モスマンに占領された町(その2)
一、町からの距離四キロ地点
照りつける太陽の下、荒野を二台の四輪駆動車が走る。
行く先に小さな町の影。
距離が縮まり、徐々に影が大きくなっていく。
町まであと四キロの場所で、前を走る赤いクルマが少しずつブレーキを掛け始めた。銀色の後続車も同じように速度を落とす。
やがて二台のクルマは真っ直ぐ伸びる荒野の道路上で停車した。
先導する赤い四駆の助手席から男が現れる。
全身これ筋肉の塊と言っても良いほどの大男だった。
ゆっくりと後続のクルマに近づいて行く。
後続車の助手席に居た男が窓ガラスを下げた。
むわっ、とした熱い空気の塊が車内に侵入して来た。
「ハカセ」先導車の男が外から声を掛ける。「あの町に入ってみようと思う」
「ああ。さっき無線で言ってたな。二号車は全員準備完了しているよ。
しかし……避けて通った方が良くないか?」ハカセと呼ばれた助手席の男が尋ねた。「これは勘だが、あの町の雰囲気、どうも怪しい」
「コハクが、エナジー・ジェルか食糧のどちらかを手に入れたいと言うのだ」クルマの外に立つ大男は、言いながら助手席の窓枠に手を掛けた。義手だった。黒い鋼鉄製の義手。
「どっちが支配していると思う? ハマキ?」ハカセが再度、尋ねた。
「さあな。だが嫌な予感がするのは、俺も一緒だ」外に立つ義手の男、ハマキが答えた。「こんな遠くからじゃ何も分からないというのが本当の所だが……何だか人間の居そうな気配がしない。やつら……モスマンの巣になっているかも知れん」
「だとしたら面倒だが……まあ、仕方あるまい。
よく考えてみれば、相手が人間様でも面倒な事に変りは無い。
食料かエナジー・ジェルを手に入れたいとなれば行くしかない。人間の町だろうとモスマンの巣だろうと、な。
働かざる者、食うべからずとも言うし……この世界じゃ、危険を冒さなければ何も手に入らん」
「いっそゴースト・タウンなら楽なのだが。
モスマンに襲われて住民は全滅、化け物どもは飛び去った後、食糧と燃料だけが残っているというのなら」ハマキが言った。
「やめてくれよ、ハマキ。他人の不幸を願うなんてらしくないぞ。
危険で汚い世界だが、せめて我らがリーダーくらいは綺麗事を言ってくれ」
リーダーのハマキは、ハカセの言葉にニヤリと口元を歪ませ、助手席のドアから義手を下すと自分のクルマの方へ歩いて去って行った。
ハカセが助手席の窓を上げる。
エアコンから吹き出すヒンヤリとした空気で、再び車内が冷やされていく。
「無線機があるのに」二号車の運転席に座るゼンセがぼそりと呟いた。「なんで、毎回、直に言いに来るんだろうな。クルマを止めてまで」
「あれが奴の流儀なんだろうさ。大事な事は面と向かって、て事だろう」ハカセが答える。「さあ分かっただろう。いつも通りに行くぞ。二人ともマスクを付けろ」
後部座席に座っている若い男が、座席の下からゴーグル一体型のガスマスクを三つ取り出して、二つを前席の二人に配り、あとの一つで自分の顔を覆った。
運転席のゼンセも助手席のハカセも装着する。
ハカセは、まず眼鏡を外してケースに入れ、胸のポーチに収めてから、ガスマスクを着けた。ハカセのマスクだけは度入りのレンズがゴーグルに嵌っている。
前の赤いクルマ……一号車が再び走り出した。
二号車も後を追った。
二、侵入
町の辺縁部まであと一キロという所で、再び一号車が停車した。
二号車も従う。
「いつも通り、ここから無音走行に切替えて町に侵入する」無線機からハマキの声が聞こえた。
さきほどの無線より声が籠っている。ハマキ以下一号車の連中もガスマスクを装着しているという事か。
「みんな、冷房止めるぞ」言いながら、運転手ゼンセがエアコンのスイッチを切った。電池の消耗を押さえるためだ。
アイドリングしていたエンジンも停止させる。音のしなくなった車内。温度が少しずつ上がって行く。
ゼンセがダッシュボードに生えたトグル・スイッチの一つをパチンッと指で上に弾いた。モーターとバッテリー、それに運転手の右足が乗ったアクセル・ペダルを繋ぐ電気回路が閉じる。
一号車がゆっくりと動き出す。エンジン音が聞こえない。無音の電気走行だ。
二号車のゼンセがアクセル・ペダルに乗せた右足に力を入れた。
……ウィィィン……
モーターの回転する微かな音とともに、二号車も徐行の速度で動き出した。
四輪駆動車のエンジン音は意外に大きい。通り沿いの家や商店の中に誰かが居れば、まず間違いなく気づかれる。
電気走行でも走行音を完全に消せる訳ではないし、車体の大きな四輪駆動車であれば目視で発見される可能性も充分考えられが、それでも内燃機関の排気音を盛大に漏らしならが走るよりはましだった。
電気走行の弱点は二つ。
一、走行距離が短い事。彼らの乗る四輪駆動車には、エンジン無しで一晩中エアコンを作動させられるほどの大容量バッテリーが搭載されていたが、それでも内燃機関に比べ航続距離は驚くほど短い。
二、極端に遅い事。平たん路でもせいぜい毎時二十キロメートル程度。やつら……モスマンはもちろん、短距離なら全力疾走の人間にも追いつかれる速度だ。
二台の四駆は、荒野との境を超えゆっくりと町に入っていった。
大通りの両側に並ぶ商店の数々。
