三十三章『劣等爆散』 その1
瑞樹たちが瞬間移動した先は、どこかの倉庫と思われる、埃っぽく狭い空間だった。
「続けて移動致します。ご準備を」
カイゼル男の発言から、あくまでここは中継地点でしかないことを理解する。
引き続き、あの軽い眩暈にも似た瞬間移動の感覚を味わわされ、着いた先は、清潔だが窓のない、やはり狭い部屋。
「こちらです」
事務用品が整頓されて積まれたそこを出ると、灯りの消えた廊下が伸びているのが見える。
久しぶりにアジトから出られたというのに、またこんな辛気臭い場所か。瑞樹は少々うんざりした心持ちになる。
幸い、こんな所で待機させられる訳ではないようだ。エレベーターに乗せられた。
階層表示を見ると、ここは地下であることが分かった。
三人を中に入れた箱は、最上階を目指して一気に上昇していく。
瑞樹が久しぶりに目にした外の世界は、眺めの良さを差し引いても、一際眩しく映った。
外堀通り、それも東京駅八重洲中央口のほぼ真正面に建っているビルらしい。
丸の内側の高層ビル、その隙間から見える皇居の緑、左右には有楽町や新橋、秋葉原方面の建物……
そして東京駅ホームのほぼ中央から生えている鉄塔、その頂点に設置されている水晶球――結界発生装置が、瑞樹に現実を突きつける。
今から、あれを破壊しなければならない。
「うわっ、すげー!」
デパートの屋上遊園地に突撃する子どものように、知歌がいきなり端へと駆け出していく。
「瑞樹兄も来てみなよー! いろんなトコがよく見えるよー!」
「奥平様より次の指示があるまでは、どうぞ景色をご堪能下さい」
カイゼル男の方を見ると、そんな言葉が帰ってくる。
「ただし、くれぐれも"それ以上"についてはご遠慮頂きますよう」
言外に込められたニュアンスを、瑞樹は敏感に読み取っていた。
(先生が見つけてくれないだろうか)
近くにいるはずの秋緒が偶然気付いてくれるという儚い望みを抱き、神妙な顔をしたまま、知歌の方へ歩いていく。
「確かに、いい眺めだ」
背の高いフェンスが邪魔しているのが、色々な意味で残念だ。
大分手前側に設置されているため、真下を覗き込むことができない。
ただし、闘争の残り香のような気配が、ほんの僅かながら地上から漂ってきているのが分かった。
秋緒や警察の活躍によって防衛に成功はしたものの、きっと少なくない犠牲が出たのだろう。
そして、これから……
「ね、ね」
知歌が、瑞樹の手を強めに握った。
「瑞樹兄だけのセキニンじゃないよ。あたしだっておんなじだよ」
「……知歌」
強い子だ。彼女の笑顔を見て、瑞樹はそう思わずにはいられなかった。
決して、事の重大さを理解していないがための表情ではない。
今日に至るまでの付き合いで、知歌の内面を充分に理解できるようになっていた。
言葉にする代わりに、手を握り返す力で答える。
瑞樹は、視線を知歌から結界発生装置に移す。
それにしても、本当にここでやる気だろうか。
山手線の結界の外に位置するとはいえ、八重洲は日本経済にとって都心でも有数の重要拠点である。
人的にも機械的にも、結界的にも守りは堅固だ。
結界だけを見ても、ほとんどのビルで個別に強力な防御結界を張っているし、有事の際は地域をすっぽりと覆う範囲型のEF能力減衰結界を展開させることもできる。
知歌の能力で威力を上乗せしたとしても、易々と突破できるとは思えない。
瑞樹と知歌との"練習"は、常に監視されていた都合上、不定期に行ってはいたものの、実際の所はおざなりに済ませていた。
最初の一回だけで感触を掴み、あとは強化率の確認と、"燃やしたいものだけを燃やす"性質が失われないかどうかの確認ができればよく、真剣に研鑽するつもりはなかったからである。
