二十三章『尋問、そして監禁』 その3
その時突然、剛崎のショルダーベルトから、ペンのようなものが離れた。
落ちたのではなく、横に引き抜かれる動きを見せた。
しかし、剛崎は一切手を触れていない。
物理法則を無視した不自然な、見えざる何者かがベルトのホルダーから引き抜いたような、意図を持った動きだった。
引き抜かれたペン状の小筒は注射器であり、中には麻酔薬が入っている。
現在、精神や肉体に影響を及ぼす薬物は法律で厳しく取扱を制限されているが、トライ・イージェス社員は、犯罪者制圧のための携行が特別に許可されていた。
緊急時でも速やかに使用できるようにするため、使用手順は極限まで簡便化されている。キャップを外し、針を挿し込むだけで即注入できる。
そのことが、剛崎にとって仇となった。
トライ・イージェスが誇る、数多もの死線を潜り抜けてきたベテランであっても、気配を持たぬものによる予期せぬ奇襲を防ぎきることはできなかった。
突然信じ難い現象が起こったにも関わらず、反射的に注射器から飛びのいて距離を取ったが、意志を持って飛来する針を回避しきれずに、首筋から体内へ麻酔を流し込まれてしまう。
「な……どう……なって…………い……」
麻酔は即効で効果を発揮し、剛崎の巨体が床に倒れ伏す。
用の済んだ小筒がその横へと投げ捨てられ、次は剛崎の手からスタンガンが引き抜かれる。
セオリー通り、彼は手首にストラップを引っかけて奪い取られないようにしていたが、麻酔を打たれた状態では何の意味もなさない。あっさり抜き取られてしまう。
剛崎は既に意識を失っていた。
今度は、瑞樹の体がひとりでに宙へ浮き上がる。
腹部を中心に"く"の字に吊り上げられたような体勢で、自分の意志で飛行しているというより、"見えない何か"に抱えられているようだった。
浮遊した瑞樹とスタンガンが、出入口の鉄扉へと移動していく。
目的地である扉の脇に到着しておよそ五秒後、電子音と共にドアが開き、全身のあちこちに包帯を巻いた六条慶文が姿を現す。
「え、これは……!?」
六条は、地下室の異変にいち早く気付いた。
「剛崎さん……ぐっ……!」
が、潜んでいたスタンガンの一撃を受け、あえなく行動不能にされてしまう。
床に捨てられるスタンガンと連動して、瑞樹の体が宙に浮いたままドアの向こうへ動かされていく。
五相は、格子の向こう側で起こっている現象の正体を理解していた。
(あれは恐らく、橘さんの……)
幸いまだ、トライ・イージェスから、瑞樹についている監視の情報は引き出されていなかった。
そして、瑞樹はあのまま、人工生物の手引きで上手く脱出できるはずだ。
しばらくまともな生活は送れないだろうが。
(そのまま逃げて……生きて、生き延びて、下さい……生きていれば、必ず、チャンスが……元の生活に戻れる希望が、あるはずです)
自分は恐らく、もう無事では済まないだろう。
向こうの二人が目覚めた後、より深い部分まで尋問を受け、文字通り洗いざらい吐かされるはずだ。
そしてその後は警察に引き渡され、大きな罰を与えられる。
それでも構わない。
彼さえ助かれば、それでいい。
自分は、反社会的な活動に加担したことへの、然るべき罰を受けるだけだ。
しごく当たり前の結末である。
だが、五相の心の奥底では、どうしても消し去ることのできなかった、一抹の未練が残っていた。
(……瑞樹、さん…………私……)
地下を脱出"させられた"瑞樹は、既に一階通路へと到達していた。
そのまま裏口へと引っ張られ、ドアのロックが解除されて、外へと脱出する。
『ちょーっと飛びますけど、暴れないで下さいねー』
機械を通したような、年齢や性別を判別しがたい声が、瑞樹のすぐ近くからした。
「……どこへ、行く」
多少時間が経過したことで、思考能力は徐々に戻りつつあり、体も動かせるようになっていた。
自分の体が勝手に動かされていることに、驚きを隠せない。
だが、同時に薄々理解していた。
監視についている人工生物が、見かねて救出したのだろう。
肌に伝わる、有機的だが全く温度を感じない感触や、聞こえてきた声がそれを裏付けている。
『決まってるじゃないですか。ウチらのシマですよ。もーシャバにはいられないでしょう、しばらくは』
言うが早く、瑞樹の体が急角度で上昇し、中野の空へと躍り出た。
自分は今、空を飛んでいる。などと感激している場合ではなかった。
飛翔と同時に、瑞樹を抱えているモノの正体が露わになる。
巨大な単眼、短い胴体、細長い両手足、淡黄色の肌。
