺が全てを知っていた理由は、やはり。ハジメが、僕が知る彼女よりも十年ほど年を経た様に見える彼女が、そこにはいた。
「随分、変わったね」
「…えっち」
何がだ。誰もそんなことは言ってない。
僕はため息を吐いてから、真っ先に、気になったことについて尋ねる。
「あれから、何年?」
「大体、千年くらい。あっちとこっちを行き来してる間に、老化が止まっちゃってね」
千年、か。ある程度の時間が経っているのは予想したが、桁外れだった。
「…他の皆は?」
「ルゥが死んだ。それと、カミィが封印された。他は、皆元気にやってるよ」
…おかしいな。ルゥが死んだのはおかしくない。寿命が来ただけだ。死んでいなければおかしい人間が一人、そして、カミィが封印されたということ。その二つに、嫌気が差す程に共通項が見える。
「ダンタリオンに何が?」
「…気づくよね、言いたかないんだけど、言わなきゃダメ?」
「話してよ。千年ぶりの再会だろ?」
ハジメは少しだけ思案してから、覚悟を決めた様に一息吐いた。
「それじゃ、話すよ。君がいなくなってからのことを。カインを倒した後、何が起きたのかを」




