三十二章『ただ一つを望む者たち』 その2
トライ・イージェス社員、庄典嗣と、自分の捕縛・投獄に関与した彼ら一人一人への報復を目指していた男、相楽慎介の決着がようやくつけられたのは、池袋の血塊が消滅した少し後だった。
周囲の消火は既に完了し、遥か上空では太陽と抜けるような秋空が取り戻され、庄と相楽を見下ろしている。
双方共に闘気まではまだ衰えていないものの、負傷・流血箇所は数ヶ所程度では収まらず、呼吸は荒い。
明らかに長時間の戦闘は望めない体であった。
「どうしたよ、トライ・イージェス様ってのはこの程度でヘバっちまうのかよ?」
「ああ? てめえこそ死に損なった状態でよく言うじゃねえか」
互いに、血の味しかしない口内から罵倒を吐く。
図らずも同じタイミングで、不安定になってきた下半身を鞭打って動かし、少しずつ距離を詰める。
六メートル、五メートル、四メートル……
戦いの終わりは近い。
二人の共通見解であった。
「オラァ! そろそろ逝けやァクソザコ虫がァ!」
先に仕掛けたのは相楽の方だった。
間合いよりもまだ離れた位置から飛び込んで、心臓目がけて左手に握ったナイフを突き出す。
が、庄の読みの範疇であった。
半身になってかわし、反撃の左拳を連打する。
「チッ! 相変わらずしぶとさだけは一人前かよ!」
「バレバレなんだよ単純野郎!」
相楽は右腕で防ぎながら、軽口を叩く。
言葉とは裏腹に、相楽は決してトライ・イージェス社員の実力を軽視していなかった。
新人を含めてだ。
だからこそ慎重を期し、五十嵐の時のように、狩る時は一人ずつとしていた。
もはやこのダメージでは、連戦は不可能なことも理解していた。
庄を殺した後は、近くの乗り捨てられた車を使ってこの場から離れ、身を潜めて回復を図らなければ。そう考えていた。
一方、庄は、先のことなど考えていなかった。
血塊のことさえ、顕在意識から消失していた。
考えるはただ一つ。
目の前の敵を倒すことのみ。
この差異が、勝敗を分ける最大の要因となった。
すなわち、見ているものの差。
終わった先のことを見ていた者と、"今"この時に全身全霊をかけていた者の違い。
意識の焦点のずれは、"今"に微細な隙を生む。
それを目敏く見抜いた庄の、限りなく斬撃に近い中段蹴りが、相楽の脇腹を抉った。
「ぐっ……てめえ……!」
相楽の視界に銀紙が散る。鉄の味のする液体が喉から込み上げてくる。
痛みより、戦闘能力を削がれたことの方が厳しかった。
「オラオラァッ!」
すかさず庄が追撃。
既に半壊した右腕の義手を構わず顔面に叩き付ける。
相楽はほとんど本能だけで防御を行った。
打点をずらし、頭突きの要領で義手を粉砕する。
飛び散る破片で一瞬、視界が遮られた。
その隙に、庄が懐に潜り込んだ。
足払いと体当たりを同時にかまし、相楽をダウンさせた所に、投げ出した体が降り注ぐ。
肘でみぞおちを突き刺され、相楽は呼吸さえできない痛苦に悶える。
状況・環境を問わず、一瞬にして相手の動きを封じる、彼の十大必殺技の一つ"瞬転封"である。
「これで終わりだ!」
続けて、体の位置を入れ替え、絞め落とそうとする。
後遺症の有無どころか、生死に構うゆとりさえない。確実に落とす。躊躇なく決定する。
だが、相楽の戦闘能力はまだ完全に失われていなかった。
攻撃と攻撃の隙間に生じた、わずかな空白に割り込むだけの力が、まだ残っていたのだ。
「……ヒャアッ!」
この時、相楽の目に映っていたのは、庄の体の一部と青空だった。
火力をイメージ、着火点を睨み、感情を込め、視線を導火線に見立てて発火を意図。
これまで何千何万と繰り返した行動を、息をするように実行する。
炎が、二人を覆った。
庄も相楽も、反射的にその場から素早く脱出し、道路に転がって消火を行う。
互いに耐火性の高い衣服を着用していたため、火傷のダメージは最小限で済んだ。
そもそも相楽自身が、火力を弱めに調整して発火させていたことも幸いした。
「この野郎……! てめえもろとも火を付けやがって」
「ハッハッハァーッ! 燃やしてやる! 全部焼けろ! 死ね! 焼け死ねェェェ!」
