三十四章『喜怒哀楽の黒き炎』 その2
「はっははははーーっはははははっあっはははは!」
八重洲のとあるビルの屋上で、フランク=多嘉良は狂喜していた。
彼の持つ双眼鏡が映しているのは、現世の全てを無差別に焼き尽くさんと渦を巻いて踊り狂っている、禍々しき漆黒の炎。
「美しい! 素晴らしい! ああ、ここまであなたの熱が伝わってくるようだ! 最高ですよ中島君! やはりあなたは私が見込んだ通りの人だ! こんなに美しい情動の力! 波動! 未だかつて見たことがないいい!」
距離が離れているにも関わらず、多嘉良は完全に熱にあてられ、のぼせ上がっていた。
彼は、EFの力を芸術品のように愛でる嗜好の持ち主であったのである。
「おお、今すぐあなたのそばに行きたい! あなたの熱を間近で感じてみたい! 例えこの身が滅んでしまうとしても……!」
「何を変態じみたことを口走っているのですか」
多嘉良の背後で、冷ややかな女の声がした。
「ああ、神崎君ですか。お疲れ様です」
多嘉良が双眼鏡を下ろし、いつの間にか現れた助手の方を見る。
神崎貴音は、人形のように整った顔をわずかに歪ませ、視線を斜めにそらしていた。
「おや? 少々ご機嫌斜めな感じですか?」
「いいえ、少々ではなく、最悪です。こんなことのために、尊い動物の命が一つ失われてしまったのですから」
「八柱霊園で捕獲してきたタヌキのことですか。確かに痛ましい犠牲ではありますが、あの美しさの前では……」
「私には毛の先ほども理解できません」
神崎はもはや嫌悪感を隠そうともせずに、かぶりを振った。
多嘉良の方はというと、彼女の態度など全く気にせず、目当てゴムの輪郭がくっきり顔に付きそうなほど、再び鼻息荒く双眼鏡を押し当てて覗き込む。
「ふ、ふふふふふ……それにしても不思議だ」
「何がです」
「中島君の体が焼けている様子が、今の所全く見られない。あれだけの暴走状態を引き起こしているにも関わらず、一体どうなっているのでしょう。流石に中島君を死なせる訳にも行きませんから、いざとなれば助けるつもりではいましたが……こ、これではまだ眺めていたくなってしまうではありませんか……く、くくくくく」
「私、ついて行けません」
神崎はため息をついた。
「退職しますか」
「いいえ」
神崎はきっぱりと否定した。
柚本知歌に最初の"爆散"を行った時点で、阿元団十郎の精神は既に均衡を欠いていた。
彼の中の箍は既に外れてしまったようだ。
「は……ははは! そうだ、死ね! 死ねばいいんだよ! あのガキも坊ちゃんも、全部死んじまえばいいんだ! ははははは、痛い目見せて吹っ飛ばしてやる! 俺をバカにする奴は許さねえ!」
屋上には監視カメラが設置されており、知歌と瑞樹の姿がリアルタイムで、阿元の前にあるモニタへ映し出されている。
被害妄想を感情に直結させ、劣等感を生み出し、事前に奥平から指示されたタイミングに従って順次爆散を行っていく。
「どうしたよ坊ちゃん!? いつもみたくスマートに対策練ってみせろよ! クソガキを助けてみろよ! できないのかよ!? くはははは、いい気味だ畜生!」
しかし、そんなどす黒い喜びも、長くは続かなかった。
段々と別の感情、あえて名前を付けることはしない、酷く苦い何かが込み上げてくる。
苦痛に歪む知歌の顔が、何も出来ず取り乱す瑞樹の姿が、阿元の溜飲を少しずつ下げていく。
「畜生……ちくしょう……」
また、優越感が増したということは、同時に劣等感が薄れていくことを意味する。
つまり、阿元のEFは段々と効力を失いつつあったのである。
だが皮肉なことに、瀕死状態の知歌が取った振る舞いが、再び阿元の力を蘇らせることとなった。
「……な、何でそんなことが言えんだよ! 痛くてしょうがないはずだろ!? 坊ちゃんはお前を助けられてないんだぞ! ど、どういうことだよッ!」
阿元の手にかかる前に、瑞樹の手による死を望む。
知歌の気丈な姿が、再び阿元の劣等感をつつき、火を付けて激しく燃え上がらせた。
