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復讐火葬  作者: SATOSHI
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二十六章『決起集会』 その1

 気が付くと、瑞樹はつるべがない井戸の底にいた。

 あまりに暗かったので、まだ眠っておらず、意識が現実世界にあるのではと最初錯覚した。


 上を向き、現状では望めないものを見たことで、ようやくここは夢の中だと認識できた。

 遥か頭上の狭い空には、ほとんど雲に隠された月が滲んでいた。


 それにしても暗く、ジメジメとしている。くるぶしまで浸っている水と、ドロドロした底の感触が気持ち悪い。

 おまけに井戸だけあって狭く、積まれた石に包囲された楕円形のスペースは、せいぜい人二人が入るのが限度だろう。

 石壁は油を塗りたくったような光沢で全面を覆われ、間は指をかける隙間もなくびっしりと埋められている。夢の中とはいえ、これでは壁を伝ってよじ登れそうもない。


 こんな場所で"奴"と遭遇してしまったら……


「瑞樹くーーーん!!」


 不意の夕立のように、上方から大音量の声が降り注いできて、瑞樹は耳を塞いだ。

 顔をしかめたまま天を仰ぐと、案の定、声の主――円城寺沙織がいた。

 はっきりした姿は見えず、ほとんど影だけだったが、声を抜きにしてもすぐ分かる。

 彼女の下半身は蜘蛛に変態しており、八本の脚を広げて井戸の口を蓋していた。


「とうとう! 来たんだね! 結界を壊す日が!」


 降りかかる一言一言が、精神的にではなく、鼓膜から脳そのものに直接不快感をもたらす。

 沙織は混濁がない高い声をしているため、尚更反響がきつい。

 瑞樹は負けじと怒鳴り返した。


「うるさい! 声を張り上げるな!」

「あ、ごめんなさい」


 沙織は声を落とし、異音を立てながら、下半身を元通り人間のそれへと戻した。

 夢の中といえど重力は作用している。沙織がそのまま井戸の底へ一直線に落下してくる。

 まずい。頭上への激突を予感した瑞樹は咄嗟に背中を石壁に貼り付け、交錯させた腕を掲げた。

 しかし沙織はすぐさま四肢を広げ、更にそれらの長さを文字通り伸ばし、指と爪を硬化させる。

 ガリガリと石を引っ掻いて急制動をかけ、瑞樹のすぐ上、目と鼻の先で停止した。


「ふふふ、ビックリした?」


 いたずらっぽく笑う沙織。

 瑞樹は答えとしてアッパーカットを見舞ったが、この程度の攻撃では蚊が刺すほどにも効かない。柔らかい腹部を狙ったはずなのに、分厚いタイヤを殴ったような感触に跳ね返される結果に終わった。


