四章『東京湾と夕闇の狭間で会いましょう』 その1
首筋に残された不快な冷たさが、いくら洗って拭っても消えてくれない。
一瞬の不意をつかれ、易々と背中を許してしまった自分に腹が立つ。
もはや大学へ行く気にはなれなかった。
栞や友人に、急用ができて行けなくなった旨をメールで返信し、携帯電話の電源を切って車を出した。
道中、コンビニに寄っておにぎりとお茶を買い、駐車場で食べる。
食欲はあまりなく、ひどく味気なく感じたが、無理矢理詰め込んだ。
自宅に戻り、車をガレージに戻す。
秋緒は仕事で外に出ており、家にいなかった。
帰宅は夜になると言っていたことを思い出す。
まだ時間に猶予があったため、精神統一にあてることにした。
自室へ入り、ベッドの上で坐禅を組み、目を閉じて腹式呼吸を繰り返すことに意識を向ける。
思考が次々と浮かび上がるが、それには囚われず、浮かぶがままにしておく。『考えている自分』に気付き、頭の隅で客観的に眺めているような感覚。
そうしている内に思考は勝手に消えていく。
秋緒に教わった、基本的な精神統一法である。
最初の内はそわそわしてじっとすることすら辛かったが、辛抱強く時間をかけて行うことで、怒りや嫌悪感、首筋の不快感は治まっていった。
もういいだろう。
瑞樹は立ち上がろうとするが、よろめいてしまう。
長時間坐っていたことで、両足が痺れてしまっていた。
枕元の目覚まし時計を見ると、時間は午後三時半を回っていた。
足の痺れが取れるのを待つ間、考えていたのは、犯人の女を殺す流れだった。
冷やした心でシミュレートする。
先制攻撃で全力の火炎を浴びせる。
相手の攻撃をギリギリまで見極めてから最小限の動きでかわす。
いや、反撃の隙も与えないようにする――
痺れが取れたところで、瑞樹は私服から仕事用のスーツに着替えた。
着替えられる猶予がある時、瑞樹はいつもスーツで戦いに臨んでいた。
相手は人間ではない、化物だということを自分に言い聞かせるために。
階段を降り、一階の奥にある小さな倉庫へ向かう。
ドアは施錠されているが、事前に秋緒から合鍵を渡されており、瑞樹にも開ける権限がある。
キーケースを取り出して開錠。
中は約四メートル四方の空間に様々な武器類が詰め込まれた空間となっている。
ナイフや銃火器、聖水や札のような除霊用の道具、負傷した時に使う各種回復薬や解毒剤などもあり、種類別に整理整頓して配置されている。
瑞樹はそれらの中からファイティングナイフ二本だけを取り出し、胸元と腰のホルスターに差し込む。
さほど大振りではないが、刺突性能の高いタイプである。
回復薬の類は持っていかない。細胞を活性化させ、魔法のような早さで傷を治せるという、戦いにおいて大きなアドバンテージを得られるが、その分非常に高価で、また大量生産が難しいため、希少品でもある。
個人的な復讐のために使う気にはなれなかった。
銃器類も持たないのは、女が嫌っていることが理由だ。
「野暮な道具は使っちゃダメ」
とのたまい、真っ先に破壊しにかかってくるのである。
壊されるくらいなら持たない方がいいと考えていた。
そもそも、銃弾を撃ち込んだところでほとんど効果がないのだが。
財布や武器所持の許可証など、最小限の物だけを入れたバッグを持ち、玄関で靴を履いたところで、瑞樹は一度立ち止まる。
「僕は今、戦闘態勢に入っている。僕は、あの女を、殺す」
決意を声に出してから自宅を出た。
徒歩で三鷹駅まで向かい、電車に乗る。
会う場所は、当然ながらいつも山手線の外側だった。
電車を乗り継いで降り立ったのは、東京都江東区の臨海部に位置する東京テレポート駅。
かつての臨海副都心は、景観の華やかさや開発の波に乗ったことなどもあって、急速な発展と地価の高騰を招き賑わいを見せたが、現在は東京湾方面から襲来する変異生物の影響で、すっかり半ゴーストタウン状態となっている。
