二十一章『新入社員・五十嵐克幸』 その2
トライ・イージェスの入社式で、現社長の花房威弦から言われた言葉の一部が、現在の五十嵐の心を深く、強く揺さぶっていた。
「――我々は、この三つの盾に誓って、守るために戦わなければならない。例えどんな状況であろうと。どんな相手であろうと。人々の安全と平和のために――」
今、何度も繰り返され、心に響いているのは、言葉に格別の重みがあったからではない。
文字に書き起こして飾り、読み上げたくなるような美文だったからではない。
入社式という大きな節目で言われ、印象深かったからでもない。
今まさしく、その言葉が適用されるような、降って湧いた危機的状況に直面していたからである。
「おーおー、いたいた。あの五相って女のレーダー、役に立つじゃねェか」
「相楽……慎介……!?」
五十嵐は驚愕する。
平和な商店街に突如として現れた、ミリタリージャケットを身に纏った男。
以前、先輩の庄典嗣と遠野鳳次郎が捕えた凶悪な放火犯。
小菅プリズンから脱走し、現在社内でも捜索中の男――相楽慎介が、五十嵐の目の前に現れた。
今年入社したばかりのルーキーと言えど、五十嵐とてかの精鋭が揃うトライ・イージェスに名を連ねている男である。
瞬時に身構え、気を引き締めて戦闘態勢に入った。
「二人とも隠れて! 早く!」
両親に叫びながら、自ら盾となって立ちはだかる。
この時五十嵐は拳銃を所持していたが、商店街の狭い往来、少なからず通行人がいたこともあり、咄嗟には使えなかった。
相楽の発火能力は、対象を視界に入れていないと使えないことは分析済である。
「おいおい、慌てんなよ。俺様が何の為にお前を不意打ちしなかったと思ってんだ」
両手をジャケットのポケットに突っ込んだまま、相楽が嗤う。
両親は息子に言われた通り、電信柱の影に隠れていたが、相楽が少しでも移動すればすぐ姿が見えてしまうだろう。
「心配すんな。ジジババに用はねェ。俺様の獲物はお前だけだ」
「何だと……!?」
「ツラ貸せや。ま、別に俺様はここで殺ってもいいんだけどよ」
目的はトライ・イージェスへの報復か。五十嵐はすぐに理解した。
「一分だけ時間をやる。別れを済ませとけ。一秒でも過ぎたら……ここら一帯、火の海にしちまうぜ」
相楽の言葉は虚勢ではない。漏れ出ている狂気じみた殺気が物語っている。
五十嵐は相楽から視線を外さぬよう、両親の下へ後ずさりしていく。
相楽は両手を上げ、ぷいっと背中を向けた。
「か、克幸……! なんなの、あの人は」
「お父さん、お母さん、大丈夫だから。それよりも、悪いんだけど仕事の急用が入っちゃった。行かなきゃ」
五十嵐は厳しい顔を作ったまま、だが穏やかな声色で両親に言った。
両親は既に大方のことを察していた。
現れた人物が何者か。息子が、これから何をしに向かうのか。
「克幸! ……無事に、戻ってくるんだぞ」
「はい。お寿司、一緒に食べられなくてごめんなさい」
「帰ったら、たくさん食べさせてあげるからね。お寿司も、母さんの料理も」
「はい」
五十嵐は、最後に両親の顔をしっかり目に焼き付けた後、両足に力を入れて歩を進める。
「終わったか? んじゃ、行くか」
激しく鳴る自身の鼓動を、勇を鼓しているものと解釈し、五十嵐は精神を整える。
複数の考えを束ね、一つの信念にする。
これから連れて行かれる場所に、罠が仕掛けてある可能性は高い。
だが、行かない訳にはいかない。
両親を守らなければならない。
犯罪者を、捕まえなければならない。
五十嵐は、車に乗せられた。後部座席に、相楽と並んで座る。
奇妙な光景だった。捕えるべき犯罪者とこんな形で……
