第一話 涙を拭い
日の光を遮るほど厚く重なり合った木々の間を、二人の少女が手を取り合い潜り抜ける。
手を引く少女はショートカットの赤髪に、上下にキッチリと軍服のような服装をしており、一見男性の様な格好をしているが、所々女性らしい膨らみがあるおかげで男性と見間違えることはない。
手を引かれ、金色の髪をなびかせて走る少女は前を走る少女とはまるで違い、フリルをふんだんにあしらったドレスで肩口などの露出も多く、とても森の中で走り回るような服装ではない。
軍服の少女が枝をかき分け、時折頬に傷が走る。
ドレスの少女は軍服の少女より露出が多い分だけ傷が多い。
少女は痛みが走るたびに眉を顰めるが、前の少女は全く痛みなども感じないかのように進むため、それを気にして立ち止まる暇はない。
「姫様申し訳ありません、ですが……」
前を走る少女の顔は見えないが、声に悔しさがにじみ出ている。
それだけで少女は、どんな顔をしているのかが想像がつく。
「構いません。本来ならあなただけなら逃げれるというのに、私というお荷物を抱えてくれているあなたに文句などあるわけがありません」
手を引かれ、草の根に足を取られながらも毅然とした声で少女は答える。
前から鼻を啜る音がするが何も言わない。
今はただ走る。
息をしているという感覚がない。
足の疲労の痛みなどもうなく、何も感じずただ動いていることがわかるだけだ。
もういいだろう、このまま逃げても追いつかれる。逃げても無駄だ。
頭の片隅にそんな思いが浮かぶ。
そんな誘惑に足が止まりそうになる。
「姫様、光です! このまま森を抜け、しばらくすれば公爵閣下の領地です!」
足が誘惑に負けかけると前から歓喜に満ちた声が上がる。
後半は涙声で聞き取りにくかったが、真っ暗な絶望の中に射した光ははっきりと見える。
お荷物の自分を抱えて走る少女は自分の手をギュッと握りしめ、足を動かす速度を緩めない。
そうだまだ希望はある。目の前の少女はまだ諦めてなどいない。ならば主人である私が諦めるわけにはいかない。
二人の少女に希望が芽生え、手を固く握りしめ希望の光に向かって足を踏み出す。
ザシュッ
足元から何かを切り裂いたような音が響き、同時に踏み出した足に激痛が響く。
「ああっ!」
「姫様っ!?」
激痛に顔を顰め、それでも足を動かそうと、地を踏みしめた瞬間の傷の痛みに耐え動かそうとするが、木の根に躓き前向きに倒れ込む。
目の前には地面に突き刺さった一本の矢がある。
矢じりは、血に濡れ矢じりの半分には血が付着していなく、泥にまみれ涙と鼻水を垂れ流している見たことがない惨めな少女が写っていた。
似たような顔が記憶にある。以前馬車から顔を出したときに見たことがあった。
その時はすぐにカーテンで視界を遮られてしまったが、とても印象に残る記憶だ。
「姫様お立ち下さい!すぐにやつらが来てしまいますっ」
顔を上げると、自分の手を引いてくれていた少女がしゃがみ込み、自分の肩を持ち上げようとする。
「おやめなさいエルーシャ」
「ですがっここまで来て諦めるなど!」
「諦めはしません」
目の前の少女、エルーシャは訳がわからないといった顔をする。
私はエルーシャに微笑むと、彼女の手を借り痛みに耐えながら立ち上がる。
「どうやらもう追いつかれてしまったようです。
今のままでは逃げられません。森を抜けても安全な場所までは距離があるでしょう。私は怪我をしていますし、森を抜ければ平原です。
私がいては弓からは逃れられません。貴方だけでも恐らく五分五分……良くて三割いくかでしょうか」
「だとしてもです! たとえ無理だとしてもここで諦めるなど」
それ以上彼女を喋らさないよう、人差し指で彼女の口を制す。
諦めないといったのに。この子は昔からそうです。
