二十七章『それぞれの九月三十日』 その4
「――かしこまりました。そのように」
花房への電話を切り、六条慶文は脂肪の余りがちな体を揺すって椅子から立ち上がった。
一週間前には痛々しげに全身へ巻かれていた包帯も、今はもう大分外れている。
自己治癒力を促進する回復薬を服用し続けた効果である。
「慶文さん、自分が行きましょうか」
「いや、平気だよ。緊急事態になったら僕も出動するんだし、リハビリがてら、少しでも体を動かしとかなきゃね」
遠野鳳次郎の申し出を断り、六条はややぎこちない足取りで、五相が監禁されている地下へと向かっていった。
既に杖の使用はしていないが、足の治りが今一つ遅れ気味なのだ。
六条が出て行ったことで、今オフィス内にいるのは、遠野一人だけになる。
現在、デスクワークの全てと五相の監視は、負傷中の六条が一手に引き受ける形を取っていたが、流石に前者の処理が追いつかなくなってきたので、最もオフィスに近い位置にいた遠野が一時的に手助けに来たのだ。
遠野は、わざわざ茶葉から淹れた紅茶を飲み、外国産のクッキーをつまみながら、大量の書類や経理処理を要領よく片付けていく。
この手の仕事は、社内で自分が最も早く正確にできると自負していた。やや自惚れが強い所を抜きにしてもである。
「ふふふ……この精密機械が如き作業、典嗣や悠真では再現できないだろう」
遠野という男、一人になると、やや独り言が増える性質であった。
後輩二名の名を出し、悦に入る。
――その独り言と同時に、自宅にいた庄典嗣は派手なくしゃみをした。
「何だぁ? どっかのセクシーなおねーちゃんが、俺の噂でもしてんのかね?」
ティッシュを引っ張り出して盛大に鼻をかむ。
丸めたそれを、ゴミ箱代わりに剥き出しで置いているビニール袋へ放り込み、ベッドに寝転がる。
彼は今朝まで三日三晩に渡って任務にあたっていたため、今日は休日となっていた。
当人としては"あと一週間はイケる"と言ってはばらなかったが、花房が社長命令で強制的にインターバルを入れさせたのである。
後輩の五十嵐克幸を殺害した犯人・相楽慎介の独自捜索も禁じられていた。
部屋に散乱した各種トレーニング器具を見て、舌打ちする。
怒りを発散できない、というフラストレーションから来るものだ。
体を休めろ、と言われているのだから、当然、トレーニングも禁止されていた。
「まあ、下手打って、これ以上パーツを失くしちまいでもしたら、鍛え甲斐も薄くなっちまうからな」
庄は右腕をさすり、大きく息を吐きながら言う。
彼の右前腕は生身ではなく、義肢であった。
一目見ただけでは区別がつきづらい程度には精巧だが、基本的には激しい戦闘に耐え得るよう、強靭さを優先して作られている。
コンピュータを内蔵した高級品ではないが、彼にとってはむしろ機械制御など邪魔なだけでしかない。
他にも、欠損はしていないものの、しなやかな鋼を思わせる肉体の各所には、深い傷痕が幾つも刻み込まれていた。
また顔面にも、大きなよぎり傷が斜めに走っており、彼を深く印象付ける要素にもなっている。
一歩間違えれば日常生活さえ困難になりかねない傷がいくら増えても、棺桶に片足を突っ込むような死線を何度潜り抜けても、庄は恐れはしない。
彼は、鍛錬と闘争を、三度の飯よりも愛しているからだ。
鍛えて、戦うことで、人から感謝される。これ以上の適職はないと思っていた。
そんな彼の目下の目標は、先輩にあたる鬼頭高正であった。
鬼頭の強さは、肌が粟立ち、義肢がうずく錯覚さえしてしまうほどだ。
仕事でコンビを組むなどして、それを目の当たりにする機会を得る度、少年漫画のヒーローのように戦慄と高揚が抑え切れなくなる。
「ダンナ、今日は確か千葉と組んでるんだったか……クソッ、羨ましいぜ」
――庄が呟いたその直後、港区六本木の路上にて車に乗っていた千葉悠真が、二回くしゃみをした。
「何だろう、急に……ああ、いや、至って健康ですよ?」
鼻を小さくすすって眼鏡をかけ直し、バックミラーを見て言う。
後部座席では鬼頭高正が、チーズケーキを手掴みで食べていた。
弁明したのは「風邪か」と、鬼頭の目が尋ねているように思えてならなかったからだ。
「……そうか、ならいい」
「ところで鬼頭さん、僕にもおやつ下さいよ。一人で食べてるのはずるいと思うんですよね」
千葉が軽口を叩く。
鬼頭は、無言でチーズケーキをもう一口かじった後、ウェットティッシュで手を吹き、懐の財布から千円札を抜いて渡した。
「え、これを食えって高度なギャグじゃないですよね」
「……好きなものを買ってこい」
いや、それが面倒だから、そこのケーキを一つ分けて欲しいって話なんですけど。
あまり話が噛み合っていないらしく、千葉は心の中で突っ込みを入れるが、こうまでされては引っ込みがつかない。
