3話
「アンタバカァ?」
事のあらましを説明してみれば、無作法にも割り箸で俺を指しながら、美希は素っ頓狂な声を上げた。
歳下の女性に罵られることで興奮する性質を持ち合わせていないため、馬鹿と言われたことに素直にイラっとした。
美希が啜っているのが俺の注文したラーメンなことにも憤慨を隠せない。
容器の横にはもうひとつ、底の見えた空の容器がスープまで飲み干したお礼を言っている。
箸の手を止めることなく、俺がテーブルに出した黄ばんだ紙に目線を向けながら言う。
「ハワイ旅行を使用済みトイレットペーバーと交換するとか兄さんの方がアルツハイマーなんじゃないの? それともわらしべ貧者気取りでふか?ええ?」
「なんだよわらしべ貧者って」
「偽善者気取りのお人好しってこと」
聞き心地よい音を立てながら、美希は麺をすする手を止めない。
麺を一啜りする度に見せる険しい顔色は、おそらく美希の不満の全てを表せていないだろう。
ようやく麺を食べ終わり、ぐいっと水を煽ると周囲を気にすることなく、大きなげっぷをかけてくる。汚っ。空腹を思い出させる豚骨の良い香りがした。
「兄さんが私にハワイ旅行プレゼントしてくれないと許してあげないんだからね⁉︎」
ぷいっ!
というオノマトペが相応しいように、腰に手を当て顔を斜め四五度に曲げる。
安いツンデレ。あざとい仕草は妹だから許せる。「アンタバカァ?」から続く、これも一つのくだりだったと思えば、自然に笑みが溢れてしまう。
「じゃあ、後で旅行代理店行くか」
近頃のショッピングモールは便利なもので、小さな都市の如く様々な店がその内部に居を構えている。
ゾンビ系のホラー作品でも、ショッピングモールが舞台であったり、拠点になったりする場合が多い。
このショッピングモールも三階の端に旅行代理店はあったはずだ。
「いや、冗談だし。ガチで真に受けないでよ」
「……」
「今年の夏は受験勉強で旅行どころじゃないから。それくらい察してよ」
そうだった。
美希は現在中学二年生。春を跨げば、学年は一つ上がり、夏にもなれば受験勉強の山場である。昨年は自分も同じ立場だったというのに忘れていた。
「だから別に怒ってないよ。むしろ交換してくれて良かったかも。私の旅行券で兄さんが友達と旅行行ったり、父母が私たちに代わって行く方がムカつく」
娘が必死に勉学に励む中。普段せくせくと働いているとはいえ、娘を差し置いて優雅に旅行に出かけていく両親というのは、たしかに想像するだけで腹立たしい。
そしてうちの親どもはそんな仮定を易々と実行する人間だった。
俺と同じそんな親の娘である美希もそれを当然わかっている。
「良い高校に行け良い高校に行け、って呪文みたいにさ…。子供の人生に干渉し過ぎなんだよね、あの人たち」
「親をそんなに悪く言うもんじゃないぞ」
「だって…」
高校選びに口を出されていないはずの美希が、こうも不満を漏らすのは、俺と両親による去年のやり取りを見ているからだろう。
娘と親と間に少なからず溝を作ってしまった責任。その一端が自分にあると思うと罪悪感に苛まれる。
これ以上の陰口は終了という意思を込めて会話の継手を美希から奪う。
「呪文といえば…。旅行券を取っ替えてくれ、って言ったトイレの婆さんが、自分のことを魔女だって言ってたんだよ」
「そのおばあちゃん、アルツハイマー進みすぎじゃないの?兄さんがまともに取り合っただけで、普通の人からすれば頭のイカれた老婆だよ、その人」
「でも、変な呪文で離れた人間の心臓を麻痺させたんだぜ? それにこの黄ばんだ紙だって、開いてみれば古代文字みたいで魔女っぽい」
「古代文字、ねえ」
二杯目になるラーメンをスープまで飲み干し完食した美希は、手を合わせると、汚い物でも持つように魔女の紙を最小限に摘む。
お世辞にも綺麗とは言えない紙なので、そう触りたくなる気持ちもわかる。わからないのは、触った後の指を俺のコートで吹いていることだ。
「でもこれ、字も汚すぎるせいで読めないけど、漢字に見えるものあるよね。これもカタカナに見えるし」
指差された字は「学」と読めなくもない。
目を凝らせばこれは「ユ」とも読める。