あまつさえ、それが叶わなかったにも関わらず、何故か安らかな表情まで浮かべているではないか。
あり得ない。起こるはずのない反応だ。
阿元の理解を大きく超えていた。
あんなにワガママで口も悪い小娘が、何故。
「ふ……ふざけんな! ふざけんじゃねえ! なんなんだよこれは! おかしいだろこんなの! 怒れよ! 憎めよ! 叫べよ! 軽蔑しろよ!」
と、そこで、我に返って腕時計を見る。
阿元の方も、取り乱している猶予はなかった。
知歌に次の爆散――最後の一発を放つ刻限が迫ってきている。
奥平の命令は絶対だ。
ましてや最重要任務と再三念押しされている。
仕損じれば、自分が知歌と同じような目に遭うだろう。
「…………く……く」
もう、後戻りはできないし、考える暇も、喚いている暇もない。
やるしかないのだ。
「死ねぇっ!」
きっかり時間通り、阿元は、知歌に最後の爆散を執行した。
「……ふぅ~~~~っ」
やった。
大きく息を吐く。
緊張して力が入りすぎていた全身の肉が解れていく。
脂肪はどうにもならないものの、腹の膨らみがわずかながら改善される。
だが、知歌は死亡した。
やり終えてみれば、何ということはなかった。
むしろ、あの時よりも気が楽だ。
思いのほか、すぐに落ち着きを取り戻せた。
誰かを殺すということは、精神を大きく成長させる効用があるのかもしれない。
モニタの向こうでは、瑞樹が体から黒い炎を噴き出し始めている。
心が折れているのは、文字通り火を見るよりも明らかだった。
自分の仕事はこれで全て終了だ。阿元は近くにあったデスクチェアに腰かけ、足を組みふんぞり返る。
実に清々しい気分だった。
全てが終わったら、得た報酬で思い切り遊ぶとしよう。
まずは吉原で女を――
阿元が報酬の使途について思いを馳せ始めると、部屋の隅でドアの開く音がした。
「あんたは……」
つい先程まで屋上にいたはずの、カイゼル男だった。
互いにほとんど会話をしたことはなかったが、決して相性の良い相手ではないだろうことは肌で感じ取っていた。
カイゼル男は、つかつかと阿元の所へ歩み寄っていく。
阿元はたじろいだ。
カイゼル男の顔には、面相を特徴付ける髭も折れ曲がるほど、ありありと嫌悪の色が浮かんでいたのが見えたからだ。
「醜すぎる」
眼前に立って見下ろすなり、カイゼル男が軽蔑しきった風に吐き捨てた。
「命令とはいえ、多少なりとも親交のあった身。命を奪ったことに対する良心の呵責を僅かでも見せていたならば、私もこのようなことを口にしようとは思わなかったでしょう」
「っざけんな! 何を今更、偽善的なことを言ってやがる! それになあ、俺は前々からあのガキが嫌いだったんだよ! ぶっ殺してやりたいって思うくらいになあ! しゃしゃり出てくんじゃねぇよ!」
阿元も椅子を蹴って立ち上がり、反論した。
「あんたもここでぶっ殺してやろうか!? 俺になめた態度を取る奴は許さねえ!」
「できるものなら、ご自由に」
その一言が合図だった。
ただし戦いではなく、カイゼル男による一方的な"制圧"のだ。
両者の実力差では、勝負にすらならなかった。
体のどこでもいいから触れようと、阿元が手をわずかに動かしかけた時点で、カイゼル男の拳が、彼のみぞおちに鋭く突き刺さっていた。
「もう口を閉じなさい。これ以上品格を落とすこともありますまい」
深く、重い一撃は、阿元から思考も行動もプライドも、全てを根こそぎ奪い取った。
反吐と共に呻き声をこぼす様を見下ろし、カイゼル男は静かに言い放つ。
「私には権限も資格もありませぬゆえ、殺しはしません」
崩れ落ち、汚物に顔面から突っ込みそうになった阿元を受け止め、少し離れた所の床に寝かせてやる。
埃が少し溜まりがちになっていたが、そこまで配慮する義理はない。
「命令という鎖に従属し、傍観していた私もまた彼と同罪……申し訳ございません、お嬢様」
いくら謝罪を口にした所で、何の意味も成さないと分かっていながら、言わずにはいられなかった。
モニタに目を移す。
