二十五章『電脳女王の寵愛』 その1
狭い、暗い個室が、彼女の居城であった。
四畳半ほどの空間に窓はなく、照明もついていない。
上隅についたエアコンからは強い冷風が吐き出され、部屋を過剰なまでに冷やしている。
奥には白く無機質なオフィスデスクが収まっており、天板の上で上下二段の横三つ、計六枚のモニタがぼんやりと発光していた。
机の下では巨大なパソコン本体が二つ、甲高い唸りを上げながらランプをしきりに点滅させ、タコの足のように配線を床のあちこちに伸ばしている。
最後に掃除されたのはいつだろうか。あるいは掃除されたことなどないのだろうか。
デスクの上、床、お構いなしに、食べ終え、飲みかけの容器が散乱している。
食べカスや水滴の零れた後がそのままになっているのは言うまでもない。
また、部屋の暗さでよく見えないが、体毛もあちこちに落ちていた。
他にもティッシュ箱、様々な出力機器、電動式の玩具、寝袋が無造作に床へトッピングされている。
ただ、椅子の可動範囲とキーボード、マウスの周辺だけは綺麗に片付けられていた。モニタも、指紋一つついていない。
部屋の一方には、トイレと浴室へ続くドアと、もう一つ、彼女専用の"研究所"へ直結するドアがついている。
前者の方は潔癖症でなくとも、常人が立ち入れば卒倒ものの光景が広がっているであろうことは想像に難くない。
こんな場所ではあるが、彼女はひどく気に入っていた。
地下の片隅という立地、そして空間が狭いことがまず素晴らしい。基本的に他人が来ないし、合理的で落ち着く。
加えて風呂やトイレもすぐ近くにあり(滅多に入浴などしないが)生理現象に伴う移動も最小限で済ませることができる。
研究所にもすぐ行けるし、食事や必要な道具類も、パソコンから出すメール一つで配達されてくる。
誰にも邪魔されず、存分に欲求を満たしながら仕事ができる。彼女にとっては最高の環境なのだ。
気ままに振る舞える、まさしく女王のような待遇が与えられているのは、ひとえに彼女が保有する能力の賜物である。
彼女は、自らが創り出した人工生物を完全に支配する――言い換えるなら、人工生物へ人格をコピーして転送できるEF能力を持っていた。
現代の技術力では未だ人工生物に高い知能を搭載することを実現できていないが、彼女はEFを用いることでそれを疑似的ではあるが可能とし、人工生物の実戦的運用を成功させたのである。
効果範囲も極めて広範で、気に入った相手のためならば、地球上どこまででも動かせると自負していた。
彼女はこの能力を『電脳女王の寵愛』と自称していたが、本人以外にその名称を用いるものはいない。
また、彼女が保有している能力はEFのみに留まらない。
コンピュータを駆使した情報収集能力、資金運用、備品等の在庫管理などを、常人離れした速度と正確性で行える才覚を有していた。いわば後方支援と裏方作業のスペシャリストである。
更にEFの関係上、人工生物の製造ノウハウを有しており、生物学研究者に近い立場でもあった。
今、彼女が専ら行っている業務は、現在の血守会にとっての重要人物、救世主と呼ばれている青年、中島瑞樹の監視である。
「ぐふっ、今日もカワイイなー、瑞樹きゅんは」
笑いをこぼしながら、この部屋の女王――橘美海は、中央のモニタに映る彼の姿を舐めるように観察していた。
冷房を強く効かせているにも関わらず、上下グレーの下着姿であった。
髪はボサボサに伸ばし放題、化粧はせず、度が強い眼鏡の奥の目の周辺には炭を塗ったような隈ができ、細長い毛が生えるに任せた手足はやけに細いが、腹だけがぽっこりと出ている。
容姿に無頓着すぎるにも程がある女王であった。
モニタには、ベッド上でバスローブ姿の瑞樹と知歌が接近している様が俯瞰で映されており、イヤホンからは二人の短い会話が時折流れてくる。
「お、しちゃう? そこでヤっちゃう? ギャプグフフーゥッ!」
橘は手足を所構わず打ち付けて、こそばゆさに全身の毛を逆立てる。
が、二人が橘の期待に応えることはなかった。
「お? お? ……チッ、なんだ、結局やらないのかよ」
