6件目 私、今アクアツアーにいるの
お姫様にスタンプを押してもらった後、バンシーはアーチ型のゲートの前に移動した。
ゲートにはデフォルメされた人魚の絵と共に、『アクアツアー』の文字が書かれている。
このアクアツアーは船に乗って、人魚を模した機械達が作り出す幻想的な世界を楽しむものだった。
その世界観を守るために、アクアツアーは他のアトラクションが見えない様、周囲を海の絵が描かれた壁で覆われている。
そんな配慮を無視して、ジェットコースターの轟音が遠慮なくアクアツアーの世界を壊す。
しかし、バンシーにはその音がかなり小さく聞こえていた。
肩まで伸びた銀髪に隠された耳には、澪から貰った耳栓がかなり深い所まで押し込まれていたからだ。
人間ならば推奨される使い方ではなかったが、人形であるバンシーならば耳を傷める心配はない。
その腰にはウェストバッグがあったが、その中にあるのは玩具の携帯電話と御札、そして人形だけだった。
そんなバンシーの背後、アクアツアーのすぐ正面にはちょっとした並木道があった。
青々とした葉を生い茂らせる木々、その中でアクアツアーから一際近い一本には自然にできた穴が開いていた。
その中に懐中電灯やスタンプカード等、ウェストバッグから取り出された物が押し込まれている。
枝葉でその穴は巧妙に隠されており、よほど意識しない限りは地上から見つけられない。
アクアツアーは水に落ちる危険性が高い為、濡れたら困るものを隠すことにしたのだ。
バンシーは緊張した面持ちでゲートをくぐり、鮮やかな珊瑚や海草で彩られた待機列に入る。
少し歩くと赤い屋根の小屋が目に入った。
貝殻で飾られたその小屋の入り口にはスタンプ台があり、その脇にある椅子には立派な白髭を蓄えた男の人魚が腰掛けていた。
頭には金色の王冠、その脇には先の丸い三叉槍が立て掛けられていることから、海神トリトンをモチーフにしているらしい。
ここのスタッフなのか、筋肉のついた上半身にはオレンジ色の制服を羽織っている。
彼は暇そうにヒレを揺らしていたが、バンシーに気づいて顔をほころばせた。
「おお、お客さん! いらっしゃい!」
耳栓越しでもはっきりと聞こえる快活な声に、バンシーは思わず気圧された。
バンシーの世界は麻衣とその家族のみで構成されていたため、彼の様な偉丈夫は会った事すらない。
なんとなくトリトンらしきスタッフに苦手意識を持ちつつも、バンシーは本題を切り出す。
「あの、これに乗りたいのだけれど」
「そこの船に乗ってくれよ! 緑のスイッチを押したら、後は自動運転だ!
赤は緊急停止ボタンだから、多分大丈夫だけど何かあったら押してくれよ。
いやぁ、久々のお客さんで皆喜ぶよ! それじゃあ、楽しんでくれよ!」
促されて、バンシーは桟橋を渡り小型のボートに乗った。
繊維強化プラスチックの船には、三人掛けのベンチが縦に二つ並べられている。
船にはペンキで木目が描かれ、その上から波を模したピンクや青のカラフルな飾りが添えられていた。
どこか玩具めいた印象を与えるその船の下には、よくよく見るとレールがあり、船とレールの間からは微かにタイヤが覗く。
バンシーは一番前の席に座ると、目の前にある緑色のボタンを押した。
船はレールに沿って緩やかに走り、音もなく桟橋から離れていく。
しばらく走ると、左右にある陸地に色々な物が見えてきた。
船との距離は左右どちらも2メートル程。
左の陸地には待機列と同じように海藻やサンゴが飾られ、それらの隙間を縫うように機械でできたカニや魚がプログラム通りの動きを繰り返す。
その中央には不自然に広いスペースがあり、本来はそこに何かの機械が置かれていたのか、短い棒がクルクルと回る。
右の陸地には巨大な貝殻があり、それを取り囲むように機械でできたエイや亀等の海の生き物が集まっていた。
貝殻は開かれていたが、そこには何もなかった。
何かが足りない。
バンシーがその異変に気づくのと、船が大きく揺れたのは同時だった。
体が前に大きく傾いたかと思うと、次の瞬間には後ろに引っ張られ背もたれに打ちつけられる。
「……ッ!」
揺れる視界の中で、バンシーは見た。
手だった。
傷一つないツルツルとした作り物の白い手が、赤いボタンを押し船を停止させていた。
先程の衝撃は、船が停止したことによるものだったのだ。
バンシーは慌てて立ち上がろうとして、何かに引っ張られ体が大きく傾く。
何かは、またしても手だった。
船を転覆させたのとは別の、しかし同じような白く美しい手。
それがバンシーの腕を掴みとり、バンシーを水中に引き込んだ。
バンシーは水底に叩き付けられ、反動で大きく跳ねる。
