三章『喋る猫は導く』 その2
「神崎君か、どうぞ」
多嘉良がそう声をかけると、ドアがゆっくりと開かれ、白い看護服姿の女性が姿を覗かせた。
黒髪を肩口で切り揃え、人形のようにくっきりした目鼻立ち。
年齢は二十代後半と思われる。
やはり、瑞樹が初めて見る人間だった。
「三か月ほど前からここで勤務しながら、私の助手を務めてくれている神崎貴音君です」
多嘉良がそう紹介すると、神崎は表情を緩ませ、やたらゆっくりとした動きで会釈をした。
「神崎と申します」
その声も、抑揚のない機械的な話し方も、確かにあの三毛猫が発したものと同一だった。
「中島瑞樹です。多嘉良さん……先生にはいつもお世話になっています。昨日は失礼な応対をしてすみませんでした」
「いえ」
「少々ロボット気味なのは勘弁してあげて下さい。彼女、れっきとした人間なんですが、少々人見知りなタイプのもので。それなのに看護師をやってるんですけどね、はは」
多嘉良の軽口にも、神崎は眉ひとつ動かさない。
「それはさておき、早速お見せしておきましょうか。神崎君」
多嘉良の言葉を合図に、神崎はスカートの裾を両手で軽くつまんだ。
もちろんめくり上げる訳ではない。
揺するようにつまんだ指を軽く動かすと、なんとスカートの中、ほっそりとした両脚の間からハムスターが落ちてきた。
「出産ですか、はは」
多嘉良は笑っているが、なんて所から出すんだと、瑞樹は思わず目を見開いてしまった。
本能的に視線を足の付け根に向けてしまいそうになったが、何とか踏みとどまって床の方へ落とした。
ハムスターは落下事故に弱いのが通説だが、空中で上手に体勢を変えたのか、はたまた運が良かったのか頑丈なのか、何事もなかったかのように床を駆け回っている。
そして機敏な動作で瑞樹の足元から膝、腿へと這い上がり、瑞樹が驚くよりも早く彼の肩に到達した。
『これが私の能力です。"同情心"を引き金に、動物へ乗り移ることができます』
肩に乗っかったハムスターが、神崎の声で喋り出す。
種が分かったとはいえ、それでも驚いてしまう。
神崎の方を見てみるが、彼女は相変わらず無表情でこちらを見つめているだけだ。
「乗り移ると言いましても、私の本体がカラッポになる訳ではありません。魂は人間側にありますし、このように話したり動いたりすることもできます」
今度は神崎の方から声が聞こえてきた。
まるでデモンストレーションのように、神崎は機械的に淡々と喋り、自分の体を動かす。
どうやらこれは本当に能力と関係なく、彼女の地らしい。
『このように、同時に話すこともできます。ちなみに乗り移る動物の声帯に関係なく、私の声でのお話になります』
ハムスターと女性がユニゾンする。
瑞樹は妙な気持ち悪さを覚えた。多嘉良はそれを笑いながら眺めている。
「ね、面白い能力でしょう? せっかくだからこの能力で中島君を驚かせつつ、ちょっと協力してさしあげようと思ったんです」
「そうだ。結局僕についていた尾行はどうなったんです?」
瑞樹はハッと思い出し、気になっていたことを質問した。
「もちろんお約束通り、争わず話し合いの上で尾行を解かせてもらいましたよ。国立勤めの精神科医という肩書きもたまには役に立つもんですね。私が全部責任を持つと言ったらあっさり退いてくれました」
「そうですか、ありがとうございます。でもどうして、尾行を解こうとしたんですか? 僕は本当に気にしてなかったんです。いつも通り過ごしていれば、いずれ皆さんも分かってくれるでしょうから」
「中島君がそう考えられる、立派な人だというのは私もよく分かっています。ただ」
多嘉良はそこで一度言葉を切り、神崎に向かって片手を上げた。
瑞樹の肩にいたハムスターが一目散に、再び神崎のスカートの中へと戻っていく。
ハムスターの回収を終えた神崎はゆっくりと一礼し、部屋を出ていった。
ドアが閉まったことを確認し、多嘉良は再び言葉を、ゆっくりと切り出す。
「あなたの復讐にあたり、尾行は少々邪魔ではありませんか?」
復讐。
その一言に、瑞樹の全身の毛穴が開く。
「例えば、見張られている最中に、犯人が現れるかもしれない。いくら犯人が気を付けているといえど、尾行側がその上を行って看破されてしまうかもしれない。そうなってしまったら、あなたの復讐は妨害されてしまうでしょう」
何か念を押すように、多嘉良は語りかける。