二人の距離が離れたのを見て舌打ちし、一気に脱力する。特注のアーロンチェアに体重がかかり、悲鳴にも似た軋みが上がる。
橘は退屈していた。
最初、奥平から瑞樹の監視を命じられて、彼の姿を見た時は、心が踊り狂うのを止められなかった。
こんな美形の日常を、好きなだけ覗くことができる。しかも仕事で。
しばらくの間、橘は存分に己の倒錯した欲望を満たすことができた。
だが、瑞樹がこの血守会アジトに連れてこられてからというものの、どうも刺激が足りない。
青野栞と仲睦まじくしているのを見ながら悶絶し、性的欲求を満たすのが一番の楽しみだというのに、それが叶わなくなってしまった。
柚本知歌は見た目からして生理的に嫌いだった。彼女は、清純そうな容姿のカップルが好みなのである。
しかし背に腹は代えられないと妥協したのに、先程の生殺しじみた体たらくだ。
これでは中々"発散"ができない。橘の欲求不満は募るばかりであった。
橘は、モニタ越しに無駄話をしている二人を視界の端に入れつつ、別のモニタに表示させた計算ソフトに数字入力をしたり、文章を書いたりする作業を行う。
また同時に別画面で、株価チェックなども平行させる。
何かに憑りつかれたかのような指と眼球の動き、そして精密動作性であった。
最低限のやるべき雑務をさっさと片付け、再び中央のモニタに目を移す。
瑞樹と知歌は、就寝準備に入ろうとしているようだ。
何やら一緒に寝るだの寝ないだのといったやり取りをしている。
「くっだらねぇ……」
橘はデスク端に置いてあったチョコバーを掴み、歯に挟んで引っ張り、袋を破る。
キャラメル入りのネチョネチョしたチョコバーを口内でなぶりながら、その後もブツブツと悪態をつき続ける。
「あーあ、少し寝るか」
歯の間に挟まったナッツがやっと舌で取れた後、文句も収まりがついた。起床後に飲み食いするものの"発注"をメールで行ってから、橘はチョコバーの袋を放り投げる。
本体が眠っている間も、監視を続けている人工生物に転送してある人格が、情報を蓄積・フィードバックしてくれるため、問題はない。
そのまま机に突っ伏し、すぐに大いびきをかき始めた。
橘は、二時間後には目を覚ました。
生活リズムや体内時計など関係なく、眠くなった時に寝るのが橘のスタイルなのだ。
この時は仮眠のつもりだったため、短時間で済ませたのである。
モニタには、照明の落ちた部屋の中、ベッドで眠っている瑞樹と知歌の姿が映っていた。
橘はそれを一瞥して椅子から立ち上がった。
ゴミ畑を通り抜け、ドアを開ける。
通路の眩しさが目を刺し、軽い頭痛を覚える。
下を見ると、ドア脇に、平たい箱とビニール袋が置かれていた。
仮眠前に発注しておいた食事だ。
橘はそれらを抱えて、再び居城に戻る。光から逃げられて、ホッとする。
早速デスク上で開封し、箱から熱々のピザをちぎり取って口に放り、油ぎった手でコーラの二リットルペットボトルを掴み、勢いよく飲む。
それぞれ半分ほど減らしたところで、橘は食料を脇にどけた。
睡眠欲と食欲を満たした所で、次に湧き上がってくるのは性欲であった。
電動か、人工生物か。
橘は決めあぐねていたが、ここで唐突なひらめきが訪れる。
「……あ、そーだ。自分が瑞樹きゅんを出してやりゃいーじゃん」
橘の濁った目が、爛々と輝きを放ち始めた。
鼻息が荒くなり、猫背もますます酷くなって、食い入るような前傾姿勢に変わる。
興奮が高まった時、または脳内で考えを巡らせる時、彼女に起こる現象だった。
「ぐふ、ぐふふふ、いっぺんぐらいは見てるだけじゃなく、ナマもいいかも。へへへ……そうと決まったら少しお洒落しないと。何しろ、瑞樹きゅんとの初顔合わせだからな。メシ食ってる場合じゃねぇ」
領地外へ出るのも、肌着以外を着るのも久しぶりだ。
橘は椅子を回転させ、部屋の隅で埃を積もらせている箱に目をやった。
「という訳で、自分がSTL-CYC-101の支配者にして"電脳女王の寵愛"の使い手・橘美海でーす」
翌朝、知歌が去った後に突如訪問してきた女を見て、瑞樹は一瞬凍り付いた。
何とも形容しがたい姿をしている。