文字に統一性がないというのは分析の大きな手掛かりになる。世界的にも、複数のこんなにも形式の違う文字を複用しているのは日本語くらいしかない。漢字にカタカナにひらがな。日本語を難解な言語たらしめている要因は、存分にその力を振るっている。
「頑張れば解読出来るんじゃない?」
「ふっふっふ。年明けの暇つぶしにロゼッタストーンによる古代文字の解読をすることになるとは。事件が俺を離してくれないぜ」
「早く中二病専門医療機関設置しろよ日本。難病患者がここにいるぞ」
もう帰りたいという美希にどやされ、解読は家に帰ってからということになった。
ショッピングモールは、夕方に近づいてもその人気を失うことはなく、読み物をするにはこれ以上ないほど適していない。
元々、アウトドア派でもないので俺の体力も限界に近かった。
立川から西武線で地元へと変える。
席に座りながらトイレットペーパーと睨めっこする俺の横で、スマホをいじくっている美希。
疲労からくる沈黙は互いの同意だと思っていたのだが、それでも耐えかね、先に痺れを切らしたのは俺の方だった。
「ちらちらちらちらそんなに気になるのか老婆の使用済みトイレットペーパーが!!」
「べ、別に気になってないから。兄さんの逆剥けが気になっただけだから」
美希の純情な感情にも逆剥けが気になる感情があるようだ。
あと電車で老婆の使用済みトイレットペーパーとか言うな。身長差があるせいで、美希の頭突きは頭ではなく俺の顎に当たる。
あっかんべーをする美希。
その姿があまりにも可愛かったので、その舌を舐めてやろうと近づいたが、また頭突きされた。
「なにさらしとんじゃ己は⁉︎」
「おいおい、兄から妹への愛情表現を拒否するとは無礼な奴め。動物は信頼する相手を舐めるんだぜ?猫とか犬とか」
「へーぇ……」
美希が悪い顔をする。嫌な予感。
「じゃあ兄さんは猫とか犬と一緒なんだ。じゃあこうして椅子にお尻付けて座っているのはおかしいよね」
猫ちゃんとワンちゃんは、地面に腹這いになって座るんだよ。
この子、今日一番楽しそう。
「この人間の皮を被った悪魔め!!」
「ネクタイって、もう男性だけのアイテムじゃないんだよなあ」
戦利品の袋をごそごそしたと思えば、まだ値札の付いた女性用のネクタイを取り出す。
「ワンちゃんには首輪を付けないとねー」
鞭のようにネクタイをしならせ鳴らす。
__いつか動物愛護団体に訴えてやるんだから!
最寄駅に到着するまで俺は美希の犬になった。
悪い気はしなかった。
電車を降りてからも解読を続けるつもりだったが、歩きスマホよろしく歩きトイレットペーパーは、美希に注意されたので出来なかった。兄の身を案じる妹の姿に涙を隠せなかったけれど、美希が俺の空いた両手に重い荷物を持たせてきたところで、その涙は赤く染まった。
改札を抜け、昨晩降った雪が残る街道沿いから小道にそれて住宅街に入っていく。
最近都市型の住宅街が隣町に出来たせいか、うちの住宅街が閑静だということに気がついた。子連れの若い夫婦をターゲットにしたらしく、住宅街と密着するように大きな公園が作られていたり、食料品スーパーが建てられたりと、邦画に出てくるようなアメリカンチックなベッドタウンの情緒は、羨ましくありながらもどこか受け入れていない自分がいた。
隣町とは違い、その景観に息苦しさすら感じさせる一軒家群は、その外観の間隔以上に人間関係も希薄で、それぞれが陸の孤島として成立している。
朝、登校する時間帯にお隣さんと笑顔で挨拶を交わす、なんてのは想像の産物でありフィクションに過ぎない。
名前も知らない隣家の犬。寒空でも衰え知らずのやかましいその叫びが聞こえたところで、俺と美希はほぼ同時に足を止めた。
白く色の付いた二つの吐息が混ざり合い曇天に消えていく。
「うっわ。うざすぎなんどけどこの路駐」
「イタリアンマフィアの凱旋かよ」
一車線あるかないかの細い道に、黒塗りの高級車が連なっている様は、閑静な住宅街には刺激の強い光景。
道を大きく封鎖する黒塊。隙間はあるが荷物を持った俺と美希にとっては、カニ歩きを強要させられる。
スモークの張られた窓に映る自分の顔は、少なからず苛立ちを帯びていて、自分の顔ながら怖い。
「これまじでどこの家⁉︎ 迷惑にもほどがあんだけど」
「おい、タイヤを蹴るんじゃない」
「そんなこと言って兄さんが窓に唾吐いたの私、見てたからね」