相楽に倒された上、その身さえ焦がす羽目に陥ったことで、相楽は完全に理性を失った。
落ちていたナイフを拾い、這うような体勢で狂犬の如く吠え猛りながら、絶え間なく炎を起こし続ける。
標的は庄だけではなかった。
車、建物、植え込み……目につくもの全てと言わんばかりに、無差別放火を行う。
「やめやがれ! イカレ放火野郎!」
傷んだ体を引きずり、庄が走る。
早期に消し止められたものの、発火のダメージは思いのほか深刻だった。
移動速度が大幅に低下しており、相楽の炎をかわしきれない。
一発打たれるたび、手足や背中に火傷が増えていく。
それでも、決して足を止めない。
この身がどうなろうとも、眼前の敵を倒さねばならない。
「死ィィィィネェェェェ!」
相楽が、迫る庄に向けて跳んだ。
炎に照らされたブレードが煌めく。
かすりもさせねえ。庄は喉元に迫る切っ先を冷静に見極め、よける。
相楽は即座にナイフを手放し、組み付いた。
予想外の選択に、振り解こうとする行動が一瞬遅れる。
その間に相楽は、
「喰わせろォォォォ!」
自ら研いで獣のように尖らせていた歯を、庄の首筋に突き立てた。
肉が食い込む。
顎に力を入れ、上下の歯を咬合させる。
ブヅリと、嫌な音を立てて、庄の皮膚や肉が抉り取られていく。
「ビャア゛ア゛ア゛ア゛! ウ゛メ゛ェェェェ!」
口周りを血で汚し、咀嚼しながら歓喜に狂う様は獣以下、餓鬼にも劣る所業であった。
「戦いの最中に、何メシ食って喜んでやがる」
庄の目は、据わっていた。
噴き出す鮮血で顔を赤く染めながら、恐怖にも苦痛にも心を動かさず、ドスの利いた声を出す。
あるのは、静かな怒りのみ。
「ア゛?」
庄はそれ以上、何も言わなかった。
無言で目潰しを入れ、さっと背後に回り込んで絞め技を極め、頸椎を破断させる。
あまりにも鮮やかで淀みのない、清流のような一連の動きであった。
相手が"どうしようもない"鬼畜であるのをつくづく実感したこと、そんな相手に重傷を負うほど苦戦していた自分に対する静かな怒りが、彼を一瞬だけ武の極地へと至らせたのだ。
ちくしょう……こんな所で、俺は死ぬのか。
もっともっと、燃やして、喰って……捕まえた、奴らを…………
致命傷を負ったことで、ようやく相楽は理性を取り戻したが、もはや手遅れだった。
意識が、二度と浮上できない永遠の闇へと沈んで、消えていった。
「……はぁ~~っ」
相楽の息の根が完全に止まったことを確認し、庄は大きく息を吐いた。
静かな怒りが消え、わずかに残っていた体力と気力も一緒に抜け出してしまい、糸が切れたようにその場へ倒れ込む。
(五十嵐……みんな……やったぜ)
ガッツポーズを取ろうとしたが、もはや全身に力が入らず、上に被さってきた相楽をどけることさえできない。
雲も霧もかかってないのに、青い空が霞んで見える。
失血のせいか、妙に寒い。
咬傷はギリギリ急所を外れているはずだが、そういうレベルの話ではないようだ。
(くそっ……次の任務がまだあるってのに)
後輩の仇を取った充実感はすぐに無くなり、感覚が段々と薄らいでいくのが、苛立たしくて仕方なかった。
瀬戸秋緒は、トライ・イージェス社社長・花房威弦の要請を受け、東京駅八重洲方面へと急行していた。
駅周辺にいた血守会の尖兵を瞬く間に斬り捨てていき、その最中に突として現れた血塊も、封鎖結界や聖水の散布を待つまでもなく、一振りの愛刀だけで討ち取ってしまった。
八重洲のテロ攻撃は既に収束し、緊迫した空気はわずかながら緩みを見せていた。
秋緒も、張り詰めたオーラを解きはしないものの、刀の汚れを拭い、警察の話に受け答えを行う。
「ありがとうございます。流石は元トライ・イージェス、瀬戸クリーンアップの方ですね。こんなにもあっさり、血塊さえも片付けてしまうとは」
「いえ」
賞賛にも言葉短く返し、秋緒は再び考えを巡らせる。
血塊を切り刻んでいる時に浮かんだ疑問が、再度浮かんできたのだ。
(何だったんだ、あの血塊は)
耐久力、再生力、攻撃速度……全てがあまりに脆弱すぎた。
