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後編 〜麗しの歌人〜

春の訪れとともにペリエ城の周囲にはたくさんの水鳥が集まってくる。湖のほとりで繁殖し、子育てをするためだ。雪を割って芽を出した草花が大きく育ち、生き物達が活発に動き始めるこの時期が、ペリエ領の最も輝く瞬間だった。

ユーリ・ド・アンペリエールことペリエ伯が城主となって半年。

初めての春を迎え、ようやくまともな仕事が出来るなとユーリは安堵した。

冬季に滞っていた仕事を消化するには当分かかりそうだが、幸いなことにその時間は充分ある。

ペリエ城での暮らしは快適だった。食事や寝場所に困らず、冬の寒さに震える心配もない。

そして、何よりも....


「奥様には無理ですよ。」

中庭の方から声が聞こえた。どうやら侍女のアンナのようだ。

ユーリは小窓から顔を出して中庭を見下ろした。すると、そこには何かを抱えて四苦八苦するシャリナがいた。

「奥様はやめて。いつも言っているでしょう」

シャリナは息を切らしながら言った。

「...でも、奥様は奥様です。」

アンナは困り顔で言い返した。召使いながらアンナは同じ歳で、幼い頃から一緒に育った仲だ。

「それは...そうだけど。」

建前上はね....シャリナは心の中で呟いた。

ユーリとの結婚が契約だと言うことを城の者は誰も知らない。それもユーリと始めに交わした約束のひとつだった。全ては物事を円滑に進めるためにと。そして実際、ユーリは優れた城主になった。この半年間に行った彼の業績は目覚ましく、ペリエ領はかつてない安寧の時を迎えている。

ユーリが私のことも大切に想ってくれているのは解ってる...でもそれは妻としてじゃないもの...

小さめだが葡萄酒の入った樽を抱えているので、シャリナは少し歩き辛さを感じていた。アンナは慣れているのか軽快に先を歩いている。

「大丈夫ですか?」

アンナは振り返った。

「無理をなさらないで下さいね。」「これくらい平気よ。」

シャリナはムキになって言った。ユーリにいつも子供扱いされているせいで認めるのが悔しい。とは言え、少し休憩...と立ち止まった時だった。

「あ、お館様」

アンナが横を向いたので、シャリナも同じ方向に視線を移した。そこにユーリがいて、こちらに歩み寄って来る。

シャリナは慌てて樽を持とうとしたが、手が滑って上手く持ち上がらない...

「その有様だと厨房に着くのは夜になるな。」

ユーリは言い、シャリナから樽を奪い取った。

「そんなわけ...」

シャリナが言おうとすると、アンナが戻って来て言った。

「お館様、奥様には無理と申し上げたのですが...」

「解ってる。これは私が持って行くからお前は先に行きなさい。」

アンナは安堵した様子で会釈をすると先に行ってしまった。

「仕事の邪魔をしないで。」

シャリナはむくれて言った。

「仕事?侍女への嫌がらせにしか見えんぞ。」

ユーリは樽を肩に担ぎながら言った。その顔には笑みが浮かんでいる。

「酷い...言い過ぎよ。」

シャリナの目が大きく見開かれ、ユーリの瞳を捉えた。少し変わった菫色の瞳が愛らしい。

「これは奥方の仕事じゃない。そんなに仕事がしたいなら...そうだな。」

ユーリはしばらく思案すると、シャリナの手を握って言った。

「来い。」


周囲には「お館様と奥方様が手をつないで歩いていらっしゃる。なんと微笑ましい...」と見えているらしいが、実際はユーリに手を引っ張られて痛いだけだった。歩幅が合わないので転びそうになる。

ユーリはお構いなしに歩き、厩舎まで来ると馬丁に馬を出すように言った。

「どうするの?」

シャリナは尋ねた。

「先ずは経験からだ。」

「経験....?」

言っているあいだに、シャリナはいきなり馬の背に乗せられた。ユーリも素早く背後に付く。

「捕まってろ。」

ユーリは言い、馬を前進させた。初めはゆっくりと、そして次第に速度を上げて...

シャリナの視界に見たことのない世界が広がった。馬に乗るのも初めてだったが、それ以上に、まるでユーリが見ていたあの光景を一緒に体験しているようだ。

ユーリはさらに拍車をかけて速度を上げて疾走する。

心地良い...とシャリナは思った。あの『漆黒の狼』が私のために馬を駆っているなんて...贅沢ね。ああ、ユーリの息遣いを感じる...ずっとこのまま走っていたい....

湖のほとりを周回し、途中で馬に休憩を与えてから、ふたりは再び城に戻った。

ユーリの手を借りて馬を降りたシャリナは、お礼を言いながらユーリの愛馬にキスをした。

「楽しかったか?」

ユーリは言った。

「ええ、とても!」

シャリナは笑顔でうなづいた。

「そうか...じゃあ決まりだ。」

「決まり?」

ユーリはニヤリと笑った。

「明日から乗馬を教えてやろう。身に付けておいて損はないぞ。騎士の妻なんだからな。」

「え...ええっ⁉︎」

シャリナは仰天して声を上げた。


シャリナがユーリに絞られているのを横目に、召使い達はニコニコしながら働いていた。「本当にお二人は仲睦まじい...」と囁き合って。

....他人事だと思って!

シャリナは悲鳴をあげていた。

ユーリはとにかく容赦がなかった。

よほどのことがない限り乗馬訓練に休みは無く、ユーリの特訓は毎日続けられる。姿勢が悪いとか馬の気持ちを考えろとか....この人には温情ってものがないの?そんなに厳しくしなくてもいいじゃない!

シャリナは辛さと痛みに耐え、泣きながら馬に跨った。たとえ泣き言を言ってもユーリは決して妥協してはくれない。シャリナが顔をぐしゃぐしゃにして帰っても慰めてすらくれなかった。

そうして春は過ぎ去り、夏を迎え、さらに農民達が小麦の収穫を終えて脱穀を始める季節になると、シャリナの乗馬技術は格段に上がっていた。

「良くやった。褒めてやる。」

ある日、ユーリがシャリナの頭を撫でながら言った。

「俺の指導はこれで最後だ。褒美としてこれを贈ろう。」

馬丁が厩舎から一頭の馬を連れて来た。綺麗な薄灰色の馬だった。

「今日でめでたく17歳だな。」

シャリナは感動して言葉も出なかった。思いがけない贈り物だった。

「ありがとう、ユーリ!」

シャリナは言った。その勢いで彼の胸に飛び込みたかったが、それはかろうじて我慢した。


「もうすぐ冬ね....」

シャリナは寂しそうに呟いた。ひと月後には雪が降り始めるだろう。また閉ざされた季節が来る。馬での遠乗りも春が訪れるまでお預けだ。

でも...とシャリナは微笑んだ。

「ユーリのいる冬なら大丈夫。」

ユーリは領地の見廻りに出かけて留守だった。シャリナは昼間の庭園で縫い物をしており、風もなく穏やかな日和だった。

「奥方様。お客様がおいでになっています。」

家令のゼフェルがやって来て伝えた。

「お客様?」

「はい。奥方様にお目通りをと。」

シャリナは縫い物を置き、すぐにエントランスへと向かった。

そこには若い男が立っていた。羽飾りの付いた帽子を被り、紋章入りのチュニックを身につけた騎士だった。

「お待たせしました。シャリナ・デ・アンペリエールです。」

シャリナは丁寧に会釈をした。

「奥方か?」

「はい。」

「ペリエ伯は留守のようだな。」

「ええ、主人はあいにく、領地の見廻りに。」

「それは残念だ。漆黒の狼と話せる良い機会だと思っていたのだが...」

「あの...貴方は...」

騎士は気付き、帽子を脱いで胸に当てた。

「失礼。私の名はフォルト・ド・パルティアーノ...王の勅使だ。」

シャリナは驚き、口に手を当てた。ユーリの決戦相手....

「国王陛下より、ペリエ伯宛の親書を申し遣って来た。これをお渡し願おう。」

フォルトが差し出した書簡入れをシャリナは受け取った。

国王陛下の勅命....と言うこと?

