10件目 私、バンシー……ただの怪談なの
麻衣が住むマンションを飛び出した後、バンシーは走り続けて見知らぬ公園へとたどり着いた。
小さな公園で、遊具は滑り台とブランコ程度しかない。
青白かった空はすっかり明るくなり、ベンチに座るバンシーの耳を子供達の楽し気な声が通りすぎていく。
いつからか、俯くバンシーの視界には白いスニーカーが写りこんでいた。
しかしバンシーは、それに気づく事なく下を向いたままだ。
スニーカーの主はしばらくそのまま待ち続けたが、やがて業を煮やして口を開く。
「何してるんだ、こんな所で」
頭上から聞こえた声に、バンシーはようやく顔を上げた。
二十代前半の女性が立っていた。
薄いブラウスを着て、黒いズボンを履き、長い黒髪を後ろに乱暴にまとめている。
オレンジ色のハンドバッグに右手を入れ、緊張した面持ちでバンシーを見つめていた。
「……なんて顔をしてるんだ」
女性が困惑と驚きの表情を見せた。
女性を見上げるバンシーは今にも泣きそうで、その瞳は戸惑いと悲しみを映し出していた。
女性はしばらく悩んだ後、バッグに手を入れたまま、乱暴にバンシーの隣に座る。
「で、何してるんだ? こんなところで」
「別に、何も」
再び俯いたバンシーは、そうとしか答えられなかった。
特に何をしていたわけではない。
これからの事を考えるどころか、現状を受け止めることすらできず、ただ途方に暮れていただけなのだから。
「じゃあ、お前は葛城麻衣に会って何をしたかったんだ?
何故あの子の家に行ったんだ」
麻衣の名前に反応し、バンシーは改めて女性を見た。
知りあいだっただろうかと思ったが、どう考えても見覚えがない。
バンシーの視線の意味に気づいた女性が、少しだけ面倒くさそうに答える。
「私は霊能事務所、つまりお前みたいなのが起こした事件を調査・解決するのを仕事にしていてな。
依頼されたんだよ。捨てた人形から電話がくる、助けてくれってな」
「……私を、退治しに来たの?」
声が震える。
何もかも失った以上それでもいいと思ったが、それでも死は恐ろしく思えた。
バンシーの問いに、そのつもりだったんだがな、と女性は困った顔をした。
「どうにも、お前には悪意ってものを感じない。
だから訊きたい。お前の目的はなんだ」
再びの問いに、バンシーはどう答えるべきか悩んだ。
正直言って、やりたいことなど何もない。
だから答えるならば、やりたかったことなのだろう。
「私は……麻衣の所に戻りたかった。麻衣とまた一緒に遊びたかった。
そうして――誰かを笑顔にする存在でいたかった。誰かに必要とされたかった。
それだけよ」
バンシーが答えている間、女性はその言葉の真偽を確かめるようにバンシーを見つめていた。
答えを聞き終えた女性は少し悩んだ後、バッグに入れていた手を出した。
その手には何も握られていなかった。
「それなら、一ついい話がある。
お前、裏野ドリームランドって知ってるか?」
「確か、行方不明事件があった場所よね」
バンシーは、ニュースや麻衣の両親の話を思い出しながら答えた。
しかし、それがどういい話に繋がるのか分からない。
「知っているなら話が早い。その事件の解決を手伝って欲しい。
失敗すれば帰ってこられないし、成功しても得られるのは感謝の言葉ぐらいだ。
割に合わないが――それでも、やるか?」
「やるわ」
バンシーは、間髪を入れずに答えた。
魔法少女でも人形でもない、人を怖がらせるしかない怪談。
そんな自分でも誰かを救えるというのなら、答えは一つしかなかった。
レストランを出たバンシーは、人形の姿で観覧車の固い椅子に座っていた。
「人形の方だけ出しとけ。そしたら、外から見えないから」というのは、目の前に座る男のアドバイスだ。
スタンプカードを守るようにウェストバッグを抱きしめながら、バンシーはレストランで出会った男を見つめた。
助けに来たと言った男は、バンシーと共に誰にも見つかることなくレストランを出て、観覧車の列を無視してゴンドラに乗り込んだ。
『都市伝説No.21876 誰も乗っていない観覧車からの声
裏野ドリームランドの誰も乗っていない観覧車から、「出して」と声がするという噂がある。
試しに観覧車を観測してみたが……その様な声はなかったし、異界での観覧車に異変はなかった。
調べてみたところ、この噂に関しては大分前から目撃証言がなくなっている。
この噂は、廃園前の数日間しか目撃されていないのだ。
声がするにはなんらかの条件があり、今はそれを満たしていないのかもしれない』
澪の資料にはそう書かれていて、実際何十人もの影達が観覧車の乗り降りを繰り返していた。
降りられない心配をする必要はないだろう。
「それじゃあ、改めて聞きたい。あんたの目的はなんだ?