「自分の罪を人に押し付けるんじゃありません」
竹を割ったような性格というのは、褒められた性格ではない。美希は、苛つきが頂点に達すると自らを省みることを止め、野山の竹林を全て伐採するほど凶悪になる。
それは逆に、怒らせなければ温厚であることを裏付けているのだけれど。
冷蔵庫にあった美希のプリンを軽はずみに食べてしまったあの夏。その部分の記憶だけ俺の頭からすっぽりと抜け落ちていることが、美希の凶悪さを証明するに足りる。
黒塗りの車は数えること四台。
一車毎の車間が長く、台数に比例しない連なりは、まるで一台の車のようだ。上空から見れば、道が黒く塗り潰されているようで、さぞ気持ちいいものなのだろうけれど、塗り潰されている側としては迷惑そのもであり、高みの見物としゃれこむ事は出来ない。
最前にあった車のサイドミラーを過ぎたところで、
「え……」
どちらともなく声が漏れる。
それは対岸にあった火が、気づかぬうちに足下を燃やしていた。そんな驚きから発された声だった。
先頭車両が俺たちの家の前で止まっている。
門の前にはショッピングモールで見たような黒服の男が二人、門番のようにあたりを警戒しながら立っている。車近くで会話をしている二人を合わせるとその数は計四人にも渡った。
家の中に見知らぬ人がいるのも、もちろん怖い。しかし、家の前に見知らぬ人がいるのも、十二分に怖い。
語られずとも我が家に起きた異常事態を悟る。うちにはマフィアの親戚はいないどころか、お世話になる理由もないからだ。
驚きに固まる俺たちに気づいた黒服たちは、流れるような動作で拳銃を取り出し、俺たちに向ける。
「手を上げろ。手を首の後ろで組め」
そんなこと言われる前にやっている。
この場で腰が抜けなかった自分を褒めてやりたい。
人を殺傷するためだけに作られ、人の殺意が形となった道具。
自分の命が男の人差し指だけで簡単に奪われてしまう。言葉の必要ない事実が、そっと足下から恐怖を運んで来る。銃という概念が持つ圧、とでも言ったらいいのだろうか。
テレビの前で同じ状況に陥っていた登場人物を鼻で笑っていた自分を殴りたい。
これは逃げる逃げないの話じゃない。
もっと、簡単で単純な話。
そもそもこちらに選択肢がないのだ。対峙することだけが、対抗手段であることに間違いなどない。
踏みならされ、日陰に隠れるものより溶けが目立つ雪は、沈んだ紙袋にゆっくりと冷たい色を広げていく。
「ソリマチ、ケイスケだな?」
首肯くと、サングラスの奥に潜む男の視線が微かに動いた。
「後ろの女は」
感情を感じさせない無機質な声。
それが問われているのだと気づくのに数秒かかった。
「妹」
男は下襟を口元に近づける。
内容こそわからないが、誰かに連絡を入れている。
おそらく指揮を取っているその男が注意をそらしている隙に、そっと美希を背後に隠した。
「兄さん…」
「大丈夫。お前は俺の後ろから絶対に出るな」
冷静な自分なら絶対に言わないであろう気取った台詞が自然と口から出た。
無線機から何らかの指示を受け取ったらしい男は。
「後ろの女をこちらに渡せ」
美希が息を呑む音。
背中に感じた服を掴まれる感触が俺の答えに時間を与えない。
「断る」
「多少乱暴にしても構わないと言われている」
やれ__こちらに返事を許さず、号令がかかりこちらへ向かってくる三人の黒服。
俺よりも屈強な男たちはその力を存分に奮う。
美希に触れさせまいと抵抗する腕は、連係の取れた黒服が簡単に締め上げてしまう。
無駄な足掻き。
諦観を誘うその甘い響きは、しかし諦めるという選択には繋がらない。
石に挟まれたように腕は動かなくとも、頭は、足は、喉は、想いは、動かせる。
美希の腕を三人目の男が掴むのを見て、俺が吠えたその時だった。
「なぁ〜にしてるんですか〜?」
この場に割って入るにはあまりにも不釣合いな間延びした声。
黒服を含めた全員の視線が声の主へと集まる。
声色の主は玄関の戸に手を掛けながら、にこにことした笑顔でこちらを見ている。
止まった時間は指揮を執る黒服の小さな舌打ちにより、再び動き始める。
「当人及び親族への過度な接触は契約違反ですよ?」