運転席には、髪の短い女が座っていた。
サングラスをかけているため、正確な素顔は分からないが、鼻や口は整っている。
女は一言も発さないまま、車を走らせ始めた。
「一応言っておくがな、ここでおかしな真似はすんじゃねェぞ」
「分かっている!」
「デケェ声出すなよ、車ん中で」
耳を塞ぎ、相楽は嫌そうな顔をした。
車は東寄りに進んでいるようだ。
まさか、連中のアジトへ行くつもりだろうか。
だとすれば好機だ。この情報を会社に持ち帰ることができれば――
今すぐにでも連絡を取りたいが、隣にいる相楽は全く隙を見せない。
不敵な態度の裏に、冷たい観察眼が光っている。
五十嵐は、いつ暴発するとも知れない爆弾を脇に抱えて輸送している気分を味わっていた。
五十嵐の心拍数は平時よりも多い数を刻んでいたが、思考能力は落ちていなかった。
この状況での最善は何だ。
まず優先すべきは、周囲に被害を出さないこと。
相楽の不興を買う真似は避けた方がいい。
また、運転している女の能力も未知数だ。慎重になるに越したことはない。
私服なのが悔やまれる。
社員バッジには発信機の機能が備わっているのだが、スーツに付けっ放しだった。
相楽は、一人一人社員を探し出して報復するつもりなのだろう。
何故張本人の庄や遠野ではないのか、詳しい理由は分からないが、とにかく最初のターゲットとして自分が選ばれた。
勝てるだろうか。
いや、勝たなければならない。
トライ・イージェスの名を汚さないためにも。正義と平和のためにも。
何より、両親のために。
車は一時間近く走行した。
窓の外の景色が、賑やかな都市部から地方、更には寂れた殺風景なものへと変化していく。
道中の標識を見て、ここはもう都内ではなく、千葉県内であることは分かっていた。
つい先程見た標識を見るに、ここは松戸市らしいが、それにしては寂れている。
区域による人口密度の差はあれど、もっと賑わっているはずだ。
いや、それ以前に、外から人の気配を感じない。
車道にもほとんど車両が走っていない。ごくまれにごついトラックとすれ違うくらいだ。
原因を探すまでもなかった。
外に充満している気配は、この世ならざるといっても過言ではないほどの禍々しさを孕んでいた。
「クックックッ……いィ空気だ」
しばらく黙っていた相楽が、愉快そうに笑い出す。
そのテンションのまま、運転席の女に命じる。
「もういいか。おい、あの辺で止めろ」
車が、相楽が指差した先、道路を外れた砂利へと入っていく。
車内がガタガタと揺れ出す。
「おいおい、もうちっと丁寧に頼むぜ」
「……無茶を言わないで下さい」
五十嵐は初めて運転手の声を聞いた。ハスキーな声だった。
数十メートル進んだところで、車が徐々に減速していき、停止する。
「ご苦労さん。俺らが降りたら、あんたは離れてろ。巻き添え食いたくないだろ?」
女に声をかけ、相楽は降車した。五十嵐も無言でそれにならう。
その際、バックミラーとサングラス越しに一瞬、女と目が合った気がした。
女が何を思っているのか、五十嵐には分からなかった。
五十嵐が降り立ってドアを閉めると、車は離れていき、六十メートルほど距離を取って停車した。
冷たい空気が、五十嵐の広い背中に纏わりつく。
五十嵐は小さく身震いした。寒さにではなく、一帯に満ちる強大な邪気がそうさせるのだ。
夜の闇が、すぐ目の前にまで迫っていた。
辺りには街灯がないどころか、人の気配さえない。
離れた場所には住宅などの建造物の輪郭が散見されるが、無人なのは明らかだ。一切の灯りがないし、ここまで来て人目につく場所を選ぶとも思えない。
車の放つヘッドライトが、唯一の光明であった。