そのスタンプカードで、何をしようとしている?」
ドアが閉まってしばらくして、男はジェットコースターの時と同じような質問をバンシーに投げかけた。
「……どうして、スタンプカードの事を」
「ウラビッツがあそこまで執拗に追いかける理由なんて、カード絡みぐらいだからな」
バンシーの素朴な疑問に、男は何てことのない風に答えた。
それを聞いたバンシーは、スタンプカードの事を知られている以上嘘を吐いても仕方がないと考え、今度は正直に答える。
「私は、ここに居る人達を助けに来たのよ」
「助けにきた、ねぇ。あんたの願いはいいのか?
あるだろう、一つや二つ」
願いはないのか。
その言葉にバンシーはアクアツアーの夢を思い出し、同時にそれが恋しくなっている事を自覚した。
こんな状態では、もしスタンプを全て集めたとしても、自分の願いを口にしない自信はない。
ふとある考えが浮かんで、バンシーはすがるような目を男に向ける。
「…………貴方は、外に出たい?」
男は突然の問いかけに、そりゃまぁ、と戸惑った様子で答える。
それを聞いたバンシーはウェストバッグからスタンプカードを取り出し、男に向けて両手で差し出した。
支えを失ったウェストバッグが、音を立てて床に落ちる。
「それなら、お願い。どうかこれで皆を帰してあげて」
外に出ることが男の願いであるならば、そのついでに遊園地の皆を帰すことだって可能なはずだ。
バンシーのように迷う心配はないだろう。
男はかなり戸惑った様子でバンシーを数秒見つめた後、首を横に振った。
「そうしたいのは山々だが、それは無理だ。
スタンプカードってのは、自分で集めなきゃ意味がないんだよ。
他人が集めたのを奪ったところで、願いは叶わない」
困惑した様子で答える男に対して、バンシーは落胆を隠そうともせずに俯いた。
「大体そこまでする気なら、あんたが自分で願えばいいじゃないか」
膝の上に置いたスタンプカードを見つめながら、多分無理よ、とバンシーは呟いた。
「貴方の言う通り、私には叶えたい願いがある。
最後の最後で、私は自分の為に皆を見捨ててしまうかもしれない。
そんなのは嫌よ。そんなことをしたら、私は一生私を許しはしないでしょう。
でも――それでも願ってしまうかもしれない」
「だから、俺に託そうとしたのか」
納得して呟いた男の言葉に、バンシーは静かに頷いて同意した。
「俺だって、ここに居る連中を救いたい。自分も含めてな」
男の言葉にバンシーが顔を上げると、男は窓の外を見つめていた。
バンシーはその視線を追おうとしたが、体が小さいためゴンドラの壁しか見えない。
ゴンドラは今十時の辺りにあるので、男には遊園地全体を見渡せている事だろう。
「皆ここから出たがっている。
だから、出口を求めてミラーハウスに行ったり、不確かな噂に縋ったりする。
知ってるか? 俺がここに来る前にアクアツアーが出口なんてデマが流れたらしい。
観覧車から眠らされた人々が丸見えだから、すぐにその噂は消えたがな。
――そうやって色々試して、やがて脱出不可能を悟った連中は逃避し始める。
遊園地を楽しんだり、レストランとかで眠ってみたりしてな」
バンシーは、レストランで眠る人々とアクアツアーの女性を思い出した。
「そうやって皆なんとか耐えてる。だが、それもそろそろ限界だ」
「限界?」
「長く現界に留まっちまうとな、俗にいう悪霊になっちまうんだよ」
