二十一章『新入社員・五十嵐克幸』 その3
戦いの流れを変えたのは、第三者の介入だった。
ヘッドライトの届かぬ闇から、二人の下へ、煙のようなものが滲み寄ってきた。
邪霊である。
八柱霊園の中からではなく、その周囲に棲んでいるモノたちが、本格的な夜の訪れと共に、この戦いの場へと姿を現し始めた。
二人とも、これらの接近を既に察知していた。
その上で無視していた。
邪霊よりも眼前の敵の方が遥かに厄介だと認識していたからだ。
邪霊はどちらの味方でもない。
五十嵐も相楽も、同じ"獲物"でしかない。
扁平になった苦悶の顔を浮かべ、生者に取り憑かんと飛来してくる。
「このタンカス共が、邪魔すんじゃねェ!」
相楽が、迫る邪霊を火炎で蒸発させた。
金物を引っ掻いたような悲鳴が上がると、ニタリと笑う。
「俺様は、タンカスを飲む趣味はねェんだ。そのまま消えてろ」
この間、五十嵐は相楽を攻撃できなかった。
相楽同様に、ターゲットを一時的に変更せざるを得なかったのだ。
特殊警棒で邪霊を打ち払う。アラサヒ鉱は退魔効果があるため、物理攻撃が有効になるのである。
わずかな間、互いに予期せぬ除霊を行った後、すぐさま向き直って再戦体勢に入る。
「カス共がワラワラ現れる前に、早くケリつけねェとな!」
「この場所を選んだのはお前だろう!」
真面目な突っ込みを入れながら、五十嵐は警棒を振るう。
内心、彼も少々決着を焦っていた。
相楽は強敵だ。邪霊を片付けつつの片手間で戦い続けることはできない。
自らのEFを過信するのも危険だ。早く倒さなければ。
例え、勢い余って殺してしまったとしても――
一見互角に見える両者の対決だったが、地力そのものは相楽の方が上回っていた。
体捌き、戦闘経験、残虐性――時間の経過につれ、徐々に優劣が現れ始め、均衡が崩れていく。
そして遂に、相楽の一発が五十嵐を捕まえた。
攻撃の振りが大きくなり、隙ができたところに、五十嵐の頭部へ炎を見舞う。
「しゃあッ!」
炎のヘルメットをかぶったようになった五十嵐は、動きを止めた。
相楽の顔に、勝利の確信や嗜虐心といった類のものは見られない。無表情だった。
二発、三発……五十嵐の全身に、骨をも灰にせんと火炎を叩き込んでいく。
全身を炎に包まれた五十嵐だったが、倒れなかった。
それどころか、動き出した。
もがき苦しんでいるのではなく、確かな足取りで一歩一歩、明確に相楽へと向かっている。
相楽がなおも追撃の発火を食わせても、進行を止められない。
五十嵐が四、五歩進んだところで、全身の炎が吹き飛んで消えた。
炎の下から現れた五十嵐が、強い目で相楽を睨み付ける。
火傷の痕はどこにも見当たらない。
服は焼け焦げているものの、皮膚も粘膜も、無傷と変わらない状態であった。
「だと思ったぜ」
相楽は舌打ちする。
この程度の攻撃では、五十嵐を始末できないであろうことは分かっていた。
五十嵐の能力について、事前に調査済みだったのだ。
五十嵐のEFは、強力な自己回復能力である。
治癒力を促進させるだけでなく、痛みを消し、疲労感や毒素などを消す効果をも持つ。
基礎効力の高さもあり、強く発現すれば致命傷となるダメージをも瞬時に治癒することができる。
この強力な能力こそ、五十嵐が殺人的ともいえるスケジュールを乗り越えられた力の源泉であり、トライ・イージェスに採用された最大の要因であった。
「自分はッ! お前のような卑劣な犯罪者などに負けはしないッ!」
些かも衰えぬ気迫をもって、五十嵐が相楽に肉薄する。
相楽もまた、全く怯んだ様子を見せない。
予想通りの展開だったからだ。
それに、こうなるのは望む所だった。
中々殺せないということは、裏返せば存分に甚振れるということ。
「ハッハハハハァーッ! 楽しい! 楽しいぜェ! もっとだ、もっと遊ばせてくれよォォ! 簡単に死ぬんじゃねェぞォォ!」
早期決着を目指していたことなど忘れ、唾を撒き散らし、相楽が歯を剥いて叫ぶ。
同時に、特大の燃焼を五十嵐のいる辺り一帯に生み出す。
空気の焼ける音を至近距離で聞きながら、五十嵐は強く踏み込み、相楽の懐に潜り込んだ。
避けきれなかった炎や熱が彼を焼くが、即座に治癒されていく。
五十嵐はほとんど思考していなかった。
相楽を倒す。
ただ愚直に、そのこと一色に心身を染め上げていた。
無駄を削ぎ落としたことで、自ずと行動が最適化されていく。
相手に組み付く。
警棒と体術で敵にダメージを与える。
邪霊は間近まで来てから打つ。
負傷はEFで即座に自動回復。
あと少し時間に猶予があったならば、形勢は五十嵐に傾いていただろう。
本来中立であるはずの"場"が相楽に味方する形になったのは、彼の精神もまた邪気に満ちており、互いに同調、増幅したからなのかもしれない。
五十嵐の肘打ちが、相楽の装着していた暗視装置を捉え、破壊した直後だった。
視界を塞がれたことで、相楽が一瞬怯んだのを見逃さず、五十嵐はすかさず追撃を繰り出そうとした。
実行できなかったのは、思いもよらないないものを、相楽の後方に広がる闇の中に見つけてしまったからだった。
黄色い帽子と水色の園児服を着た、幼い少女だった。
闇に慣れた五十嵐の眼は、少女の顔を明確に認識してしまった。
紙を丸めたような、くしゃくしゃの泣き顔を作り、こちらを凝視している。
「……女の子!?」
異物の侵入により、五十嵐の中で迷いが生まれてしまった。
決して揺るがぬ、砕けぬはずの精神の主柱であった"愚直さ"に、ほんの微細にではあったが、一条のヒビが入る。
――まさか、人質か!?
