二十七章『それぞれの九月三十日』 その1
柚本知歌は、東京都内のとあるホテルの一室で苛立っていた。
昨日、ついぞ高級ワインが飲めなかった恨みを未だに引きずっていたのではない。
今朝、血守会の首魁・奥平久志が発した一言に起因していた。
決起集会の翌朝、奥平から執務室に呼び出されるなり、こう命令されたのだ。
「今夜もう一度、阿元君と共に過ごしてやってくれ」
「はぁ!? ジョーダンじゃねーっつーの!」
何故また、あの気持ち悪い男と床を共にしなければならないのか。
以前、首を締め上げられた時の苦痛と恐怖も吹き飛ぶほどに、知歌は激怒した。
正確にははもっと口汚い罵声だったが、とにかく彼女は黙っていられず、抗議の意志を爆発させる。
とはいえ、奥平が手を動かしただけで、容易に記憶は甦った。
頭よりも身体の方がよく覚えていた。全身を強張らせ、声を詰まらせたが、睨むことだけは止めない。さながら怯えながらも威嚇している猫を連想させる。
しかし、今回彼が知歌に用いた手段は、暴力を背景とした脅迫ではなかった。
「まあ、落ち着きたまえ。一服どうだね」
手を動かしたのは、知歌を痛めつけるためではなく、ジャケットの懐からガスライターを取り出すためだった。
金色のボディが上等さを爛々と自己主張しているが、彼女にとってはどうでもいいことであった。
「あたし、タバコやめたんだけど」
「健康のためかね。それとも、中島瑞樹のためか」
「カンケーないっしょ」
知歌はつっけんどんに答える。
奥平はそれ以上興味を示さず、続いて葉巻ケースを出して中から一本抜き取った。
先端を手刀でカットし、切り口をライターで熱する。そして煙を燻らせ始める。
話が再開したのは、奥平が二、三度吹き終え、葉巻への関心を失った後だった。
「君がそう答えるのは分かっていた。そこでだ。今回は報酬を先に払おう」
「なに? カネのハナシ?」
「そうではない。君のかねてよりの願い、それを一つ叶えてやろうというのだ」
願い、という単語を聞いて、知歌の表情に色濃い陰が差した。
普段の無邪気さはどこにも見当たらない。
深い闇を抱えた一人の少女だけが、そこにいた。
「ウソついてるんじゃないだろーな」
眉をひそめ、出せる限界まで声を低め、質す。
「私は偽りを言わない。見せてやろう」
奥平が机上のコンピュータを操作すると、知歌の入室前からあらかじめ壁に下ろされれていたスクリーンへ、何らかの映像が投射された。
室内はまだ明るかったため、この時点ではまだ何が映っているのか分からない。
奥平は続けてすぐに、照明を落とした。
部屋全体が暗くなり、モニタとプロジェクター、そしてスクリーンの光が強調される。
知歌の目が、大きく見開かれた。
立方体の個室を、上隅から斜めに見下ろした映像であった。
現在、瑞樹が居住している場所よりも更に生活感がない、殺風景すぎる部屋、いや独房。
血守会アジト内だということはすぐに分かった。
問題はそこではない。
サイコロの四の目を規則正しく並べたような、コンクリートの打ちっ放しに囲まれた一辺四メートルの空間、その隅で、女が膝を抱えて座っている。
知歌がよく見覚えのある顔だった。
身に着けている、やたら派手な服装と金色のアクセサリーも、記憶に強く残っている。
寒さと不安のせいか、女は小さく震えているようだ。
それが見て取れるほど、映像は生々しく、鮮明であった。
「……ママ?」
「正真正銘、君の母親だ。昨日の深夜、ここまで連れてきた。後は君の合図一つで、望むままの報いを彼女に与えることができる。四肢を引き千切ることも、このまま一切の飲食物を与えず放置することも、男達に凌辱させて慰み者とすることもできる。君の復讐が一つ叶うのだ」
下卑た言葉を使っている最中も、奥平の中には何の感情も湧き立っていなかった。
ただ、極めて事務的に説明をしただけである。
知歌はごくり、と唾を飲み込んだ。
彼女が望んだ復讐のうち、半分が叶う機会を突然に与えられた。
しかし、単純に喜ぶことはできなかった。
何の前準備も無しに摂取するには、あまりに強い劇薬である。
奥平は無言で、知歌の答えを待っていた。