バンシーは息を飲み、不安げに男を見つめた。
男は相変わらず外を見つめたまま、淡々と話続ける。
「ここの連中は、多かれ少なかれ外の連中を妬んでる。
どうして自分がこんな目に、俺の代わりにあいつが来ればよかったのに、ってな具合でな。
そうした負の感情がどんどん強くなって、いつかはそれ以外の感情を塗りつぶしちまう。
最後にはどうして妬んだのかすらも忘れて、ただひたすら手当たり次第に何かを呪う存在になる。
まぁ、どの道この世界から出れないから、外の連中に何かすることはできないけどな」
その悪霊になる者の中には、当然彼自身も含まれているのだろう。
遊園地に居る全員が悪霊になる。
それがどんな状況かバンシーには想像することすらできないが、今以上に悲惨な未来がこの遊園地を待ち受けているのは確実だった。
「それがこの遊園地の現状。
でも仮に全員が悪霊になったとしても、俺が無事ならそいつらを消すことができる」
「消す?」
不穏な単語にバンシーが顔を曇らせると、男は想像通りの答えを返した。
「そのままの意味だ。何処にもいけないまま消滅する。
天国にも地獄にも行けず、来世すら奪われる。
それでも悪霊のままでいるよりは、いくらかはマシだろうよ。
――そう怖い顔するなよ」
男は、横目でバンシーを見て苦笑した。
バンシーはいつの間にか男を睨んでいたのに気付き、慌てて謝罪する。
男は、いいよ、と言って視線を外へと戻した。
「俺としても、それは最後の手段だ。
できるなら俺は、あんたに皆を助けてほしいと思ってる。
現界にさえ出ることができれば、後は俺が皆の魂を導いて彼岸に渡らせることができるからな」
そこで男は外を見るのをやめ、真っすぐにバンシーを見つめた。
「でも、私は……」
バンシーはそれ以上言葉が続かず、男から逃げるようにまた俯いてしまった。
助けたい気持ちはもちろんあるが、帰りたいという願いも胸の中でくすぶり続けている。
「なぁ、あんた」
そう言った男の声は、泣いている子供を慰めるような優しいものだった
「あんたは、俺にカードを渡そうとしただろ。その時、後悔するとは考えなかったのか?」
予想外の質問に、バンシーはスタンプカードを見つめたまま困惑した。
あの時のバンシーは皆を助けたいあまり、自分の願いが叶わない事を忘れていた。
「聞き方を変えるか。
あんたは、自分の願いを叶えたら自分を許せなくなる、って言ったよな。
じゃあ、その逆はどうなんだ?」
「……逆」
「俺達を助けたら、あんたは自分を許せるのか?」
バンシーは即答しようとして、慌てて口を閉じた。
それから目を閉じて、皆を助けた後の事を想像してみる。
皆が家に帰って、感謝され、その笑顔を喜んで――けれど、それが終わればまた一人きりだ。
帰る場所も行く場所もない、何かやりたいことがあるわけでもない、何も持たない怪談に戻ってしまう。
それでも――。
「私は、きっと――いいえ、絶対に私を恨んだりはしないわ」
バンシーは顔を上げ、そう断言した。
多くの人間を救えた。
その誇りさえあれば、バンシーは後悔せずにいられるだろうと確信していた。
男はそれを聞くと満足気に頷き、なら大丈夫だ、と言った。
「何も迷うことはないさ。後悔しない方を選べばいいだけなんだから」
男はそう言って立ち上がると、バンシーの頭をかなり乱暴に撫でた。
バンシーの頭が激しく揺れたが、驚いたバンシーに抵抗する余裕などなかった。