車の中に、自分と相楽と運転手の女以外はいなかったはずだ。
トランクにも気配はなかった。
事前にこの場所に置いていたのか?
それとも、あの女の子も共謀者か?
五十嵐の迷いを見逃す相楽ではなかった。
すかさず五十嵐の鳩尾に前蹴りを放ち、何歩か後退させたところで頭部を狙い発火させる。
距離が近く、車のヘッドライトが照らす範囲内にいたがゆえに、暗視装置なしでも即座に能力を使うことができた。
声を上げる間もなく、五十嵐は炎に飲み込まれた。
視界が赤色に染まった瞬間、即座に全ての迷いを捨て去る。
戦いに集中しろ。回復だ。EFを発動させ、全身の火傷を治癒する。
単に負傷を治す、という意味では問題のない判断の遅れだったが、相楽との戦いにおいては致命的だった。
炎を散らした後の視界に、相楽の姿がない。少女だけが変わらずに佇んでいる。
背後か!?
と気付いた時にはもう、相楽の両手が、五十嵐の頭と顎を掴んでいた。
相楽の方から組み付いてきたことに、五十嵐は刹那、戸惑う。
戸惑いは即座に戦慄へと変わった。
相楽の両腕に力が込められ、五十嵐の頭部を強烈に捩った。
両目一杯に閃光が走ったのと同時に、五十嵐は自分の、損傷してはいけない致命的な部分が破断する音を聞いた。
ごめんなさい――
これまでの人生が超高速で自動再生されていく。
その中で真っ先に浮かんできた"誰か"に謝罪しようとした瞬間、彼の意識は闇の奥深くへと落ちた。
「……まあまあ、だな」
相楽はやや憮然とした表情で腹をさする。
彼の周りには既に、敵の影も形もなくなっていた。
警棒と、拳銃だけが砂利の上に転がっている。
と、砂を鳴らし、園児服の少女が近付いてきた。
相楽は舌打ちし、
「フン、化けダヌキか何かか。あっちへ行ってろ」
少女の目前の空間を発火させる。
少女は泡を食って、四つ足で逃げ出した。
夜はますます更け、闇に蠢く邪霊の量も増加している。
そればかりか、夜行性の変異生物も本格的に活動し始めたようだ。遠くから獣の臭いが漂い出しており、不協和音じみた吠声が遠くの茂みから聞こえてくる。
相楽は外股で地面を蹴るような、傲慢さを顕現した歩き方で、ゆっくりと車へ向かう。
何度か邪霊が迫ってきたが、あえなく蒸発させてしまった。
相楽は後部座席へ乗り込み、運転手に「出せ」と短く命じた。
運転手は無言で頷き、落ち着いた様子で、静かに車を発進させる。
彼女が慌てていなかったのは、あらかじめ車には霊除けの対策が施されており、襲われる心配がないことを知っているためである。
「最初がアイツで良かったぜ。後に回してたら白けてたところだ」
独り言か、話しかけているのか、女には分からなかった。
ただ相楽のことを、最低限の会話しかしたくないと思うほどには嫌悪していたので、女は何も答えなかった。
相楽の方も、そのことで特に気分を害した様子はなく、足を組み替えて言葉を続ける。
「さて、二匹目はどいつにするかな。六条ってデブのオッサンにするか……あ~喰い足んねェ。どっかで肉でも喰うかな。どうよ、あんたも付き合うか?」
「……遠慮しておきます」
掠れ気味の声で、女は短く答えた。