「リラックスして欲しくて、ちょっと脅かしてみたの。大事なイベントの前だから」

「気を遣わなくていい。早いところ消えてくれ。静かに眠れるのが一番のリラックスになる」


 瑞樹は視線を下に落とし、うんざりして言う。


「分かってるけど、言いたいことがあったから。今の私はもう、そっちの世界に直接干渉できないし」


 沙織は身を翻して、井戸の底に着地した。

 その際跳ね上がった水が手足に胴に、頬にかかって、瑞樹は露骨に不快な顔をする。


「わざとじゃないよ」


 沙織は苦笑いして、顔の前に垂れた一束の長い髪をかき上げた。

 そしてやや身をかがめ、瑞樹を真正面から見つめる。

 黒真珠よりも美しい瞳は潤み、白い柔肌は光沢を放っているように闇を押し返しており、明確に目視できた。

 不覚にも瑞樹は一瞬、怒りさえも忘れ、意識を奪われてしまった。

 沙織の発言を、無条件に許してしまう。


「ねえ、瑞樹君……生き延びてね。栞ちゃんのためにも、絶対に死なないでね」


 沙織の透明な声が、狭い井戸を満たす。

 彼女の言葉に偽りは一切なく、表情も真剣そのものだった。


「当たり前だ。お前に言われるまでもない。そんなことをわざわざ言いに出てきたのか」


 しかし瑞樹はにべもない態度で、沙織から目を背けた。

 どのように言おうと、彼にとっては関係ない。

 どうしてこの女は、分かり切ったことを語りかけてくるのか。


「山手線の結界なんかより、瑞樹君の命の方が大事だよ。絶対に絶望しないで。いつもそばにいる私に気付いて。思い出して」

「さ、触るな! 離せ!」


 抜き打ちのような速度と拍子で沙織に抱擁される。

 瑞樹は足元の水を跳ね上げながら必死でもがいたが、効果はない。回された腕に込められている力が思いのほか強い。

 そもそも、脱出した所で、この狭い空間ではどうしようもなかった。


「ああ、こうしていると、瑞樹君の憎しみが肌に直接伝わってくる……」


 沙織の陶酔的な吐息が耳のすぐ近くから聞こえてきて、瑞樹は悪寒に襲われる。


「お願い。しばらくの間、このままでいさせて」


 栞に言われたなら、喜んでそうしていただろう。

 それか、たいていの異性からこのような"女の武器"を用いられれば、拒むことは難しい。


 しかし、この女にだけはあり得ない。

 沙織に抱擁を許すなど、瑞樹にとっては自分がアメリカ大統領に就任することよりもあり得ないことであった。

 いくら美しい容姿と声の持ち主とはいえ、相手が家族を殺した仇となれば。

 一度殺害に成功したとはいえ、彼女への念は未だいささかも衰えはしなかった。


 怒りと憎しみに燃える瑞樹と、愛と慈しみで包み込む沙織。

 二人は夜が明けるまで、糸のように結び付くと同時に、磁石のように反発しあうのであった。






「――というワケで、決起集会やるらしいっすよ。自分は出ませんけど、瑞樹きゅんは強制参加だそうです」


 計画実行を突然に告げられて二日後の朝。

 目を覚ました直後、橘の操る人工生物がいきなり決起集会の存在を伝達してきた。


「何時からやるのかは分からないけど、迎えが来ますので、部屋で待ってて下さい」


 先日本体が晒した醜態など他人事ではといった風に、これまでと何一つ変わらない口調で、人工生物は言葉を続けていく。

 瑞樹は大儀そうに曖昧な返事を繰り返していたが、既に眠気は吹き飛んでおり、脳も覚醒していた。


 人工生物が去った後、瑞樹はそっとベッドから離れた。

 遂に来たか。瑞樹の心拍数が上がり、背中から冷たい汗が滲んでくる。

 よだれを垂らして無防備な寝顔を曝け出しているノーメイクの知歌を起こさぬよう、静かに部屋を出て、シャワー室へと向かう。


 熱くした湯を頭からかぶり続け、これからのことを思う。

 本格的に覚悟を決めなければならない。

 毎日毎時、唱え続けてきたことを改めて、一層強く唱える。


 永久に準備中であれば良かったのにと、ありもしないことを願ったこともあった。

 しかしそんなものは、予防接種の注射のストックが自分の番までに切れればいいのにと願うのと同じで、子どもじみた甘い幻想に過ぎない。


 結果がどうなろうと、やり遂げるのだ。

 栞を護るために。今の自分にはそれしかない。

