2話
一階にあるエントラススペース。家屋にはない建物の中心が感じられるその場所で、邪魔になることを覚悟に立ち止まってしまった。無人の体育館で寝そべった時と同じような、世界を独り占めしたかのような興奮。
それが錯覚だと知りながらも、噛み締めずにはいられない。人間に最も必要なのは、一人の時間だと昔読んだ小説の作者が語っていた。
独りぼっちの世迷言だと鼻で笑ったが、こうして記憶に留めている限りでは、たかが世迷言でも俺の一部になっているらしい。
黄昏ること三秒。
三秒前の自分がどこか恥ずかしくて、再開した歩みには早さがある。
インフォーメーションカウンターの横に、大きく尖った書体で福引という看板が掛けられている。
忙しそうにお客を捌くのは赤い法被に身を包んだ従業員は、年明けだというのに忙しなく働かされている。
残念賞であるうまい棒を渡す姿が、小学生の時に通った駄菓子屋のおじさんと重なり懐かしくなった。
おまけを良く付けてくれる気前の良い人。高学年に上がってから訪れていないあの駄菓子屋は、今でもおまけを付けているのだろうか。
過去の感傷に浸りながら、福引券という名のうまい棒換棒チケットを手に列に並ぶ。
俺の前に並んでいたのは、小学二年生くらいの男の子と、鼻の形がそっくりなお母さんだった。
「ゲーム機当たるかな⁉︎ ゲーム機当たるかな⁉︎」
「どうだろうねー。もしかしたら当たるかもねー」
その会話は、聞く気がなくても耳に入ってくる。
男の子が狙っている三等のゲーム機は、その人気から店舗単位での売り切れが続出しているハード。
男の子はまだ手に入れていないようで、その期待からか小さな手に握り締められた一枚の福引券に、随分としわが寄っている。
買い物終わりなのか、レジ袋から薄っすらと見える食料品から今夜の夕食が予想された。
お母さんを気遣い、その荷物を持ってあげている紳士なこの男の子にゲーム機が当選することを願いながら、けれどその券が数分後にはうまい棒に姿を変えると心の淵で思っていることに気づき、自分も歳をとってしまったと悲しくなってくる。
列が進んで行くと同時に、先陣を切った人たちの結果も明らかになっていく。予想に反さないシビアな福引は、本当にただのうまい棒交換会だ。
幸いにしてうまい棒に種類はあるものの、お姉さんが勝手に選んで手渡してくるため、こちらに選択権はない。
「ざーんねーん。うまい棒一本と交換でーす」
案の定、男の子の福引券はうまい棒コーンポタージュ味へと形を変える。
良いなあ、コーンポタージュ味。当たりじゃん。
半べその頭を優しく撫でられながら、男の子は去って行った。
「はーい、お兄さんは…、三回ですね。どうぞ!」
冬だというのに額に汗を浮かべているおじさん。爽やかに言うのはいいが、汗と唾を俺の手に飛ばすのはやめて欲しい。
無垢な少年の密かな希望を打ち砕いて、泣かせるに至った悪徳福引交換会。
少年……、お兄さんが仇、取ったるぜ。
幼少期にはこのガラガラをずっと回していたくて、玉が出ないほどの遠心力でぶん回していたものだが、俺はもう高校生。
努めて穏やかに一回転させる。
玉と玉が擦れ合う音に、それが自分の番でなくとも誰彼構わず喉を鳴らす。
その緊張感が背中から伝わり、ちょっとだけ恥ずかしい。注目されるのは苦手なんだ。
おかしい。出ないではないか。もう一回。
まだ出ない。不良品か?
いっそのことたくさん回した方が出るのでは…。
「お、お兄さん…! そんなに回したら壊れちゃうよ…!もっとゆっくり回せば出るから」
「いや、俺は十分にゆっくり回してますけど」
「風圧が起こるほどの一回転をゆっくりとは言わないんじゃないかな⁉︎」
やれやれ、下界の人間に俺の右手は刺激が強すぎたようだ。仕方ない。力をセーブしてやろう__っていうのをやってみたかったので、昔と変わらず高速で回していた俺だった。
次は言われた通りゆっくりと回す。
ぽとりと落ちたのは白の玉。うまい棒だ。
もう一回転。
ぽとりと落ちたのは緑の玉。これはどうやら五等のようで、花嫁が貰えるらしい。というのは冗談でうまい棒の数が二本になっただけだった。
ちなみに俺の押しは次女。見栄っ張りのとこにシンパシー感じちゃって、もう端的に言えば激かわ。やっぱ、二なんだよなあ。二以外あり得ない。
ラスト一回転。
ぽとりと落ちたのは金の玉。これはおじさんの金の玉。フレンドリーショップで五千円で売れる。
臓器売買はしない方が良い。割りに合ってない。
「お、おめでとうございま〜す!! 一等、ハワイ旅行大当たりでーす!」
金の玉おじさんの大声とハンドベルの大音に会場がどよめく。
そんなに金の玉を俺に渡したかったのか?
