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復讐火葬  作者: SATOSHI
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二十九章『水と火は相容れない』 その1

「ねえねえ悠くん、お昼はなにが食べたい?」


 恋人の甘い声が、うたた寝で曖昧になっていた千葉悠真の意識を現実側へと引き戻した。

 横たわっていたソファから体を起こし、頭を振って、


「そうだなぁ……」


 あくび混じりに昼食のメニューを考えてみるが、頭が働かない。

 最近はろくに休日もなく、ずっと仕事ずくめだったため、久々に自宅にいられる時間ができたことで緊張が緩んでしまったようだ。

 朝、彼女に叩き起こされなければ、ずっと眠っていただろう。

 今日もまた、午後三時から出社しなければならないので、どのみち一日中惰眠を貪れはしなかったのだが。


 テレビ画面の上隅に表示されている時刻に目をやる。

 午前十一時を回っていた。あまりのんびりしていられない。昼食を取ったらすぐ、支度をして発たねばならない。


「悠くん、聞いてる?」


 先程よりも近い距離で、恋人の声がした。

 千葉が首だけを捻って確認すると、いつの間にかソファの後ろに立っていた彼女が頬を膨らませて立っており、彼を見下ろしている。


「聞いてるよ」


 千葉は、微笑した。


「ほんとに?」

「嘘じゃないよ。誓って」

「ほんとにほんと?」


 彼女はそう言いながら千葉の正面側に回り込み、彼にしなだれかかった。

 もうすっかり嗅ぎ慣れた髪の香りと柔らかい感触を感じながら、千葉はやれやれ、と笑う。


「悠くんは、これから何が食べたいですか?」


 耳元にて、とろけそうなほどスローに甘い声で囁かれる。

 君だよ、と言いたくなるが、仕事に差し支えかねないため、それは抑えて、抱き寄せるに留める。

 ふと、同僚の天川裕子がかつて言った「彼女に逃げられるかも」という言葉が唐突によぎったが、気のせいだと無理矢理頭から追い出す。


 彼女と交際を始めてもう四年近く、同棲期間は一年半を経過していたが、未だ関係の新鮮さは薄れておらず、彼女に対する愛情も日々高まっている。

 彼女の方も同様で、かつ千葉の仕事をよく理解しているため、彼を困らせるような"おねだり"をすることはしない。


 しかし、千葉は感じ取っていた。

 今年の初夏辺りからとみに「そろそろ結婚したい」というオーラが彼女から滲み出ていることを。

 ある日、帰宅するとテーブルの上に結婚情報誌が置かれていた、意図的に避妊具のストックを切らされていた、などと直接的なプレッシャーをかけられたことはないが、雰囲気や会話の節々に、そのような雰囲気を感じずにはいられなかった。


 千葉自身、そろそろいい歳ではあったため、将来的には彼女との結婚を考えてはいた。

 しかし、男の性として、今しばらくは気楽な独身気分を味わいたいという正直な思いもあったため、ついつい気付かないふりをしたりなどして、先延ばしにしてきていたのだ。

 他の女性に浮気するつもりは断じてなかったが、交際以上結婚未満の絶妙な空気感は、千葉にとって抗いがたい官能そのものであった。


 進退問題はともあれ、今は昼食のことを考えねばならない。


「決めたよ。パスタがいいな。あっさり系のやつ」


 質問されてから大分時間が経ったが、彼女の髪を撫でながら、千葉は答えを出した。


「はーい。お仕事に響かないように、脂肪分は少なめなんだよね」

「うん。こんな理解のある人が側にいてくれて、僕は幸せだよ」

「わたしも。悠くんのこと、大好きだよ」


 二人は、しばしソファの上でじゃれ合う。

 千葉が上、彼女が下になって見つめ合い、互いに体中を撫で回し、小鳥がついばむような接吻を繰り返す。

 仮にこの場に第三者がいたならば、食事はどうしたと突っ込んでいただろう。

 いや、いたたまれなくなって退出してしまうだろうか。

 完全に二人だけの世界に没入していた。


 幸福な時間を引き千切ったのは、一切の前触れなしに千葉の携帯電話から放たれた着信音であった。

 普段、滅多に聞くことのない、目覚まし時計がヒステリーを起こしたような甲高い連続音。

 鳴り出して数秒も経たずに、千葉から笑顔が消え、硬直した。


「……悠くん?」


 恋人の表情が一八〇度急転換したのを間近で目撃して、彼女は当惑する。


「……やれやれだ」


 千葉は小さく呆れ顔を作り、静かに彼女の上から体をどける。

 立ち上がってからの挙動は素早かった。テーブル上に置いてあった携帯電話のディスプレイを確認し、すぐさまハンガーに吊るしてあった、トライ・イージェス社特注のスーツに着替える。