知歌についていた人工生物と同タイプであったが、当然瑞樹はそのことを知る由もない。
『移動にエネルギー割いたり、一定以上の衝撃を与えたりされると透明化が解除されっから、あんまやりたくないんすけどねー。緊急だから仕方ないか』
目の下の小さな口を動かし、人工生物が喋る。
そして、両耳の辺りにある翼から排気音のようなものを発し、移動を開始した。
『すぐに降ろしまーす』
人工生物は、トライ・イージェス社オフィスのほど近くにあるタワーマンションへと向かい、頂上のヘリポートに着陸した。
四方八方から強風が煽ってきて、瑞樹の髪はくしゃくしゃに揺れ動く。
下手をすれば吹き飛ばされそうなほど細長い体をしているのに、人工生物は不思議と微動だにしていなかった。
瑞樹を抱えて飛んだ時点で、それなりの馬力を有しているのは明白なのだが。
『すぐに血守会からのヘリが来る手筈になってるんで、少しじっとしてて下さーい。目撃者は何とかなるでしょ』
抵抗するのは得策ではないと分かっていたので、瑞樹はじっとしていた。
飛翔した際、通行人がいたかどうか確認できなかったが、それも任せるしかない。
瑞樹を下ろし、静止状態になると、人工生物は再び空気へ溶け込むように全身を透明化させる。
「随分良くできた化物だな」
『人工生物って言って下さいよー。あ、ちなみに名前は、STL-CYC-101でーす』
やけに人間臭い人工生物だった。
瑞樹の知る限り、現在の科学力では、ここまで饒舌に話せるだけの知能を持たせられないはずであった。
そもそも人工生物の製造自体に多大なコストがかかるため、一般向けどころか、軍事向けの運用もされていないに等しい。
いくら血守会といえど、そこまでの技術力や財力があるのだろうか。
『しっかし、トライ・イージェスも甘いっすねー。最初から瑞樹きゅんに麻酔を使ってりゃ良かったのに。ケチったのかな?』
変な呼び方をされ、瑞樹は背骨を直接舌で舐められるような気持ちの悪さを覚えた。
「今までずっと黙って見張ってたくせに、急にお喋りになったな。悪いけど、あまり話しかけないでくれないか」
『あらら、つれないっすねー。自分、これでも瑞樹きゅんのファンなんすよー』
瑞樹はそれ以上、何も返事をしなかった。
外部の情報を遮断し、ひたすら体の回復と、精神を平静な状態へ戻すことに努める。
人工生物の言葉通り、ヘリコプターはすぐにやってきた。
人生初のヘリ搭乗が、まさかこんな形になるとは。遠ざかっていく中野市街を見下ろしながら、瑞樹は複雑な気分になる。
剛崎さんや、六条さんは大丈夫だろうか。
命に関わる負傷ではないが、余計心配になる。
人工生物も言っていたが、これでもう、少なくとも血守会が計画を終えるまでは、家に戻れなくなってしまったからだ。
大学へ行くこともできないだろうし、栞とも会えなくなるだろう。
いや、それよりも、栞は無事なのだろうか。本当に危害は加えられていないだろうか。
「おい、人工生物」
『なんすかー?』
「栞は無事だろうな」
『……今の所は平気っすよ。今後のことは、奥平氏に聞かなきゃ分かんないですが』
真実である保証はなかったが、ひとまず瑞樹は安堵する。絶望視して狼狽えるより、信じて心を保った方がマシだ。
瑞樹が見えないものと会話している姿を見ても、パイロットは指摘するどころか、驚きすらしなかった。黙々とヘリを操縦し続ける。
ヘリは東京都内を南東に飛行していき、江戸川区南端にある葛西臨海公園の上空でホバリングした。
眼下にある、特徴的な形をした二つの人工干潟が、この高度からでもよく見える。
『瑞樹きゅん、ここで移動しちゃいましょーか』
「どうやって……」
『大丈夫っすかー? スタンガンで頭悪くなっちゃいました? 瞬間移動に決まってるじゃないすか』
小馬鹿にしたように人工生物から言われ、瑞樹がむっとすると、操縦席の横から何か置物のようなものが浮遊してきて、瑞樹の膝の上に着地した。
『さ、早く』
「早くって、どうすればいいんだ」
『は? 今まで何度もコレで移動したんでしょ?』
「こんなものがあること自体初耳だ」
『しょーがないなー。それを持って、頭の中で強く唱えて下さい。"我、見え透かず。彼、見え透かず。是、放生也。"と』
瑞樹は、ハッとなった。
いつか夢の中で、沙織から聞き出した呪文と完全一致していた。
だが、追及している暇はない。言われた通り、瞬間移動に意識を集中する。
相楽を暗殺するために練習してきたことが、まさかこんな形で役立つとは。
瑞樹は、初めての独力による瞬間移動を、非常にスムーズに成功させてのけた。
