二十四章『肉を乗り越えて』 その1
血守会から与えられた部屋は、緩やかな独房を連想させた。
六畳の空間は天井も壁も真っ白で、置かれている家具はやけに硬いシングルベッドと、蹴飛ばしたら折れそうな白い丸テーブルだけである。
流石にトイレやシャワーは同室内ではなくすぐ近くの別室にあり、鉄格子ではなくドアで、部屋の出入りも自由だったが、長期間こんな場所にいては、精神に異常をきたしてしまうかもしれない。
瑞樹に与えられた部屋は、かつて彼が最初に奥平と顔を合わせた場所、"休憩室"の先の区画にあり、休憩室までの範囲は自由に移動が許されていた。また、通信機器の類は全て没収されてしまった。
入室の際、
『何か欲しいモノあったらガンガン言って下さいねー。調達しますんで』
と、人工生物は言っていたが、五相をすげなく見捨てた奥平に苛立っていた瑞樹はつい「いらない」と答えてしまった。
部屋に入って一時間もしないうちに彼はその選択を後悔したが、すぐ頭を切り替える。
状況はどうあれ、最善を尽くす。
必ず、再び地上に戻れる時が、秋緒の待つ自宅へ帰れる時がやってくるはずだ。
謝罪も事実の告白も、その時になったら全て行えばいい。
今すべきことは、ストレスに苛まれ、心身を摩耗させないことだ。
瑞樹はまず、日課の瞑想を、より長時間行うことに決めた。
退屈しのぎには丁度いい。
ベッドの上で坐禅を組み、腹式呼吸を繰り返して、少しずつ気を鎮めていく。
気が狂うほど静かな生活を送らなければならないであろうことへの不安。
栞や秋緒、剛崎たちへの想い。
千々に乱れる心は中々収まりを見せないが、それでも少しずつ、一時的にでも彼女たちの存在を意識から薄めていく。
そんな瑞樹の努力は早くも徒労に終わらされた。
「瑞樹兄ーーーーっ!!」
ドアの外から聞き覚えのある鼻声が、けたたましい足音とデュエットを奏でてやってきた。
瑞樹はどこかの教祖さながら、坐禅を組んだ姿勢のまま飛び上がる。
「あーっ! いたいた! 瑞樹兄、ココに住むんだって!?」
「知歌?」
破壊しかねないほどの勢いでドアが開け放たれ、柚本知歌が姿を現した。
頭頂部付近だけ黒い、プリンになっている金髪、濃いメイク、派手な服、そして履き潰された靴。
最後に会った時と何も変わっていない。
瑞樹の胸に湧き立ったのは、瞑想を邪魔された怒りではなく、親しい相手に会えた安心感であった。
大海で浮木に出会った、と言っても言い過ぎではないかもしれない。
「こんななにもないトコじゃさびしーでしょ? あたしが遊びにきたげたよ」
「ありがとう」
「あれ? やけにスナオじゃん」
そう言いながらも、知歌はすぐに察した。
瑞樹のいるベッドへ歩み寄り、
「……あ、そっか。アリーのコトはざんねんだったね。でも、ゼッタイだいじょうぶだよ。死刑になるワケじゃないんだし」
彼の隣に座って、肩をバシバシと叩いた。
「そうだね、知歌の言う通りだ」
「やっぱいいねー瑞樹兄は。ポジティブでさ」
「なんだよ、それ」
「んーん、なんでもない、コッチのはなし! それよかさ、オッサンから瑞樹兄のセワするよーにゆわれてんだよね」
『自分も同じ命令出されてまーす』
不意にドアの辺りから独特の機械音声がして、瑞樹と知歌は揃って飛び上がった。
二人が声の方、ベッドから対角線上にあたる部屋の隅を向くと、何もない空中にあの不気味な人工生物の姿が浮かび上がってくる。
最初から部屋の中にいたのか、それとも開けっ放しのドアから入ってきたのかは分からない。
『どーもー』
「うげっ、出た! バケモノ!」
瑞樹の首っ玉にかじりつき、知歌が驚く。
『さて、突然ですが問題です。自分はSTL-CYC-100でしょうか? それとも101でしょうか?』
「100!」
瑞樹は無視するつもりだったが、知歌の方は真正直に回答した。
『ブブー。正解は101です。101は瑞樹きゅん専用でーす。そんなコトも分からないのかな?』
「んがーっ! ムカつく! わかるワケないじゃん!」
初対面では驚きを隠せなかった知歌だったが、もう慣れたらしい。人工生物相手に、人間相手のように応じていた。
『まー、アンタのことはどーでもいいんです。瑞樹きゅんに差し入れ、持ってきましたよ』
「僕に?」