鬼頭は無口な反面、様々な場面で面子にこだわる人間であることを、これまでの付き合いで熟知していた。
千葉が紙幣を受け取ろうとした瞬間、車内にけたたましい音が鳴り響く。
取り付けてあるアラームが作動したのである。
「チッ、もうターゲットが動き出したのか。ああ、おやつ食べたかったなあ」
そうぼやきながらも、千葉は素早く車を発進させる。
鬼頭も、既に間食を終了させていた。
剛崎健は、東京湾上にて乗船中だった。
湾奥のほぼ中央付近に出現した、全長三十メートルにも渡る巨大ダコを駆除して欲しいという依頼を受けていたのだ。
大物相手ならば鬼頭の能力が最も適しているのだが、別の大物――某政治家からの先約が名指しで入っていたため、剛崎にお鉢が回ってきたのである。
また、軟体動物相手ということもあり、剛崎の能力も今一つ効果を発揮できないというハンデ付きである。
とはいえ、トライ・イージェスの精鋭には、いかなる時も泣き事は許されない。
確実に任務を遂行しなければならない。
剛崎も当然、ベテランとして、そのようなことは理解している。
能力に頼らず、武器と身体能力と知恵で速やかに駆除を完了させ、今はもう陸への帰路についている状態だった。
この程度の仕事で疲れなどしないが、舳先に立って潮風を受けていると気持ちがいい。
水平線から少しずつ近付いてくる陸地を遠目に見ながら、思いを馳せる。
(瀬戸先輩、今も血眼になって瑞樹君を探しているんだろうな)
尊敬する先輩が苦悩している姿を想像すると、胸に苦いものが込み上げてくる。
紛らわせるために一服したい所だが、仕事中だし、クライアントも近くにいる。我慢せざるを得ない。
剛崎は、回想の時間軸を大昔にまで巻き戻していく。
まだ自分が駆け出しだった頃――トライ・イージェスに入社して間もない時。
正義感に燃えているだけで、右も左も道理が分からなかった自分。
そんな時、辟易されながらも色々と世話を焼いてくれたのが、瀬戸秋緒だった。
無口で無愛想、一見取っ付き難い性格で、どんな男よりも腕が立つ猛者。
だが、実際は女性らしいきめ細やかな性情の持ち主。
そして……心の奥底に母性的な部分と、脆さを兼ね備えている。
剛崎は今も忘れられずにいた。
中島雄二と早見加奈恵の結婚が決まった時、この世の終わりが来たように絶望し、それでも必死に表へ出さぬよう抑え込んでいた、彼女の苦しむ姿を。
二人が少女に殺害された時、霊前で人目をはばからず泣きじゃくっていた彼女の姿を。
(今もずっと……引きずってるんだろうなあ)
剛崎には秋緒の心境が手に取るように分かっていた。
なればこそ、力になってやりたかったが、途切れぬ勢いで仕事が入ってくるため、中々そうもいかない。
せめて有力な情報提供だけでもできればと思っていたが、それも上手く行っていなかった。
鬼頭が先日から、歌舞伎町アンダーワールドの金田という男に、血守会のアジトの場所を調査させているらしいが、結局現在に至るまで具体的な位置を突き止められていない。
自分はいつになったら、先輩に恩を返せるのか。
剛崎は頭を掻き、己の不甲斐なさに唇を歪めた。
昼間だというのに、森の中は黒煙が立ち込めているかのように薄暗かった。
それだけではなく、背筋が凍りそうな冷気や、粘膜が爛れそうな腐敗臭、ゾンビ、鼓膜を刺してくる狂った笑い声、邪霊、異様なほど巨大化した蟲……
千葉県松戸市にある八柱霊園は、かつて瑞樹と秋緒が訪れた時と変わらず、強大な邪気を孕んでいた。
常人ならば十分を待たずして正気を失ってしまいそうな地獄の中、天川裕子は一人、悠々と歩を進めていた。
邪気が外に溢れぬよう、普段は結界で霊園を覆っているのだが、発生装置部分の老朽化が著しいため、このたび補修作業を行うことになった。
当然、作業中は結界をオフにしなければならない。
その際、外敵を防ぐのが、天川の任務であった。
任務開始にあたり、
「サポートに何人か付けましょう」
と、協力業者の警備会社から申し出があったのだが、
「いえ、補修作業をされている方の護衛に回して差し上げて下さい。一人で散策するには丁度いいですわ」
天川はいつもの調子で、たおやかに言ってのけた。
自信でも余裕でもなく、単なる事実として、彼女一人で何の問題もなく対応可能だったからだ。
八柱霊園には、多くの自然が残っている。
いくら邪気に満ち、汚染されているとはいえ、植物には変わりない。
植物であれば、"調和"さえできれば、彼女の能力を発動させることができる。
霊園に巣食う悪辣な亡霊共が、天川の肉体に覆い被さり、蹂躙せんと飛来してきた。
天川は一切動じることなく、目を細め、呼吸に集中して自我を薄める。
木々や草花と繋がるイメージ。
自分は植物。植物は自分。
形や匂い、善悪や正邪など、関係ない。
全ては一つ――
