11話 いつか英雄になる二人
「一つお願いがあるのだけど」
撫でられた反動で頭を揺らしながら、バンシーは床に落ちたウェストバッグからペットボトルを出すよう頼んだ。
男は言われた通り小さなペットボトルを取り出すと、透明な液体で満たされたソレを興味深げに見つめる。
「これは?」
「塩水らしいわ」
「なるほどな」
男の声を聞きながら、バンシーは澪から受けた忠告を思い出す。
『塩には、魔除け効果があってな。
塩水を含んでいれば、妖や霊から――遊園地に居る全員から姿を隠すことができるんだ。
ただ、お前は怪談だからな。お前にとっては、毒でもある。
口に含んだだけなら多少口が痺れる程度だろうが、うっかり飲み込めばしばらくは動けないし、大量に飲めば死ぬ。
それに、これは姿を消すだけだ。
互いに触れることはできるし、音だって消せないから注意しろ』
危険な割に頼りない代物だったが、他に方法がない以上頼るしかない。
「そろそろだな」
男はそう言うと、手に乗せた塩水をバンシーに飲ませた。
口の中がヒリヒリして、塩水が体を傷つけていくのが分かる。
「よし、大きい方を出せ」
言われた通り、バンシーは大きいバンシーを出現させる。
人形も人間も感覚は共通しており、塩水による痛みは大きいバンシーにもあった。
痛みに耐えながら、床に落ちたウェストバッグを拾い腰に巻く。
続けてペットボトルをバッグにしまい、スタンプカードを持つ人形のバンシーを慎重に握った。
やがて、スタッフがドアを開ける。
男に続いて、バンシーもゴンドラを降りた。
観覧車の入り口の近くにパイプのテーブルと椅子があり、そのテーブルの上にスタンプが置かれている。
男はスタンプ台に近づくと、影達から台を隠すようにして立った。
バンシーはテーブルの上に人形を置き、その手からスタンプカードを受け取る。
恐る恐るスタンプを持ち上げた時、視線を感じて手を止めた。
顔をあげると、突然動き出したスタンプに驚くスタッフと目が合う。
思わず動きを止めたバンシーの前で、スタッフは説明を求めるように男を見た。
「驚かせて悪いな。俺の連れの透明人間だ。
手でいいからスタンプを押したいと言っていてな。押させてやってくれ」
男がスタッフとバンシーだけに聞こえる声で、つかさずそう言った。
人形や着ぐるみが動くのだ。
透明人間の一人や二人実在するだろうとスタッフは納得したらしく、どうぞ、と右手のひらをバンシーに見せた。
バンシーは素早くスタンプを押し、スタンプカードと人形を握りしめる。
終わったことを確認した男は、じゃあな、とスタッフに手を振って歩き出した。
バンシーもその後に続く。
二人は時折すれ違うスタッフに「黒いドレスの少女を見なかったか?」と聞かれ、その度に男が「見てないな、見つけたら教えてやるよ」と答えた。
そうして歩くこと数分、ドリームキャッスルの前までやってきた。
「いいぞ」
周囲の安全を確認した男の言葉を聞いて、バンシーは人形をアスファルトの上に置いた。
人形のバンシーが、口に含んでいた水をすべて吐き出した。
足元を塩水が濡らす。
口の中はまだ痛むが、耐えられないほどではない。
「そういえば、どうして観覧車だけ普通なの?」
再び人形を抱きかかえた大きいバンシーは、観覧車の噂を思い出し尋ねた。
「いや、あそこも普通じゃないぜ。
あの観覧車は乗る時や乗ってる最中は問題ないが、降りるときは次の客が居ないとドアが開かない。
この異界ができた当初は誰もそれを知らなくてな、分かるまで延々と閉じ込められた奴がいたらしい。
今は皆で交代で乗ってて、常に客が居るようにしてるんだ。
嫌でも乗らなきゃいけないから、皆からの不満が凄いんだぜ。
他に比べて、楽しませようって気概がないよな」
『楽しませる』という単語が何故か引っかかり、ある考えがバンシーの中で浮かび上がろうとする。
しかしそれを防ぐように、男がバンシーの頭を軽く撫でた。
「さて、俺はここまでだ。
お前が上手くやったら、皆を連れて行かないといけないからな。その準備をしてくる。
じゃあ、頑張れよ。――魔法少女さん」