答え、というのは正確ではない。選択肢など存在しないからだ。
知歌とて、現状の意味するところが分からないほど愚鈍ではない。
選ぶしか、なかった。
「…………わかった」
苦々しげに、喉からせり上がる感情を歯の隙間から押し出すように、知歌は言った。
「うむ、それではこの後早速、阿元君と合流してくれ。"向こう側"の処遇はどうするかね」
「……昔のあたしと、おんなじ目にあわせて。でも、きょうだけでいい。終わったら、出してやってよ」
「いいだろう」
知歌のレスポンスの遅さに反比例するかのように、奥平の応答は迅速であった。
奥平が通信機で指示を与えると、ほぼ間を置かず、スクリーン上に動きが起こる。
男たちが次々と、計六人、部屋へフレームインし、女を取り囲んだ。
女の姿が見えなくなったと同時に、スピーカーから悲鳴が上がる。
それも一分足らずの出来事で、再び包囲が解れた時には、女の衣服は全て剥ぎ取られており、身体は床の上で大の字に拘束されていた。
男のうち四人が、それぞれ女の両手足を押さえつけていたのだ。
それを見て、胸に煮えた鉛を流し込まれたような衝動が、知歌を襲う。
かつての記憶が蘇る。
歌舞伎町の地下で、何が起こったのかも分からぬまま、まだ血潮の巡りもおぼつかない身体を散々に弄ばれ……
スクリーンの中で、残った二人の男が顔を見合わせている。
カメラは彼らの背中を斜め上から見下ろす角度で設置されており、知歌にはその表情を窺い知ることができなかったが、何か相談をしているようだ。
それもすぐに終わり、片方の男がベルトを外し、ズボンを下ろした。
スピーカーから一際大きく、金属的な叫び声が響いてくる。
知歌は思わず目を背け、口元に手をあてた。
しかし、仕草とは裏腹に、暗い歓びが内から湧き出てくる。
悪魔の形をした影が背中に覆い被さって、喜べ、喜べと囁きかけているように。
そうだ。ママも、同じ目に遭えばいい。
自分と同じ苦しみを、味わってみればいい。
産むだけ産んでおいて、何もしてくれなかったくせに。助けてくれなかったくせに。
自分の子どもを売り飛ばした報いを受ければいい。
「ママの……バカ……」
「この任務と、山手線結界の破壊を終えれば、父親にも望み通りの結末を辿らせてやろう。そして我々と君との関係も晴れて終了だ」
奥平は画面の向こうの出来事にも、知歌の反応にも興味を示さず、淡々と言った。
どれほどの時間、魔宴は行われていただろうか。
計測はしていなかったが、知歌は何度か目を背け、耳を塞ぎながらも、一部始終を目に収めた。
網膜に焼き付けられた映像を、きっと彼女は死ぬまで忘れることはないだろう。
男達は既に全員去り、画面には全裸の母親だけが、棄てられた人形のように虚ろな目をして横たわっている。
痛々しい痣や、吐き捨てられた体液までもがくっきりと見える。
そのためによく見える映像にしたのかと邪推する。
ともあれ、知歌はそれを見て、もう自分は二度とあの人を母親とは思えないし、今後も顔を合わせることもないだろうと思った。
「気が済んだかね」
事の最中、ずっと分厚い資料に目を通していた奥平が、瘧のように震えていた知歌に問う。
彼女が曖昧に頷くと、
「では、阿元君と早く合流したまえ」
すげなく言い、再び目線を手元の資料へ落とす。
知歌は何も言わず、のろのろと部屋から出ていった。
通路に出た途端、一目散に駆け出す。
最寄りのトイレの場所を事前に知っていたのは知歌にとって幸運であった。
誰もいないトイレに滑り込み、便器へ顔を突っ込む。
ドアを閉めている猶予さえなかった。もう口中にまで達していた吐瀉物を盛大にぶちまける。
朝に食べた卵焼きやクロワッサンがドロドロになっていた気持ち悪さよりも、無遠慮に体液を吐き出した自分の姿が、先程映像で見た男の姿とオーバーラップして、もう一度強くえずいた。
おかしい。
目の前で醜い男どもに凌辱され、何一つ抵抗できずされるがままに嬲られる姿を見て「ざまあみろ」と思っていたのに。
長年の恨みを一つ晴らせて、スッキリしたはずなのに。
知歌は、自分のことを純情だとか潔白だとか、一ミリたりとも思ってはいなかった。
なのに、自己嫌悪が止まらない。
