二十七章『それぞれの九月三十日』 その2
奥平の説明に耳を傾けつつ、阿元は安堵する。
確かに仕損ようがないほど簡単なことだ。後は念の為、リマインドしておけばいいだろう。
ただ、一つ疑問が浮かぶ。
説明が終わった後、それを尋ねてみる。
「質問してよろしいでしょうか。何故また、柚本知歌と? それに……」
「今は答えられない。無条件で従ってもらおう」
奥平はにべもなく言い、それ以上取り合う姿勢を見せなかった。
阿元はそのまま部屋を出るしかなかった。
自室に向かう途中、何度もため息をつく。
正直な所、再度知歌と臥所を共にするのは気が重い。
男として反応はするだろう。しかし……
罪悪感もあったが、何よりあの完全にこちらを軽蔑しきったオーラに耐えられない。また言い負かされるのも怖い。
だが、奥平からの命令である。己の感情に関係なく、やるしかない。
知歌と話を合わせ、やったふりをするのは通用しないだろう。そんな抜け目があるとは思えない。
中島瑞樹ならこんな時、どうする。
あくまで希望を捨てず、抜け道を探すのだろうか。
それとも、知歌をできるだけ傷付けないよう、優しく接するのだろうか。
いずれにせよ、自分には出来ない芸当だ。
このように、表面上での斜に構えた態度とは裏腹に、すぐに諦めてしまう所、自己評価が低い所こそ、阿元団十郎という男の特性であった。
同時に、瑞樹をやたらと敵視する根本的な原因でもあった。
自分に自信を持てないから、いつも前向きで、絶望という言葉とは無縁に見える瑞樹が憎い。
容姿に優れているから、人間関係に恵まれているから、といった理由は付属品に過ぎない。
そして、なまじそのことを客観的に自己分析できてしまうからこそ、余計に苛立ちと敵意が増す。
"坊ちゃん"などと呼んで軽視しているが、本当に子どもじみているのは……自分の方だ。
どうすればこんな自分を変われるのか。
いや、もうこの年齢になっては人格を変えられないのでは。三つ子の魂百までと言うではないか。
悩む前に行動・実践する、という結論に至れないのも、阿元という男の一面だった。
頭でっかちというか、どうしても思考が先行してしまい、行動力に欠ける所があるのだ。
ゆえに、外部からの強い力に対して、容易に流されてしまう。
本人の意志に関わらず、翌日、知歌と共にホテルへ行き、"任務"を遂行する羽目になったのである。
苛立つ二人が遭遇すれば、当然良いムードなど生まれるわけもない。
数学のように、マイナス同士を掛け合わせてもプラスにはならないのだ。
元より反目し合っているとなれば、尚更である。
重力が十数倍にもなったような空気の中、ほとんど会話もなく、極めて事務的に事が進行していく。
「あーキモッ、ベタベタさわられちゃった。シャワー浴びよっと」
終わった後、知歌はわざと大きめの声で独り言を言い、バスルームへ向かっていった。
悪かったね、坊ちゃんじゃなくてよ。阿元は心の中で悪態をつき、手にしていたビール缶を握り潰す。
相手へ与えた満足度は前回同様、底辺レベルだっただろうが、奥平からの指令そのものは無事に終わらせた。
後のことは、どうでもいい。結界のことも知ったことではない。命令通りやっていくだけだ。
そうしていれば少なくとも生きるのには困らない。金も入ってくる。
今の生活水準が維持できるのなら、東京がどうなろうと構いはしない。
中島瑞樹についても同様だ。本当は男としての勝ち負けも、どうでもいい。
ただ……五相ありさの安否だけが、阿元にとっての気がかりであった。
窓に目をやる。この美しい夕焼けを、彼女も見られているだろうか。それとも完全な密室に閉じ込められたままなのだろうか。
今すぐ助けに行ってやりたいと純粋に思うが、上司には逆らえないし、トライ・イージェスの人間と戦って勝つ自信もない。
願っていることしかできなかった。
弱すぎる自分が、つくづく嫌になる。
阿元は、込み上げる思いに逆らわず、そのまま目の前のテーブルに突っ伏して、泣いた。