シャリナの胸が騒いだ。

「....夫人。ペリエ伯との結婚はブランピエール公の肝いりと聞くが、それは真実か?」

唐突にフォルトが尋ねた。

「え?」

シャリナはフォルトを反目した。フォルトの鳶色の瞳がシャリナをじっと捉えている。

彼は若々しく、精悍な顔立ちで、育ちの良さを感じる騎士だった。

「はい。」

シャリナは思わず視線を外して頷いた。

「なるほど。貴方ほど若く美しいご婦人が、何故あの漆黒の狼と縁を結んだのかと疑問だったのだが...」

フォルトは薄く笑みを浮かべた。

「これで合点がいった。」

では。と言うと、フォルトは背を向けた。肩に掛けた外套がひるがえり、腰に吊るした剣がちらと覗き見えた。彼の地位の高さを象徴するように、宝石が施された立派な剣だった。


帰宅したユーリは、シャリナの表情を一目見て、何か異変があったとすぐに察した。

菫色の瞳には輝きがなく、いかにも不安そうにしている。

「...何があった?」

ユーリは外套を脱ぎながらすぐに尋ねた。

「フォルト・パルティアーノ卿がおいでになったの。」

「フォルト?パルティアーノ?」

ユーリは驚いて言った。

「本当か?」

「本当よ。これを貴方にって...彼は国王の勅使だと...そう言っていたわ。」

シャリナはフォルトから受け取った筒をユーリに差し出した。

ユーリはすぐに筒を開け、内容を読み始める....

沈黙が続いた。ユーリはしばらく黙っていたが、やがてシャリナに視線を戻した。

「国王からの勅命だ...王城へ行かねばならん。」

シャリナの不安が的中した。

「いつ...?」

「なるべく早い方がいい。」

「いつまで...?」

「判らん。行ってみないことには...」

ユーリはいまにも泣きそうな顔をしているシャリナの頬を撫でた。

「なんて顔してる。今生の別れでもないだろう。」

「だって...」

「国王の招きだから断れないが、要件が済めばすぐ戻る....雪が積もる前にはな。」

「本当?」

「ああ。」

嘘だな..とユーリは心中で呟いた。

王が直々に勅使を遣すからには、よほどの要件があるのだろう。

「それなら....我慢する...」

シャリナは言った。その表情はまだ子供のようで、とても「夫人」には見えなかった。

シャリナはまだまだ子供だ...

出来ればペリエ城を離れたくないとユーリは思った。王城に出向けばシャリナとの契約も果たせなくなる。

「冬支度を急ごう。俺が発つ前に、出来るだけ多くの事を済ませておかねばならん。」

ユーリは言うと、シャリナの肩に手を置いて微笑んだ。

「旅支度は任せる。」 


その後も、シャリナの気持ちはずっと沈んだままだった。

ユーリのいない暮らしなんて考えられない。寂しい....そればかりが心を苛む。泣き顔を見せたくないので、そう言う時は部屋に引きこもって 泣くようにしていた。今もそうだった。

「シャリナ様...」

アンナが声をかけた。

「お館様がお呼びです。」

シャリナは慌てて涙を拭った。

「こんなに忙しい時に...私、何をしているんだろう。いい加減しっかりしないと...」

ユーリが発つのは明日...心配かけないようにしなくては...

「こっちだ。シャリナ!」

ユーリは大広間で待っていた。暖炉の火が燃えている。その前に立ってユーリがこちらを見ている。

「暖炉に火を入れたのね。」

シャリナは言った。

「ああ、これで凍えなくて済むぞ。」

「暖かい...」

シャリナは手をかざした。ユーリの顔も火に照らされている。...まるで彼の温もりのよう....

そう思うと、涙が溢れ出た。もう止められない....

泣き出すシャリナを見て、ユーリは困惑した。どうするべきなのか対応に迷った。

「やっぱり我慢できない...」

シャリナは言った。

「行かないで...」

「シャリナ...」

ユーリはなだめる様にして、シャリナを軽く抱き寄せた。 

「俺がいない間はお前が主人なんだぞ。しっかりしろ。」

シャリナは泣きながら幾度もうなづいた。大丈夫、心配しないでと言いながら....

翌朝、ユーリは王城へと出立した。

見送るシャリナはもう泣いてはいなかった。真新しい手縫いの上衣を用意してくれており、これを着て行ってと寂しそうに言うだけだった。

遠ざかって行くペリエ城を背にしながら、ユーリは強烈な後ろ髪を引かれている自分に困惑した。今日ほどシャリナを意識したことはない。離れて暮らす虚しさと、妻を独りにさせる不安...その両方が一度に襲いかかってくる。

これが既婚者の気持ちってものか....

ユーリは思わず苦笑した。

王城のあるルポワドへは馬でも3日の道のりだ。伴を連れず単身で駆ければその分到着も早まる。王の勅命とやらを早く聞き、シャリナに結果を伝えよう。


国王マルセル・ゴウト2世は、つい数年前に即位したばかりの若き王だった。

銀の髪に紺碧の瞳、その眼差しは常に威圧的で、その容貌から、雪原の銀狐と称される強面の持ち主である。

ユーリは王城に着くと、すぐに王のもとへ案内された。

謁見の間に入ると、玉座で足を組み、肘掛けに肘をついて座っているマルセルがそこにいた。

「なんと!」

マルセルはユーリの姿を見るなり仰天し、思わず前のめりに身を乗り出した。

「そなたの妻はいったいどんな魔法を使った⁉︎」

すっかり身なりが良くなったユーリをしげしげと見つめ、王はひとしきり感心した後、ようやく背もたれに寄りかかった。

「久しいな、漆黒の狼。」

「は...」

「妻を娶ったそうだな。クグロワの姪だとか...聞けば未だ10代と言うではないか、なんとも羨ましいことよ。」

ユーリは黙っていた。まさかこんな揶揄を言うために、あんたは俺を呼んだわけじゃないだろう。

「そなたが結婚とはのう....」

マルセルはさらにしつこく言ってユーリを苛立たせた。その口もとには皮肉な笑みが浮かんでいる。

「失礼ながら陛下、私をお召しになった理由をお聞かせ願いたい。」

ユーリは言った。

ゴウドはふむ...と一息つき真顔になった。

「我が妹、クロウディアが隣国に嫁ぐことになった。それにあたって、我が国の騎士団を隣国メルトワに派遣しようと思う。祝いの席でメルトワ騎士団とのトーナメント戦を催すためだ。」

「トーナメント戦を?」

「そうだ。そこで、我が国の覇者、漆黒の狼に団長としてルポワド騎士団を率いて貰いたい。」

やはりか...

ユーリは眉根を寄せた。

「妹君の輿入れはいつに?」

「ひと月後だ。それまでに戦士を募り、そなたが鍛えよ。」

マルセルは当然のように命じた。

ひと月後にメルトワへ発ち、トーナメント戦を行った後に凱旋...ペリエに戻れるのは早くて3ヶ月...いや、4か月はかかるかも知れない。

ユーリの脳裏にシャリナの顔が浮かんだ。

それを知ったらあいつは....

「そんなに新妻が気がかりか?」

マルセルは訝しげに訊いた。

ユーリは我に帰った。無意識に想いに耽っていたらしい。

「凱旋後はそなたに男爵の地位を授ける。これなら奥方も文句は言うまい?」

マルセルは自信ありげに言った。王の常識ではそうなのだろう。

「仰せのままに。」

ユーリは短く答えた。

選択の余地は無い。如何に後ろ髪を引かれようとも...

「うむ。頼んだぞ、漆黒の狼。」

残忍な微笑みを浮かべながら、マルセルは頷いた。


ユーリからの知らせを受け取ったシャリナは、その場でポロポロと涙を落として泣いた。どんなにアンナや召使い達が慰めても泣き止まなかった。

ユーリは戻って来ない。もっと遠い地に行ってしまう....

