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妖草子

 昔々、今から何百年も前のこと。妖と呼ばれるモノが、今よりももっと多かった時代。

 山の奥深く、小さな小屋に住む女がいた。その女は山に生える様々な植物を薬に変え、それを売って生計を立てていた。名を(ゆき)と言った。

 ある日、幸がいつものように薬草を探していた時のこと。茂みの奥の方から呻き声が聞こえてきた。不審に思い、そっと近づいてみると、そこには、背中を刀か何かで切られた青年がうつ伏せに倒れているではないか。驚いた彼女は慌てて小屋へ帰ると、薬や治療の道具を入れた箱を持ち、また先程の場所へと駆け戻った。

「大丈夫ですか」

 傷に障らない様に腕を叩いて声をかけるが、青年の口からは苦しそうな吐息が漏れるだけで、反応は返ってこない。

 幸は下唇を噛みしめると、血に濡れた青年の着をずらし、背中の傷を露わにする。そっと血を布で拭き取ってみれば、見た目よりも傷は深くないようだった。

 少しだけ詰めていた息を吐き出してから、幸は持ってきた箱の中に入れてある焼酎を取り出すと、それを傷に吹きかけた。それから青年に、

「今から縫合をします。痛いと思いますけれど我慢してくださいね」

 と、声をかける。微かに頭が上下したのを確認し、幸は針を傷へと向けた。


 ほう、と一息ついて、幸は毛布の上で眠る青年を眺めた。縫合の痛みで暴れかけた彼を何とか宥め、先程やっと終わらせられたのだ。薬を塗り、包帯を巻く頃にはもう落ち着いていて、しっかりとした反応が返ってくるようになっていた。

 青年は東雲(しののめ)と名乗った。彼曰く、山の中を歩いていたら、男に突然斬りかかられ、驚いて逃げてきて、ここで力尽きてしまったんだそう。しかし、この辺りには野党はおらず、辻斬りが出るほど往来があるわけではないのだ。幸が一人首を傾げていると、彼は、少し眠いので寝てもいいだろうかと、幸の持ってきた毛布に身体を横たえ、そうして返事も待たずに眠ってしまった。

 さてどうするべきか、と呟きながらも幸は東雲の傍に腰を下ろす。

 静かに眠る東雲の顔は精悍で、恐らく二十代だと思われる。また、赤茶けたざんばら髪は、日に焼けたからであろう色なのに、その肌は青白いとも言えるほどに白かった。

 これだけでも不思議なのだが、幸は、先程言葉を交わしたときに、彼の歯がまるでやすりでもかけたかのように尖っていたのを見た。また、こちらを見つめる目は、まるで紅花を何度も重ね染めたかのように紅く、胸が大きく跳ねた。

 今はその瞳は閉じられており、長い睫毛が顔に影を落とすだけであったが、幸の目にはその紅が濃く焼き付いていた。


 あれから東雲は、傷の経過を見てもらうためだと言って、幸の住む小屋へと足繁く通っていた。幸も、最初は何度も来るのでは逆に傷が開くかもしれないだろうと怒っていたのだが、最近は仕方ないからと言って、東雲のために座布団や湯飲みなどを買いそろえてくる程であった。

 今日もまた幸の家を訪ねてきた東雲を、彼女は笑いながら迎え入れ、抜糸も済んだ東雲の背中を診ていた。

「傷ももう残っていないし、もう完治したということで大丈夫よ」

「そうか、治ったか! 幸、ありがとう」

 そう言って、着物も整えないまま、東雲は幸の手を握り締める。幸は目を白黒させていたが、ただ礼を言っただけかと、安堵のため息をついた。それを見て、東雲は少し首を傾げる。

「何故ため息をついたのだ」

「何でもないのよ。気にしないで」

「そうか」

 そうか、ともう一度小声で呟いてから、東雲は嬉しそうに頬を染めた。

それを見て、胸の奥に暖かいものを感じながら、幸も口の端を緩める。そうして二人が向かい合っている中、東雲が口を開いた。

「幸、俺は幸に言いたいことがあるのだ」

 嫌に真剣な声に、何か粗相をしてしまっただろうかと幸が内心慌てていると、東雲が突然幸を両腕の中に閉じ込めた。

「東雲、突然何を」

「幸、俺と共に生きてはくれないか」

「東雲、それは」

 幸が驚いて声を荒げると、それを遮るようにして東雲が静かに囁く。あまりにも突然のことで、なんと返せば良いのだろうかと幸が言葉を失ったままでいると、彼はこうも続けた。