一応は東京ゲートブリッジやアクアラインに沿って壁状の結界を張ってはいるものの、山手線のものほど強固ではなく、変異生物の侵入を許してしまうこともあった。
ただし、寂れかけているのは台場方面の話であり、有明方面はむしろ現在の方が賑わっていると言ってもいいだろう。
有明コロシアムで行われている、EF格闘技という興業が、人々の耳目を集めていた。
瑞樹もかねてから一度観戦したいと思っていたが、今は用のない場所であった。
東京テレポート駅を出た頃には、既に日が傾きかけていた。
人通りはまばらで、広い空間がなおさら広く見える。
瑞樹は許可証を出してからバッグをコインロッカーに入れ、道なりに南下していく。
道中、変異生物の注意を促す看板や、人間が七、八人は入れる電話ボックスが設置されているのが目につく。
結界が張られた、緊急退避用の電話ボックスだ。
強度に不安があり、破壊されてしまう例もしばしば耳にするが、気休めでも無いよりはいいと、強力な結界のない区域では重宝されている。
瑞樹の右手側には道路が、その上方には線路があり、車やモノレールが何度か通過していく。
そのたびに、やけに大きく音が響いた。
モノレールは開業以来、未だ現役で運行しているが、乗客はさほど多くない。
デートやレジャーで利用される機会は減ったが、それでも通勤やイベントの行き来で使う人々がいるため、休止論が持ち上がることはなかった。
結界を導入したことによる赤字を回収する手段に、運営会社は奔走しているようではあるが。
この近辺を徒歩で南下している奇特な人間は瑞樹くらいだった。
しかし瑞樹は人目など気に留めてすらいない。
夕空を飛ぶドバトの変異体も、単なる風景の一部にしか思っていなかった。
仮に邪魔をしてくれば、燃えるゴミになるだけである。
しかし相手が人間、しかも犯罪者でなかったらそうもいかない。
テレコムセンター付近まで差し掛かった所で、瑞樹はバイクに乗った五人の集団に呼び止められた。
「こんな所で一人、何をしに行くんだい」
先頭の男がヘルメットのバイザーを上げ、聞いてきた。
瑞樹は内心舌打ちする。
変異生物から一般市民を守るために臨海地区を巡回する私設パトロール隊だ。
瑞樹は許可証を見せ、
「私用で、変異生物の調査に来ました」
「ほう……若いのに許可証持ちか。しかも駆除業者とは大したもんだ」
まじまじと許可証を眺めながら、男は感心してみせる。
「何なら一人二人、手伝いに人を貸そうか」
「いえ、お気遣いだけ頂いておきます。それに、どちらかというと個人的な仕事ですから」
瑞樹はあくまで固辞し、おせっかいなパトロール隊に納得してもらったところで、そそくさとその場を離れた。
下手をしたら巻き込んでしまいかねない。
最悪、女からデートの邪魔とみなされ、殺されてしまう可能性もある。
倉庫街を貫く長い道を突き当たりまで歩くと、トラックターミナルや倉庫に囲まれる中、緑化された小さな公園があった。
遊具もベンチもない、寂しい場所だ。
更に少し先には防波堤が伸びている。
東京湾から吹いてくる風に含まれた潮の香りが瑞樹の鼻をつく。
腕時計で時間を確認する。
約束の時間まではまだ少し間があった。
おせっかいなパトロール隊がついてくる気配はないことに安堵する。
戦いを前に彼の感覚は鋭くなっており、尾行されていても感知できる自信があった。
瑞樹は東京湾を背にして立ち、体の力を抜いて、火の息を吐く深呼吸を繰り返す。
中々静まらない。
それどころか体が熱くなるばかりだ。
まあ、これはこれで構わないと瑞樹は開き直る。
直前となっては、下手に心を抑えようとするよりも、素直に闘争本能に従い、高めておいた方がいいだろう。
多嘉良の診療を受けた直後に現れるなど、願ってもない機会だ。
こんなことはこれまでなかった。
今年こそ奴を焼き殺す絶好の機会だ。