もう持ってんだけどなあ、俺。
「こちら旅行券になりまーす!」
流れのままに手渡された水引が巻かれた封筒には、達筆な文字で『一等賞』と書かれている。
流れのままに受け取ってしまったが、まさか飾られていた封筒をそのまま渡されるとは思わなかった。
俺の心境とは対照的に、周囲の方がボルテージを上げている。実際に当たりが出た、ならば他の当たりも出る、あのガラガラの中には松坂牛とゲーム機がある。
他人の幸福を喜んでいるのではなく、その事実に沸き立っている欲に忠実な喧騒だと思うと、不快ではなかった。
いつまでも福引会場にいても仕方ないため、流れのまま会場から離れた俺に集まる視線。
ハワイ旅行を当てた男というだけでこうも注目されるなんて、居心地の悪いことこの上ない。中には無言で拍手を送ってくるお客さんもいた。
気にしないよう努めながら、エスカレーターに乗り込み三階を目指す。
美希の待つフードコートが目前に迫ったところで、眺めるだけでは飽き足らず、ついに声をかけてくる人間が現れた。
「おい、ちょっと待てよ。クソガキ」
通路に置かれた革張りされた休息用のベンチ。景観を損なわないためにカラフルに色付けられている。
言葉の主は煙草を加え派手なジャンパーを着たスキンヘッドの男__ではなくその隣に座る。
「……婆さん?」
「あん? どこからどう見たら私が婆さんになるんだよ。失礼なクソガキだな」
口調こそ若々しさに溢れるが、外見は本人の言葉とは裏腹にどこからどう見ても婆さんだ。
落ち窪んだ目に、一度丸めたかのようなしわ。白髪混じりの頭髪はお世辞にも綺麗とは言えない。人生という重みに長年押し潰され曲がってしまった腰。
着物姿であることも、事実の背中を押している。
ぱっと挙げられる特徴も婆さんオブ婆さん。
「お前、さっき福引で旅行当ててたろ」
「ええ、まあ」
なんだろう。
寄越せよ、とか言ってきそうな雰囲気。
封筒を握る力が反射的に強まる。
「それ、私に寄越せよ」
本当に言いやがったこの糞婆。
嫌なことを言われる前の準備は得意なつもりだ。眉や頬の些細な動き。隠しきれない悪意の誕生を、見逃さない術には自信がある。
ただ、この老婆からは、悪意と言うよりも悪戯心のようなものを感じた。だから、脅されているよりか強請られているように思え、恐怖を感じない。
おかげで冷静でいられた。
もし、このハワイ旅行券が俺の所有物だったなら、この旅行券を欲しいという婆さんの前でビリビリに破り棄て、高笑いをして去っていくのだけれど、そもそも福引券が美希の買い物による副産物なわけで。
当てたのは俺だが、そのチャンスを与えたのは美希。仮に俺ではなく美希が福引を引いても当たった可能性はあったのだ。このハワイ旅行券は美希の所有物という認識で正しく、俺は他人に譲渡する権利を持っていない。
「無料より高い物はない、って知ってるか婆さん。ハワイ旅行はボランティアじゃねえんだよ。コンビニのレジにある募金箱とは違うんだ」
「ふん。こちとら機会を潰すくらいなら使ってやろうって言ってんのさ。冴えねえ顔しやがって、連れてく女もいなさそうじゃあねえか。どうせママと二人で行くしかねえんだろ?そんな興のない使い方、旅行券に失礼だぜ」
__ハワイに土下座しな。
まだ訪れたこともない土地に、謝れと言われたのは初めての経験だった。
「残念だったな婆さん。俺は現在進行形で女を待たせてんだよ。最近の婆さんは老眼だけじゃなく、人を見る目すら衰えているらしいな」
「へーえ。それは失敬」
礼儀のない言葉は苛立ちから来るもの。
用意した冷静は、簡単に尻の穴が出て行った。
悪いが失礼には失礼で返す。大人気ない振る舞いだが、相手を大人に取っていれば、子供側である俺の立ち振る舞いとしては、理に適っているはずだ。
熱を帯び始めつつあった会話に、冷水を浴びせたのは老婆の方だった。
「そう怒んなよ。落ち着こうぜ?これは交渉さ。話し合いに必要なのは話術じゃなく、常に冷静でいられる余裕。眉間にシワなんか痩せてないでまあ、座れよクソガキ」
「……。話聞いてなかったのか?女を待たせてるんだ」
「女の前で他の女の話をするんじゃねえよ」