白の中折れハットから覗く眼差しは、曲線を柔らかく描いている。有名ダンサー顔負けに着こなされたズートスーツに続き、パンツ、シューズまでも白色で統一され、黒服の男たちと並ぶと、柔らかい印象があった。
ハットの隙間から見え隠れするグレイヘアー。
声色の主__老紳士は毅然とした態度を崩すことなくこちらへと近づいて来る。
「接触対象が抵抗した場合は、その例に乗っ取らないはずでは?」
黒服の男の言葉に、老紳士は緩む口をハットで隠す。
黒服の男の表情が歪む。
「こちら側の方は嘘にもユーモアがない。戯言を吐く暇があるならすぐにその手を離しなさい」
右頬にだけえくぼが出来る老紳士の笑みは、朗らかながらも強い強制力があるように思えた。
俺を抑えている二人、美希を掴む一人がそれぞれ指揮を執る黒服に視線を送る。
迷いが掴む力をほんの僅か弱くしていた。
しかし、指揮を執る黒服は動きを見せない。
老紳士はハットを被り直すと。
「……はぁ。困った人たちだ」
三人の黒服の右足が弾けた。
風船が膨らんで割れるように、まるでそれが当然のことのように、簡単に。不思議なことに、男たちのパンツは破れておらず、ぐらりと倒れ込む男たちの包む物を無くしたパンツからは、蛇口を捻ったように液体が流れ落ちる。混じり気のない白妙とした雪を、赤黒く穢していく。
支えの片方を失い、地を這うことしか出来ない男たちは、怨嗟にも似た悲鳴をあげる。
足を掴んでいるはずの手は、空を切り、雪を掴む。
赤子のように意味を持たない声で泣き叫ぶ。
惑う視線と目が合う。
その姿が、俺のあったかもしれない未来、黒服に撃たれていた可能性と重なり、目が離せなかった。
駆け寄ってきた美希を抱きしめる。震えていたのは、美希の体か俺の手なのか、判別がつかなかった。
男の意識が途絶え、対峙する二人をようやく見ることが出来た。サングラス越しでもわかるほど見開かれ、血走った眼。指揮を執る黒服が老紳士に銃口を向け怒鳴る。
「魔法の使用……、これは重罪だペンシルド卿!!」
ペンシルド__そう呼ばれた老紳士には、確かに日本人離れした面影があった。
いや、今問題なのはそんなことじゃない。
黒服は今なんと言った?
なぜ男たちの足が弾けた?
パンツを破ることなく、まるで状態変化したように無くなった?
__魔法。
現状を手っ取り早く説明する、しかし、何の説明にもなっていない不安定な単語。
コートのポケットに忍ばせた一枚の紙へと、意識が向く。
「驚かせてしまってすまない。君がケイスケ君、後ろにいるのがミキちゃん、かな? なるほど…」
黒服からの恫喝を無視し、顎に手を当ててふむふむと頷くペンシルド。
とても拳銃を向けられている人間が取るべき行動とは思えない。しかしその動作が返って、この老紳士が人外にいることを裏付けていた。
「……面影がある、ね。なるほど、よし!場所を変えよう。話し合いをするにはこの場所は騒がしすぎた」
視界から黒服を消している物言い。
俺の目の前に立つ老紳士は遠目に見たときよりも、ずっと背丈が高く、俺は自然と見上げる形になる。
背伸びをして、やっと目線が合うか合わないかだ。
「ケイスケ君。今日、ショッピングモールで変な女性と話したかな?」
変な女性。
その表現が一番似合う女性は、世界のどこを探そうとも、きっと一人しかいない。
「甘菜 百合。甘い菜の花が百合わさった変なお婆さんに会いました」
「お婆さん?百合?……ふふ、なるほど」
この老紳士の気分を害してはいけない。ただ、その一心で答えていく。
「何か渡されたものはあるかな?」
「黄ばんだ紙を貰いました」
「見せてくれるかい?」
その紙をポケットから出す。
出来るだけ丁寧に広げてから老紳士に渡す。
「ありがとう」と受け取った老紳士は、さらりと撫でるように紙を見ると。
「これは……。もしや……そうか」
断片的な小声で何かを納得したようだった。
まるで子供の悪戯を見つけた大人のような。微笑みと呆然を混ぜたような顔をしている。
「任務は失敗。そう物欲の魔女に伝えなさい」
ぴしゃりとした声は蚊帳の外に置かれていた黒服への、口ごたえは許さない、という確かな感情があった。
その圧に気圧され一瞬の沈黙を置いたが、けれど黒服は声を荒げて言う。
「ふ、ふざけないでください…!!その紙をこちらにお渡し願いたい!あの方のことは我々よりも貴方のほうがよくお知りになっているでしょう 」