レースやフリル、リボンがやたらについた黒いドレスのような服装を、ゴシック・アンド・ロリータと呼ぶことは知識として知っていた。
だが、目の前の女と、そういったファッションは、異様なほどにミスマッチであった。
普段、手入れをしていないのが丸分かりな痛んだ黒髪、ノーメイクな顔、そして体型。
そもそも服がへたりすぎており、あちこちに埃のようなくすみがくっついている。デザイナーが見たらきっと泣くだろう。
だが、
『似合ってないので辞めた方がいいですよ』
『"電脳女王の寵愛"って、まさかEFのことですか? ゲームや漫画みたいなネーミングセンスですね』
と直接言えるほど、瑞樹は抜き身な性格をしていなかった。
何とも言えず、複雑な顔をするにとどまった。
「あなたが……あの人工生物を使役している張本人」
「そうでーす」
声色こそ違うが、独特の口調が、人工生物と完全一致していた。
戸惑いを隠せないまま、瑞樹は質問を投げかける。
「どうして急に僕の目の前に出てきた。今更挨拶しに来たとは思えない」
「ぐふふ、それはですねー……さぁどうしてでしょうか? 問題でーす」
肩透かしを食らい、瑞樹はわずかに血圧が上がるのを感じた。
しかし、ここで監視者の機嫌を損ねるのは得策ではないと考え、仕方なしに茶番に付き合うことを決める。
「しお……彼女のことで、何か言いたいことでも?」
「おっ、悪くない。やっぱり瑞樹きゅんは、あのバカな小娘とは違いますねー」
手を叩くのも、変な呼び方で自分を呼ぶのも、知歌を侮辱するのも、全てが瑞樹の気に障った。
が、その後の橘の発言は、彼にとって思いもよらぬものだった。
「彼女の栞ちんに、会いたくないっすか?」
「……会いたいに、決まってるじゃないですか」
「だよねー。ぐふふふふ」
奇妙な笑いを漏らす橘を、瑞樹は訝しむ。
一体何の意味があって、こんな質問を……
「自分が、会わせてあげましょーか」
「本当ですか!?」
「おお、食いついた食いついた」
橘は左手で釣り竿のロッドを、右手でリールを巻くジェスチャーをする。
「ただし、条件がありまーす!」
「条件?」
「それは……自分と瑞樹きゅんが、一発、ヤっちゃうことでーす!」
瑞樹は絶句した。
同時に目の前の人物が、奇矯な女から醜悪な女餓鬼へとラベリングし直された。
「……ふざけてるのか!」
鋭い怒声を、橘目がけて放つ。
憎悪の炎が、心の奥底から湧き起こってくる。
この場でこの女餓鬼を焼き殺してやりたい。
これは自分だけでなく、栞をも侮辱し、穢しているに等しい取引だ。
「お、おっと! 自分を殺したらどうなるか、分かってますよね、ね」
殺気を敏感に感じ取った橘は、スカートを摘み上げ、体をよじってウィンクしてみせた。
図らずも瑞樹は、目眩のしそうな不快感を覚えたことで、憎悪を薄めることができた。
「ほらほら、瑞樹きゅんのために、自分、おめかししてきたんすよ」
身の危険が去ったことを知った橘は、調子に乗って服をひらひらと泳がせるように踊り始める。
が、絶望的なまでの運動能力では、油の切れたロボットダンス程度に表現するのが精一杯であった。
「断らせてもらう」
瑞樹は即答した。ロボットダンスが原因ではない。
「え、え? でも、でも、栞ちんに会いたくないんすか」
「正直、凄く会いたいと思ってる。でも、こんな形で会ったら、彼女に顔向けできなくなるから」
本音を隠し、瑞樹は模範的な理由を説明する。
もっともこちらも本音の一部ではあるのだが。
橘は四肢を折り曲げたまま、停止した。
それに構わず、瑞樹は言葉を継ぎ足していく。
「それに、あなたのことは一応、最低限だけど信用している。ルールに従って、栞には決して危害を加えない、という部分では」
「み、瑞樹きゅん……」
実際の所、瑞樹はそこまで橘を信用していなかったが、あえてそう言った。
一般的な話術としては決して悪手ではなかったが、彼は目の前にいる相手の心理を正確に量ることができなかった。
正確には、まともなコミュニケーションを取ることが極めて困難な相手であることを読み切れなかったのである。
橘美海は、円城寺沙織とはまた違った方向で、常人のロジックから外れていた。