興味を失わせるよう誘導したつもりだったが、思いのほか会話が進む。
どうやらこの老婆、俺を帰す気がないらしい。
自分の隣。空いているスペースを軽く叩く。
変なのに絡まれた、遅れる__そう美希にメッセージを送ろうとスマホを手に取ってから思い出した。
俺のスマホはすでに死んでいることに。
年寄りの話は長い、ってそれ宇宙創生から言われているんだよなあ。億劫だなあ。
このまま美希の元へ戻っても、後ろからついて来そうな老婆の圧に、俺は白旗をあげる。
「年明け早々デートなんて。人は見かけによらないと言うけれど、本当に見かけによらないらしい」
「待たせてるのは妹だ」
「ふふっ。だと思った」
笑みを口元で抑える仕草は、上品さよりも若さを感じさせた。
声に淀みがないからだろうか。この老婆に対する認識が安定しない。
笑われるのは見栄を張った責任。自業自得。けれど、その自業自得を素直に受け取れるかといえばそうではない。
話を早く逸らしたくて口調が早くなってしまう。
「話を進めてくれ。交渉ってどういうことだ」
「言葉の通りさ。お前の旅行券と私の券を交換しようっていうだけの交渉さ」
老婆が襟から取り出したのは薄い紙。
ひらひらとなびかせるそれを券だと言う老婆だが。
「拭いた後のトイレットペーパーって……。まあ、考えようによっては、たしかに新たなる世界へのチケットかもしれないけれど…」
「勘違いも甚だしいぞ。この黄ばみは便じゃねえ、年期だ」
年期?
熟成されたトイレットペーパーということか?
「はあ……。一旦それから離れろ」
ため息と共に弛緩した空気を正す老婆。
「これは魔法の国に行けるチケット。言っておくが埋め立て地にある夢の国とかじゃあないぜ? まじもんの魔法の世界。これさえ持ってればそこで魔法を学ぶことが出来る」
「言っておくが俺の額に宿敵から受けた傷なんてないぞ」
「眼鏡をかけてない時点でそんなもん期待してねえよ」
さばさばとした態度は返って現実味を帯びている。
突拍子のない話に理解が追いつかないというのが正直なところだが、俺の答えはこの老婆と会話をする前から決まっていたかのように、するりと口から漏れた。
「いらねえそんなもん」
老婆の顔に初めて驚きが訪れた。
俺は動物園でくしゃみの音に驚く鹿を思い出した。
「信用できない話ってのはわかってるが、これは本当の話で__」
「これは妹の所有物なんだ。俺に所有権はない。だから勝手に交換なんて出来ない」
親しき仲にも礼儀あり。
妹の所有物を俺の身勝手で交換してしまうなんて、兄として失格。極刑に値する。
相手の意表を突いたことで会話の終わりを予感した俺は椅子から腰を上げる。
しかしそれは老婆の言葉で押し止められた。
「スポーツ用品店の前にいる黒服の男、見えるか?」
それは俺たちの真正面。
渡り通路を二つほど挟んだ場所。五十メートルほど離れてはいるが、目立つ特徴は十分に視認するに足りる。美希との会話にも出てきたために、すぐに認識することが出来た。
「おとぼけにも私を探しているらしくてな。ふふっ、何度すれ違っても気づきやしない。女は追われるのが好きな生き物だが、こうも熱心に追われては気色の悪いもんさ」
「愚痴に付き合う義理はないぞ」
「今からあいつの心臓を止めてやる」
平坦な言葉と無機質に変わる表情。そして漂わせる僅かな狂気。
老婆がまるで別の人間に見えた俺は、本質的な未知に目を奪われていると老婆は黒服に向けて人差し指を立てる。
『振動』
一聞、意味を見出せない単語。
一秒にも満たなかったと思う。老婆の指先に重なる黒服の男に異変が訪れた。
雷に撃たれたかのような、君の悪い痙攣。ここからでも確認できるほど大きく口を開け、天井を仰ぐ。溢れ出る涎が、光を反射させる。胸を押さえ、もがき、苦しんでいる。
もしあれが演技ならば迫真過ぎて引いてしまうと思ったが、黒服の男が仰向けに倒れ、倒れながらも痙攣し始めたのを見たところで、老婆の言葉に信憑性が宿る。
心臓麻痺。
ドラマで見たことがある。けれど、あんなもの比じゃないほど気味が悪い。波打ち際で打ち上げられた魚のような。生と死の鬩ぎ合いに、体の震えが止まらない。
本当に心臓を止められているんだ。