そのことがシャリナの心を押し潰した。

冬の訪れを迎える頃になると、シャリナは床から起きられなくなった。

徐々に体重が減って行き、別人のように痩せ細った。


冬の深まりとともに、雪が舞い始める。主人のいないペリエ城はひっそりと静まり返っていた。召使い達はユーリに命じられた通り、淡々と仕事を続けている。シャリナが病弱になって、家令のゼフェルが全ての管理を取り仕切っていた。

 ある日、ペリエ城に数名の修道士が訪れ、一夜の宿を願いたいと言った。

急に雪が激しくなり、先に進むことが困難になったのだと言う。

ゼフェルはシャリナにその旨を伝え、シャリナは許可を出した。困っている旅行者に手を差し伸べるのも城主の役割だからだ。

ところが雪は止むどころか日増しに激しくなり、例年になく降り続けた。辺りは深い雪に覆われ街道も閉ざされて、旅をするのは無理に等しかった。

「修道士様達に手厚いおもてなしを...」

シャリナは言った。

「幸い今年は蓄えが十分にあるわ。旅が再開できるまで、滞在を許します。きっとユーリもそうするから...」

その夜、

シャリナは聞き慣れない音で目を覚ました。

耳を傾けると、弦楽器を奏でる音のようだった。

シャリナは起き上がり、ガウンを着ると音を辿って歩き出した。音は段々に近くなり、やがて大広間から聞こえていることが判った。

男性らしき歌声と、リュートの演奏が聞こえる。優しい歌声だった。

大広間には多くの召使い達が集まり、それを皆静かに聴いていた。

シャリナはそっと近づき奥を覗いた。

そこには美しい青年がいた。リュートを抱え、置かれた椅子に座って歌っている。

彼は修道士ではなかった。頭に乗せたフエルトの帽子と長めのチュニック、そして脇には剣を携えている。

青年が歌い終わると、そこにいる皆が拍手をした。そして顔を上げた彼は、隅にひっそりと立っているシャリナを見つけた。

「シャリナ様...」

召使いのひとりが気づいて言った。その名を聞くと青年は立ち上がり、リュートを置いて歩み寄って来た。

近くで見る彼はさらに美しい容姿だった。錆色の巻毛に白い肌、瞳の色は青みがかった緑だ。

「奥方様....」

彼はシャリナの前で跪き、胸に手を当てて言った。

「私の名はヴァルダー・フォン・フィッツバイデ。ボルドー出身の騎士にして宮廷歌人です。」

「宮廷...歌人?」

「はい。国王のお召しにより王都に向う途中です。困っているところをお救い下さり、心より感謝申し上げます。」

ヴァルダーは美しい言葉で謝辞を言った。本当に騎士とは思えない繊細さだ。

「挨拶もせず失礼をいたしました。遠慮なさらず、どうぞゆっくりなさって下さい。」

シャリナは微笑みながら言った。

顔色がお悪いな....

ヴァルダーは思った。それに足元がふらついている。今にも倒れそうだ...

「では、私はこれで失礼します。」

会釈をすると、シャリナは去って行った。侍女らしき少女が後を追い、体を支えている。ヴァルダーは近くにいた召使いに尋ねた。

「奥方様は具合が悪いご様子だね。」

「...はい。お館様がいらっしゃらなくなってからずっとあんなご様子で...食事もあまりなさらないんです。」

「居なくなった?」

ヴァルダーは、差し障りのない程度で構わないから...と言って事情を話して貰った。ペリエ伯が隣国への遠征に出ていること、シャリナが彼を慕うあまりに憔悴し、床に伏していること...

「何ということだ...」

シャリナの一途さにヴァルダーは感動を覚えた。宮廷の貴婦人達がみんな奥方様のようならどんなに仕事が楽か....

「それにしても….」

何とか力になれる方法はないだろうか...とヴァルダーは思った。

奥方様の心を癒して差し上げたい....

純粋にそう感じた。

翌朝、

ヴァルダーはシャリナの食事を運んでいるアンナに頼み、小さな手紙を差し入れた。気の利いた花を添えたかったがそれは無理なので、下手ながら挿絵も描いた。

「少しでも元気になられると良いのだが...」

ヴァルダーはシャリナの寝室がある上階を見つめて呟いた。

 食器の下に挟んである手紙にシャリナはすぐ気付いた。四つに折りたたまれた小さなものだったが、手に取ると隅に兎らしき絵が描かれている....

シャリナはクスリと笑った。お世辞にも上手とは言えなかったからだ。

そして本文はとても短かった。


“貴方はまるで、

冬のうさぎのようだ。

雪のように白く寒そうなのに

綿毛の内は春のように温かい。”


        ヴァルダー


宮廷歌人とはどんな人々なのか、シャリナは全く知らなかった。

騎士でありながら詩を詠み、楽器を奏でる。そして何より、礼儀正しく

て優しい...

シャリナは自分が笑顔になっていることに気づいた。

ヴァルダーの詩が、春の温もりを運んでくれたようだった。

 シャリナに詩を贈りながらも、ヴァルダーは夜になると歌を皆に披露した。旅の体験や宮廷の様子、そして愛の歌を。

閉ざされた城内の人々は、ヴァルダーが奏でる春の歌を心から楽しみ好んで聴いた。彼の詩は世俗的で心温まるものが多く、その癖、日常での揶揄も込められている。仕事を終えた就寝までのひととき、ペリエ城内は召使い達の笑顔に包まれ、そこはまさに春を迎えたようだった。


「騎士様...騎士様!」

大広間の暖炉の前にいたヴァルダーに向かってアンナが勢いよく走って来るので、ヴァルダーは思わず両手を広げて構えの姿勢をとった。勢い余って暖炉に突っ込みそうだったからだ。

「どうしたの?そんなに慌てて。」

ヴァルダーは訊ねた。

「シャリナ様...いえ奥様が、元気になられたんです。食事も全て平らげて....騎士様のおかげです!」

アンナは笑顔で言った。本当に嬉しそうだ。

「おお...」ヴァルダーも声を上げた。

「それは素晴らしい...!」

「今朝は笑顔だったんです。とてもとても良い笑顔で...」

アンナは涙をにじませ、自分のエプロンでそれを拭った。

ヴァルダーはアンナの背を軽く叩いて慰めた。よほど心配だったのだろう....

「私...他のみんなにも伝えて来ます。」

アンナは笑顔に戻って言った。

「そうだね。皆もきっと安心するよ。」

アンナは頷くと離れて行った。

ヴァルダーは暖炉で温まりながら、ペリエ城は良い所だと思った。主人が不在でも召使い達はよく働いているし、体の弱い奥方の事も皆で慈しんでいる。ペリエ伯と言う人をヴァルダーは知らないが、おそらく彼がとても善良な人物なのだろう。

「いつかお会いしたいものだ...」


シャリナは手鏡の中の自分を見て失望していた。

今日こそヴァルダーに直接お礼を言おうと思うのだが、あまりに酷いやつれようで見るに耐えない。

神々しい美しさのヴァルダーと並んだら、私なんてボロ雑巾にしか見えないわ....

「でも、お礼は言わないと...」

散々迷ったあげく、シャリナは修道士達のいる大広間へと降りて行った。

修道士達は召使い達と一緒に働いていた。寝床にしている藁をほうきでかき集めたり、暖炉の灰を掻き出したりしている。

「あの...ヴァルダー様はどこに?」

シャリナが問うと、修道士のひとりが丁寧に頭を下げた後、厨房にいらっしゃる様ですと教えてくれた。

厨房...?

なぜ彼が厨房にいるのか理解出来なかったが、シャリナはとにかく厨房に向かった。

厨房では石窯でパンを焼いているようだ。いい香りが漂っている....