「幸は俺の命の恩人だ。もしあの時幸が来なければ俺はあそこで野垂れ死にしていたかも知れない。けれど幸は俺を助けてくれたろう。それに、そのあとも俺を気に掛けて、優しくしてくれた。俺は、幸と生きたいと思った。駄目だろうか」

 東雲の言葉を最後まで聞いた幸の両の眼から涙が転がり落ちる。そして、彼女はそれを拭いもせずに幾度も首を縦に振る。言葉も出ないと言う幸の様子に、東雲も感無量と言った顔で彼女を強く強くかき抱いた。

 しかしその時、ありがとうを何度も連呼する幸の耳には、東雲の呟いた小さな声は届かなかった。


 二人が夫婦となってから幾月か経ったある日、幸と東雲は作った薬を持って麓の村へと降りて行った。前に薬を持って行った時から少し時間が経過してしまったので、きっと村人たちは待ちわびている事だろうと、幸はいつもよりも少し多めに薬を作ってしまい、幸一人で持っていくのは大変だということで、普段は幸の帰りを待っている東雲も、今回ばかりは手伝いとして共に山を降りてきていた。

しかし、自分から手伝うと言い出した東雲はどこか曇った表情を浮かべており、幸はどうしたものかと思いながらもどうすることもできずに、いつしか村へと到着した。

 手早く薬を売って、それから必要なものを買おう、と意気込んで、幸が村に足を踏み入れると、それまで道を歩いていた村人たちは、まるで妖が現れたかのように、一目散に家に入ってしまった。

 何かしてしまっただろうか、と泣きそうな声で呟いて幸が道を歩き出す。

 それからも、幸の姿が見えると村人たちはすぐに逃げ出していった。前に来た時は、幸の姿を見ると、村人たちは親しげに声をかけてくれていたのになぜ、と幸はどんよりとした気持ちのまま道を歩き、しばらく歩いてようやっと目当ての薬問屋に到着した。

「東雲、私はこの薬を売ってくるけれど、東雲も入ってみる?」

「いや、俺はいい。行ってこい」

 くるり、と後ろを向いて問いかければ、背負っていた荷物を幸に持たせ、東雲は問屋の壁に背を預ける。

「そう、じゃあ待っていてね」

 重い荷物を持って、よたよたと店内に入れば、店主が慌てて出てきた。

「幸ちゃん、今回の薬がこれかい?」

「はい、お願いします」

「分かった。少し待っていておくれ」

 店主はいつもと変わらず接してくれた、と幸が嬉しく思っていると、表の通りが騒がしくなっている。何事だろうかと思って、こっそりと覗くと、幸はつい悲鳴を上げてしまった。

そこでは、幸を待っていてくれた東雲が、村の男衆に一方的に暴力を振るわれていたのだ。

 店内から飛び出して、背後に東雲を庇った幸に、男衆から口々に怒声が浴びせられる。

「幸ちゃん、なんでそんな奴庇う!」

「まさかおめえもそいつと同じなのか!」

「俺たちを騙していたってのか!」

「何を言っているの! 一方的に殴ったり蹴ったりなんてしていいはずがないでしょう!」

 幸に向けられる言葉を振り切るようにそう叫べば、ぴたりと怒声が止んだ。分かってくれたのだろうか、と男たちの顔を見れば、その顔に浮かんでいるのは憐れみの表情だった。

「そうか、幸ちゃんは知らねんだな」

「知らないって、何をですか」

「その男の牙と目を見て気付かなかったか、そいつは妖だ」

 その言葉が、幸の耳を叩いた。ガン、と頭を殴られたような衝撃を感じ、のろのろと東雲の方を振り向く。そして幸は悟った。それが、本当だということに。

 東雲は、言い返すこともせず、口の端を歪めて、黙って地べたに座っていたのだ。笑っているように、幸には見えた。

「嘘でしょう、東雲。あなたが妖なんて」

「嘘ではないよ、事実だよ、幸。騙していて、ごめんな」

 ぽつり、と口から洩れた問いに、暫くの沈黙のあと、嫌に冷静な声で東雲が言葉を返す。それを聞いた幸は、後ろで雄叫びを上げる男たちの声はもう、耳に入ってはこなかった。自分の方へ延ばされた東雲の手を、殆ど無意識のまま払ってしまったことにも、暫く気付けなかった。ただ、今まで彼と過ごした時間が、全て壊れていくような錯覚を覚えた。