たとえ、この自分の無様な姿を知歌に見られたとしても、もうどうでも良かった。
瀬戸秋緒は自宅のリビングで一人、苛立っていた。
原因は言うまでもなく、瑞樹が見つからないことだ。
時間、人脈……持てるリソースを最大限に割いて連日捜索していたが、手がかりは一向に掴めない。
トライ・イージェス社からの定時連絡も同様で、有力な情報は未だに得られていない。
変異生物駆除の仕事は、事前に受注していた直近分だけを片付け、あとは臨時休業という形を取っていた。
社会人としての是非は、彼女にとって問題ではなかった。
他ならぬ瑞樹が行方不明なのだ。地球上の何に換えても惜しくはない。
その範疇には秋緒自身の命も含まれていた。
秋緒は、ゼリー飲料のパックに口をつけ、吸い込んだ。
うっすらとした甘味のとろみが喉へ流れていく。
あまり好きな味ではないが、手早くエネルギー補給するにはこれが好都合なため、致し方ない。
本当は食事や休息の時間すら惜しかったが、無理矢理取るようにしていた。
トライ・イージェス社で勤務していた時に培われたプロ精神の賜物である。
仕事柄、特にコンディションには気を遣わなければならない。
かつての同僚・中島雄二や鬼頭高正からくどいほど言われたことが、今もしっかりと刻み込まれていた。
しかしそれは、几帳面な生活習慣までもは保証しない。
部屋のあちこちには徐々に埃が溜まり始め、片付けもろくにされていない。流石に衣服はきちんと洗濯していたが。
何より、寂しい。独りで過ごすには、この家は広すぎる。
瑞樹のいないこの家など、中身の入っていないシュークリームのようなものだ。
早く、あの穏やかで居心地の良い団欒を取り戻したい。
自らの力を弱体化させる感情ではあるが、秋緒はそう感ぜずにはいられなかった。
自分の無能さが腹立たしい。苛々する。
手にしている刀をやたらめったら振り回して切り刻みたくなる衝動に駆られるが、何とか抑え込む。
そんなことをしたら、瑞樹が帰ってきた時、リビングを見て驚くだろう。
彼女はまだ希望を、一かけらたりとも捨ててはいなかった。
だが……秋緒は空になったパックを、既に満杯になったゴミ袋へ捨て、鼻にしわを作る。
瑞樹が今、血守会の手中で、どんな思いをして過ごしているのか。
どんなも何もない。苦しんでいるに違いない。
想像すると、否が応でも焦りが募る。方々への怒りが込み上げてくる。
そういえば、柚本知歌からも一向に音沙汰がない。
彼女もまた、血守会の一員なのだろうか。
真実はどうあれ、今は瑞樹のことだけで手一杯だ。気にはなるが、後回しにせざるを得ない。
焦燥の許容量が再び限界に達した秋緒は、居ても立ってもいられなくなり、また捜索に行こうと思い立つ。
が、これから約束があったことを思い出し、踏み止まる。
昨日の夜、瑞樹の恋人・青野栞から連絡があったのだ。
瑞樹と連絡が取れなくなった。
既に後期が始まっているのに、大学にも来ていない。
彼の身に何かあったのか。
というニュアンスの内容を、震えた声で留守番電話に吹き込んでいた。
栞が何故自宅の電話番号を知っているのか、秋緒は一瞬疑問に思ったが、きっと瑞樹が教えていたのだろうと納得する。
正直、あまり会いたくはなかったが、瑞樹のためだ。
折り返し電話をかけ、翌日、つまり今日会って話をする約束をしていたのである。
待ち合わせの時間まで、あまり猶予はない。
瑞樹の捜索ではなく、まず栞と会うため、秋緒は身支度を整えて家を出た。
栞との待ち合わせ場所は、新宿駅西口の交番前と決めてある。秋緒からの提案だった。
一度、山手線結界の外で彼女の状態を見ておきたかったからだ。
それに彼女が通う大学からも電車一本で来られる場所だというのも理由だ。
定刻十分前、秋緒は西口交番前に姿を現した。
栞は既に到着していた。ベージュのカーディガンに七分丈のデニム姿で、落ち着きなくきょろきょろと辺りを見ている。
秋緒が声をかけるよりも早く存在に気付き、駆け寄ってきて、
「ご無沙汰しております」
一礼した。
少し顔色が悪いな、と秋緒は一目見て思う。