中を覗くと、アンナが調理台の前に後ろ向きで立っていた。そして向かいあった先にヴァルダーの姿が見える。

「まあ!」

シャリナは声を上げた。

ヴァルダーは小麦の生地を捏ねていた。それも一生懸命に。

「あ...シャリナ様」

アンナが振り返り、同時にヴァルダーも顔を上げる。

「アンナ....騎士様に何をさせているの?」

「あ...えっと」

アンナは言い訳を考えようとしたが、その前にヴァルダーが口を挟んだ。

「焼き菓子を作ろうとしているんですが...思っていた以上に難しいですね。」

「焼き菓子...?」

「ええ。私の国ではよく作られているものなんですが...」

ヴァルダーはひとしきり生地を捏ねると、アンナに「後は頼んだよ。」と優しく言った。

シャリナは呆気に取られていた。麗しい騎士が厨房でお菓子作りだなんて....

「少しお元気になられましたね?」

ヴァルダーは手を桶の水で洗い落としてからシャリナに歩み寄った。

「はい。ヴァルダー様の詩のおかげです。」

シャリナは微笑みながら恭しく膝を折った。

「ヴァルダーと呼んで下さい。私の詩が薬になるなんて目から鱗です。いっそ仕事を変えようかな...」

シャリナは吹き出しそうになるのを抑えた。なんて楽しい方....

「菓子が焼き上がるまで、私に時間を戴けませんか奥方様。」

ヴァルダーは麗しい微笑みを浮かべて言った。

「シャリナ...と呼んで下さい。」

シャリナも笑顔で言った。

気を利かせた家令が暖炉の前に椅子を用意してくれたので、ふたりは向かい合って話をした。

ヴァルダーは会話が上手で、シャリナを何度も笑わせる。こんなに楽しいお喋りは久しぶりだ。

屈託のない笑顔と優しい言葉....貴方は降り注ぐ光そのものね。

神々しささえ感じながら、シャリナはヴァルダーを見つめた。

愛を歌う貴方なら、私の...ユーリへの想いを理解してくれるのかもしれない….

そうしているうちに、焼き上がった菓子を持ってアンナがやって来た。

「うん。仕上がりはまずまずだ。」

ヴァルダーは頷き、失礼...と言って

味見をした。

「味のほうもまずまず…良かった。貴重な食材を無駄にしたらどうしようかと内心ハラハラしていたんです。」

シャリナとアンナは顔を見合わせて笑った。

シャリナは、ヴァルダーと自分の分を取り「あとは子供達と一緒に食べなさい。」と言ってアンナに渡した。アンナは大喜びで会釈をすると足早に下がって行った。

シャリナは甘い香りのそのお菓子を口に入れた途端、「美味しい」と

おもわず声を上げた。

「ヴァルダー、貴方って本当に...」

神の遣いし天使だわ...とシャリナは思った。 


その頃、ユーリはルポワドとメルトワの国境近くにいて、副団長との合流を待っていた。

副団長が、あのフォルトだと知ってはいたが、彼は一団と旅はせず、単身でメルトワまで来ると言う。

「パルティアーノ卿は国王の義兄弟ゆえ、我々と寝食を共にしたくないのだろう。」

騎士達はそう囁き合った。まして、団長がユーリである事も不満なのだろうと....

ユーリ自身はそのことを別段気にも止めてなかった。...そもそも、好き好んで団長の任務に着いた訳じゃない。あの性格の悪い銀狐が仕組んだ嫌がらせだろう。

ペリエ城を出てひと月以上が経った。シャリナは元気にしているだろうか...ユーリは想った。

子供のようでいて、時に大人のような表情を見せる....日増しに美しく魅力的になって行く契約上の妻を、これからどう扱うべきか、ユーリは迷っていた。

いずれあいつは大人になる....俺はずっと保護者ではいられない。

シャリナが誰かに恋をし、約束通りペリエ城を出る時、自分は本当に自由になれるのか?

美しい春の湖畔に佇むシャリナの姿を思い出しながら、ユーリは遠くペリエの城に想いを馳せた。早くあの日常に戻りたいと思った。


降り続いた雪が止み、数日間の陽射しに恵まれると、ようやく街道の雪も溶け馬も通れる様になった。

ヴァルダーは、いよいよ出立する報告をすべくシャリナの部屋に向かった。声をかけると先にアンナが対応し、シャリナが招き入れる。

「寂しくなるわ....」

シャリナは言った。

「私もだよ。貴方に出会えたのは奇跡だ。」

ヴァルダーも寂しさを感じながら言った。シャリナとは良い友人になれた...今までの人生で一番充実した日々だった。

「あの、ヴァルダー...」

シャリナが少し言いにくそうに言った。

「最後に...私の話を聴いてくれる?」

ヴァルダーはシャリナの様子を観て、勿論。と直ぐに応えた。彼女が何かを話したがっている事を知っていたからだ。

シャリナはヴァルダーに椅子に座るようすすめ、自分も向かい合って座った。

「実は私ね...本当はまだ妻になっていないの。ユーリとは結婚したけれど、彼とは契約を結んだだけで...」

「契約?」

「そう。この結婚はね、大伯父様に薦められてのものだった。アンペリエールの財産を守るために必要だったから...彼はすごく嫌がったけど、私は地位と封土を保証する条件で貴方を雇いたい...って自分から願い出たの。」

「シャリナ...」

「ユーリは仕方なく承諾してくれたけど、言ったわ...私達はお互いに大伯父様の願いを聞き入れただけ...だから契約は守るって。」

シャリナの目から涙が溢れた。大粒の涙が幾筋も頬を伝った。

「....君は彼の事が好きなんだね?」

ヴァルダーは言った。

「大好きよ...初めて出会った時からずっとユーリに恋してた...大伯父様が決めた結婚相手が彼だと知ってとても嬉しかった。...でも」

シャリナは俯き、顔を手で覆った。

「どんなに彼を慕っても、ユーリは私を愛してはくれない....だって、私達は契約しただけだから...」

ヴァルダーは立ち上がり、シャリナを抱き寄せた。

シャリナはずっと苦しかったんだ...ペリエ伯に愛を告げられず、彼との距離を保たねばならないことが...

「辛かったね...その想い、今まで誰にも言えなかったんだね...」

ヴァルダーは優しく抱きながらシャリナの小さな背中をポンポンと叩いた。

「....でも、それは君の勘違いかもしれないよ。」

ヴァルダーは微笑みながら言った。

「私は皆んなにいろいろな話を聞いたんだ。ペリエ伯のこともね....アンナもゼフェルも他の皆んなも、ペリエ伯と君は相思相愛だと言った。ペリエ伯は君を誰よりも慈しみ、愛していると...」

シャリナが顔を上げた。

「シャリナ...私はペリエ伯に会ったことはないけど解るんだ。彼が君に触れないのは契約上のためじゃない。君にそう思われたくないからだよ。」

「....私に?」

「そうさ...愛する女性に地位とか財産目当てに結婚したあげく手を付けたなんて思われたくないからね。」

ヴァルダーは笑った。

「いいかい。ペリエ伯が君に向ける眼差しこそが真実だ。それを忘れないで。」

「ヴァルダー...」

シャリナがヴァルダーに抱きついた。何の疑いも躊躇いもなく....

ヴァルダーはシャリナを思い切り抱きしめながら苦笑した。

この場にペリエ伯がいたら、私は一発殴られるどころじゃ済まないな....


結局、フォルトが合流したのはメルトワの王城に一団が到着した後だった。

王女の警護の任を放棄してトーナメントの出場だけが目的だったのは明らかだ。フォルトは悪怯れる様子も見せずユーリのもとにやって来ると、遅れてすまなかった。とだけ言った。

「いよいよ試合は2日後だ。形式は団体戦、武具はそれぞれ得意なものを選べ。馬上試合が基本だが、決着がつかなければ地上戦になる。」

天幕に集まった騎士達に向かい、ユーリは淡々と言った。

「一応言っておくが...王女の祝いのための試合だ。メルトワの騎士を殺しに行くなよ。」

ユーリの皮肉に全員が笑った。

「団長、武具は何を?」

騎士のひとりが訊いた。

「ランスと剣だ。」

ユーリが答えると、皆がおおっと唸った。「漆黒の狼」の剣戟を観た者はまだ誰もいないからだ。

「ひとつ提案があるのだが。」

ずっと黙っていたフォルトが突然言った。

「頂上決戦をしないか、最後に残った者同士の一騎討ちだ。」

「一騎討ち?」ユーリは反問した。

「そうだ。良い余興になると思うぞ」

騎士達はそれぞれ顔を見合わせた。

「我々ルポワドの騎士同士であっても生き残れば権利がある。...あるいはここにおられる団長、漆黒の狼と刃を交える機会が全員にあると言うことだ。」

ユーリはフォルトを瞠目した。

この鼻持ちならなさ...さすがはあの銀狐の血縁だな..