一分にも満たない所要時間で、瑞樹の体はヘリコプターの中から消失した。
瞬間移動の際、瑞樹がイメージしていたのは奥平の執務室であったが、移動先はいつもの、五相や阿元と来た時に出る通路だった。
詳しい原理は全く分からなかったが、アジト内の空間に何らかの防衛機構を施しているのかもしれない。
そうでなければ、万が一の奇襲を防げなくなるだろうから、当然の処置だろう。
『お見事。じゃあ早速、奥平氏のトコへ行きましょーか』
「あのパイロットは?」
『"除外"しなきゃヘリが墜落しちゃうじゃないですか。考えて下さいよー』
瑞樹は挑発的な言動を無視し、再び姿を現した人工生物について歩き、奥平の下へと向かった。
いつもより、アジト内が息苦しく感じられる。
明らかに緊張のせい、心から振り払えない暗澹たる思いのせいであった。
自然と、執務室へ向かう速度が早歩きに、小走りへとなっていく。
人工生物がセキュリティを解除するのを、いちいち待つ時間がじれったい。
わざわざアジトの奥へ行く時間が勿体無い。瑞樹の頭を、焦りが覆っていた。
執務室のドアだけは、既に開けられていた。
何も言わず、瑞樹は侵入する。
「災難だったな」
言葉とは裏腹に、椅子に座ったままの奥平の言葉には何の感情も込められていなかった。
「栞は! 無事なんですよね!?」
そんなことを気にしている余裕はもはやなかった。
容量ギリギリまで水が入っている容器を蹴ってぶちまけるような剣幕で、瑞樹が問う。
奥平はしばし、無言を貫いた。
光のない眼で、瑞樹が作っている焦燥の形相を観察していた。
「どうして黙るんです!」
奥平は更にもう少し静観を続けた。
ようやく口を開いたのは、我慢の限界に達した瑞樹が駆け寄ろうとした瞬間であった。
「さて、どうしたものか」
「なっ……ふざけるな! あれは不可抗力だ! ほんの最低限のことしか話さなかっただろう! こいつを通して見ていたはずだ!」
人工生物がいるであろう背後の空間を指差し、瑞樹が怒声を張り上げる。
奥平は全くそれに怯んだ様子も見せず、無言のまま、葉巻に火をつけ、吹かし始める。
まるで歯牙にもかけない奥平の態度に、瑞樹は怒りのあまり顔面を蒼白にさせた。それに伴い、紅蓮の炎が全身から吹き上がる。
「栞に少しでも危害を加えてみろ! 僕はどうなっても、貴様を……!」
「少し席を外してくれたまえ」
奥平が、有無を言わさぬ、圧を込めた声で言い放った。
「二度言わせるな。早くしたまえ」
瑞樹は怒りの形相のまま、炎を纏ったまま、部屋を一時退出した。
奥平が何を考え、あのようなことを言ったのかは分からない。
だが、既に腹は決まっている。
今さっき奥平に宣言した通り、もしもの場合、瑞樹は我が身を顧みず、この場で全てを焼き尽くすつもりでいた。
通路で待たされる時間は、一分にも満たなかった。
扉が開き、内から奥平の分厚い体がのぞく。
「中島瑞樹君。君の殊勝な心がけ、立ち振る舞いに免じ、青野栞の身は今後も保障されることが決まった」
いつの間にか部屋の壁に設置されていたスクリーンには、どこかカフェのような場所で友人らしき人物と休息している栞の姿が、斜め上からの視点で映し出されていた。
それを見た瑞樹の体から炎が消え、険相な顔も段々と解けていく。
「安心したかね。とはいえ、私に礼は必要ない」
「……誰が言うか」
「そうか。君のこれからの生活についてだが、しばらく自宅には戻れないだろう。別区画に部屋を用意してある。そこに滞在するといい。橘君、案内してやりたまえ」
『あいあい』
タチバナ?
人工生物にまるで人間のような名前がついていることが滑稽だと、瑞樹は思う。
だが、すぐに別の疑問に打ち消される。
「……五相さんはどうなるんですか」
「ふむ。世話をする者がいなくなるというのは、少々不便ではあるが、仕方がない。救助に人手を割く余裕もそうそうないのでな」
奥平の回答に、瑞樹は不快感を露わにする。
そうだろうなと分かってはいたが、見捨てるという意思表示を実際に言葉にされると、余計に腹立たしくなる。
散々こき使っておきながら、用が済めばあっさりと切り捨ててしまう。
血守会らしい、無慈悲なやり口だと思った。
こう思うのはきっと、反逆の秘密を共有して生まれた親しさが理由ではないはずだ。
「彼女を助けよう、などとは考えぬことだ。もっとも、今の自分がそんなことを言っていられる立場ではないことを、自覚しているだろうがな」
奥平に念押しされ、瑞樹の中を流れるものが一瞬、熱湯のように泡立った。