そこに映る瑞樹の姿を見て、カイゼル男は黙礼した。
(美しい、そして哀しく痛々しい炎だ……中島様、やはり貴方の御力は、二つとない至高の芸術品。ですが……)
このような形で、ましてや柚本知歌という犠牲を払ってまで見たいものではなかった。
彼の芸術に対する美学、探求心は、別の場所で狂喜しているフランク=多嘉良と大分異なっていた。
せめて黒き炎をこの身で全て、ありのままに受け入れることがせめてもの誠意であり、贖罪。
先刻、屋上にいたカイゼル男はそう考えかけていたが、結局は実行しなかった。
命を惜しんだからではない。
あえて生き長らえることで、成せる贖罪もある。そう考えたのだ。
その第一歩が、阿元団十郎へのささやかな、限りなく自己満足に近い報復。
そして、まだやらなければならないことがある。
死を選ぶにしても、その後だ。
カイゼル男は踵を返し、部屋を出た。
「瑞樹君っ! 目を覚まして! お願い!」
上下左右の概念も定かではない、宇宙に近似した空間。
触れるもの全てを灰と帰す漆黒の大火が視界いっぱいに広がり、燃え盛っている中、円城寺沙織は必死に呼びかけ続けていた。
沙織のいるこの場所は、現実世界以上に苛烈を極めており、大焦熱地獄の様相を呈していた。
それはそのまま、中島瑞樹という青年の現在の内面を示す。
沙織は、ひどく胸を痛めていた。
当然といえば当然の反応である。
彼女は無差別に全てのネガティブを愛している訳ではなく、瑞樹が自分を憎んでくれることだけに愛を感じるのだ。
このような形は望むところではない。
瑞樹は、沙織のすぐ近く、泳いでいけば届きそうな距離にいた。
幾層もの炎の殻を被り、身を縮めて蹲っている。
軌道を外れた衛星、宇宙に漂う、無数の孤独な星々の内の一つのようだ。
どのような顔をしているのかは見えなかったが、想像するまでもない。
彼をこのまま死なせる訳にはいかない。沙織は心の底から思う。
いや、それだけでは足りない。
彼の心も救済しなければ意味がない。
自己嫌悪と後悔だけが支配する人生を送って欲しくなどなかった。
沙織は純粋に、瑞樹のことを愛しているのである。
そのためにはまず、EFの暴走を鎮めなければならない。
すなわち、この漆黒の炎の源泉、激しい自己嫌悪の感情を無くさせることだ。
何としても、瑞樹の意識を引き戻す必要があった。
一番手っ取り早いのは、いつものように自分を憎ませること。
既に死んでいる沙織は、現実世界に干渉することができないが、逆に、精神へ直接アプローチできるという大きなアドバンテージがある。
だが、大きな問題があった。
妨害があるせいで、瑞樹に直接触れることができなかったのである。
彼女を拒むのは炎熱ではなく、心の壁だった。
炎と共に瑞樹の周囲を包む不可視の絶対障壁が、何者をも遠ざけていた。
「瑞樹君っ! 自分を憎まないで! 気付いて! あなたは何も悪くないの! ……どうすればいいの」
沙織は白肌が焼け焦げるにも構わず(そもそもEFで容易に自己修復できるため問題ない)壁を叩き続けるが、ヒビ一つ入らない上、内側の瑞樹も何一つ反応を見せない。
「瑞樹君! 目を覚まして! 私を見て、憎んで! 瑞樹君!」
ただ、沙織の呼びかけが、全くの無意味に終わっていた訳ではない。
壁に阻まれ、表立った反応はなかったものの、彼女の声は、確かに瑞樹に届いてはいた。
最大の証左が、瑞樹は未だその身を焼かずにいる、という事実だった。
完全に自我を焼失させてしまっていたならば、そのコントロールも効かなくなっているはずだ。
沙織も、そのことに気付いていた。
だからこそ、休むことなく必死に声を張り上げ続けていたのである。
そうしていれば少なくとも、瑞樹が死ぬ確率を抑えることはできる。
上手くすれば目覚めてくれるかもしれない。
一縷の希望に縋りながら、沙織は愛する者の名を呼ぶことを止めなかった。
(もう、ここまで瑞樹君を苦しめなくてもいいじゃない……お父さん)
その最中で沙織は、長い黒髪を揺らし、苦い顔を浮かべた。