 もう二度と、大切な人を失いたくはない。

 例えこの身が焼き焦がされようとも。

 全てが終われば、自分と栞は解放される。

 贖罪はその後にすればいい。


 秋緒やトライ・イージェスが栞を護ってくれて、なおかつ血守会の凶行を未然に止めてくれる可能性もあるが、楽観はできない。

 決して信頼していない訳ではないが、最終的には自分を恃みにするしかないのだ。

 最も尊敬している人物が、そうして生きてきたように。


 髪や皮膚を打つ湯の温度よりも熱くなった血が、鉄の信念という成分を含み、瑞樹の全身を駆け巡っていく。

 ベストな形で終わるよう、惑うことなくベストを尽くそう。


 心身が充分に熱せられたところで、瑞樹はシャワーを止める。

 全身から立ち上る湯気は、彼の決意そのものだった。


 その後は朝、昼と知歌が作ってくれた食事を取り、会話や瞑想、勉強やトレーニングといつも通りの日課をこなしつつ、案内人が訪れるのを心静かに待ち続けた。

 未だ外に出られないことが少しずつ精神的な負担として瑞樹の内部に蓄積されてはいたが、橘が以前言った通り、必要な物資を全て注文通り用意してくれていたので、退屈はしなかった。


 知歌も瑞樹と同じタイミングで計画実行の報を耳にしたが、少なくとも表面上では、いつもと変わらない調子を維持していた。

 その内側では何を思っているのか、瑞樹には分からなかったが、直接問い質すことはしなかった。

 知歌もまた、瑞樹に心境を尋ねたりはせず、親しい妹役を演じ続けていた。


 そして、時刻が午後六時半に差し掛かろうとした時。

 ついに血守会の使者が、二人の下を訪れた。


「久しぶりだな、坊ちゃん」


 ノックもせず、いきなりドアを開けて姿を現したのは、派手なロッカー風ファッションの茶髪男。阿元だった。

 室内だというのに相変わらずサングラスを着用している。

 しかし今回は少々事情が異なり、目の下に浮いた隈を隠すためであるということには、瑞樹も知歌も気付かなかった。

 ただし、別の部分の変化はすぐに分かった。

 心なしか、最後に見た時よりも、少し阿元の体型が太くなったように見える。


「あなたが案内してくれるんですか」


 瑞樹がそこに触れることはなかった。


「こんな使い走りやりたくないんだが、仕方なくな」


 阿元は言って、露骨に顔をそらした。

 瑞樹に対してではない。彼の横にいる知歌を視界に入れないように、そうしたのである。

 知歌の方もまた、阿元を一目見た瞬間、怒りと嫌悪の入り混じった目で彼を凝視した。その後、瑞樹の背に隠れるように身を寄せる。

 彼女の反応を見た阿元は、複雑な顔をした。しかしすぐにサングラスをかけ直す仕草で誤魔化し、


「聞いていると思うが、今から集会がある。二人ともついてきてくれ」


 ドレスコードはないとのことなので、瑞樹と知歌は簡単に身支度を整え、そのままの私服で阿元について歩き始めた。


「ねえねえ、ウマいもの食えるかもしんないんだってね。楽しみー!」


 阿元への嫌悪感を押しやり、知歌は瑞樹に話を振る。

 集会が開かれるにあたり、食事が振る舞われることも事前に聞かされていた。


「そうだね、お腹一杯食べて、周りを驚かせてやろうか」


 瑞樹も知歌の無邪気さに同調し、微笑む。

 自分を元気づけようとしているのだろうと、彼女の意を汲んだのもあるが、実際空腹だった。

 朝、昼に知歌が作った食事は、極めて簡素で量も少なかったのだ。おまけに間食も知歌に禁じられていた。

 全ては、集会で振る舞われる料理を存分に食らうがために。

 もっとも瑞樹にとっては血守会からの料理などどうでもよく、知歌に付き合わされた形だったのだが。


(能天気な奴らめ)


 二人の会話を背中で聞きながら、阿元は苛立っていた。

 加えて、相変わらず改善されていない知歌の大げさな足音に対しても。


(というか坊ちゃんよう、お前はもう何とも思ってないのか? 五相さんが捕まってることを)


 つい感情に任せて嫌味たっぷりに言ってやろうと思いかけたが、実行に移せなかった。

 知歌から反撃を受けるのが怖かったのだ。

 かつて一度、完全に言い負かされてしまった苦い経験が、阿元を精神的に委縮させていた。


(クソッ、何で俺はこう…)