辺りの草木や花に、淡い光が灯り出す。
水面の乱反射を思わせる、強さと躍動感に満ちた幾千の輝き。
歪なものも奇形も、美しく清浄な光を放っている。
それらが元来持っている、生命という輝きをそのまま抽出したかのようだ。
「満ちなさい」
天川が一言命じる。
それだけで全ての光が何倍にも増幅し、辺り一帯の邪霊やゾンビを飲み込み、跡形もなく消し去ってしまった。
「ありがとう」
光をくれた"仲間"達に礼を述べる。
生い茂る植物達は依然、その不気味な姿形を変えていなかったが、天川は特に何の不快感も抱かない。
ただ、力を分けてくれた感謝の念しかない。
植物は植物。ただそれだけである。ただこの空間に合わせて適応、変化したに過ぎないのだ。
そんなことよりも、別に思案すべきことがある。
今放った浄化の光では、邪霊やゾンビを消すことはできても、生きた蟲や鳥獣の類はどうにもならない。
元々は治癒系の能力であり、その応用で浄化させたに過ぎないからだ。
巨大ムカデと血吸いコウモリが、襲いかかってきた。
天川はベルトにつけていた鞭を外し、一振るいする。
(あまり人様、特に殿方には見られたくはないのよね、これを使うところ)
そう思いながらも、ボディを瞬時に巨大ムカデへと巻き付け、輪切りにした。
(確か、五十嵐君が亡くなったのって、霊園の近くだったわよね……後でお弔いをしに行かないと)
不規則な軌道で血を啜りに向かってくる三頭のコウモリを、鞭の一振りで全て撃墜し、可愛らしかった後輩の姿を想う。
ただし、天川は理解していた。
血守会を再び殲滅し、相楽慎介を打倒しない限り、彼の魂が真に救済されることはない、と。
当の相楽慎介はというと、五相ありさの探知能力さえ届かぬ血守会のアジトにて、欲求不満を募らせていた。
ただ、機嫌が悪くなるところまでは行っていない。
先日の決起集会にて振る舞われた酒の残りを無聊の慰めとしていたからだ。
何十年ものだかのワインだのウィスキーだのをボトルから直にかっ喰らい、その辺にいたメンバーから適当に持ってこさせた肴を口に放り込む。
繊細な味の違いなど分からないが、美味いということだけは分かる。
いい具合にアルコールが回ると、狭苦しい個室に押し込められている不愉快さも薄れていく。
それに、今日だけの辛抱だ。
明日になれば、再び外に出られる。存分に暴れられる。好きなだけ燃やし回れる。
「クックックッ……」
自然と、口から笑いが漏れる。
あのデブは強火で丸焼き。スカしたメガネは両手両足、胴体、頭の順。女はまず顔面の皮膚を剥ぐように焼く……
トライ・イージェス社員の"調理法"を一人一人考えているだけで、血が熱くなる。
空になったボトルを部屋の隅に向かって放り投げ、視線を送る。
ボン、という音と共に発生した火炎が、一瞬にしてボトルを跡形もなく消滅させた。
血守会の計画や、奥平の真意など、どうでもいい。
焼くことを愉しめれば、それで満足だ。
食って、食って、食いまくってやる。
決行を待たずして橘美海は既に、食って、食って、食いまくっていた。
無論、炎ではなく食物をだ。
そもそも、彼女にとっては決行も何も関係ない。
事の最中、奥平から指示があれば従いはするが(現在の待遇を失いたくはないから)それ以外のことに関心などない。
ただ瑞樹を監視できれば、それでいいのだ。
むしろ早く終わらせて、青野栞と再会してもらいたいくらいだった。
「んむ……瑞樹きゅん、ちゅぱ、緊張、っ、してん、なー……ゴクゴク」
山盛りのフライドチキンをかじり、しゃぶり、メロンソーダで肉片を流し込む。
緊張しながらも凛々しさの崩れない顔、とても素敵だ。欲情してしまう。
橘は脂ぎった指を下卑たモノに見立て、食事そっちのけで"解消作業"を開始した。
ネタにされていることも露知らず、中島瑞樹は前かがみになってベッドに腰かけ、床を一点に見つめていた。
その表情は決して明るくはない。だが、一口に暗いとも言い難い。
悲壮なまでの覚悟を、一心に練り上げている顔だった。
ついに明日、山手線結界を破壊する計画が、実行に移されてしまうのだ。
大規模な混乱、衝突が発生し、多数の死傷者が出るであろうことは想像に難くない。
結界が破壊されるかどうかを抜きにしても、交通機関は麻痺し、建造物は破壊され、経済的にも大打撃を受けるだろう。
起こるであろう出来事を想像し、改めて背筋が凍る思いをする。
それでも、護る。
今更迷いなどしない。
最愛の人・青野栞を、何を引き換えにしても護るのだ。
両親のように、二度死んだ妹のように、もうこれ以上、大切な人を失いたくない。
――どうか、少しでも犠牲が少なくなりますように。僕も最大限、努力を尽くします。
瑞樹は、いるかいないか未だ判明していないどこかの神に向かって祈りを捧げ、誓いを立てるのであった。




