二十四章『肉を乗り越えて』 その2
秋緒が悲壮な決意を固めていた一方。
当の瑞樹はというと、当初自身がした見立てほど深刻になることもなく、アジトでの生活を送っていた。
無論、太平楽に過ごせていた訳ではない。栞のこと、秋緒のこと、五相のこと、大学のこと、トライ・イージェスのこと……気になることは幾つもある。
沙織の問題も解決していないし、栞にかけられた、阿元の能力を解除する手立ても全く浮かばない。友人を殺した相楽慎介への報復もできていない。
瑞樹がアジト内で生活するようになって三日が経ったが、彼が冷静でいられ、精神の均衡を保っていたのは、柚本知歌の存在が大きく影響していた。
何だかんだと、知歌は瑞樹の元に入り浸っていた。
「奥平のオッサンからそうメーレーされてんだもん」
とは彼女の弁である。
「ねえねえ瑞樹兄、きょうはチーズオムレツを作ってみよーと思ってんだけど」
「へえ、楽しみだな」
食事は基本的に毎回知歌が作っており、五相から習った技術を存分に振るって、瑞樹の舌を喜ばせていた。
それだけではない。
「こんかいも……入れちゃうよ?」
「……ああ、分かった」
知歌は料理に、ほんの僅かずつ肉類を混入させていた。
瑞樹に約束させた"肉食のトラウマ克服"を促すためである。
最初に食事を作った時から行っており、ことわりなく肉類をわずかに入れてみていた。
ドリアに、消しカスほどの鶏肉をこっそりと。
少量なら分からないだろうと知歌は高を括っていた。
更に、瑞樹がこれを成功体験にし、少しずつ食べられる量を増やしていけたらいいと画策していた。
しかし瑞樹の味覚は敏感にジューシーな鶏の風味を捉え、家族を殺された時味わわされた合挽き肉を想起させ、今体内へ入れた肉を同質のものだと脳に解釈させた。
忌まわしき記憶と錯覚させられた味に、瑞樹はどうしても耐え切れず、一口目で嘔吐してしまった。
事前に袋を用意していたため、周辺に流動体を撒き散らしたり、服を汚す悲劇は避けることができた。
「あーあー、やっちゃった」
「……ごめん、せっかく作ってくれたのに」
「いーからいーから」
知歌は怒りも呆れもせず、ただ、
(マジなんだ……ムリなことゆっちゃったかなー……)
と、かつて自分が押し付けた約束事を少し後悔し始める。
だが、その後の瑞樹の反応は、彼女の懸念とは正反対なものであった。
口を拭った後、悔しさを顔に滲ませて言う。
「ダメだ……これじゃあ。食べられるようにならないと」
「ちょ、ちょっと瑞樹兄、そんなムリしなくても」
瑞樹は首を振る。
「知歌は、僕との約束を守って、ずっと煙草を吸ってないんだろう?」
「え? ま、まあ」
「だったら、僕も約束を守らないと」
――じゃあ、あたしがまた吸い始めたら、ムリすんのやめてくれんの?