『いらない、なんて強がっちゃってましたけど、自分、瑞樹きゅんのコトは分かってますから。とりあえず着替えと本、休憩室まで運ばせました。すぐ届くと思うんで、後はよろしくですー。じゃ』
用件を伝え終えると、人工生物は姿を消した。
部屋に留まっているのか、出ていったのかは分からない。足音はおろか、気配さえ存在しないからだ。
少し時間を置いて休憩室へ行ってみると、確かに段ボールが三つ、積んで置かれていた。
二人で手分けして部屋まで運び、開封する。
服はいずれも新品だった。
サイズはぴったりで、ブランドも瑞樹が好みのものである。
本は、栞が好きだと言っていた小説が五冊入っていた。
瑞樹にはこの用意の良さが、たまらなく不気味に感じられた。
「うわ、すっげ、得したじゃん!」
知歌はシャツを広げて、能天気に驚いていた。
一方、瑞樹を逃がしてしまった後のトライ・イージェス社では、緊急会議が開かれていた。
剛崎健、六条慶文に加え、社長の花房威弦、召集可能な状態だった鬼頭高正、千葉悠真の二名を含めた五名が参加していた。
「面目次第もありません」
剛崎は深々と頭を下げ、自身の不明を詫びた。
「私にも責任があります」
六条も彼に倣う。
花房は腕組みをしたまま、二人の話を聞いていた。
しかし、その顔に険しさはなく、二人を責める雰囲気もない。
花房のデスクには、剛崎が所持していた注射器とスタンガンが置かれており、彼の視線はそれらに集まっていた。
「注射器やスタンガンから、剛崎さん以外の指紋は検出されなかった。となると……」
「社長、五相ありさから新規に得た記憶の出力が完了しました」
一度退出して地下にいた千葉が再度オフィスに現れ、花房に紙を渡した。
花房は紙に印字された文章に目を通した後、呟く。
「ご苦労だった。……やはり中島瑞樹を逃亡させたのは、人工生物の仕業と見ていいようだ」
「実戦レベルでの運用を既に可能にしていたってことに驚きですね」
「……驚くことはない。以前のテロでも、血守会は既に人工生物を実戦投入していた」
鬼頭が珍しく口を開き、千葉に説明する。
続いて花房が千葉に尋ねる。
「中島瑞樹の行方についてはどうだ」
「近隣住民に聞き込みましたが、すぐ近くのタワーマンション屋上へ連れ去られたのを目撃したという証言がありました。その後、ヘリが屋上に着陸し、南東方向へ飛び去っていったようです。それ以上はまだ……」
「そうか。アジトへ連れて行かれた、と見るのが妥当だろうか」
「可能性は高いでしょう。東京湾近辺にアジトがある、という予想とも一致します」
「うむ……だが、難しい所だな。五十嵐君を失い、六条さんは回復まで少し時間がかかる状態だ。人的余裕がな……」
「社長。中島瑞樹とアジト捜索については、瀬戸秋緒に協力を要請しましょう」
鬼頭の提案に、花房は無言で続きを促した。
「事情を説明し、情報提供を行えば、瀬戸は独自に捜索活動を行うでしょう。中島瑞樹がアジトに監禁されているとすれば、その場所も同時に探せるはずです。説明には自分が行きます」
「いやダンナ、俺が行きます」
「お前では駄目だ。瀬戸の態度が硬化する」
剛崎の申し出を、鬼頭はにべもなく却下した。
「分かった。任せよう」
「ありがとうございます。それではこの後、早速行って参ります」
「剛崎さん、気持ちは分かるが、今は己の職務を全うしよう」
「はい」
「では、会議はひとまず終了とする。大変な時期だが、各々力を尽くして乗り切って欲しい」
会議終了後、社長の許諾を得た鬼頭は早速オフィスを出、秋緒に電話で連絡を取った。
元同僚、古くからの知己ということもあり、連絡先を交換はしていたが、普段は一切連絡を取ることがない。
お互いお世辞にも社交的とは言えず、人間関係がドライということもある。
声を聞くことさえ数年ぶりだった。
昼前という時間帯を考えるに、秋緒は恐らく変異生物駆除の仕事中であることは承知していたが、事情が事情のため、鬼頭はあえて無視した。
また、自分からの入電があれば、出る確率が上がることも判っていた。
「……はい」
案の定、三コールもしないうちに、秋緒は電話に出た。
彼女の声は明らかに警戒で硬くなっていた。
「瀬戸か。話がある。今日、いつ会える」
鬼頭は挨拶も何もなく、単刀直入に切り込んだ。