男こと榊原竜也が裏野ドリームランドにやってきたのは、十一月初めの朝。
裏野ドリームランドの入り口近くに車を止めた竜也は、水で清めたコートを羽織り、その下に黒いスーツ着ていた。
コートの色は赤く、その色には魔除けの効果があるとされていた。
髪は濃い茶色に染められ、コートと相まってかなり派手ない出立ちだったが、顔立ちが整っている為妙に似合っている。
先程までハンドルを握っていた手には、一筆書きの星が縫われた白手袋。
魔除けの意味合いを持つこの星はセーマンと呼ばれ、コートと同じく竜也が身を守るために用意したものだ。
竜也は、霊能事務所を開く霊能者の一人だった。
そんな彼が裏野ドリームランドにやってきたのは、依頼を受けたからに他ならない。
依頼主は若い女性で、十四歳になる娘と共にこの遊園地に遊びに来て――そして娘だけが消えた。
行方不明になって、母親は警察や探偵、そして霊能者の力を借りて娘を探した。
しかし霊能者たちは偽物も多く、母親は何度も騙され裏切られ続けた。
そんな彼女がようやく辿り着いた本物の霊能者、それが竜也だった。
依頼内容を話すうちに感極まって泣く母親を目にし、竜也はこの依頼を受けることを決めたのだ。
竜也は助手席に置かれた黒い革製の鞄を手元に手繰り寄せると、鞄から百八個の珠がついた数珠も取り出し、何重にも巻いて左手で持った。
数珠はコートや手袋と同じように魔除けの意味合いもあったが、それ以上に重要な意味を持っていた。
娘が行方不明になって三カ月。恐らくは生きていないだろう。
数珠は娘が霊として彷徨っていた場合、あの世に送り届けるために必要なのだ。
竜也は車を降りると、『ようこそ!裏野ドリームランドへ』と書かれたアーチ形の看板の前に立った。
廃園からまだ半月であるため、看板の文字はしっかりと読むことができる。
「さぁて、行くとしますか」
竜也はわざと明るい声を出して、ゲートをくぐり裏野ドリームランド内部へと足を踏み込んだ。
日の光で照らされた園内は、廃園間もないこともあり、廃墟と思えない程綺麗なものだった。
「参ったな、これは」
園内のあちらこちらに異界へと通じる小さな入口があるのを見て、竜也は辛そうに呟いた。
現界から異界への干渉は、異界に何かを送る以外は行えない。
それ以外の干渉を行おうとすれば異界に行く必要があるが、今度は異界から出ることができなくなる。
他の超常現象ならば竜也でも対処できただろうが、こればかりは誰も手が出せないのが現実だった。
もし依頼人の娘が異界に迷い込んだのであれば、『娘を探して欲しい』という依頼の裏にある『娘を連れ戻して欲しい。例えそれが最悪の形であっても』という願いは叶えることができない。
「とにかく、調べてみるか」
幸い赤いコートとセーマンの手袋をしていたため、竜也の周囲に異界への入り口が現れることはない。
だから、彼は園内を安全に歩くことができた。
竜也は時折目に意識を集中させて異界の様子を確認しつつ、遊園地を慎重に探索していく。
入口から近い順にアトラクションの様子を確認し歩いたが、得られた収穫は異界のアトラクションが現実とは違う形で稼働しているという事だけだった。
竜也はそれに多少落胆の色を見せながらも、足を止めることなく次のアトラクション アクアツアーのゲートを潜った。
待機列を鮮やかに飾る珊瑚や海草が、今は不気味な手のようだった。
誰もいない受付の小屋を通り過ぎ、桟橋へと立つ。
船も水もない。
昨日の雨で泥だらけになったプールに、剥き出しのレールが敷かれているだけだった。
慎重にプールに降り、虫一匹いない静寂の中を進んでいく。
どこからか飛んできた枯れ葉を踏み、落ちていた枝を踏み砕き、泥で靴底を汚しながら進む。
少し歩くと、やがて左右に陸地が見えてきた。
そこまで来て立ち止まると、竜也は両目を細めて意識を集中させた。
異界の裏野ドリームランドが見え、同時に歌が聞こえてきた。
滑らかなメロディーに乗せ、優しいソプラノの声が高らかに歌い上げる。
そして、竜也はその場で仰向けに倒れた。
眠りは浅かった。
すぐに竜也は目覚め、上体を起こした。