瑞樹はしばらく無言でいたが、やがて重々しく口を開いた。
「……確かに、邪魔、ですね」
「そうでしょう。あなたの復讐には、邪魔が入ってはいけない。あなたの手で成されなければならない」
「その通りです」
「あなたのご家族を殺した犯人への憎しみは衰えていませんか?」
「全く薄れていません」
「犯人と戦って、自分の手で、焼き尽くしてやりたいんですよね」
「そうです」
「具体的にはどうしてやりたいですか? 家族を殺された日から、去年戦った日から、変化はありましたか?」
「ありません。自分の炎を浴びせかけて、跡形も残らないくらい燃やしてやりたいです」
「苦しませてやりたいんですよね。心の中に巣食っている衝動を、思い切りぶつけてやりたいんですよね?」
「はい。この気持ちを、奴に食らわせてやりたい」
「それは恋愛感情とは別のものですか?」
「当たり前じゃないですか!」
瑞樹が椅子を蹴るように立ち上がった。
体温を急上昇させ、荒い呼吸を繰り返して肩を上下させながら、怒気に満ちた形相で多嘉良を凝視する。
多嘉良は全く怯んだり驚いたりする様子を見せず、瑞樹をまっすぐ静かに見つめたまま、穏やかな声色で言った。
「では、違うという証拠を見せて下さい。おっと、この部屋を焼かないで下さいよ」
その言葉が着火剤となって、瑞樹の全身から激しい炎が吹き上がった。
天井に届くほどの勢いで伸びる。
しかし火災報知器は反応せず、床が焦げることもない。
舞い散る火の粉が多嘉良へ降りかかるが、熱そうな素振りは全く見せない。
驚きもせず、唇の端を持ち上げて笑う程度だ。
瑞樹の生み出す炎は、"燃やしたいものだけを燃やす"特性がある。
瑞樹自身が火傷を負わなかったり、周囲を不用意に焼き焦がさないのもこのためである。
更に、酸素を介さず燃焼しているため、火の中で窒息することもない。
多嘉良が全くたじろがないのは、これらの特性を既に把握しているためである。
更にはせせら笑うように、挑発じみた言葉さえ浴びせてみせた。
「あなたの気持ちはその程度ですか? その程度ではチーズを溶かすことさえできませんよ。もっと、もっとあなたの感情を、本性を剥き出しにして見せて下さい!」
今度は多嘉良の方がヒートアップしてきた。
椅子から立ち上がり、両手を広げて瑞樹を煽る。
「ほら、もっと声を出して! 憎しみを込めて吠えて!」
「うああああああっ!」
瑞樹の雄叫びに呼応して、火勢が更に強くなる。
ヒノキのテーブルや、革張りのソファにまで範囲が広がっていく。
「もっと! もっと! 全部吐き出して! ほら怒って! 憎んで! そんなもんじゃないでしょう!」
「ああああああっ!」
「ほらほらキチガイ度が足りませんよ! あいつから愛されちゃいますよ! もっと、もっと!!」
「おおおおおおおっ!」
「そうです、トラウマなんぞ糞喰らえです! ブッ殺してやりなさい! はい、私の後に続いて! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね……」
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
ちなみに今二人がいる部屋、消火器は据え付けられていないが、防音対策は完璧である。
一体どれほどの時間、こんなやり取りが続いただろうか。
瑞樹が感情を昇華しきり、炎を出し尽くした頃、二人はすっかり汗だくになっていた。
「お疲れ様でした。本日はこの辺で終了としましょう」
「……はい、ありがとうございました」
二人とも声が掠れ気味だった。
スポーツで一汗流したように、その顔は妙に晴れやかである。
握手を交わす姿は、互いを讃え合っているようにも見える。
「シャワーを浴びたい気分ですよ。中島君もどうです?」
多嘉良は壁のドアを親指で差す。
あの先にはトイレやシャワー室があることを知っていた。
瑞樹は少し考えたが辞退した。
差し出されたタオルで汗を拭き、ミネラルウォーターを飲んで水分補給を行う。
「ところで、今日は大学そっちのけで私に会いに来ちゃったんじゃないですか?」
多嘉良の指摘を受け、バレたか、という風に瑞樹は苦笑してみせた。
「午後の講義には出るつもりです」
「そうした方がいいでしょう。復讐が終わった後も、人生は続いていくんですからね。日々の生活も大事にしないと」
「はい」
最後に一礼して、瑞樹は部屋を出た。