優しくて厳しくて、とても心が強くてだけど時々せっかちで、同年代の友人がいない私にとって彼女は臣下である以前に大切な親友なのです。
できることなら彼女だけは逃がしてあげたい。けれどそれを言ったら彼女は怒るでしょう。
「もう今更あなただけなど言いません。
命令をします。追手を討ち返し私の近衛としての責務を果たしなさい」
「今の私の顔を見なさい。泥にまみれ涙と鼻水の区別もつかないほどグチャグチャです。
私は以前この様な姿を見たことがあります。城下町のスラムに住む子供たちの顔です。このような惨めな姿で背後から敵に狙われ死ぬなど、私は御免です」
以前、馬車で見た彼ら彼女らの顔は忘れられません。あの時私は幼く、なぜ彼らはあんな姿をしている理由を理解することができませんでしたが、徐々に理解してきました。彼らと私の住む世界は違います。
彼らの様な子たちをなくそうと私は努力をしました。しかし私の力など所詮親から受け継いでいるものです。
そんなまだ、10半ばにもいかない少女にできる努力などたかが知れています。
それでも微かな努力でも諦めることはしません。
そして今諦めてしまったら、今までの僅かな努力さえ全て失ってしまいます。彼らの顔を笑顔にするのに比べたら、歪んだ私の顔を元に戻すなど欠伸が出ます。
一度は誘惑に折れ掛けた心ですが、もう二度と私は諦めません。
「私の命令は自分でも無茶苦茶だとわかっています。諦めないのならエルーシャ、貴方の様に最後まで走りぬくべきでしょう。これは私のただの意地です。
そして臣下である貴方にはその意地に付き合っていただきます」
何を言っているのかそろそろ分からなくなってきました。
我ながら、なんて暴君なのだと思います。
「しかしわかってほしいのは、ただの無謀な特攻ではなく、諦めず生き残るためだということです。追手の数はわかりませんが、貴方なら幾人なら相手をすることができるでしょう」
彼女は女性で、さらに未だ二十歳と若くありながら私の近衛を務める一人です。
年が近く同性というだけで、世話役として選ばれたのではなく、その役職にあった実力も持っています。
「わかりました姫様。姫様がしっかりとお考えになった行動でしたら、私は何も言うことがありません。たとえ腕一本になろうとも姫様を守る剣であり盾になりしょう」
そういうと彼女は腰から一振りの剣を抜きます。振るう際に邪魔にならない様に装飾が施され、職人たちが苦労したであろう美しい剣です。
剣を構えると、辺りを見渡します。
私は、両手からレースの手袋を外し矢傷にきつく巻きます。痛みがありますが今更気にすることでもありません。
エルーシャにつられて私も首を回しますと、なるほど最初の矢から何もしてこなかったのは取り囲むためでしたか。
恐らく追手は私の足を仕留め、逃げられなくした後に周りを取り囲み確実に殺すつもりの様です。
いやらしい手です。
見えているだけでも1、2……6人はいるでしょうか。
潜んでいる数など考えたくもありません。
しかし諦めません。いざとなったら落ちている枝でも石でも使ってやります。
必ず生き残るのです。
グチャグチャの顔を腕で拭い、できる限り毅然とした態度をとります。足の痛みなど知りません。
奴らにすぐに止めを刺さなかったことを後悔させてやります。
私の決意が伝わったのかエルーシャがこちらを横目で見、頷いた後苦笑いを浮かべます。
なんでしょう、なにか変なのでしょうか。追手たちから逃れた後にでも問いただしてやることにしましょう。
追手たちは、こちらに抵抗する意思があると気づいたのか、警戒心をあらわにしてきます。
私たちと追手との間に、一触即発の空気が流れます。
どちらか片方にほんの少しの動きがあれば、すぐにでも殺し合いが始まるでしょう。
そしてその動きは追手でも、私たちでもない第三者からもたらされました。
突然、空気が震えたかと思ったら目の前に人が現れたのです。