大切なことを伝えたいなどと言っていたが、どうせいつもの戯言だろう。
喋る前に舌の根ごと焼いてやる。
殺す。
絶対殺す。
今日こそ父さんと母さんと愛美の仇を討つ。
殺してやる。
瑞樹は相手が現れるのを、文字通り待ち焦がれていた。
午後六時ちょうど。日没間近。
夕闇にライトが寂しく灯る中、瑞樹の待ち人が現れた。
前方の闇からぼんやり浮かび上がるように、笑顔を浮かべて女が姿を現す。
「お待たせ、瑞樹君」
瑞樹は答えない。
代わりに体から炎が吹き上がっていた。
「いつ来てもいい場所だね。静かで、潮のいい香りがして、防波堤を登れば綺麗な景色も見えるし。見てみた? クレーンやゲートブリッジが、東京湾の上で光を放つ景色。うっとりしちゃうかも」
「……そうだな。お前を殺すにはまたとない場所だ」
絞り出した低い声。
ドロドロの憎悪。
それらは紛れもなく、眼前の女一人だけに向けられていた。
「ああ、瑞樹君が今、私を憎んでる。凄く凄く憎んでる。私、愛されてるんだね。嬉しいよ」
髪を潮風に、心を瑞樹にかき乱され、女は艶っぽい顔で身をよじらせる。
その捻れは常人の可動域を超えていた。
肉も関節も骨も、まとめてゴムになったようにぐにゃぐにゃと曲がっている。
瑞樹は不快感を隠しもせず吐き捨てた。
「化物め」
「瑞樹君、まだそんなこと言うんだ。私には沙織って名前があるのに。ねえ、沙織って呼んで。憎しみをいっぱい込めて」
「黙れ化物。お前に名前を呼ばれることさえ、虫唾が走る」
沙織は蛇のようになっている背骨に電流を感じる。
快感にとろけてしまいそうだった。
もしかしたら、今年こそ彼は自分を殺せるかもしれない。
そんな予感さえ頭をよぎる。
それならそれで構わない。
しかし。
「ねえ、もし私が死んだら話せなくなっちゃうから、最初に伝えておくね」
沙織は背中を伸ばし直し、真剣な顔を作り、告げた。
「この間、愛美ちゃんを見たの」
「…………な、何だと」
その内容は、瑞樹にとってあまりに信じ難いものだった。
信じ難いと同時に、瑞樹の怒りを激しく買う一言であった。
彼の顔がみるみるうちに歪んでいき、憎悪の炎が辺りに拡がっていく。
この時点で既に炎は沙織を焼ける状態になっており、獲物に飛びかかる直前の猛獣のように、炎の輪郭がじりじりと焦れていた。
「ふ、ふざけるなよ……! 愛美は、愛美は、貴様がッ!」
「そう、私が殺した。ご両親と一緒に。……でも、本当に見たの。千葉の八柱霊園で」
瑞樹から一切目をそらすことなく、沙織は返した。
「どうしてあんな場所にいたのかは、私にも分からないけど……でも、あれは確かに愛美ちゃんだった。あの可愛らしい顔を忘れるはずないもの。だから瑞樹君、私を殺せてもそうでなくても、近いうち愛美ちゃんに会いに行ってあげて。きっと喜ぶと思うよ。十三区画の辺りにいるはずだから」
言葉を失った瑞樹の心境は、炎が代わりとして雄弁に語っていた。
強風に煽られたが如く、揺らめいている。
強風は海風ではなく、沙織が口にした情報だった。
死んだ人間を現世で見かけるという現象は決して起こりえないことではない。
強い感情を遺して死んだ場合、残留思念となって現世に留まり続ける例は世界中で確認されている。
昔はオカルトな眉唾物と考えられていたが、ジアースシフト以後はごく自然な現象として認識されていた。
「あれ、ちょっと萎えちゃった?」
瑞樹は頭を垂れ、地面の草を薄目で見つめる。
ぼやけた視界に、幼くして命を奪われた妹の姿が浮かぶ。
母親似の顔を、今も鮮明に覚えている。
仮に沙織の言ったことが本当だった場合、愛美は強い感情を遺して死んだことになる。
その時抱いていたであろう感情は、きっと――
想像することで、瑞樹の闘争心が燃え上がった。
「よくも……よくも愛美に、怖い思いをさせたなッ!」
目をかっと開き、沙織を鋭く睨み付けると同時に、怒火が激しく燃え盛る。
それが合図であった。