すぐさま起き上がろうとするが、何かが圧し掛かり、押さえつけられた。
バンシーの視界いっぱいに、女性の顔が広がる。
バンシーを襲った手と同じ白くツルツルとした肌を持ち、赤く長い髪と同じ色の目をしていた。
人魚だ。
その口が微かに動いていた。
バンシーの耳栓越しに、優しく柔らかいソプラノの歌声が微かに届く。
『都市伝説No.21875 アクアツアーの謎の生物
裏野ドリームランドにあるアクアツアーにおいて、謎の生物を目撃したとの噂がある。
何かが動くのを見たという証言が複数あるだけで、それが何かは分かっていない。
謎の生物との関係は不明だが、アクアツアーで歌が聞こえてきた、いつの間にか倒れていた、という話もある。
調査のため、現界のアクアツアーにあるプール(現在は水が抜かれている)を歩いてみた。
少し歩くと、機械でできた人魚達が本物のように意志を持ち動いているのが見えた。
恐らく、この人魚こそが噂の謎の生物なのだろう。
観察のため彼女達に近づくと、歌が聞こえてきて、次の瞬間にはその場で眠っていた。
あの歌には、人を眠りに誘う効果があるようだ。
意識を失い、異界を観測する事をやめたことで、運よく私は目覚めることができた。
もし異界で歌を聞いた場合、自力で助かるのは不可能だろう。
実際、歌を聞かされたらしき人々(ひとびと)が水底で眠り続けていた』
澪の資料を思い出し、バンシーは慌ててウェストバッグを開けた。
中からお札を掴みとる。
そして、お札を握ったまま人魚へと手を伸ばそうとした。
しかし、別の人魚によってその腕は掴まれ、お札は手から離れた。
脚を動かそうとした。
しかし、赤い髪の人魚が下半身でそれを押さえつけてしまう。
「…………ッ」
バンシーはお札が水流に流されながら、緩やかにバラバラになっていくのを見た。
もう使い物にはならないだろう。
赤い髪の人魚はバンシーの動きが完全に封じられたのを確認して、頬をほころばせた。
そして、その右手をゆっくりと動かし、バンシーの耳の中に手を突っ込んだ。
「…………あ」
バンシーはその後の結末を察した。
彼女の予想通り、人魚の手は耳の奥深い所まで潜り込み、中にある耳栓を掴みかなり強引に引っ張り出す。
遮るものが無くなったバンシーの耳を、人魚の子守唄が優しく通り抜けていく。
バンシーは必死に意識を保とうとしたが、その意思に反して彼女の視界は徐々に狭くなっていった。
程なくして、瞼が完全に閉じられる。
異界に、人形を救う者はいない。
気が付くと、バンシーはプラスチックの箱の中に居た。
横を見ると怪獣の人形。反対側には小さなウサギの人形。
他にも見覚えのある玩具が沢山あり、バンシーはすぐにそこが麻衣の玩具箱の中だと気が付いた。
「お兄ちゃーん、あそぼー」
遠くで聞き覚えのある女の子の声がして、バンシーは思わず玩具箱の蓋を見上げた。
青年の声が、いいよ、と答える。
程なくして蓋が開き、視界いっぱいに麻衣の笑顔が広がる。
麻衣は迷うことなく怪獣とウサギ――バンシーを手にした。
玩具箱の外はいつも遊んでいたリビングで、ソファの前に真新しい真っ赤ななランドセルが置かれているのが見えた。
「私がバンシーとウサギ。お兄ちゃんは怪獣ね」
麻衣は屈託なく笑うと、怪獣を兄に手渡す。
「またこれか。お前、新しいアニメには全然うつらないな」
「マジカル少女リゼッタのこと?
あれも好きだけど、バンシーの方が断然格好いいよ」
マジカル少女リゼッタは、妖精少女グレムリンの後番組。
相当人気が出たのか、続編が決定されている。
でも麻衣は、その番組を最初の何話かしか観ていないはずだ。
好きなはずがない。
「なんか懐かしいな、俺もそんな時期あったよ」
兄は懐かしそうに怪獣を見つめた。
バンシーは、怪獣も自分と同じようにこの家にやってきたのだろうと思った。
兄はきっと小さい頃は怪獣が好きで、だから両親に人形を買ってもらったのだろうと。
「でも、今は違うんだよね」
麻衣が聞いて、兄が肯定する。
「大人になったからな。お前もいつかそうなるよ」
「ううん。私は大人になっても、バンシーを好きでいるよ。絶対」
麻衣が力強く断言した。
バンシーはずっと前、麻衣が同じような事を言っていたのを思い出していた。
そして、いつもの遊びが始まった。
怪獣がウサギを襲い、それをバンシーが助ける。
何度も繰り返された遊びを麻衣は楽しそうに行い、兄はそれに付き合った。
幾度となく見てきた景色、もう見ることはないと思っていた景色。
それが、そこにあった。
「バンシー!」
突如女性の鋭い声と銃声が響き渡り、バンシーは夢から覚めた。