「止める__と言いいたいが追求すればそれは少し違う。正確には振動にも近い速度で私の意思のままに心臓を揺らしているんだ」
__自分の意思に関係なく心臓が動くってのは気持ち悪いだとか苦痛だなんてレベルじゃないぜ。
生きながら胸を張り裂かれるもんだろうさ。
薄ら笑いを浮かべながら老婆は続ける。
「失敗すればアプローチを変える、ってのはどんな学問でも共通のことだ。お前の返答次第であの黒服を生かすも殺すも出来るんだぜ?」
「性格悪いな。あんた」
「こんな状況で平静を保っているお前も大概だろうに」
「虚勢だよ。足の震えが止まらない」
「素直なのは嫌いじゃないよ」
離れた距離から他人の心臓を揺らす。
それは人為を超越した行いであり、それは老婆の言葉を借りるならば魔法と呼ばれるものである。ならば、この老婆は__魔女、そう呼ぶに相応しい。
ここで首を縦に振らなければ、次は俺の心臓が餌食になるかもしれない。
目前に危機が迫る黒服よりも、安穏とした自分の未来を心配をしている。他人に性格が悪いなんて言えないと、自嘲の笑みがこぼれてしまう。
選択の猶予を与えてくれているだけ、この魔女は優しい性格の持ち主のようだ。
「火炙りの刑に処されちまえ」
「あほか。南国の暑さじゃヒトの身体は焼けねえよ」
それぞれが差し出すチケット。空いた手での交換を済ますと、もがいていた男の動きが止まる。
見て見ぬフリが得意な日本人の中にも優しい方はいるようで、男の身を案じて駆け寄った人達がどこかに電話をかけている。
数分後にはこのモールは、普段とは違う喧騒に包まれるのだろう。
あの仰々しいサイレンが鳴り響くと思うと、背中から不快な汗が出た。
「気を失っているだけだから、適切な処理をすれば助かるはずさ。もしも死んだらそれは私の責任ではなく医者の責任だ」
あっけらかんとした様子から見るに魔女に罪の意識はない。
まあ、人の心臓を揺らすという犯罪が何の罪に当たるのか、そもそも罪として立証できるのかどうかなんてのは俺の考えることではない。
「ふひひひっ。ハワイだハワイだ」
浮かれた気分に水を差すのも悪い。
この場所で老婆と話していることが、共犯に感じられとにかく一刻も早くこの場を去りたかった。
「おいクソガキ」
「……なんだよ」
再三にして呼び止められる。
にやりと口角を吊り上げると魔女は訊いてくる。
「名前、教えろよ」
そういえば、名乗っていなかったな。
もう二度と会わないことを願いつつ、努めて一回で伝わるように。
「反町圭祐」
と自分の名を言った。
「ソリマチ…、ケイスケ…ね。オーケー、覚えておこう」
しっしっと手を払う仕草で俺をあしらう魔女。呼び止めたのは自分だというのに。
不躾な態度は相変わらずで、用が済めばお払い箱のようだ。
「あんたの名前は」
「……?」
「名前だよ名前。人に名を尋ねる時は自分から名乗るものだろ? 俺に名前を訊いたんだ、あんたも名乗るのが筋だろ」
「あー、すまんすまん。名前を訊かれるなんて久方ぶりだから戸惑っちまったぜ」
照れたように笑う老婆。
心なしか嬉しそうに見えたのは俺の気のせいだろうか。
「甘菜 百合。甘い菜の花が百合わさってアマナ ユリ。虚構の魔女とも呼ばれているが、まあ、お前には名を呼ぶことを許そう」
「百合……」
口から漏れる魔女の名。
胸の奥、返しの付いたその杭はゆっくりと引き抜かれる。双眸に映る魔女の姿に、杭から溢れた黒い像が重なっていく。
「ああ、そうだが。いきなり名前呼びとは照れちまうな。おい、私の名前がどうかしたか?」
不思議そうな声が黒い像を打ち消す。必死で杭を刺すことに夢中で、__いや、別に、なんでもない。
絞るように声を出すのが精一杯だった。
「許されたことは光栄だけど、もう会うこともないだろうな」
「ふふっ、そうだな。お前の言う通りだ」
旅行券の代わりに黄ばんだトイレットペーパーを丁寧に折って、コートのポケットに入れる。
指に触れる紙は意外にも暖かかった。
「会えて良かった」
去り際の台詞にしては温度があった。
ひらひらと振られる手に背中を押されて、数歩歩いた後、ふと振り向いてみればもうそこに、魔女の姿はなかった。