 ジャケットを羽織ったところで、今度は別の着信メロディが流れ出す。

 バッハの『最愛のイエスよ、我らここに集いて』――社長・花房威弦からの入電を表す楽曲だ。

 ワンコールで取り、手短に応答し、出発準備を再開する。


 一連の流れを、彼女は心配そうな面持ちで見ていた。

 明らかにいつもとは様子が違う。

 普段はもっと、マイペースな感じで仕事へ出かけていくのに。


 彼女からの眼差しに気付いた千葉が、ふっと少し顔を緩めた。


「ごめん、緊急出動しないきゃいけなくなった。昼食は一人で食べててくれないか」

「ダメ」


 こんな時にワガママを言わないでくれ。

 思わず棘を含んだ言葉を投げそうになるが、彼女が冷蔵庫に走り出したのを見て、すぐに改めた。

 彼女は冷蔵庫の中からゼリー飲料のパックを二つ取り出して駆け戻り、一つを千葉に手渡す。


「いっしょに食べるの。ね?」


 その一言だけで、千葉は精神的に満腹になった。

 同時に、彼の中で覚悟が固まった瞬間でもあった。

 何があっても、この女性を逃がしてはならない。


 この件が片付いたら特別報酬が出るはずだ。

 それで指輪を買おう。

 そして、彼女に言おう。今まで先延ばしにし続けてきた言葉を――


「ありがとう。愛してる」

「わたしもだよ、悠くん」


 恋人からの唐突な愛の言葉だったが、彼女は何ら疑問を抱かず笑顔で返した。

 抱き合い、キスをしてから、互いにゼリー飲料をぐっと流し込む。


「無事に帰ってきてね」

「うん。……それと、今日は何があっても外に出ないでくれ。戸締りも忘れずに。理由は、じきにニュースで流れるから、それを見て」


 最後に、彼女に注意を与え、千葉はトレードマークの黒縁眼鏡を装着した。


「行ってくるよ」

「いってらっしゃい」


 見送りはいいよ、と付け加え、千葉は玄関へと飛び出していった。

 寂しくなる、名残惜しくなる、などという甘ったるさが理由ではない。

 一秒でも早く、心身を臨戦態勢へ持っていきたかったからだ。




 千葉は車を走らせながら、花房から受けた指令を反芻していた。


『現在、豊島区西池袋一丁目、池袋一~二丁目付近で大規模な火災が発生している。

 現場に急行して消防隊と合流し、消火活動の支援をしてもらいたい。

 そして――現場付近には、相楽慎介がいるという情報を入手している。

 まずは消火と人命救助を優先せよ。

 だが、相楽と遭遇した場合は、奴の捕縛を最優先とせよ』


 消火活動を手伝わされるたび、千葉は何らかの放言をしてみせていたが、内心では誇らしさを感じていた。

 "護る"ことこそがトライ・イージェスの本分であるからだ。

 一人でも多くの人命を救うのは、戦うことより、ずっと気が楽だ。

 戦うのは、あまり好きではない。


 無線で交通情報を確認する。

 血守会の攻撃により、二十三区内の鉄道は既に全線ストップしてしまっているようだ。

 その影響で道路が混雑するのも時間の問題だろう。

 ただ、板橋区の小茂根にある自宅マンションから現場の池袋まで、車で十五分もかからない距離なのは幸運だった。

 渋滞や避難民たちによって足止めを食う前に、現場に到着することができた。


「これは……酷いな……」


 降り立った瞬間、目に映ったものを見て、千葉は思わず感想を言葉として漏らしてしまう。

 文字通り、池袋の街が、火の海になっていた。

 江戸時代、江戸では幾十度も大火が発生したというが、これと似たような光景だったのだろうか。


 現場に向かっている時点で予測はできていた。

 池袋方面に向かって伸びる道路、その前方から巨大な黒煙が濛々と立ち上り、青空を焼き焦がしていたのだから。


 東口や西口付近、また他の駅周辺も、同じような状況なのだろうか。

 いや、それを今心配しても仕方がない。先輩社員や警察・消防、それに他の防衛会社も出動して各地の対応にあたっているはずだ。

 自分は、自分の職務を全うするだけである。

 千葉は現場の統括者を探して声をかけ、早速消火活動に加わった。


 千葉は、逃げ惑う市民の波を避けつつ、赤き魔の手があちこちで上がる炎熱地獄へと身を投じていく。

 池袋駅の北部(厳密には北西部)は、ホテルと住宅が混在する池袋一丁目が特に顕著だが、多数の建造物が密集している区域である。

 中華料理店や物販店がひしめく歓楽街は、さながらチャイナタウンを連想させる。

 幸いなことに、中国人がこの恐慌に乗じて非行を働く意志はないようだ。

 というより避難に必死で、そんな暇すらないらしい。


 千葉の担当は池袋一丁目、消防車が侵入しづらい狭い路地が中心だった。

 この辺りはまだまだ消火が進んでおらず、火炎が我が物顔で建造物を乗っ取り、暴れ回っている。

 熱風が肌を打ち、黒煙に混じって散っている火の粉が、これ以上近付くことさえ拒んでいるようだ。

 ここに長時間留まっているのは危ない。

 ただし、常人ならばだ。


 千葉のEFは、水を生み出す能力である。