 気付けば幸は、当分二人が暮らせるだけのものを持って、自分の家へと帰ってきていた。家の中を見渡せば、そこには村に出る前と同じ、幸と東雲と、二人のものがそのまま残っている。ただ、ぽっかりと、東雲だけが消えてしまったかのように。頬を一筋、二筋、涙が伝う。あの時、自分は彼を拒んでしまったのだと今更のように気付いて。そして、自分には彼が必要だったのだと、彼がいなければこんなにも寂しいのだと気付いて。

 次々に流れ落ちる涙を乱暴に拭き、幸は提灯を持って山へ飛び出した。どこに東雲がいるかは分からない。けれど、きっとこの山の中にいるとそう確信して、道なき道を辿った。

 二人で薬草を取りに行った道、良い魚がたくさん捕れるのだと東雲が言っていた沢、猪を狩ろうとして罠を張ったら、東雲自身が罠にかかりかけた草原、そういう、二人で過ごした場所を辿って歩く。

 そして、夜が明けて、朝靄が出てきた頃、幸は東雲と出会った場所に来ていた。あまり音をたてないように茂みを抜ければ、そこには見慣れた背中があった。

 そっと隣に座れば、膝に顔を埋めたまま、東雲がくぐもった声でぽつり、ぽつりと話し出した。

「今日の朝五ツまでに幸がこなかったら、別のどこかに行こうと思っていた。結局、来てくれたけれど」

「俺は妖だ。多分、そっちじゃあ岸涯(がんぎ)小僧(こぞう)って名で呼ばれていると思う。俺たちは人間に害を及ぼすわけじゃないはずだ。静かに、川で魚を捕って暮らしているだけだから。けれど、人間から見たら妖というだけで殺されなければいけないものらしいな。初めて会ったとき、刀傷を受けてここに倒れていただろう。あれは俺が妖だったからだ。そのあとお前が来て、殺されるのだろうなって思った。覚悟はしていた、ここで死ぬならそれまでだろうと。けれど、幸は俺を治療してくれた。妖だと知らなかったのだとしても、嬉しかった。だから、幸を愛しているのは、嘘じゃない」

「でも、お前は俺が妖だって知って、失望しただろう。俺が嫌いになっただろう。多分、それは人間なら当たり前だと思う。だから、俺のことは捨ててくれて構わない。けれど、そうじゃないのなら。もう一度、俺を信じてくれるのなら、一緒に生きてもいいだろうか。俺たち妖と幸みたいな人間とは寿命の長さが違う。だから、一緒に老いることはないけれど」

 弱弱しく、全てを話し終え、東雲が大きく息を吐き出す。その息は震えていた。

 幸は、東雲の問いには何も言わず、彼の背中に腕を回す。そして、そのまま彼の額に唇を落として、ごめんなさい、と呟いた。

「ごめんなさい、あの時手を振り払ってしまって。あの後、一人で家に帰って、あなただけがいない家は耐えられなかったの。あなたが妖だろうが、なんだっていい。一緒に、戻りましょう」

 東雲の頭が膝から離れる。朝の陽光に照らされた彼の顔は、雫が頬を伝って濡れていた。

 それを見て笑う幸の顔も、また。



 それから何十年も経ち、幸はあの小さな小屋で息を引き取った。先にあの世で待っていますと、なるべくゆっくり来てくださいと、そう言い残して。


 平成の世を迎えた今でも、どこかの山の奥深く、人を愛した妖は、小さな小屋に住んでいるかもしれない。もしその家を見つけたときには、そっと覗いてみることをお薦めする。ざんばら髪の茶髪に紅目の青年が、きっと住んでいるだろうから。


短……編……?

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― 新着の感想 ―
[良い点] 村で真実を知り、幸が小屋に戻った時の 二人の空間だというのにそこには1人しかいない 虚しく寂しい描写が好きです
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