奥平から、予行演習も何も指示がなかったことが引っかかった。
だが、今更気にしても仕方がない。
――大丈夫だ。できる。結界だけに炎をぶつける。他に被害は出さない。
瑞樹は来たるべき時に備え、気持ちを鎮めながら、連絡が来るのを待つ。
瑞樹と知歌は知らされていなかった。
二人がいる屋上のすぐ下階に、阿元団十郎も待機していたことを。
二人とは違うルートを辿ってビルに瞬間移動し、別のエレベーターに乗ってきていたため、互いに鉢合わせすることはなかった。
阿元は、一人だった。
世話係もつけられず、奥平から命じられたまま、やたらと広いだけのオフィスフロアで孤独に待機していた。
別に、単独行動が嫌いな訳ではない。
しかし、計画実行という状況が激しい緊張感をもたらし、不安となって精神に襲いかかってくる。
誰かと話をしたい。
五相ありさがいいと、贅沢は言わない。
憎い中島瑞樹でも、柚本知歌でも構わない。
持参した弁当や飲料では、心の隙間を埋めることはできなかった。
窓にはブラインドが下ろされているため、外の様子を見ることはできない。
それ以前に、誰かに見られてはまずいので、うかつに開ける訳にもいかない。
何もすることがないと、自然と考え事をしてしまう。
不安や孤独が呼び込むのは、自分の忌まわしい過去のことだった。
二十数年前、阿元は貧しい家の子として生を受けた。
物心ついた時には既に、貧乏を理由に周囲から虐げられ、嘲笑され続けていた。
幼心にも、阿元にはそれが嫌でしょうがなかった。
それに、団十郎という、時代にそぐわない自分の名前も気に入らない。
父母共に人間性が極端に悪かった訳ではないが、そんな名前を勝手に付けた親にも恨みを募らせていた。
こんなもの、自分で望んだ環境などではない。
大幅なハンディキャップを背負った阿元の人生は、恨みと屈折、卑屈さと劣等感が主成分だった。
精神を具現化したならば、くすんだ色をして、極端にねじれた蔓の形をしていたに違いない。
家庭の事情と受験の失敗で、最低レベルの偏差値である地元公立高校に行くことしかできなかった彼は、そこでも引き続いて虐めを受けていた。
苛烈さを増したそれは、精神を屈折させるだけではなく、激しい損耗をも伴った。
『あとたった三年間耐えればいい』
と考えていた初志を崩壊させるには充分すぎるほどに。
阿元にEFが発現したのは、三年生に進級して間もない時期であった。
当時、密かに思いを寄せていた女子がいた。
この学校には似つかわしくない、清楚な雰囲気を纏った少女である。
一目見た瞬間、彼は心を奪われた。
同じクラスになって、席も隣になったことは最大の幸福であった。
しかし、自分などと釣り合う訳がないことは嫌というほど分かっている。
だから、見ていられるだけでも満足していた。
何かの偶然で話をする機会でもあろうものなら、もう有頂天である。
時折、思いを持て余した時は、誰の邪魔も入らない想像の世界で彼女を汚す。
そんな密やかな劣情の灯が、彼の暗黒の高校生活を皮一枚で永らえさせる希望となっていた。
「阿元くんってさ、学校に友達いないの? だったら、私と最初の友達にならない?」
意中の女子から唐突にそんなことを言われた時、阿元の全身を電流が駆け巡ったのは想像に難くない。
「ぜ、ぜぜ是非」
阿元は即答した。
それからの阿元の学校生活は大きく変化した。
一緒に昼食を食べたり、下校したり。
思わぬ副産物として、彼の身に降りかかっていたいじめも何故か収まった。
ここで理由を考察、追及できなかった彼を責めることはできないだろう。
高校生活最後の一年になって、ついに自分にも春が訪れた!
いつ終わるとも知れない長い冬、ずっと根雪の下に押し潰され続けていた人生に、ついに芽生えの時がやってきた!
