第三十三話 一筋の赤い線
インスティントとエルーシャの戦闘が止まる。
「どうやら、あちらは終わったようですね」
「らしいな」
肩が激しく上下する。
不思議なことに体の調子は悪くなく、魔力の流れも問題はなかった。笛を取り出されてもいつでも斬りかかれるよう構える。
「やはり、彼をこのままにするのは少々危険に思いますね」
「ならば何故さっさと私を排除してマサヤに向かわない」
こいつにはそれだけの実力がある。いくら体の調子が良くなったとしても疲労は溜まっているが、全力だとしても勝てるかは怪しい。
「そう言われましても、【誘惑する者】を破られた時は抹殺すべきかと思いましたけれど、様子見を命じられまして」
「貴様の主か」
「ええ、気まぐれな方でして、私に王女殿下の誘拐の次はさらに彼の勧誘、そして今回は彼への観察。どんどん仕事を増やされまして」
オリジナルを持つ者は相当に数が絞られるが、オリジナルを持つということはそれだけの力がある。姫さまを狙って利益があるなど帝国か風雅か。怪しい国や組織などはいくらでも挙がる。所持していることを隠す場合もあるのだからさらに特定は難しくなる。
「それでですね。実はもう一つ命じられていることがありまして」
背後から叫び声が上がる。
「っ!? 貴様!」
「後ろが大変なことになっていますね。彼はもう動けないようですし、私に構っている場合ではないはずですが」
思わず足を後ろに向ける、が踏みとどまる。
すぐさま背後に助けに向かいたい。だが、こいつを放っておけばどうなるか。
「なるほど、私が気がかりなのですね。ご安心を、私はもう引きますので」
「貴様はどういうつもりなんだ!」
「私はただ、命じられていることを行っているだけです。これ以上の行動は止められておりますので」
そう言い、後ろに跳び闇に消える。
不気味な男だ。闇に消えても油断はできない。
消えた闇に警戒した眼差しを送るが、何も変化は起きない。本当に引いたかは信じられないが、何時までも消えた相手を眺めていても仕方がない。
闇に意識を向けながらも、足を背後に向け走り出す。
∽
協力の申し出にクラウディオは頷いてくれた。とはいっても戦力になるかは微妙だ。もう敵対しないのならそれでも助かる。
クラウディオはもう動けない。怪我を負っているのは俺が殴った顔の部分だけだが、体全体がまるで動かないようだ。
話を聞くと、エルーシャを圧倒し、俺の短剣を弾いたのは本来の力ではなかったらしい。恐らく火事場の馬鹿力のようなものだろう。
【誘惑する者】が本能などに働きかけるのなら、脳のリミッターを外せるような能力があっても不思議ではない。もっとも、エンツォたちは普段と同じだったようで、リミッターを外せるのは一人に限られるのかもしれない。もしかしたら本来なら全員のリミッターが外せて、劣化によって一人だけになったのかもな。
リミッターを外したのなら、クラウディオの体は外は無事でも中が酷いことになっているはずだ。どの道、噂通り武芸は苦手らしいので戦力にはならなかったと思うが。
こうなったらエルーシャが勝つのに懸けるか俺が仕掛けるしかないと思っていると、二人の戦闘が止まる。
インスティントがこちらを見て口を動かしている。
何を話しているかは聞こえない。声の大きさからしてエルーシャに話しかけているのだと思う。
エルーシャともつれ合う心配がない今がチャンスか? という考えが浮かぶ。
支えてくれているお姫さまに、「大丈夫」と小さく言い、一旦離れてもらう。
まだいけなくはない。疲労から足は震え、血が流れすぎたのか体が寒くなってきている。それでも最後に、全てを出し切る覚悟ならまだいける。
息を大きく吸う。短剣を持ち、脚に力を溜める。
インスティントの視線がエルーシャに向く。
今だっ!力を溜めていた足で地を強く蹴り、走り出そうとした時。
背中に何かがぶつかった。
殴られたというわけでもなく、何か軽い物が背中に当たったような。
「貴様っ!?」
エンツォが俺に向かって怒鳴っている。クラウディオや周りの連中は、俺に向けて唖然とした表情を浮かべている。違うな、俺ではなく俺の背後に視線は向かっている。
後ろに首を向けると、お姫さまが背中に抱きつくように間近にいた。さらにその背後には見たことがない男がいて、そいつの腕はお姫さまの背中に伸びている。
お姫さまは、俺の首が後ろに向いているのに気づくと顔を上げ微笑み、口から一筋の赤い線が描かれる。