 無論、単に水が出せるという理由だけで消火活動の支援要請を受けている訳ではない。

 彼の最大の特性は、その基礎効力の高さにあった。


 せめて住民の避難だけでも進んでいればと願い、千葉は心を鎮める。

 "平常心"という、心の動きとは一見無縁に思える精神状態こそが、彼の力の源であった。

 凪いだ湖面のような精神が、彼の周囲を覆う水のドームを作り出した。防護服の代わりである。


 続いて手を掲げ、意識を集中。

 頭上に生成された水球がみるみるうちに巨大化していき、直径三メートルほどの大きさにまで成長した所で、延焼を続けている住宅へ手を向ける。

 レーザービームのように放水が始まり、火炎が薙ぎ払われていく。

 彼はまさしく、人間消防車であった。

 いや、水を吸い上げて補充する手間もなく、自律した運用が可能なため、こと単純な火災の消火に限定するならば、消防車よりも高性能かもしれない。


 千葉の活躍もあり、池袋一丁目の火災は徐々に鎮静の兆しが見え出した。

 流石に建物の損壊までは防ぎきれないものの、死傷者の数は火災の規模と比較しても、大分少なく済んでいるようだ。

 千葉自身、幾度も危険を顧みずに能力を使って火中へ飛び込み、逃げ遅れた住民を救出していた。


 確実に疲労は蓄積されつつあった。

 しかしそれ以上に、千葉の中には充実感があった。

 自分は今、人の役に立っている。自分の持つ力を、誰かを救うために使えている。

 こんなにやりがいを感じる、誇らしいことはない。


「お疲れ様です。すみません、トライ・イージェスの方にこんなことをさせてしまって」

「いえ、EF保有者を相手にするよりは楽ですから」


 救出した負傷者を救急隊に引き渡し、近くにいた消防隊員と短い雑談を交わしていた時である。

 千葉は背後に強い殺気を感じた。

 背中に焼印を押し付けられたような高熱を伴うそれは、明らかに自分だけへ向けられたものだ。

 振り返り、発信源を目で追う。


「お前は……」

「よう、待ってたぜ」


 およそ二十五メートル先で、爆炎を背後に立っている、ミリタリージャケットを着た長身の男。

 煌々と照らし出された面相は、まるで身を焦がす灼熱さえも愉しんでしまうかのように凶悪で、狂っていた。

 千葉は目を細め、苦々しげに男の名を吐き捨てた。


「相楽、慎介……!」

「適当に暴れてりゃ、てめェらクソ会社の誰かが来ると思ってたんだがよ、ビンゴだったな」


 相楽が、この惨状を生んだ自身を誇らんと、両手を広げて言う。


「あの二匹じゃねェのは当てが外れたがな……っとォ!」


 更に首を振り、左右に一発ずつ炎を追加する。

 両脇に停まっていた消防車が爆発、炎上した。爆風が全身を駆け抜けたのを感じて、相楽がさも愉快そうに笑う。


「やめろ!」

「るせェ! 俺に指図すんじゃねェ!」


 相楽が目を剥き、千葉の顔面を睨んだ。

 千葉は咄嗟に消防隊員を突き倒しつつ、その場から退避する。と、ほぼ同時に炎の爆ぜる音。

 間一髪のタイミングで、二人は相楽の不意打ちを回避した。


「離れて下さい。奴は私が食い止めます」


 隊員に声をかけ、千葉は立ち上がる。


「おーっとォ、どこ行くんだァ? 俺様が燃やして喰ってやろうかァ?」


 相楽は背を向けた隊員を狙い撃ちすべく、視線を定めたが、突如彼を守るように発生した水の障壁によって視界を遮られ、不発に終わってしまう。

 

「どこを見てやがる。お前の相手はこっちだ」


 千葉が、指先をくいくいと動かして挑発する。

 相楽は一瞬、全身を凍結させたが、すぐに再起動し、


「クククク、いいぜェ。やってやるよ、スカシ眼鏡野郎」


 歯を見せて笑う。


「何だ、そのセンスの欠片もない言葉は。見た目通りのダサい馬鹿なんだな」

「……んだと?」


 千葉は眼鏡に手をやり、わざとらしく呆れながら言葉を継ぎ足していく。


「もういいから喋るなよ。時間の無駄だからな。……それに、こっちも待ってたんだぜ。お前と会えるのを」


 好戦的な台詞を吐く。


 戦うのは、あまり好きではない。

 この考えに偽りはない。

 ただし、痛みや死が怖いからではなく、単に面倒だからだ。

 消火活動や人命救助の方が、遥かに気が楽である。それだけの話だ。


 しかし、今回ばかりは事情が異なっていた。


「……五十嵐の仇を討ちたいと思ってるのはな、庄さんだけじゃないんだよ」

「あ? 何だァ? 聞こえねェよ」

「二度言う必要はないね」

「ハッ、そうかよ。まあいいや、そろそろ死にな! あの坊主頭のデカブツの後を追わせてやるぜ!」


 二人の視線が交錯する。

 水と火は通常、相容れることなく反発しあう存在だ。

 水を生み出す千葉悠真と、火を生み出す相楽慎介についても同じことが言える。


 今もなお炎上を続ける、西池袋一丁目の路上の交差点で、その両者が激突しようとしていた。

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