かといって秋緒は何の疑問も感じることなく、答えを返す。
「夕方には……」
「そっちの仕事が終わったら連絡しろ。場所はどこだ」
実にぶっきらぼうな言い方だが、両者にとってはこれが最も合理的なコミュニケーションなのである。
鬼頭から電話があった時点で、秋緒は不穏な予感を感じ取っていた。
そのため彼女は仕事を大急ぎで片付け、昼間には今回のターゲット、都内の自然公園内に蔓延っていたハクビシン変異体の全駆除を完了させた。
事前に秋緒から場所を聞いていた鬼頭は、公園の入口で待ち続けていた。
通行人は皆、彼の乗っている車からたっぷり二十メートルは距離を取っていた。
到底堅気には見えない面構え、しかもスーツをびしっと着ている大男が運転席にいるとなればそうなるのも無理はない。
実際、鬼頭に周囲を威嚇する意図は全くないのだが。
鬼頭が間食のマロンエクレアをぱくついていると、日本刀を提げたスーツ姿の女が前方からやってきた。
すぐに互いの視線が交錯する。
鬼頭は車に乗るよう目で訴え、半分近く残っていたマロンエクレアを一気に放り込む。
女が後部座席に入ったと同時に、嚥下を済ませた。
「ご無沙汰しております」
秋緒は眼鏡越しの細い目で、鬼頭の映るバックミラーを見る。
「挨拶はいい。今から言うことを冷静に聞け」
そう前置きし、鬼頭は今朝、トライ・イージェス社内で起こったことを説明した。
鬼頭から事前に釘を刺されたにも関わらず、瑞樹がさらわれたことを聞いた瞬間、秋緒はわなわなと震え出した。
「……あ、貴方達は、一体何をやっていたんです! トライ・イージェスの人間が二人いて、しかも社内だというのに! 何をむざむざ眼前で……!」
秋緒の内から込み上げ、外へ撒き散らしたものは、正確には怒りではなかった。悲しみに近い。
「聞け」
鬼頭は短い言葉を、圧をかけて放った。
その程度で秋緒の激情は到底鎮まるものでもなかったが、とりあえず歯を食いしばり、喉まで出かかった次の言葉を飲み込む。
「こっちの持っている情報は全てお前に渡す。瑞樹の捜索を、お前に頼みたい」
「言われずともそうするつもりです」
刀を掴む手に力を込め、秋緒が言葉を絞り出した。
激情はすぐに、悲壮じみた決意へと変換されていた。
「私からも言っておきたいことがあります。どんな理由があるにせよ、もうあの子を独りで貴方達には引き渡しません」
「……過保護だな」
鬼頭の顔や声に、皮肉ったニュアンスはない。
「どう思われようとも構いません。私にはあの子しかいないのです。それに、雄二さん……いや、ご両親に、何があろうと護ると誓いましたから。あの子を引き取った日に」
明言した秋緒に、鬼頭はそれ以上何も言わなかった。
だが、当初の目的は果たすことができた。重たい空気を残したまま「では」と、秋緒が降車していく。彼女も自分の自動車で公園へ来ているため、鬼頭の車に乗り続ける理由はない。
秋緒が降りてすぐ、鬼頭は車を発進させる。彼もまた、これから夜通しで行わなければならない案件を抱えている身であった。
鬼頭は、無表情のままだった。
秋緒はクライアントに駆除完了報告を終えた後、そのまま家に直帰することをしなかった。
道路脇に車を停め、ハンドルに覆い被さるように顔を伏せ、目を固くつぶる。
――気付いて、あげられなかった!
瑞樹がずっと、血守会の呪縛に囚われ続けていたこと。
人工生物に監視されていたこと。
恐らく恋人の青野栞を守るために、ずっと沈黙して耐え続けていたこと。
事前に剛崎から忠告を受けていたにも関わらず、この体たらく。
先刻、鬼頭に喚き散らしたのは、本当はトライ・イージェスへの不甲斐なさにしたのではない。単なる八つ当たりだった。
誰より、自分自身の節穴ぶりが許せなかった。
相手が百戦錬磨の達人ですら気取ることができない異形の怪物、人工生物だったということは言い訳にもならない。
瑞樹の苦しみに気付けず、救ってやることができなかった。その結果が全てであった。
目頭が熱くなるが、泣く訳にはいかない。秋緒は千切れそうなほどに唇を噛む。
瑞樹の苦悩を思えば――そう考えることで、彼女の五臓六腑で燃え盛る激情の炎が鎮まり、涙も引っ込んでいく。
臍を固めた秋緒は顔を上げ、眼鏡をかけ直した。
――あの子を一刻も早く助けなければ。
 