無粋な同情を口にするほど、知歌は空気の読めない少女ではなかった。
もはや彼女にできることは、応援することのみであった。
「……わかったよ、あたしが見とどけたげる」
「うん……頼む」
何かに憑りつかれたように、瑞樹は青ざめた顔で再びスプーンを握り、ドリアを口に運ぶ。
ゆっくり、咀嚼を繰り返す。
口内にバター風味とチーズ、ホワイトソースのコクが、ライスの粒々と軽く焦げたカリっという食感、それらを包むトロトロを伴って拡がっていく。
そして、舌が再び、乳製品の至福世界の中に、鶏肉の味を見つけ出す。
嚥下。
全身から汗がどっと噴き出す。
フラッシュバックする過去。
強制的な胃の収縮運動。
耐えろ。
口の中までは許す。
だが、絶対に外へは出さない。
喉からせり上がった食物は既に瑞樹の口中へと到達し、彼の頬をさながらげっ歯類が如く膨らませた。
何も事情を知らなければ、この瑞樹の顔を見た知歌は吹き出していただろう。
笑えなかった。
彼は今、必死にトラウマと戦っているのだと分かっていると、到底笑えはしない。
それどころか、無性に切ない気分にさえなる。
「ガンバって! だいじょうぶだから! あたし、おーえんしてるよ!」
いつ敗北してもいいよう、新しい袋を用意し、布巾を握りしめ、知歌が声を張り上げる。
瑞樹は左手を口に当て、目をつぶった。
苦悶の表情を浮かべながら、決死に抗戦を唱え続ける。
過去の記憶へ。今も万物に遍在している女の影へ。
負けない。
僕は、お前には負けない。
昔は普通に食べられていたんだ。
いつまでもお前の幻影になど、縛られてたまるか。
通常、トラウマを克服するという行為は決して容易なものではない。
カウンセラーの診察を受けたりして、時間をかけて解きほぐしていく必要がある。
瑞樹は過去、まさしく担当医であるフランク=多嘉良から、肉食克服のための診察を受けていた。
診察自体は滞りなく進んだはずなのだが、どうしても当時の瑞樹は、肉を口に入れることさえできなかった。
多嘉良から最終的に言われたのが、
「あとは、君の覚悟次第です」
という言葉だった。
これまでは、周囲が気遣ってくれたこともあり、克服する機会を設けもせず先延ばしにし続けてしまった。
だが、今こそまさに覚悟を見せ、戦う時である。
このまま延々と、沙織が刻み付けた傷を引きずっていく訳にはいかない。
ただでさえ今も、沙織の存在が穏やかに意識に遍在しているのだ。
肉食程度、できるようにならなくてどうする。
勝つ。乗り越えてみせる。
不退転の決意で、瑞樹は胃液混じりの食物を再び、胃の中へと押し戻した。
ほんのごく少量ではあったが、瑞樹は沙織に植え付けられた"肉が食べられない"というトラウマを振り払い、見事勝利してみせたのである。
彼の人生史上に残る歴史的な、貴重な一勝であった。
「……ど、どうだい……食べてみせたよ」
荒い息をつき、脂汗を垂らしながら、瑞樹は目を開け、笑ってみせる。
「……お、おおおおお! スッゲー! スッゲーじゃん瑞樹兄! マジで食っちゃったよ!」
知歌が歓喜を爆発させ、まるでゴールを決めたサッカー選手のようなテンションで瑞樹に抱き着く。
「知歌が料理上手だったおかげだよ。自炊してたら、こうはいかなかったと思う」
「んなのどーでもいーよー! スゴイよマジで……なんかあたし、ちょっと泣けてきちゃったかも」
「本当にありがとう。知歌のおかげだ」
感極まってしゃくりあげる知歌の頭を、瑞樹はそっと撫でた。
一度乗り越えてみせた経験が、彼の中で大きな自信となっていた。
まさしく知歌の目論見通りに事が運ぶ形となったのである。
こんな程度のことに、自分はずっと苦しんでいたのか。とさえ思うようになっていた。
知歌がこの日作ったチーズオムレツにもそぼろ状の肉が入っていたが、瑞樹は一度も気分を悪くすることもなく完食してみせた。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
「やー、たのしーなー。ちょっとずつだけど、瑞樹兄といっしょに肉食えるようになってさ。ね、ね、ココ出たらさ、こんどこそ焼肉食いにいこーよ」
「いいよ。この分なら、僕もすぐに食べられるようになりそうだし。特上のを好きなだけ食べさせてあげる」
「オゴリってこと? やりぃ! ヤクソク、だかんね」