前回のテロから二十数年の時を経て、剣が更なる高みへ到達したことを差し引いても、だ。
到底、単独で破壊できるような代物ではないはずなのに。
出来損ないではないだろうか。
だとしたら、何故こんなものを実戦に投入したのか――
「あの、どうかなされましたか?」
「……いえ、何でもありません。それより、別件がありますので、一度失礼させて頂きます」
そう言い残し、集団の輪から距離を置くように歩き始める。
人付き合いが苦手なのもそうだが、何より、いつまでも褒め言葉を甘受し続けている暇はない。
秋緒にとって最も優先すべきことは、瑞樹を発見して救出することだからだ。
花房には既に血守会及び血塊を始末したと報告を入れており、何か新たな動きが起こるまで待機するよう頼まれている。
もっとも、その間、現場から離れすぎなければ瑞樹を探しても構わないという承諾も得ていた。
彼が今、この東京駅近辺にいる保証は全くないし、トライ・イージェス側からの情報もない。
それでも、探さずにはいられない。
じっとしているのは耐えがたかった。
そんな秋緒の姿を、姿だけでなく臭いや気配さえも完全に消して、観察しているモノがいた。
巨大な単眼が、あるのかないのか分からない耳が、映像と音を捉えて情報に変換し、八重洲から離れた場所の地下――血守会のアジトへと転送し続けていた。
「いやー、見事にどいつもこいつもボロ負けですねー。おまけに血塊もぜーんぶブッ壊れちまって。ヒヒヒ」
観察者・STL-CYC-100を使役する電脳女王――橘美海が、さぞ愉快といった風に笑いを漏らした。
女王は今回のテロにおいても、汚く薄暗い己が居城を一歩たりとも出なかった。
自由勝手が許されたのではなく、彼女の能力を最大限に活用するため、通信・監視・記録役を担わされたのが理由である。
そのため、上役である奥平久志の方が、橘の汚部屋へ足を運んでいるという、奇妙な状況になっていた。
電脳女王の城に入ってくる情報は、全てが敗北、失敗、壊滅、消滅の類であり、山手線の結界発生装置を破壊できたという報告は一つもなかった。
「だろうな」
奥平は何の感情も込めずに答えた。
「百パー計画失敗みたいな状況なのに、随分余裕っすねー。いつもみたいに葉巻をプカプカ吹かさないから、さぞイラついてると思ったのに」
橘の嫌味な言葉にも、眉一つ動かさない。
そもそも、計画実行から今に至るまで、徹底的に汚物が堆積したこの部屋に平然と立ち続けている時点で、奥平という男は色々な意味で常人離れしていることは明白だ。
「想定の範囲内であるというのに、心を動かす必要などなかろう」
「あー、そっすかー」
めんどくさそうに漏らしながらも、橘は以前、血塊の製造にあたって奥平から受けた指示について思い出していた。
『エネルギー発射機構を取り除いても、再生力を落としても構わん。合計七体、製造してもらいたい』
二十数年前の第一次テロの時、橘は血守会に在籍していなかった。
単に、今は亡き前任者が遺したデータを基に、言われた通りの数を造っただけだ。
資金や材料はいくらでも融通できたため、七体もの製造を命じられても特に困ることはなかったが、何故奥平がそのような注文をつけたのか、理解できなかった。
血守会の計画の可否に全く興味がなかったので、そもそも理解するつもりなどなかったのだが。
だが、今思うと、まるで……
「――頃合いだな。私も出る」
橘の思考を遮るように、奥平が静かに宣言した。
「そっすか。行ってらっさい」
橘は興味なさげに、背中越しに手をひらひらと振る。
「別室に待機中の中島瑞樹君たちへ指示を出してくれ。場所は、私と同じく八重洲だ」
「あいあい」
「阿元君には私から直接指示を与える」
「あーい」
外界で死闘が繰り広げられていた間、瑞樹は、ひたすら心を鎮めることに努めていた。
休憩室の隅で坐禅を組み、薄目になって、腹式呼吸を延々と続ける。
無心になることは無理だと諦めていた。ただ少しでも気を落ち着かせるために行っていた。
文字通り気休めにしかならないだろうが、これから起こること、行うことについて、きっと何らかの役に立つはずだ。
