雷鳴
それは今にも雨が降りそうな夏の日のことだった。
その日。12歳になったリリアーヌは、王宮の敷地内に建てられた自分の工房にいた。
アーヴァンドが進める天災対策に必要な軽くて頑丈な建築材。王妃御用達の化粧水やヘアオイル。今では騎士団の騎士たち必需品となった、いざと言う時に身代わりになってくれる護衛石。魔術師たちの魔力を増幅させる精霊石を使ったアクセサリー。宰相愛用の毛生え薬。
この6年でリリアーヌが開発に成功したアイテムは、今や王宮に暮らす人たちにとって――いや、国にとってなくてはならないものになっていた。
そして、何より肝心な、穢れに呪われてしまったものを呪いから解放する『エンデの鏡』。
以前、神父さまに頼まれた魔除けのクリスタルから着想を得た鏡が、最近ついに完成したのだ。
(あのマデュルの森の黒狼以来、穢れの報告はないけど、国に穢れが広がる前にエンデの鏡が完成して本当に良かった……。こんなに早く研究が進んだのは王様と王妃さまのおかげね)
感慨深く、手元にあるエンデの鏡と、国王たちがリリアーヌのために用意してくれた工房の室内を見回す。
壁に作り付けられた棚に並ぶ、薬草や粉末の入った瓶。火薬。蝋燭にランプ。詰み上がったたくさんの本に、中央の大きな釜。
これらは全て彼らが援助し、揃えてくれた物だ。
(でも、図書館増築の工事だと思ってたら、実はこの工房を建ててたのにはビックリしたっけなぁ)
リリアーヌの才能を気に入り、実の娘のように可愛がるようになった国王夫妻は『王宮内に工房があった方が何かと都合が良いだろう』と、図書館の隣にポンとリリアーヌ専用の工房を建ててしまったのだ。
最近なにか工事をしているな~。とのほほんと思っていたリリアーヌは、サプライズで工房をプレゼントされて度肝を抜かした。
『ほら、リリィの開発した新しい化粧品は真っ先に試したいでしょう? そのためには錬金術用の工房を近くに建ててしまうのが一番だと思って。ラウールの部屋の隣に貴女の休憩部屋も用意したから、疲れたらいつでも泊まって行ってね? アスタロッド伯爵の許可もとってあるの。……本当は同じ部屋でも良いと思うのだけど』
そう羽扇子で口元を隠しながら優雅に首を傾げる王妃の笑顔に、寒くもないのに背中がゾクリとしたのは記憶に新しい。
ちなみにその用意されたラウールの隣の部屋は、何故か内側の扉で彼の部屋と行き来できるようになっていた。
(ラウールの部屋に簡単に行けるようになってるなんて、少し不用心ではないかしら? 家族のように信用してくれているのは嬉しいけれど……)
防犯的に大丈夫なのかと聞いたリリアーヌに、ラウールは『むしろ俺が狼にならないようにリリィの方がちゃんと鍵をかけておいてね』なんて笑っていたけれど、あんなに美しい少年がどうやって狼になるというのだろう。
(ラウールを動物に例えるならもっと優雅で優しいペガサスとか。……とにかく肉食ではないわよね)
リリアーヌ12歳。社交デビューもこれからで、前世でも人生のほとんどをベッドの上で過ごした彼女は、知識は豊富でも周囲の人間の感情には鈍かった。
(それにしても“狼”か……)
その単語に思い浮かぶ、あの大きな黒い獣。
何故だろう。
今日は妙にマデュルの森を思い出し、胸騒ぎがする。
(大丈夫よね? エンデの鏡は完成したんだもの。もし今、また穢れが発生してしまっても、大丈夫よね?)
不安を振り払うように、銀細工で囲まれた鏡面を撫でる。
(まだ、本当にこの鏡で穢れを祓えるかどうか、実際には試せていないけれど……。このまま何も起きずに鏡の力を試すことができないなら、その方がいい……)
そう考え込んでいると、不意に部屋が薄暗くなった。窓の外を見れば灰色の雲が空を覆っている。
ポツポツと雨粒がガラスに当たった。
「雨、降ってきたのね。なんだか、雷まで鳴りそうな、嫌なお天気……」
「――リリィっ!」
雨を憂うリリアーヌの呟きは、乱暴にドアを開ける音と、ラウールの声にかき消される。
驚いて入り口へ視線を向ければ、肩で息をするラウールの姿があった。
「ラウ?! どうしたの、そんなに慌てて」
駆け寄って、自分より少し目線の高くなった少年を見上げる。
いつもは泰然とした彼の表情が、珍しく強ばっていた。
「…………らしい」
「え?」
「シンシアの、母親が、公爵夫人が倒れたらしい。しかも、夫人を覆うように黒いモヤが……っ」
「! まさか……!」
「――そう。あの時の黒狼と同じ、穢れの呪いだ」
「そんな……! シンシア……!」
親友の名前が悲鳴となってリリアーヌの口からこぼれ落ちる。
真っ先に、彼女の勝ち気な笑顔が脳裏に浮かんだ。