浮かれるなという方が無理な話である。
日々の夢想にも、自然と変化が訪れた。
彼女を汚すのではなく、愛し合う内容になった。
欲望を満たした後の虚脱感が、胸が温かく満ちるものへと変わった。
想いが募るにつれ、妄想では飽き足らなくなってしまった。
今度、どこかへ一緒に遊びに行こうかと誘ってみようか。金がないので行く場所は制限されてしまうが。
これまでは人付き合いが嫌で避けてきたが、頑張って少しバイトでもしてみようか。
前向きな思考が次々と阿元の頭に浮かぶ。
阿元が意を決して彼女を誘うことを実行に移すまで、さほどの時間は必要なかった。
「うん、いいよ。阿元君の方から誘ってくれて嬉しいな」
彼女は二つ返事で、阿元の一世一代の大勝負、二人で遊びに行かないかという申し込みを受け入れた。
次の休日、近所の森林公園へ、二人きりで遊びに行く約束が取り付けられたのである。
この時の阿元の喜びようは、宝くじの一等当せんにも等しいものであったことは想像に難くない。
乏しい所持金をはたいて、ファストファッションで服を新調したり、デートプランや心得が書かれたムック本を本屋で立ち読みしたりと、入念に準備を重ね、デートの日を迎えた。
阿元は約束の時間より三十分よりも早く着いてしまったが、彼女はそれよりも早く来ていたようで、阿元の姿を認めると、花が咲くような笑顔で出迎えた。
初めて見る私服と相まって、阿元の鼓動は俄然高まる。
「こ、こんにちは、待った?」
阿元はぎこちない声と明るい笑顔を組み合わせて挨拶をしたが、相手からの反応はない。
にこやかに微笑みながらも唇をやや緩めた、何とも言い難い表情を作り、じっと阿元を凝視している。
どうしたのだろうか。阿元は疑問に思ったが、とりあえず距離を縮めることにする。
彼女は何かを堪えていることに気付いた時は、もう手遅れであった。
彼女の顔が、小刻みに震え始める。
首から肩、全身へと伝播していき、やがて弾けたように大笑いが飛び出した。
「ぷっ……く、くくく……はっはははははーっ!!」
清楚な外見に似合わない、辺りを憚らぬ下品な笑い声。
腹を抱えている彼女を見て、阿元は一体どうしたのかと戸惑うしかない。
彼女は目尻に涙らしきものを浮かべ、後方にあるトイレの建物に向かって、
「ねえ、もういいでしょ!?」
手を叩いて呼びかけると、五、六人の男女がぞろぞろと現れだした。一様に顔をにやつかせている。
対照的に阿元の顔は一瞬にして曇り、狼狽の色を映し出す。
普段学校で嫌というほど見慣れたクラスメイトたちだ。
何故連中がこんな所にいて、隠れていたのだろうか。
本当は答えを分かってはいたが、それを理解することを、自我が拒んでいた。
「おいっすー、アモっちゃ~ん」
クラスメイトの一人から不愉快極まりない呼び名で呼ばれ、阿元は反射的に誰もいない方へ顔をそらす。
習性として染みついてしまった、虐げられし者の性である。
「あれあれ、シカトしちゃう? せっかくの好きな子との初デートを邪魔されて、怒っちゃった?」
中心人物と思われる、長身で整った顔をした男子生徒は上半身を屈め、覗き込むように阿元の俯いた顔を見上げた。
阿元は寒空の中そうしているように、体を小さく震わせることしかできない。
「何か言ってくんねぇかなぁ」
男子生徒が足で阿元の膝を小突くと、阿元は一際大きく体をびくっとさせ、
「あ、いや……その、どうしてみんな、ここに……」
「あ? そりゃ賭けをしてんだから、いるに決まってんだろ」
「賭け?」
「なに? おまえマジでこいつと付き合えるとか思っちゃってたの? マジ笑えんだけど」
嘲笑混じりに男子生徒が、彼女の肩に手を回して言う。
「悪いね~、コイツと俺、三年に上がる前から付き合ってたんだわ」
「え……」
「私、彼と賭けをしてたの」
そこからは彼女が代わって話し始めた。
「私が阿元君に声をかけてどうなるのか。誘われて、会うまでに見破られたら彼の勝ち。気付かれなかったら私の勝ち。めんどくさかったわー、あんたにバレないように色々取り繕ったり、口裏合わせたりするの」
「ど、どうして、そんなこと」
彼女は阿元の問いには答えず、男子生徒の方へ顔を向けて、
「賭けは私の勝ち。約束通り、あのブランドのバッグ、買ってよね」
「はいはい、今度買ってやるよ。ま、俺からすりゃ、コイツのこういうツラを見られて満足だから、負けても惜しくはねぇけど」
二人してせせら笑いながら、阿元に見せつけるように体をすり寄せ合う。
取り巻きのクラスメイト達が口笛を吹いたりと囃し立てるが、二人は満更でもない。むしろ酔いしれていた。
阿元だけが、この光景の異物として取り残されていた。