エレベーターに向かう途中の廊下で、神崎とすれ違う。
互いに会釈してから、瑞樹はエレベーターで一階まで降り、建物を出る。
両親が死亡したことや、現在はEF保有者へのケアが手厚くなっている事情などから、医療費は完全免除されていた。
空を覆っていた雲はいつの間にかどこかへ消え、青空と降り注ぐ日差しが瑞樹を出迎えた。
少し暑いくらいである。
携帯電話の電源を入れ直し、メールや着信履歴を確認してみると、何件かの履歴が残っていた。
大学の友人と栞からだ。
『午後から顔を出す』
とメールで返信し、車に乗り込んだ。
建物を出てからそこまでの彼の動きを、多嘉良は階上の窓際から眺めていた。
「廊下での様子はどうでした」
振り返って窓を背にし、多嘉良は神崎へ問いかけた。
「普通でした」
「ふーむ……ちょっと物足りませんねえ」
「すみません」
「いえ、あなたの無機質な対応ではなく。出し切って爽やかになるだけじゃなく、もっと殺伐とした雰囲気が欲しいですね。素直すぎるというのも考え物だ」
「はあ」
「あれから十年ちょっと経って、一向に相手を殺せる気配がないと、そろそろ焦れてきそうなものですが。まあ、気長に待ちましょう。手を加えすぎては彼の魅力が損なわれてしまいますから。さて、シャワーでも浴びましょうか」
このような会話が交わされていたことも露知らず、瑞樹は車を走らせていた。
時間はまだ昼前で、今からなら午後の講義にも充分間に合う。
昼食はキャンパスに着いてから食べよう。
体からは火照りが抜け始め、少し冷えてきた。
車内の空調が寒くなってきたので、切る。
前方の信号が黄色になったので停車する。
時間に余裕があるので、焦る必要はなかった。
交差点で信号待ちをしていた、その時である。
左右に通り過ぎる通行人の中に、混じっていた。
瑞樹の顔が一瞬凍り付く。
あの女が、いた。
女は、瑞樹に気付いていた。
交差点のほぼ中央付近、瑞樹の前で立ち止まって、にこやかに微笑んでいた。
瑞樹の瞳のレンズが瞬時に絞られる。
長い黒髪。
白肌。
怖気をふるうような美貌。
薄いピンクのトップス、白いパンツ。
女の姿だけがくっきりと映り、周りはぼやけた背景となる。
瑞樹の顔が怒りに歪む。
ハンドルを握る両手がブルブルと震え出す。
アクセルをベタ踏みしたくなる衝動を必死で抑える。
女は笑顔のまま、横断歩道を左へ歩いていく。
まるで誘うように髪をなびかせながら。
瑞樹はすぐさまウィンカーを出し、車を停める場所を探し始める。
女に逃げる様子はない。
わざとらしいほどゆったりした足取りで、瑞樹の視界内に収まるよう動いていた。
付近のパーキングメーターはどこも埋まっており、瑞樹の苛立ちを募らせる。
――逃げるなよ。
睨む目で語り、更に車を走らせること数十メートル。
ようやく空きを見つけられた。
速やか駐車して降り、叩き付けるように硬貨を入れる。
そして、
「こんな所に出てくるとはいい度胸だな……!」
精一杯声量と感情を押し殺したつもりだったが、周囲の通行人はぎょっとして、瑞樹をよけるように道を空けて通り過ぎていく。
敵意を向けられた女本人は、至って気にした風もなく、笑顔のままだった。
「おはよう、瑞樹君。久しぶりだね、元気にしてた?」
「能書きはいい。始めるために来たんだろう? 今年で終わらせてやる」
「元気いっぱいだね。そんな瑞樹君も素敵」
女が一歩、二歩と歩み寄ってくる。
瑞樹は身構える。
ここは山手線の外側のため、能力の使用は可能だが、抑える。
街中でなければ問答無用で攻撃しているところだ。
分別をつけられるくらいの理性はまだ残っていた。
「お医者様に診てもらった後で、やる気がいっぱいなんだよね。でも今日はデートとは違うの、ちょっと特別な用事」
「なんだと?」
その瞬間、女の姿が消えた。
――しまった!
そう思った時既に、女は瑞樹の背後に立っていた。
首筋を、湿り気を帯びた、少しざらつきのあるものが滑る。
「うぁっ!」
思わず声が漏れる。
「少しだけ瑞樹君の味がする……美味しい。それに声なんか出しちゃって、可愛いな」
「き、貴様ッ!」
反射的に炎を纏った肘打ちを放つが、虚しく空を切るだけで、女は再び瑞樹の前方に戻っていた。
「今、ここでお話するのも何だから、時間と場所を変えましょ。――去年デートした場所で午後六時から、でどうかな? 大切なことを伝えたいから、必ず来てね。約束だよ」