「反対意見はあるか?」

騎士達は沈黙していた。フォルトが誰かを知っているからだ。

「では決まりだ。」

フォルトは言うと、満足気に口角を上げた。

散会後、ユーリは馬の蹄の調子を診ていた。長旅で疲弊した蹄鉄を外し、新しいものに付け替えたばかりだった。

これで帰りの問題は解決だな。

ユーリは少し安堵した。明後日の本番は模範試合であり、憂慮すべき点は特に無い。王のためのパフォーマンスだと両国の騎士も熟知しているし、本気で戦う必要はないからだ。

「ペリエ伯。」

名を呼ばれてユーリは振り返った。フォルトが近づいて来ている。

なんだ、まだ何かあるのか...?

ユーリは眉根を寄せた。

「個人的な話がある。」

フォルトは前置きなく言った。

「個人的?」

「ああそうだ。」

ユーリはフォルトに向き合い、聞こう。と応えた。

「明後日の試合、私はそなたと闘いたいと考え頂上決戦を提案した。

あるものを懸けて闘いを挑みたい。これは俺とそなただけの賭けだ。」

何を言い出すかと思えば....

「この場で賭けとはな...」

ユーリは失笑して見せた。

「...で、褒賞はなんだ。」

「そなたが勝てば、私の領地にある果樹園の利益をやろう。」

ユーリはフォルトを反目した。

「正気か?」

「正気だとも。但し...」

フォルトが真顔になった。

「私が勝利すれば、そなたの奥方を貰う。」

「は....」

ユーリは耳を疑った。今この男は何と言った?

「シャリナを?」

「そうだ。私への褒賞はそなたの妻、シャリナ・デ・アンペリエールだ。」

ユーリは頭が混乱した。

フォルトの要求は予測の範疇を逸脱している。理解不能だ。

「承諾しろ、漆黒の狼。そなたから妻を奪い取るのは容易いことだぞ...この面倒な賭けは、騎士であるそなたへのせめてもの敬意だ。私はシャリナを妻にしたい。偽装でも契約でもなく、愛のある結婚だ。」

ユーリは愕然とした後に呆然となった。フォルトがシャリナを愛しているだと?

「馬鹿馬鹿しい!」

ユーリは言った。

「俺がシャリナを懸けると思うか?あいつは物じゃない。」

フォルトは嘲るような笑を浮かべると鼻を鳴らした。

「良くぞ言う...そなたは地位と財産を得るためにシャリナと結婚したのだろう?彼女を利用しておきながら今更なんだ。代わりの対価を手にすれば、それで良いではないか。」

ユーリは言葉に詰まった。

その通りだ....俺はシャリナに対して最低な仕打ちをしている。このままで良いわけがない。

「そうかも知れん。だが、それとこれとは話が別だ。」

ユーリは唸る様に言った。

「受けて立とうフォルト。戦うからには本気で行く。覚悟しておけ!」

「望むところだ、漆黒の狼。」

ふたりは対峙し、睨みあった。


祝賀会当日

それぞれの王国の紋章を身につけた騎士達が居並び、競技が始まった。

トーナメントは疑似戦争であり、どちらかが全滅するまで闘う。武具を落とされたり奪われれば負けだ。メルトワ王と王妃が見守る中、試合は乱戦となって続けられた。

ユーリは短めのランスを用いて馬上で戦っていた。敵味方の多くがすでに地上戦になっていたが、フォルトはまだ馬上のようだった。

やはり最後は奴との勝負か....

国王の義兄弟とは言え、フォルトは相当の猛者だった。槍試合での勝敗ならいざ知らず、剣戟に至ってはその実力は計り知れない。

奴は王族で地位も権力も持っている。その男がシャリナを妻にと望んでいる....保護者なら歓迎すべきなのかもしれんが....

ユーリには迷いがあった。シャリナの幸せとは何なのか...そこが解らなかった。

「余興」と称した騎士の一騎打ちが始まったのは午後のことだった。

ルポワド騎士団の団長と副団長の頂上決戦である。

始まりは馬上戦。武具は互いにランスを持った。観客は単なる余興と思い声援を送っていたが、時が経つと段々に無口になっていった。

ユーリもフォルトも本気で戦っている事は明らかだった。何度も落馬寸前になり、それでも撃ち合いを止めない。そればかりか、ヘルムを投げ捨て、もはや無防備で打ち合っている。

「いくら何でもやり過ぎではないか?」

メルトワの王もさすがに眉をひそめた。すでに余興を逸脱している。これでは決闘だと。

ランスが壊れるとそれを捨て、ついにユーリが剣を抜いた。

ルポワドの騎士達はどよめいた。漆黒の狼の剣戟だ。

フォルトも剣に持ち替えた。馬を降り、ユーリに向かって走り出した。

ユーリも馬から飛び降り、構えを取った。

「シャリナを解放しろ漆黒の狼!」フォルトは叫んだ。

「私こそが彼女に相応しい!」

フォルトの猛攻に、ユーリは唸った。剣の鍛が違う。このままだと俺のほうが先に折れる。ユーリは応戦しながら舌打ちした。

「奢るなよ青二才...お前に教えてやろう。闘いの本質ってやつをな!」

ユーリは撃ち込んで来たフォルトの剣を左手で掴んだ。フォルトの動きが止まる。その体勢から足払いを食らわせ、フォルトの体を地面へと一気に倒した。

ユーリは地面で仰向けになっているフォルトの喉元に剣先を突きつけた。

「お前の負けだ。シャリナは諦めろ。」

「はっ...」フォルトは笑った。

「そなたはとんでもない嘘つきだな。」

「何だと?」

「偽装だ何だと言っていながら、本当はシャリナを愛しているんだろう?」

ユーリはフォルトを瞠目した。この男への感情が不快なのは間違いない。図星だからか....

「俺は妻の身を護っただけだ。当然の事だろう。」

気づくと、左の掌から血が滴っていた。とんだ痛手だ...

「言っておくが、俺は賭けに応じていない。潔く負けを認めて国へ帰れ。これは団長命令だ。」

フォルトを置き去りにして、ユーリは会場を後にした。ルポワドの騎士達が駆け寄り、団長の素晴らしい勝利を讃えた。



ユーリからの便りが、初めてペリエ城に届いた。

ルポワドの王城を経由して届けられたものだった。

“全て終わった。これから帰還する。

春にはペリエに戻れるだろう。”

日付とサインがある。シャリナは喜びで胸が熱くなった。

「私、ユーリを迎えに行くわ。」

シャリナは言った。

「雪解けは進んでいるのだから大丈夫。大伯父様にお願いして従者と馬車を貸してもらうの。」

周囲の心配をよそに、シャリナは準備を進めた。クグロワに手紙を書き何とか許可も貰った。

「くれぐれもお気をつけて。」

出発の朝、アンナはとても不安そうにしていた。シャリナの体が旅に耐えられるか心配だったのだ。

「心配しないでアンナ。帰りはユーリと一緒だから。」

笑顔でシャリナは出発した。信頼できる従者が数人付き添っていたので、旅は安全だった。

こうして、シャリナは無事王都ルポワドに到着した。

クグロワの古い知人、ウエリントン夫人は上品な貴婦人だった。館を訪ねると快く受け入れ、温かくもてなしてくれた。

夫人は、宮廷で話題になっている騎士団長ことペリエ伯の幼な妻が、こんなにも病弱な娘であることに驚いた。

クグロワの心配も無理はない。せっかくの若さと美しさもこれでは宝の持ち腐れだ。

クグロワの手紙によれば、寂しさから来る心の病とか...偽装結婚なのにいったい何故そうなったの?