 ネガティブな思考は、更にネガティブを引き寄せる。

 阿元は先日、奥平と交わした会話を思い出す。


「――五相さんが捕まったというのは本当ですか!」

「事実だ」

「救出には向かわないのですか!?」

「残念だが、人手を割き、リスクを冒してまで救助する価値は、彼女にはない」


 阿元は憤りを通り越して、深すぎるショックを受けた。

 にべもなく切り捨てられただけでなく、価値さえも否定された。

 あれだけ血守会に尽くしてきたはずの彼女を。

 何より、自分の想い人を。


「……でしたら、私が個人で」

「駄目だ、君は計画の要だからな。むざむざ危険に晒させる訳にはいかない」


 上司であり、実質的な組織のトップである奥平から高評価を受けても、阿元は何ら誇らしい気持ちになれなかった。

 五相を救えないことの方が重大な問題であり、彼の劣等感を強く刺激した。

 彼はプラス面よりも、マイナス面を見つめがちな気質の持ち主だったのである。


 嫌っている二人の人間が、脳裏に浮かぶ。

 中島瑞樹や柚本知歌なら、ここでなおも奥平に強く食ってかかれるのだろう。例え自分が傷付こうとも。

 しかし、自分にはそれができない。青春時代に刻まれた傷が、吹き付けてくる臆病風に激しくしみる。


 そして結果的に、言いなりになってしまうのだ。

 上司にではなく、自分の中の弱い部分に。

 変われない。いつまでたっても。弱いままだ。

 本当は――


「――ねえ、瑞樹兄が聞いてんじゃん。なにシカトしてんの?」


 阿元の回想は、知歌の不機嫌な声で中断させられた。

 ハッとなって立ち止まり、


「あ、ああ。何だ」


 つい声を上擦らせてしまう。


「いや、大したことじゃないんですけど。来たことのない区画だなって」


 幸い、瑞樹が阿元の異変を指摘することはなかった。

 そのためすぐに意識を完全に引き戻し、冷静に戻ることができた。


「そうかもな。今向かってる大広間は、普段滅多に使われないからな」

「大人数で集まること自体が珍しい、ってことですか」

「俺が知る限りは、な」


 瑞樹は周囲を観察する。

 移動を始めてから既に五回、彼は同様の行動を取っていた。

 そして、得られた結果も毎回同じだった。


 廊下や壁の作りは、今まで通ったことのある区画と変わりがない。

 無機質なコンクリートに包囲された通路。高度なセキュリティに守られ、隠蔽された暗い隠し階段。

 いずれの場所も、命なき蛇の体内を思わせる気持ち悪さ。


 分かっていながら、彼はゴミが落ちている程度のわずかな違いでも探さずにはいられなかった。

 あまりの変化の無さに、気が狂うとまでは行かずとも、少し気分が悪くなりそうだったのだ。

 ましてや道順を覚えるなど、初回の移動ではほぼ無理である。


「つかれたー! まだ歩くのー?」

「もう少しだ。我慢しろ」


 不満の声を上げる知歌に、阿元は振り返りもせず答えた。

 瑞樹は腕時計を見る。部屋を出てから三十分近く経過していた。

 アジトが広いのか、わざと遠回りしているのかは分からないが、随分時間をかけるものだと思う。


 更に三、四分、変わり映えしない通路を進むと、ようやく終わりが見えてきた。

 突き当たりの所に、コンクリートと同じ色をした両開きのドアがついている。あの先が集会場だろう。


「少し待ってろ」


 ドア前まで歩いたところで、阿元はトランシーバーのようなものを出し、二言三言、交信を行う。

 内容から察するに、相手は奥平のようだ。


「……二人とも、心の準備をしておくんだな。特に坊ちゃん」


 やや同情を込めたニュアンスで、阿元はサングラスを外し、心ばかりの鼓吹を行った。

 どういうことだと瑞樹が問い質すよりも早く、ドアの取っ手を握る。

 そして、ゆっくりと押し開いた。

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