先日、肉食の克服と禁煙を互いに約束しあった時にも行った、手首を握り合う証拠立てをする。
その後は瑞樹が食器を片付け、しばし二人で歓談に興じた。
「――ねえ、きょうはここに泊まってってもいい?」
話が途切れたところで、知歌が切り出してきた。
腕時計を見ると、時間は午後九時を回っていた。
流石に時計までは没収されずに済んだため、外出できずとも何とか時間感覚を維持できていた。
「まあ、いいけど、見ての通り退屈な場所だよ。テレビもないし、携帯も使えないし。小説も数ページ読んだら放り出してたじゃないか」
「いーの。キマリね。じゃさ、はやくフロ入っちゃえば?」
「先に入ってくれば」
「あたしはあとがいーの。……それとも、いっしょに、入る?」
「残念だけど、ここのシャワールームは電話ボックス並に狭いんだ」
瑞樹はため息をついて立ち上がった。
いつもは午後十時を過ぎてからシャワーを浴びるのだが、仕方がない。
人工生物が用意したシャンプーやコンディショナーは、瑞樹が普段使っているメーカーのものだった。
洗うものを洗い、髪を乾かし、バスローブを着て、休憩室にある冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを引っ張り出す。
瑞樹がこんなにも無防備でいられるのは、普段は知歌以外誰も来ないのを知っているのと、一種の開き直りである。
いつの間にか食料や飲料の補充が行われているのが不思議だったが、人工生物か何かがやっているのだろうと勝手に解釈する。
冷蔵庫の前で水を一口飲んでから部屋に戻る。
瑞樹の姿を見て、知歌が入れ替わりでシャワーへと向かっていく。
瑞樹はベッドに腰かけ、やや前かがみになる。
一人でこうしてじっとしていると、自ずと考え事をしてしまう。
三日経っても、血守会からの音沙汰はなかった。
知歌や人工生物に聞いても、有用な情報を得ることはできなかった。
外界からの情報を一切得られないのは不安だった。
よく耳を澄ますと、虫の羽音ぐらいの微かさで、シャワーの音が聞こえてくる。
それほど部屋は無音だった。
意識するつもりはなかったのだが、瑞樹はつい耳をそばだててしまう。
知歌は今、烏の行水が如き勢いで、体を洗っている。
「……おいおい」
何だか、変な空気だ。
瑞樹はそわそわとしてしまう。深呼吸をしても落ち着かない。
そういう対象ではないだろうと、自分に言い聞かせてみる。
内面は容易に納得し、気持ちはすぐに鎮まった。
喉を鳴らして、ペットボトルの水を一気飲みする。
ベッドで大の字になっていると、すぐに知歌の足音が聞こえてきた。
スリッパを履いているため、駄馬を思わせる音色へと変化している。
ドアが開いて、瑞樹は身を起こす。
知歌は、濡れていた。髪の毛が。
正確には体も濡れていたが、それは水滴を拭き取らなかったためである。
「ちゃんと拭いて、乾かしなよ」
「やってー」
「子どもじゃないんだから」
「コドモだもーん。みせーねんだし」
そう言いながら、知歌はコーラ缶をへこます勢いで飲み、盛大にゲップをした。
瑞樹は呆れたように苦笑いをし、近付いてくる知歌をぼんやりと見ていた――が、目を逸らす。
彼女は、肌着をつけていなかったのだ。
だらしなくはだけた胸元から、微かなふくらみが直接確認できてしまったのである。
「えっちー」
知歌は胸元を隠し、小悪魔的に笑う。
「馬鹿、ちゃんと最低限のものは付けときなよ」
照れというより、気恥ずかしさのようなものが瑞樹に込み上げてきて、目線を外したまま言った。
「だってジャマなんだもん。そーゆー瑞樹兄は、ちゃんとパンツはいてんの?」
「当たり前だろ」
「どれどれ、たしかめさせてよ」
「何言ってるんだ……って、おい」
肉食獣を思わせる動きで、知歌が飛びかかってきた。
そのまま二人はベッドに倒れ込み、知歌が瑞樹を組み敷くのに近い形になる。
「うりゃうりゃ」
「く、くすぐったい、馬鹿、やめろって」
瑞樹は必死に防御を行ったが、知歌が脇の下や首元をくすぐると、あえなく陥落してしまった。
「あ、ホントだ。ちゃんとパンツはいてるー」
知歌の手が図らずも、瑞樹の下腹部をそっと撫でる形になった時。
「瑞樹、兄……?」
手が止まる。
瑞樹の顔と体が硬直する。
二人の視線が、瑞樹の下へと向けられる。
ほんの僅か、予兆のようなものに過ぎなかったが、瑞樹は、男として反応してしまっていた。