バーバラはシャリナに興味が湧いた。冷徹で知られたユーリ・バスティオンとシャリナの愛の行方を追うのは楽しそうだ。

「ねえ、シャリナ。ペリエ伯が還るまでにはもう少し時間がかかるわ。それまでルポワドの暮らしを楽しみなさいな。せっかく来たのだから、いろいろと経験すべきよ。」

夫人は優しい笑顔を浮かべて言った。

優しく世話を焼いてくれるバーバラにシャリナは母の様な愛情を感じる。

「私は夫を迎えに来たのです。望みはそれだけなの。」

「シャリナ...」

バーバラはシャリナの手を優しく撫でながら言った。

「貴女はこれから男爵夫人になるのよ。国王から時には宮廷へのお召しもあるでしょう。...確かに、今はそんな気になれないでしょうけれど、ペリエ伯を愛しているのなら、都の作法や宮廷での雰囲気を学んでおいた方がいいわ。ペリエ伯の為にもね。」

シャリナは目を見開いた。

また子供じみた考えをしてしまうところだった...

ユーリは自分が思っている以上に偉大な騎士なのだ。その彼の隣に並ぶ自分が世間知らずのままで良いはずがない。

「何をすればいいのでしょう?」

シャリナが問うと、バーバラは嬉しそうに手を合わせ、目を輝かせて言った。

「先ずは、宮廷用のドレスを仕立てさせましょう!」


王妃が開く茶話会は貴婦人達が集う社交場だ。

バーバラはその誠実な人柄もあって宮廷での信頼は厚く、王妃エミリアはバーバラ夫人の推薦をすぐに受け入れ、シャリナを宮廷に連れて来るように命じた。

「漆黒の狼を虜にしている貴方に会いたいそうよ。」

バーバラは美しく着飾ったシャリナに満足しながら言った。

「美しいわ...シャリナ。痩せ過ぎは少し気になるけど大丈夫。ペリエ伯にも見て頂きたいわね...きっと感動して抱きしめてくださるわよ。」

ユーリの名を聞いて、シャリナの顔は熱くなった。本当にそうなら嬉しいのに....

「さあ、胸を張って!」

バーバラは嬉しそうに言うと、馬車へとシャリナを押し込んだ。


ペリエ伯ユーリの妻が姿を現した時、貴婦人達はその驚きを隠すこともなく声を上げた。この病弱そうな娘があの逞しい漆黒の狼を独り占めしているなんて...

バーバラはその凝視からシャリナを守る様にして王妃の前に進み出ると、恭しくお辞儀をした。シャリナもそれに習い、膝を折る。

「あなたがペリエ伯の愛しい人なのね?」

王妃はいきなり言った。

「彼が帰りたがるのも無理はないわね。こんなに可愛い奥さんじゃ...」

王妃エミリアは屈託のない笑顔を浮かべた。

「緊張しなくてもいいのよシャリナ。大きい声では言えないけれど、わたくしは堅苦しいのが嫌いなの。バーバラは数少ない理解者で、わたくしの真の友人よ。だからあなたもわたくしの友人になってもらえると嬉しいわ。」

「...そんな、勿体無いお言葉です。」

「嫌なの?」

「いいえ...あまりに光栄で...」

「良かった。」

エミリアは笑顔で言い、周囲にいる貴婦人達を呼び寄せた。

「わたくしの友人シャリナ・デ・アンペリエールよ。彼女の夫は漆黒の狼ことペリエ伯。彼が戻って来るまでの間、都に滞在する事になっているの。仲良くしてあげてね。」

エミリアの言葉に皆が膝を折った。

その後は談笑の時間となり、王妃が中心となって様々な話題で盛り上がった。

テーブルに並べられたお菓子を次々に口に運びながら、貴婦人達はお喋りに花を咲かせている。

「アンペリエール夫人。ペリエ伯との結婚生活はいかが?」

ひとりの婦人が言った。

“夫はとても優しい人です。結婚生活は快適です。”

そう答えるべきなのはわかっている。でも、自信がなかった。

「ユーリ...夫とは歳が離れていますが、仲は...良いと思います。」

貴婦人達は沈黙し、ついで失笑した。

「シャリナはまだ子供ねぇ...」

エミリアは笑顔で言った。

「本当、あの冷淡な彼が結婚と聞いて驚いたけれど、もう...可愛くて仕方がないのでしょうね。」

王妃につられて貴婦人達も微笑んだ。シャリナは自分がどうしようもなく子供であることを改めて感じて恥ずかしかった。

会がお開きになった後、バーバラは少し用事があるからと言ってシャリナを廊下で待たせて何処かに行ってしまった。

シャリナはため息をつき、しばらく廊下の隅に佇み休んでいた。

早くユーリに会いたい...

彼が帰途であることは分かっている。もう少し待てば会えるだろう。

帰りたがっているって本当?じゃあ迎えに来ていると知ったら喜んでくれるかな...

シャリナは想像した。ユーリが笑顔で手を広げる光景を。

「シャリナ・デ・アンペリエール?」

そこに、一人の夫人が近寄って来る。夫人はお世辞にも好意的とは言えない表情を浮かべていた。シャリナは思わず身構え、彼女を見つめた。

「お話があるの。少し宜しいかしら...」

夫人は言った。

「ええ。」とシャリナは答えた。

「...実はね。若い頃にわたくしユーリとお付き合いした事があるの。ユーリはまだ20歳だったわ。あの時はまだ二人とも若くて...燃えるような恋だった。」

「ユーリが...あなたと?」

シャリナは言った。

「そうよ。でも、あの頃の私達は何の力もなくて、お互い愛し合っていても諦めるしかなかった...そのうちにユーリは王都を離れてしまって、私達の恋は終わりを迎えたの。」

夫人は曰くありげに笑顔を作った。

「...ユーリが結婚して子爵になり、宮廷に帰ってきた時は驚いたわ...すっかり立派になって。わたくし、嬉しくなってすぐに彼に声を掛たの。ユーリも喜んでくれた。私達、今も愛し合っていると確信できたのよ。」

「嘘....」

シャリナは声を上げた。

「ユーリは...そんな人じゃない。」

体を震わせているシャリナを蔑む様に、夫人は口の端を上げた。

「ユーリは言っていたわ。地位と財産のために結婚したが、小娘のお守りは疲れるって...わたくしは気の毒に思ったけれど、それでも、可愛い奥様なら、彼もまんざらじゃないのかと思ったの。...でも、今日、あなたを見て感じたわ。あなたはユーリが興味を持つ様な魅力が一つもない。ユーリが言う通り、この結婚は過ちね。」

その辛辣な言葉に耐えきれなくなって、シャリナはその場に蹲った。力が抜けて動けない...。

「ねえ、わたくしにユーリを譲って下さらない?わたくし、先日夫を亡くしたばかりなの。公爵夫人としての地位もあるし、財産もあるわ。彼だって男爵の爵位を拝命されるのだから釣り合いが取れるの。だから、もうあなたは必要ないのよ。」

猛烈な攻撃に、シャリナは成す術もなかった。いくらユーリへの想いを募らせても、その心を掴むことはできない。でも彼を責める資格すら自分にはないのだ。

シャリナは手で顔を覆い泣きじゃくった。情けないと思っても、嗚咽を止めることが出来なかった。

「...高貴なご婦人。その発言はものごとの倫理から外れていますよ。」

不意に声が聞こえ、夫人は驚いて視線を巡らせた。すると、廊下の壁に寄りかかり、一人の騎士が立っている。手には弦楽器を持ち、じっとこちらを見つめていた。

「あなたは誰?」夫人は訝しげに尋ねた。

「私の名はヴァルダー。ボルドーの騎士にして宮廷歌人です。」

ヴァルダーは答えた。蹲って泣いているシャリナを見て心が痛んだが、今はまだ近寄れない。

「宮廷歌人ですって?」

「はい。王妃様のご用命により歌を披露しに参りました。」

ヴァルダーは軽快に答え、弦楽器を指で鳴らした。公爵夫人が戸惑っているのが解る。もう少しで追い払えるだろう。

「私は愛を詩に乗せ奏でる者...御婦人の悲しみを放っては置けません。夫人..あなたが今泣いている御婦人に話した事を、私は詩に乗せて奏でて差し上げる事も可能なのですよ。」