ただ、態度が硬いのは、そのせいではないだろう。
「いや……遠くへ呼び出す形になってすまない」
いえ、と返す栞。
秋緒は彼女に目を合わせず、眼鏡を通して、周囲に異変はないか、チリ一つ見逃さない細密さで気配を探ってみた。
が、何も感じない。今は監視がついていない可能性もあるが、やはり人工生物を探知するのは無理なのだろうか。
感じたとすれば、一刻も早く瑞樹のことを尋ねたいといった空気が、栞本人からひしひしと伝わってくることぐらいだ。
そんな秋緒の所作を、気に食わない自分を睨んでいるのかと解釈した栞は、まごつきを見せた。
更にそれを見た秋緒は、誤解させてしまったことに気付き、険しい表情を緩めて、
「とりあえず、どこか話のできる所に入ろうか」
東側、つまり結界の内側に向かって歩き出した。
人でごった返す駅構内を抜け、東口を出て、新宿三丁目方面へと歩いていく。
この間、二人に会話はなかった。
栞は、すれ違う通行人がちらちらと秋緒を見ているのに気付いた。
肢体に見とれているのではなく、腰の辺り、差している刀が注目を集めているようだ。
秋緒は、ピリピリしているようだ。
周りの人間から見られているのが嫌な訳ではないらしい。
やはり嫌われているのだろうかと、少し気が重くなる。
今後、この人と上手くやっていけるのだろうか。
でも、きっと凄く強いんだろうな。実際に戦っている所を見たことはなかったが、瑞樹から何度も、彼女の強さを自慢話のように聞かされたこともあって、栞は確信を持って想像する。
ジアースシフト以後、警察以外の市民も街中で武器類を持ち歩いている光景は珍しいものではなくなっていたが、秋緒のように日本刀を用いるものは珍しい。
栞も、殺傷力の高い武器こそ所持していなかったが、催涙スプレーを携帯していた。
幸いなことに、未だ使用する機会はなかったが。
連休中、横浜で"チャイルド・プレイ"に襲われた時も、瑞樹がいたため何とかなった。
秋緒が張り詰めていた一番の理由は、異変を探っていたためだったのだが、栞がそこまで読み取ることはできなかった。
そしてやはり、結界内でも見張られている気配はない。
会話のないまま二人は、新宿三丁目のとある喫茶店に入った。
秋緒が半ば一方的に決めた形だったが、栞は何も言わなかった。
分煙が徹底されているし、少々レトロで薄暗い雰囲気も悪くない。栞の嗜好ともマッチしていたが、今はそんなものを味わっている心の余裕などない。
一番隅の席に案内され、それぞれ飲み物を注文した後、とうとう抑え切れなくなったように切り出した。
「あの、瑞樹くんは、いったいどうしたんですか? わたし、心配で……」
今にも泣きそうな顔に秋緒は心を揺らされたが、あえて一層口を重くした。
慎重に言葉を選ばなければならない。ただでさえ、自分は口下手なのだから。
下手を打てば、栞の身が危険に晒される可能性がある。
それだけは絶対に避けなければならない。
瑞樹が何を犠牲にしても護ろうとしているものに、もしものことがあっては、彼に申し訳が立たない。
彼の想いを無駄にしてしまっては、死んでも償い切れない。
「…………詳しくはまだ話せない、ということを念頭に置いて聞いて欲しい」
秋緒は、水で舌を湿らせた後、声を潜めて言った。
店内に流れるジャズと同じくらいの音量で。
「瑞樹君は……何者かによって攫われてしまった」
「えっ……!?」
思わず声が大きくなり、栞は慌てて手で口を塞ぐ。
幸いにして禁煙席には客がほとんどいなかったため、周囲の注意を強く引くことはなかった。
「しかし、心配しないで欲しい。あの子は必ず私が見つけ出す」
出来る限り穏やかに語りかけたつもりだったが、栞には効果がなかったようだ。
動揺を抑え切れていないのが、小刻みに震える身体や、焦点の定まらない視線にはっきりと表れている。目にはうっすらと涙が浮かんでいるのが分かる。
こういうのは苦手だ……秋緒は心の中で呟くが、続けて次にかけた言葉が、図らずも栞をすぐに立ち直させる効果をもたらした。




