2件目 私、今ミラーハウスにいるの
『ようこそ!裏野ドリームランドへ』
そう書かれたアーチ形の看板が、バンシーを迎え入れた。
看板は野ざらしにされたせいで塗装が剥がれ、所々錆びて文字も欠けている。
その看板をくぐり、バンシーは遊園地の中に入った。
辺りは暗く、懐中電灯の灯で見えたのは雑草が生い茂るアスファルトの道だけ。
あちらこちらに懐中電灯以外の明かりがあったが、それは異界への入口から漏れる光だった。
入口はどれも小さく鼠一匹入りそうになかったが、そこに小指一つでも入れば異界から逃れられなくなるだろう。
懐中電灯を右へ向けると、案内板を見つけた。
異界の入口に注意しつつ近づき照らしてみると、スプレーで落書きされ、巨大なキャンパスと化していた。
そのため、案内板としての機能は完全に失われてしまっていた。
バンシーは意識を集中させ、赤い眼を細めた。
すると、まだ落書きのされていない案内板がその瞳に映された。
それは、異界にある案内板。
そこに描かれた目的地を確認し、バンシーは再び歩き始める。
異界を見るには集中せねばならず、それなりに疲弊する。
幸い目的地が近い事もあり、バンシーは現界の暗闇を懐中電灯一つで歩くことにした。
ミラーハウス。
青い三角屋根に白い壁、青と白のストライプの看板を持つ、落書きだらけの建物。
そこに入ったらもう後戻りはできない。
もとより目的を果たすまで戻るつもりはなく、バンシーは二、三度深呼吸して気を引き締めた。
ゆっくりと足を踏み入れる。
そこは風もなく、ただ生暖かい空気に満たされているだけだった。
一歩歩くごとに、降り積もった埃に足跡が残っていく。
懐中電灯の灯りが無数の鏡によって反射され、あちらこちらに光が生まれる。
ほんのりと明るくなった室内で、バンシーは入ってすぐの鏡の前に立った。
そこには当然、暗闇の中に浮かぶバンシーが映し出されている。
鏡は異界への入り口。
この中に入れば、異界の遊園地に辿り着くことができる。
一切躊躇うことなく、何も持っていない手を鏡へと伸ばす。
当然、鏡の中のバンシーも同じように手を伸ばして――バンシーの手首を掴んだ。
視界が傾く。
全身から力が抜け、バンシーはその場に膝を付いた。
懐中電灯が音をたてて落ち、床を転がっていく。
意識が朦朧とする中で、バンシーは鏡の中の自分が泣いているのを見た。
赤い瞳から溢れた涙が白い肌を伝い、銀色の髪と季節外れの黒いドレスを濡らしていく。
悲しいのではない。
喜びから泣いているのだと理解した直後、バンシーの瞳は閉ざされていた。
朝日に照らされた裏野ドリームランドで、二人の人間がカメラを手に歩いていた。
どこからか聞こえる鳥の声に混じって、シャッター音が響きわたる。
一人は、二十代前半の女性。
春とはいえまだ肌寒いため、トレンチコートを着ている。
大きな瞳とお下げ髪が、可愛らしい印象を与えた。
一人は、薄手の黒いコートを羽織った二十代後半の男性。
黒縁眼鏡の下の目つきは鋭く、冷たい印象を与えた。
入口付近の撮影を終え、二人は青と白でできた建物の前に立った。
「本当に入るのか?」
男性 近藤真が、不安そうに女性を見た。
「はい! 来たからには、ここは外せませんし」
女性 宮内綾香は鼻息を荒くし、拳を握りしめる。
ミラーハウス。
ここに入った人間は別人のように人が変わる、という噂があった。
オカルト雑誌の記者である綾香と真は、噂の真相を調べるためはるばる東京からやってきたのだ。
「佐藤裕子の取材、あれだけで十分だと思うんだがな」
佐藤裕子は、ミラーハウスの犠牲者とされる人物。
裏野ドリームランドが廃園になる前、彼女は旦那や五歳になる子供と共にこの遊園地へとやってきた。
そして、子供と共にミラーハウスに入り、人が変わった。
明るかったはずの裕子は笑わなくなり、好きだったテニスをしなくなり、活字が苦手なはずなのに読書することが多くなった。
裕子へのインタビューで、綾香は裕子が子供の頃流行ったテレビや音楽の話題を振ってみたりした。
しかし、裕子はそれらが全く分からないという様子で、適当に相槌を打つのみだった。
その姿は、この手の超常現象を胡散臭く思う人間でも信じざるを得ない程のリアリティがあった。
その事が、これは本物かもしれない、と真を不安にさせていた。
「駄目ですよ。あれだけじゃ、演技だろ、と思われてしまいます」
綾香は子供の頃からオカルトが好きで、友達にもそういう話をしていた。
が、年を取るにつれて友達は信じていない事に気づき、それが悔しくて現在の職に就いた。
超常現象を証明する事を目的とする彼女としては、取材だけでは不十分だと感じていたのだ。
「何かあったら、どうするつもりだ」
「犠牲者は同行者と一度はぐれて再会した時に人が変わっていた、という話です。
つまり、離れなければ大丈夫です。というわけで、手を繋ぎましょう」
嬉々として手を差し出す綾香に、真は渋い顔をしながら躊躇っていた。