「…………気持ちわりぃ」
背中がひんやりと冷たく、髪や手には粘着力の高い物質がこびりついている感触がある。
立ち上がり全身を見てみると、泥まみれになっていた。
赤いコートと数珠は茶色に染められ、白い手袋は星のマークが泥で見えなくなっていた。
それはつまり、それぞれの魔除けの効果が消えた――いつ異界に迷い込んでもおかしくない事を意味する。
「…………」
竜也の顔が急速に青ざめていく。
慌てて来た道を引き返し、桟橋に飛び乗り、待機列を走り抜け、アクアツアーのゲートを潜る。
異界の入口にだけ注意しながら、遊園地を出る最短ルートをひた走る。
園内はそれ程広くない。
出口はすぐに目視できた。
二百メートル程先、五分もかからず辿り着くことができる。
それなのに、足が妙に重い錯覚を受け、時間が遅く感じられもどかしい。
竜也は襲いくる恐怖や不安をできるだけ無視して、ただひたすらに手足を動かすことに集中する。
そうして、ようやくミラーハウスの前までやってきた。
出口までもう少し。
竜也に安堵の表情が浮かぼうしとした――その時だった。
「だっ!」
転んだ。
足を何かにひっかかかったかのように動かなくなり、強かにアスファルトに叩き付けられた。
打ちつけた部分が鈍い痛みを発しているのを無視して、急いで立ち上がろうとする。
そして、また転んだ。
今度はなんとか両手で体を支えられたため、膝を軽くぶつけるだけですんだ。
「…………」
再び試みる。
しかし、右足が何かに固定されていて、立ち上がる事ができなかった。
竜也は、動かない足に目をやった。
異界の入り口に入り込んだ、つま先を見た。
あの場所に先程まで異界の入口はなかった。
それなら、丁度足を踏み出したタイミングで入口が出現したのだろう。
「くそっ!」
竜也は慌ててコートのポケットから、手帳型のケースに入ったスマートフォンを取り出した。
足が異界から出られないのなら、誰かに切り落としてもらうしかない。
そう判断するのに、それほど時間は必要なかった。
急いでマグネットの留め具を取り外し、スマートフォンの電源を入れ、暗証番号を入力する。
その短い時間の間に、異界への入口は竜也の体を飲み込むように、少しずつ大きくなりながら頭に向かって移動していた。
両足は完全に飲み込まれ、次に足首を飲み込もうとしている。
どう考えても間に合わない。
それでもあきらめず通話ボタンを押そうとして、画面の右上を見て愕然とした。
圏外だった。
悪あがきに数件電話をかけてみたが、無機質なアナウンスが繋がらない事を知らせるだけだった。
「…………ッ!」
竜也は怒りに任せ、スマートフォンを地面に叩き付ける。
ガラス製のシートにヒビが入り、割れた小さな破片が少しだけ辺りに飛んだ。
「…………」
再び画面を見る。
やはり、圏外だった。
竜也は静かにスマートフォンを地面に置くと、大きく息を吐いて全てを受け入れた。
異界に足を踏み入れて三分後、竜也の体は完全に飲み込まれる。
「ようこそ! 裏野ドリームランドへ!」
異界に入ってすぐ、そんな明るい声が聞こえてきた。
男の子のような可愛らしい声。
顔をあげると、すぐ横に青いオーバールを着たピンクのウサギが立っていた。
その手には、鉈。
「大丈夫、痛くも苦しくもしないから」
なぐさめるような、労わるような、優しい声だった。
そして、刃を赤黒く染められた鉈が振り上げられた。
叫ぶ事すらできなかった。
勢いよく下ろされた鉈は、竜也の首と胴体を綺麗に切り離し、痛みを感じさせることなく絶命させた。
それ以来竜也の魂は裏野ドリームランドに閉じ込められ、できる事もないので遊園地で遊ぶ日々を送っている。
後になって思えば、あの日ウラビッツが竜也を殺したのは、彼なりの慈悲だったのだろう。
裏野ドリームランドはとても生物が生きていける環境ではなく、迷い込んだ人は近い将来死が待っている。
徐々に衰弱し、苦しむくらいならいっそ――ウラビッツはそう考えたのだろう。
しかしだからといって、竜也はウラビッツを許してなどいない。
そもそもこの異界を望んだのは、ウラビッツなのだから。