努めて物静かにヴァルダーは言った。たっぷりと皮肉を込めて。

「なんて不躾な男なのでしょう!」公爵夫人は言った。

「わたくしは真実を伝えただけ。何も間違ってはいないわ!」

そう言うと、逃げるようにして夫人は去って行った。ヴァルダーはその姿が完全に消えるのを見届けてから、一つため息をつき、シャリナに駆け寄った。

「シャリナ!」

ヴァルダーが呼びかけると、シャリナはようやく顔を上げた。

「大丈夫かい?可哀想に...」

「ヴァルダー...?」

「そうだよシャリナ...久しぶりだね。」

ヴァルダーの声は優しくて温かかった。変わらない笑顔で、少し心配そうに見つめている。

「ヴァルダー...ヴァルダー...」

シャリナはヴァルダーに抱きついた。ヴァルダーは周囲に目を配ったが、誰も居ないのを確認するとシャリナを抱きしめ返した。

「君が来ていると噂で聞いたんだ。ペリエ伯を迎えに来たのかい?」

ヴァルダーは優しく尋ねた。

「大伯父様に無理を言って連れて来て頂いたの。」

「そうだったのか...」

ヴァルダーは頷いた。

「シャリナ...ペリエ伯を信じられるかい?さっきの夫人の話を真に受けてはいけないよ。あれは君への嫉妬に過ぎない。例え過去に何かがあったとしてもね。」

「でも...」

ヴァルダーはシャリナの涙を自分のハンカチで拭いてやり、手助けしながら立ち上がらせた。

「ユーリに会いたい...」

シャリナは言った。

「もうすぐだ。ペリエ伯だって君に会いたいと思っているさ。」

ヴァルダーの言葉はシャリナを癒やしてくれる。シャリナは神に感謝した。ヴァルダーをこの場に遣わせてくれた事を。

「シャリナ?」

バーバラが戻って来ると、ふたりを不思議そうに見つめた。ヴァルダーは麗しい笑顔で自己紹介をすると、バーバラに事のいきさつを説明した。


翌日からシャリナは起き上がれなくなった。

バーバラももう無理はさせず、ユーリが帰るのを静かに待つしかないと思った。救いだったのは、宿に困っているというヴァルダーがウエリントン家の離れに住むことになったことだった。

ヴァルダーは毎日シャリナを見舞い、詩を聞かせた。旅のうちに書いた詩や、シャリナのために書いた詩を。木漏れ日の中で歌うヴァルダーが大天使に見える。何て神々しいのだろう...

「ねえヴァルダー、あなたは誰かを愛したことがある?」

弱々しい声でシャリナは言った。

「それは、恋を...という意味?」

「ええ...」

ヴァルダーは小首を傾げた。

「そうだね...正直、私にそんな余裕はなかった。毎日の食事が恋しかったくらいかな。」

「ヴァルダーったら」

シャリナは思わず笑顔を見せた。

「不思議ね...あなたが創る歌はとても愛に溢れているのに...」

「実際の愛には疎くても、詩を描いたり曲を奏でるのは得意なんだよ。ほら、ペリエ伯だって戦士としては最強だけど、愛情表現は苦手だろう?」

「ユーリは面倒なことが嫌いだから....」

「そうかな。噂では国王が揶揄するほど気にしていたらしいよ。妻が心配だ...とね。」

ヴァルダーは片目を閉じて微笑んだ。

「嘘...」

シャリナはまた悲しそうな表情をした。いくらヴァルダーが慰めても公爵夫人の言葉が消えないらしい。

とにかく、ペリエ伯は帰ってくる。もう4・5日の辛抱だろう...

ヴァルダーはシャリナが好きだった。一途に夫を想うシャリナが。

もしペリエ伯がシャリナを悲しませるなら...私が許さない。

窓の外を見つめるシャリナの青白い顔を見ながら、ヴァルダーは口許を堅く引き締めた。


ユーリは騎士団から離れ、先行して城門を通り抜けていた。

ルポワド領に入ってすぐにクグロワからの使者が待ち構えており、シャリナが病であると知らされたからだ。

病が何であるかは記されていなかったが、とにかく衰弱していること、シャリナが都に行きたがっているので行かせた旨のことが記されていた。

シャリナがルポワドに来ている。

ユーリは馬を走らせながらシャリナに想いを馳せた。

最後に見たシャリナの寂しそうな顔が忘れられない。一刻も早く行ってやらねば....

ウエリントンの館が見えて来た。ユーリは馬から飛び降り、旅の装備のまま、館の鉄の扉を叩いた。

「私はユーリ・ド・アンペリエールだ。夫人にお目通り願いたい。」

ユーリが名乗ると、出て来た家令の男は驚きを隠さなかった。

「ペリエ子爵?」

「そうだ。妻に会いに来た。夫人に取り次いでくれ、」

ユーリの勢いに家令は困惑顔になった。

「申し訳ありませんが....ただ今、夫人が居られませんので、私の一存で中にお通しする訳には....」

「自分の妻に会うのに許可が必要なのか!」

ユーリは思わず怒鳴った。

「責任は俺が取る、そこを退いてくれ。」

その騒動は、自室にいたヴァルダーの耳にも届いた。エントランスを覗くと、召し使い達が怯えている。

「騎士様、お助けください。」

女達が助けを求めてやって来た。

ヴァルダーは説明に驚き、すぐに扉へと向かった。

外には大柄な騎士が立っていた。

憮然とした表情でこちらを睨んでいる。

これがシャリナの想い人...漆黒の狼?

「ペリエ伯ですね。」

ヴァルダーは訊いた。

「お前は?」

「私はボルドーの騎士で、ヴァルダー・フォン・フィッツバイデ。宮廷歌人です。」

「騎士?」

「はい。この館に仮住まいの身ですが...。」

「俺は妻に会いに来た。シャリナはここにいるのだろう?」

ユーリはバリトンの効いた声で言った。ヴァルダーは毅然として頷いたものの、心臓が早鐘のようになっている。気迫が凄い...圧倒されそうだ。

「おられます。...けれど、体が弱っていて床から起き上がれないんです。それに、夫人の許可がなくては勝手にあなたを部屋に通す訳にはいかない。そこは理解して下さい。」

「...ならば、シャリナをここまで連れて来てくれ。あとは俺が連れて行こう。」

「無理です。シャリナは酷く衰弱しているんです。馬に乗るなんてとても....」

「....シャリナだと?」

ユーリは言った。

「シャリナがお前に名を呼ぶことを許したのか?」

しまった....

ヴァルダーは自分が失態を犯したことに気づいた。シャリナの名をつい口走ってしまったのだ。

「はい。その通りです。」

ヴァルダーが力なく答えると、ユーリは少しのあいだ沈黙した後、背を向けて歩き出した。馬に跨り手綱を握る。

「明日また来る。夫人にそう伝えてくれ。」

短く言うと、ユーリは馬を走らせ去っていった。

家令と召し使い達は胸を撫で下ろしたが、ヴァルダーには不安が残った。


「ユーリが帰って来たの?」

シャリナは瞳を輝かせた。落胆させまいと考え、彼が訪れたことは黙っていることにした。

「明日には会えるよ。良かったね、シャリナ。」

「ああ...ユーリ!」

シャリナは嬉しさで全身が震えた。ようやくユーリに会える!

瞳を輝かせるシャリナを見てヴァルダーは安堵した。

あの時....ペリエ伯は私とシャリナの関係を疑っただろうか....