数秒悩んだ後、仕方がなさそうに静かに手を握る。
手を繋ぎながら、二人はミラーハウスへと入っていく。
真がコートのポケットから懐中電灯を取り出し、薄暗い中を照らし出した。
撮影のために綾香は真から手を放し、カメラのシャッターを切る。
隣に真が居ることで、綾香は撮影の短い時間なら手を放しても大丈夫だ、と安心しきっていた。
実際、真は綾香の隣にしっかりと立ち、見失っていはない。
ふと、綾香は視界の隅で何かが動いた気がした。
顔を鏡に向ける。
そこには、当然綾香と真の姿が写っていた。
綾香はそれを見て何事もないと安心しかけて、それに気づいて顔を強張らせた。
鏡の中の綾香は腕を真っすぐに下ろしていた。
綾香は、カメラを構えているというのに。
「ま――!」
真に助けを求める前に、鏡の中の綾香が綾香の腕を掴んだ。
そこで、綾香の意識は途絶えた。
気がついた時には、綾香はミラーハウスの床に倒れこんでいた。
綾香は上体を起こして、辺りを見回す。
「おい、大丈夫か?」
綾香は真の声に安心しながらも、大丈夫、と答えようとした。
その前に誰かが言う。
「大丈夫です。ご心配おかけしました」
それは、間違いなく――綾香の声だった。
「まさか……」
綾香は恐る恐る鏡を見る。
そこには床に倒れた綾香と、彼女に手を差し伸べる真の姿があった。
「そんな!」
綾香は慌てて、鏡の向こうの自分へと手を伸ばす。
手は鏡をすり抜け、もう少しで綾香の体に届こうとしていた。
もう少しで触れられる――そう思った所で、鏡の中の綾香が伸ばされた手に気づいてしまう。
彼女は綾香の手をかわしながら、わざとらしく悲鳴をあげた。
その悲鳴で真も綾香に気づき、鏡の中の綾香を庇うように立ちふさがった。
「逃げるぞ!」
真が叫んで、二人は走ってミラーハウスを出て行く。
「待って!」
綾香が叫びながら追いかけ、そして異界の遊園地を目の当たりにした。
「え」
そこには、誰も居なかった。
当然、真と綾香の姿もない。
慌ててミラーハウスに戻るも、もう鏡に二人の姿は写ってい
なかった。
綾香は異界に居た誰かに体を奪われ、異界に取り残されたのだ。
それから四カ月、綾香はここに人が来る日を待ち続けた。
元の世界に帰るために。
鏡の中のバンシー 綾香の思いが、記憶がバンシーに流れ込んでくる。
このまま抵抗しなければ、バンシーの体は綾香に乗っ取られるのだろう。
『同情するなよ』
記憶の中の澪の言葉に対して、無理よ、とバンシーは思った。
もうすでにバンシーは同情してしまっている。
綾香の帰りたいという気持ちが、よく理解できてしまった。
バンシーも帰りたい場所があり、そしてその場所を失くしてしまっているのだから。
もし綾香が、自分を乗っ取ったらどうなるだろうとバンシーは考えた。
真に再会できるのだろうか、綾香のフリをしている誰かから体を取り戻せるのだろうか。
それで綾香が救われるなら、バンシーはそうしたって構わなかった。
けれど、それはできない。
それで綾香は救えても、他の犠牲者達は救えない。
綾香以外の全てを見捨てるのと変わらない。
「……ッ」
バンシーは気を振り絞って目を開けると、ウェストバッグに手を伸ばした。
手探りでお札を取り出し、ぼんやりとする視界の中で鏡の位置を確認する。
そして、手にしたお札を一枚投げた。
それは鏡を擦り抜け、綾香に当たると激しい光りを発し、綾香の体に強い電流を走らせる。
綾香は悲鳴をあげながら倒れ、バンシーの腕を掴む手も離れた。
バンシーは荒い息を整えながら数秒警戒したが、綾香が再び襲ってくる気配はない。
安心しきった彼女は、床の埃も気にせずその場に横になった。
そうしていると、朦朧としていた意識も徐々にはっきりとしたものへと戻っていく。
バンシーはある程度回復すると立ち上がり、落とした懐中電灯を拾い上げた。
再び鏡へと手を伸ばそうとして、ふと視線を感じて止めた。
視線は入口の方からで、バンシーは首だけを動かしてそちらを確認する。
懐中電灯で照らしてみても姿形はなく、音も気配も感じられなかった。
気のせいかと思い、もう一度鏡に手を伸ばす。
バンシーの体は鏡を擦り抜け、現界から消えた。
『都市伝説No.21874 ミラーハウスでの入れ替わり
裏野ドリームランドにあるミラーハウス。
ここに入った人間の人格が入れ替わるとの噂が存在する。
調査した所、どうもここは異界への出入り口となっているようだ。
入口として使う場合は、鏡の中に入るだけでいい。
出口として用う場合は、現界の人間の体を乗っ取る必要がある。
肉体の帰還はできないが、魂だけは帰れるというわけだ。
ちなみに乗っ取られた現界の人間は、異界に閉じ込められる。
両者が肉体を保持していた場合、これは単純に魂を交換するという形になる。
異界側にいた人間が既に肉体を消失している場合は、現界側にいた人間は魂のみで異界を彷徨う事になる』