二階建てが半分。平屋が半分。
木造が半分、鉄骨の四角い建物が半分。
どの商店も小ぢんまりとしている。
「典型的な荒野の田舎町、って感じだな」二号車のハンドルを握るゼンセが道路の左右に注意深く視線を配りながら言った。「静かだ……人の気配がしない……ハカセ、こりゃあ間違いないぜ」
「ああ」と助手席のハカセ。「悪い方の予感が当たったようだ……だが、その反面……」
「運が良ければエナジー・ジェルが手に入る」
ひとっ子一人いない通りをゆっくりと進む二台の自動車。
銀色の二号車の車内、運転席のゼンセが一軒の食堂に視線を向けた。
進行方向にむかって右、やや前方。けばけばしい色のネオン看板。しかしネオン管のほとんどが割れて落ちてしまっている。
「大衆食堂か」ゼンセの視線を追ったハカセが呟く。「缶詰か人工干し肉、あるいは炭水化物ブロックの一つくらい備蓄してあるかもな?」
「停車するか?」
「リーダー次第……一号車に乗っているハマキ次第だ」
しかし一号車は停止せず、そのままゆっくりと大衆食堂の前を通り過ぎた。
「もう少し様子を見よう、ということか」ハカセが言った。
二号車も大衆食堂の前を通り過ぎようとした、その瞬間……
「今、店の中で何か動いたぞ」後部座席に座る若者、タンケンが叫んだ。
慌ててブレーキを踏むゼンセ。
「本当か? タンケン?」ハカセが振り向いて確認する。
「間違いない。大衆食堂の中で動くものがあった」
ゼンセが無意識にドア・ロックを確認する。
……大丈夫。鍵は掛かっている。
ハカセが無線機に引っ掛けてあるマイクを掴んだ。
「こちら、二号車、ハカセだ」
「どうした? ハカセ?」ガリガリッという空電音の後、ハマキの声がスピーカーから聞こえてくる。
「タンケンが道路右側の大衆食堂で動くものを見たと言っている」
「何?」
少し距離を置いて、一号車も停車した。
「どうする? ハマキ」
「……」
返事が無い。
迷っているな、と、二号車のハカセは思った。
厄介事は御免だが、しかし住人が居るならこの町の情報を収集しておきたい……と、言ったところか。
突然、大衆食堂のスイング・ドアが勢いよく開いた。
店の中から小太りの若い男が飛びだして来た。
恐怖顔を引きつらせて二号車に向かってくる。
十歩遅れて、さらにもう一人。
今度は背の高い痩せ形の中年男だった。料理人の白衣とエプロン。店の主人か。
僅かに残った毛髪が汗で禿げ頭に貼り付いていた。
最初の男が道路のセンターラインを越えた瞬間……うしろの大衆食堂から物凄い勢いで何かが飛び出した。
黄色地に赤い斑点を散らせた外骨格。肩から二本、脇腹から二本、細長い腕だか脚だかが生えている。
腰に相当する部分から後に向かって生えた二本は、肩と脇腹の四本より大きく、長い。
合わせて六本の腕と脚の先端は長い鎌のような形をしていて、その刃にあたる部分には、細かい鉤爪がびっしりと生えていた。
腕にしろ脚にしろ胴体にしろ、部分部分を見れば昆虫そのものなのだが、全体のシルエットは驚くほど人間に近かった。大きさも人間の大人とほぼ同じくらいだ。
頭部に三つの複眼。先端が木の枝のように別れた触角が二本。鋭く巨大なハサミのような顎が横に開いたり閉じたりしている。
巨大な昆虫は十匹ほどの群れを成して大衆食堂から現れ、逃げる男たちを空中を飛んで追いかけて来た。
背中に生えた不気味な斑文様の翅が動くたび、周囲にキラキラと光る鱗粉が撒き散らされる。
「助けてくれッ」前を走る小太りの若い男が叫んだ。
もう二号車から数歩の所まで来ていた。
その後ろで、大衆食堂の主人らしき痩せた中年男に対し、昆虫たちが腕の大鎌を突き立てていた。
「ぎゃあああ」大衆食堂の主人が聞くに堪えない苦痛の叫び声を上げる。
必死にもがいて体から大鎌を抜こうとするが、刃先に鉤爪状の返しが付いた鎌を抜くのは不可能だった。
十匹の蛾人間……モスマンが痩せた男の体に集り、取り付く。
目玉、鼻、頬……
胸、脇腹、へそ、股間、腿、脛……
全身の有りとあらゆる部分にハサミ状の顎を突き立てて、ひとくち大の肉を次々と抉り取っていく。
そのたびに中年男が叫び声をあげ、男の体から噴水のように血が噴き出した。
モスマンは、食べるために人間の体から肉片を抉っている訳ではなさそうだった。
その証拠に、器用に首を振ってポーン、ポーンと肉片を周囲に投げ捨てている。
散らばった肉片から染み出た血で、道路が赤く染まる。
どんっ、どんっ、どんっ……
先に逃げて来た小太りの男が、必死の形相で後部座席の窓を叩いた。
ライフル弾の直撃にも耐える硬質ガラスは、もちろんビクともしない。
ドアノブをガチャガチャ動かしてみるが、無駄な事だ。ドアには全てロックが掛かっている。
今は夢中で中年男の肉を抉っているモスマンも、いずれ先に逃げた小太りの男に標的を移すはずだ。
それまでに四輪駆動車の中に入れなければ、この男も大衆食堂の主人と同様、もだえ苦しみながらゆっくりと死んでいくしかない。
「開けてくれェーッ」小太りが叫ぶ。窓をドンドン叩く。
その恐怖に歪んだ顔を間近で見ていたタンケンが、助手席のハカセにガスマスクの顔を向けた。
……どうする?
タンケンの目が、ハカセに問いかけている。