ヴァルダーは責任を感じた。二人の関係がこじれるような事があってはならない。これ以上シャリナを悲しませたくない....

翌日にはシャリナとのいきさつを説明しようと思っていたヴァルダーだったが、実際はそうはいかなかった。騎士団の凱旋に伴って、ユーリは翌日も翌々日もシャリナに会いに来ることはなかった。

シャリナはバーバラが止めるのも聞かずにベッドから這い出そうとした。ユーリが来てくれないのなら自分が行くと言って咽び泣いた。

「私のせいだ...」

ヴァルダーは唇を噛みしめた。

やはりペリエ伯は疑いをもったに違いない。誤解を解き、一刻も早くペリエ伯をシャリナに合わせなくては....

ヴァルダーは馬を走らせ城に向かった。凱旋を祝う祝賀会場に彼はいるはずだ。

城内に入ると、騎士団のタペストリーが飾られている大広間の中央にユーリはいた。騎士仲間と話をしている。ヴァルダーはまっすぐにユーリに向かって歩み寄った。

「ペリエ伯、お話があります!」

ヴァルダーは勢いに任せて言った。

ユーリはヴァルダーに気づいて一瞥すると向き直った。

「何の用だ?」

ユーリは尋ねた。

「何故、シャ...いえ、奥方を放って置かれるのです。貴方を待っておられるというのに!」

ヴァルダーは怒鳴った。

「この四ヶ月、奥方がどれほど貴方に会いたがっていたか....会えばすぐにわかるはずです。会いに行って下さい。今すぐに!」

ヴァルダーの怒りに対して、ユーリの態度は冷ややかだった。

「問おう。なぜお前はそうまで妻の世話を焼くんだ?」

抑揚を見せずにユーリは言った。

「シャリナはお前をたいそう信頼している様だな。.」

ヴァルダーはユーリの含みを持たせた物言いに憤然となった。

「あなたは私に嫉妬したうえ、シャリナの気持ちまで疑うのか!」

ヴァルダーは言った。

「これではシャリナがあまりにも可哀想だ!本気で言っているなら許さないぞ!」

ヴァルダーは生まれて初めて腰にある剣を引き抜いた。周囲の騎士達が驚いて唸り声をあげる。

ユーリは微動だにせず、ヴァルダーを瞠目していた。剣に手をかける様子は見せなかった。

「お前は何を言ってる。俺がいつお前に嫉妬したと言うんだ。」ユーリは言った。

「...あなたこそ何を言っているのです!私は歌人です。愛の詩を奏でるのが私の仕事...奥方があなたへの愛に苦しみ、煩うほどに焦がれているのを見て放っておけなかった!あなたが不在のペリエ城で、雪の中立ち往生していた私たちの一団を、奥方は温かく迎え入れ、食べ物と毛布を与えて下さった。その恩返しとして、私は奥方の悩みを聞き、その相談に乗ったに過ぎません。」

「シャリナが...?」

ユーリは苦悶の表情を滲ませた。

「奥方は苦しんでいます。このままでは本当に衰弱死してしまう。....まだ解らないのですか?私では奥方を救えない。彼女を救えるのは貴方だけなんだ!」

ヴァルダーが声高に叫ぶと、注視していた騎士達から拍手が起きた。

ユーリは虚空を見つめ、やがてヴァルダーに歩み寄ると、その肩を軽く叩いた。

「剣を納めろ。歌人なら持つべきは楽器だろう。」

「ペリエ伯...」

「お陰で目が覚めた。感謝する。」

そう言うと、ユーリは大股で大広間を出て行った。

ヴァルダーは胸を撫で下ろした。これでシャリナの病も完治するだろう。何より効く薬が向かったのだから...

今日は館には帰るまい...

ヴァルダーは思った。

この城で讃歌を歌おう。一途な乙女の軌跡....素晴らしい愛の歌を....


ヴァルダーがシャリナの名を口にした時、シャリナに相応しい者が現れたと感じた。シャリナもそれを望んでいると思った。

フォルトの言う通りだ。俺はシャリナを愛してる。あいつを失いたくない...

ウエリントンの館に着くと、ユーリは静かに扉を叩いた。夜ふけではあったが、今度はすぐにバーバラが対応し、ユーリを中に通してくれた。

「シャリナはやっと眠ったばかりなの...昼間じゅうあなたに会いに行きたいって泣いていたのよ...」

バーバラは責めるような口調でユーリに言った。

「でも良かった。貴方ほどの騎士がそんなに慌てるなんて....愛がある証拠ね。」

バーバラは静かに微笑み、シャリナの部屋の扉を開けてくれた。

ユーリは気持ちを抑えて室内に入った。

部屋の奥にあるベッドでシャリナが眠っている。そっと近寄り、懐かしい顔を覗いた...

ユーリは思わず声を漏らした。

信じられなかった。シャリナは変わり果てていた。華奢で小柄だった体は更に小さくなり、顔色は透けるほど青白い。ふっくらとしていた頬は、掴める肉すら付いていなかった。

ヴァルダーの言葉が突き刺さる。シャリナは思っていた以上に深刻な状態だった。

それなのに俺は....

ユーリは手を伸ばし、シャリナの頬にそっと触れた。

「すまなかった。」

その呟きが聞こえたのか、シャリナが身動ぎをした。瞼がゆっくりと開かれる。そして、シャリナはユーリを見つめた。虚ろなまま何度も瞼を瞬かせる。

「シャリナ...」

ユーリは呼びかけた。

「ユーリ...?」

シャリナは力なく言った。

「私...また...夢を見てる?」

「違う...現実だ。」

シャリナの頬を優しく撫でながら、ユーリは笑って見せた。

「遅くなって悪かった。」

シャリナの目が大きく見開かれ、涙が溢れ出した。ユーリがいる!死ぬほど逢いたかったユーリが!

シャリナは手を伸ばしてユーリに触れた。温もりを感じる..夢じゃない。

「会いたかった...ユーリ」

「俺もだ。」

ユーリはシャリナを優しく抱き起こした。痩せた体が痛々しかったが、その温もりが何より愛おしい。

「私ね、謝りたかったの。あなたを雇うなんて言って....ずっと後悔してた。本当は側にいて欲しいだけだったのに....」

シャリナは泣きながら言った。

「お前は何も悪くないぞ。最初に言っただろう?」

ユーリはシャリナに視線を合わせて言った。

「こんなに痩せて...本当に馬鹿なやつだ。ちゃんと飯を食えと言って置いたのに。」

「だって...」

言い訳をしようとしたシャリナの口を、ユーリは自分の口で塞いだ。

突然のことに、シャリナは呆然となった。何が起きたのか解らなかった。

ユーリはシャリナを解放し、不敵に笑った。

「これで契約は解消だ。...どうする?今度こそ俺の妻になるか?」

ユーリの言葉に、シャリナは胸をときめかせた。ユーリが私を選んでくれた。契約を破棄して、求婚してくれている。

「喜んで。」シャリナは応えた。

「良し!」

ユーリは頷くと立ち上がった。

「二度とやらんぞ。よく見ておけよ。」

シャリナはユーリを不思議そうに見上げた。いったい何をするの?

ユーリはシャリナに向き合い、片膝を着いて跪いた。左手を胸に当て、右手を前へと差し出した。

「漆黒の狼、ユーリ・ド・バスティオンは、生涯貴方に忠誠を誓うと約束する。今後全ての勝利を、貴方だけに捧げよう。」

「ユーリ....」

感動のあまり、身体が震えた。

孤高の騎士、漆黒の狼が跪くなんて....

シャリナは懸命に起き上がり、ユーリの右手を取った。返す言葉を知らなかったので、光栄です。と答えた。

「さあ、帰り支度を始めるぞ。」

ユーリは言った。

「先ずは死ぬほど食事を摂れ。それが奥方の最初の仕事だ。」

シャリナが笑っている。子供のような無邪気な笑顔で。

やれやれ...とユーリは思った。

俺はこれから、お前にどれだけの事を教えなきゃならないんだ?


ペリエ城の雇われ城主   

    終


       





































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