何より、あれだけの仕打ちを浴びせてやったのに、まだ母親を許し切れていないのがおかしい。
復讐など、意味がなかったというのだろうか。
「……ふっざけんな、つーの……!」
口に残る酸っぱい残りカスと共に、唾を便器に吐いた後、両足を震わせて立ち上がる。
今さら後悔などしない。してたまるか。
もう後戻りはできない。薄い霧のように漂いかけた恐怖を、知歌は怒りで吹き散らす。
そうだ、復讐は終わらない。
継父はもっと惨たらしい目に遭わせてやる。
例え殺してしまっても、心は痛まないはずだ。
「やってやる! やってやるから! みんな見てろ!」
自分を奮い立たせるため、開き直りをあえて口にして、乱暴にレバーを回して水を流す。
渦を巻いて奥へ吸い込まれていく汚物に、迷いや恐怖や後悔といった不純物を投影して。
全部流れろ。消えてしまえ。
知歌は呪いのように心で唱え続け、口をゆすいで手を洗い、トイレを出た。
この後の不愉快極まりない任務も、ちゃんとやってやる。
阿元団十郎もまた、知歌と同様、ホテルの一室で苛立っていた。
同室している彼女の存在が原因ではない。
昨夜、山手線結界破壊計画を前にしての決起集会で、中島瑞樹が取った行動に起因していた。
瑞樹から直接暴言を吐かれた訳でもなく、皮肉を浴びせられたのでもない。
いわば逆恨みである。
そもそも集会場までの場所案内をして以降、彼とは一切会話をしていない。
あの時瑞樹は、集会場に着くなりスピーチを行わされた。
前触れなく指名されたにも関わらず、大勢の敵を前にしておきながら、彼は物怖じすることなく己が思いを話してみせた。
結果的に、その直後に奥平が行ったスピーチで全てを覆されてしまったが、場の人間に揺さぶりまでかけた。
恐らく嫌がらせではなく、動揺を与えて血守会の戦力を少しでも削ごうとしたのだろう。
果たして自分が同じ立場だったとして、あんな真似ができただろうか。
虜囚の身となっても絶望せず、わずかでも勝利の可能性を高めるための行動を取れるだろうか。
当然だ。自分にだってできる。
大学には行けなかったが、自分だって学生時代、勉強はできる方だったし、人前でのスピーチの経験もある。
決して無能などではない。だから血守会の中でも特に、奥平へ近侍できているのだ。
いや……阿元に疑念が浮かぶ。
自分は、本当に奥平から信用されているのか。
肝心なことは何も教えてもらえていない気がする。
能力が有用なのをいいことに、利用されているだけではないだろうか。
実際、そのような扱いを受けていたのは他のメンバーも同様だったのだが、阿元には関係なかった。
彼は、特別扱いされたかったのだ。
プライドが高い割に、自分に自信を持てないから、他者に気に入られる・認められることでアイデンティティを見出したい。獲得したい。そんな思考回路の持ち主なのである。
連鎖して、昨夜の記憶が蘇る。
集会が終わり、部屋(この時点ではもう自宅に帰れないことになっており、アジト内の居住区に寝泊まりすることになっていた)に戻ろうとした時のことだ。
奥平から、今すぐ執務室へ来るよう連絡が入ったため、踵を返して急行した。
とはいえ、この時の阿元はかなり酒が回っており、食事もたらふく胃におさめていたため、中々足が速く進まない。五相が捕えられたストレスによって、彼の飲食量は増加していたのである。
到着時間が、想定していたよりもやや遅れてしまった。
「遅くなって申し訳ありません……」
「構わん、急に呼び出してしまったのだからな。いきなりだが、明日の朝、君にやってもらいたいことがある」
命令と聞いて、阿元の酔いが急に引いた。
「最重要の任務だ。これを仕損じた場合、君は死をもって、いや、死んでも償うことはできないな。必ず成功させるのだ」
阿元は唾を飲み込む。
酔いが醒めるどころか、二日酔いが前倒しで訪れたかのように頭痛が始まり、足元が震え出す。
何故そんな大事なことを急に……
「この時機に任務を出すことにも意義がある」
阿元の思考を読んだかのように、奥平は補足した。
「なに、緊張することはない。極めて簡単な内容だ。まず、現在青野栞にかけている君の能力を……」