「そりゃもちろん。しかし、私が彼女を知っているように、私がこの紙をみすみす渡すような者でないことも彼女は知っているだろう」
余裕のあるペンシルドに対し、この寒さにも関わらず、額から玉粒の汗を垂らす黒服。
目に見えてわかる焦りに、浮かんだ疑問がつい口を滑ってしまう。
「このゴミがそんなに大事なんですか」
「ゴミ?……もしかしなくても、甘菜は何の説明もなく君にこれを渡したのかい?」
「いえ。魔法の国にいけるチケット…、みたいなことを言っていたと思います、けど」
老紳士は、肩を大きく揺らして溜息を吐いた。
「相変わらずだなぁ〜。まったく、変わってなくて安心させられるよ。それに…」
魔法の国にいけるチケットをゴミと言い切る君も面白い__嬉しそうに笑う老紳士。
表情がよく変わる人だ。
「ペンシルド卿、いい加減にしてください。いくらあちら側の要人と言えど、こうも暴挙が過ぎればこちらも手段を選べません」
銃口を向けるのをいつまでも止めない黒服。
老紳士もいい加減その態度に我慢ならなくなったようで。
「あーもう、うるさいなあ。私は会話に水を差されるのが注射と同じくらい嫌いなんだ。それにずっと銃を構えてて疲れないの君?」
差すと刺すを掛けたのだろうか。
焦りの欠片も見せず、こちらに対しては穏和を貫く態度は、完全にとは言わないまでも俺と美希の緊張をほぐしていく。
この人がいる限り俺たちの身の安全は保証されている。なんて、都合良くそう思ってしまう。
喋る余裕が戻った美希がくいくいっとコートを引っ張り訊いてくる。
「兄さん、このおじいちゃんと知り合い?」
「俺はてっきり美希の知り合いかと」
「超能力おじいちゃんの知り合いなんて居ないから」
なんて会話をするほどには、今の俺たちは冷静さを取り戻せている。
この場で感情を激化させているのは黒服だけとなった。
「貴方の意思はよくわかりました。ペンシルド卿。しかし、こちらとて退こうが退くまいが、結果は変わらない……」
黒服は叫ぶ。
己に向かって。
「脳天を狙え! 相手はただの人間じゃないからな!殺すくらいがちょうどいいん__」
しかし、その叫びは終わりを迎えることなく途切れる。
俺はまたあり得ないものを目の当たりにした。
老紳士が指を鳴らすと、指揮を執る黒服、意識を失い倒れていた黒服たち、黒塗りの車、その全てが跡形もなく消えたのだ。
忽然と。突然に。
「いい大人があんなに叫んで恥ずかしくねえのかよって話。ケイスケ君は、あんなのになっちゃダメだよ?男が叫ぶのは大切な人を守る時さ」
「あ、はい。え、いや、ていうか、あの人たちはどこに?」
俺の問いに老紳士は笑いながら答える。
ハットを取り、指でくるくる回しながら。
「あははは、知らね。座標はテキトーに合わせたから、もしかすると空間内で捻り切れてるかもしれない」
無垢な狂気とでも言ったらいいのだろうか。
美希よりも怒らせたら怖そうな人だ。きっと、この人だけは絶対に怒らせてはいけない。
まあ、しかし、俺たちは助けてもらった__という認識で正しいはず。
頭を下げるくらいはしておくべきことだろう。
「ありがとうございました。助けて?いただいて」
「うーん、まあ、元を辿れば甘菜が全部悪いのであって、君たち二人には何の非もない」
俺は兼ねてからの疑問であった、あの女性のことを尋ねる。
「あの魔女の…甘菜って人はいったい?」
「うーん、その辺はちょっと込み入った事情があってね。ケイスケ君には私と一緒に来てもらいたい。あ、ご両親の許可はさっき貰ったから大丈夫」
「あのバカ親……考え無さ過ぎ」
俺の代わりに美希が呆れていた。
「俺、なんか変なことに巻き込まれてるみたいですね」
「察しが良い上に冷静で助かるよ。こちらの話を理解してもらい易い。早速で悪いけれど、時間が迫っていてね。ミキちゃん、お兄さんをちょいと長くお借りするよ」
元来の人見知りを発動して、いつまでも俺の後ろから出てこようとしない美希は、か細い声で一言。
「ど、どうぞ…」
「お前も許可しちゃうのかよ」
老紳士が指を鳴らす。
すると、背中にかかっていた妹の重さが消えた。
美希が手を離したのではない。
俺が消えたのだ。
この世界から。
一瞬で。