瑞樹に並ぶもう一人のキーパーソンである少女・柚本知歌も、流石に大人しく過ごしていた。
瑞樹の背中に自分のそれをくっつけ、体育座りをして、天井と床を交互に見つめながら、何やら物思いに耽り続けている。
「――はい、かしこまりました。直ちに手配致します」
食器を片付けた後、終始無言で佇立していたカイゼル男が、突然言葉を発した。
直前に、耳へ手をあてる仕草を取ったため、瑞樹や知歌が驚くことはなかった。
「中島様、お嬢様。奥平様より指示がありました。今から東京駅、八重洲側へ移動せよと」
瑞樹は返事の代わりに、坐禅を解いてゆっくりと立ち上がった。
知歌もそれに倣う。
「どーやっていくの?」
「瞬間移動を利用します。細かい部分につきましては、引き続き私がお世話致しますので、どうかご安心下さい。出発前にお手洗いなどはよろしいですか?」
二人は、頷いた。
「それでは、参りましょう」
カイゼル男に導かれ、二人は歩き出した。
休憩室を出て、通路へ出る。
いつもと変わらない、耳鳴りがするほどの静寂。
しかしこの時の瑞樹には、静けさも床の固さも靴音も、まるで異質なものに感じられた。
「瑞樹兄」
察したのか定かではないが、知歌が瑞樹の袖を引っ張り、声をかけた。
「ん?」
「外、どーなってるのかな?」
「橘様より、経過を随時まとめたデータファイルを頂いております。よろしければ、ご覧になりますか?」
答えたのはカイゼル男だった。
立ち止まって振り返り、携帯電話ほどのサイズのタブレット端末を瑞樹に手渡す。
「時間の都合上、お手数ですが、歩きながらご覧下さい。マナー違反にはこの際目をつぶりましょう」
覗き込んでくる知歌にも見えるよう、端末を横に差し出し気味にして、瑞樹はレポートを読み始める。
かつて相対した時に感じた不気味な人間性とは裏腹に、橘の文章は極めて真っ当であり、誤字脱字もなく、簡潔にまとめられていて読みやすかった。
ご丁寧にも、所々画像まで添えられている。
「瑞樹兄、スクロールはやいよー」
読む速度の違いに苦笑しつつ、状況を出来る限り素早く頭に叩き込む。
トライ・イージェス社員の活躍もあり、どうやら全ての結界発生装置の防衛に成功したようだ。
それに、あの波照直宣と宗谷京助までもが防衛に回るとは。
無論、まだ予断を許さない状況ではあるが、心の中でそっと安堵する。
そして、レポートの最下部に近い辺りに記載されていた、ある一文を目にした瞬間、瑞樹は目を見開いた。
『相楽慎介、庄典嗣に敗北、死亡を確認』
大学の友人・松村春一を殺したあの男が、死んだ。
(庄さん……ありがとうございます)
自分の手で報復ができなかったのは残念だが、それ以上に、庄が勝ってくれたことへの喜びが勝った。
"若"と呼び、普段から色々と気安く接してくれていた同好の士に、瑞樹は深く感謝する。
これできっと松村の霊魂も救われるだろう。
それに、やはり秋緒も今回のテロにあたり動いてくれたようだ。
しかも、これから向かう八重洲にいるらしい。
だが、安心してはいけないと、瑞樹は自分に言い聞かせる。
そうそう都合よく自分達を鉢合わせさせてくれる状況を作るとは思えない。
安易に脱走を企て、秋緒との合流を狙うのは危険が大きすぎる。
そもそもそんなことをすれば、栞の命が危険に晒されてしまう。
せっかくここまで護ってきたのに、最後の最後でしくじってしまえば、悔やんでも悔やみ切れない。
「どしたん?」
「いや、何でもない。後は知歌が見ていいよ。僕はもう読んだから」
端末を知歌に手渡し、カイゼル男の交互に動く両足を見つめながら、瑞樹は別の考え事を始める。
何故、あの血塊を出すタイミングで、自分たちを外へ出さなかったのだろうか。
普通ならば、複数の血塊相手に戦力を分散させ、時間を稼いでいる間に、自分と知歌に結界発生装置を破壊させるはずだ。
それなのに、全ての血塊を失ったタイミングで出撃を命じられた。
奥平の意図が理解できなかった。
それとも、何か他にも別の狙いがあるのだろうか。