ただしこれは自分のためではなく、相楽の能力を使いやすくするための補助だろうと、五十嵐は思った。
五十嵐と相楽は、ヘッドライトの光を挟み、十メートルの距離を空けて対峙していた。
「さてと、そろそろ始めっか」
相楽は言い、何かを顔面に装着し出す。
五十嵐は、ハッとなる。
自分たちも、夜間の仕事で時折用いることがある――暗視装置だ。
「へへ、よく見えるぜ。おめえの驚いたツラも、遠くにいる、死に損なったヘドみてェな亡霊共もな」
「何故、最初に自分を狙った!」
振り返りたくなる衝動を抑え、五十嵐は自らを鼓舞するように大声を出した。
「あ? 簡単だ。俺様はな、好きな食い物は後に取っとくタイプなんだよ」
顔の上半分は隠れているが、眦は醜く裂かれ、眉間には深い皺が刻まれているであろうことが、歪んで釣り上がった唇から容易に推察できた。
「ここは八柱霊園の近くだ。誰もいねェから、存分に暴れられるぜ。逆に言やァ、誰も助けに来ねェってことだがなッ! てめェの墓にもピッタリだろう!?」
「相楽慎介ッ! トライ・イージェス社員、五十嵐克幸が、お前を捕縛するッ!」
五十嵐は拳銃を抜き、素早く二回発砲した。
闇で視界がきかないにも関わらず、銃弾は正確に相楽の腹部と胸部へ飛んでいく。
相楽は、ほぼ動かなかった。
ミリタリージャケットで弾丸を受け止めたのである。
相楽が纏っているジャケットは、最先端の化学技術によって作られた、高い防弾性能と衝撃吸収力を兼ね備える特別製だった。
ある意味これも、ジアースシフトがもたらした恩恵である。ジアースシフトがなければ、特殊素材は得られなかったのだから。
「ハッ!」
ジャケットに食い込んだ弾丸をそのままに、相楽が吠えた。
視線を固定し、見えざる導火線を繋ぐ。
狙いは、緑がかった視界に映っている大男。
――焼けろ!
相楽が意図すると、大男の顔面に、蛍光色を薄めた炎の花が咲いた。
相楽の使用している暗視装置は最新型であり、一定以上に光量を増幅しないよう保護回路が設けられているため、目が眩んだり、回路が異常をきたす心配はない。
しかし五十嵐は、体躯に見合わぬ俊敏な動きで前に飛び出しており、相楽の発火を直前に回避していた。
そのまま疾走し、距離を詰めていく。
「やるじゃねェか。流石はトライ・イージェス、って所か」
相楽は楽しそうに笑い、接近する五十嵐の軌道を予測して発火させる。
が、いずれも角度を急転換されて避けられてしまう。
五十嵐の手には、いつの間にか特殊警棒が握られていた。
アラサヒ鉱という、ジアースシフト後に産出可能となった金属資源を精製して造られたこの武器は、トライ・イージェス社員に支給される標準装備である。
この警棒で人間を打てば、骨をビスケットのように砕くことができる。
五十嵐は相楽の火炎をかいくぐり、低姿勢から警棒による突きを繰り出した。
ジャケットで護られていない顔面を躊躇なく狙う。
それに目を潰せれば、相楽の発火手段を封じることができるはずだ。
「甘ェ甘ェ! バレバレなんだよ!」
相楽は巧みな身のこなしで連撃を躱し、カウンター気味に中段蹴りを打つ。
五十嵐の左脇腹に重い衝撃と、鈍い音が伝わる。
が、五十嵐は怯まない。歯を食いしばって踏み止まり、警棒による鋭く小さな一突きを顔に放つ。
相楽は首をよじって紙一重、それを回避した。
その際、警棒の先端が頬を掠めて皮膚を切り裂く。
五十嵐が追撃するよりも早く、相楽はバックステップでその場から脱出した。
相楽が警戒していたのは、目を潰されることよりも、掴まれてしまうことであった。
技術面や身長ではともかく、横幅に差がある以上、組み合いになれば不利だ。
また、密着されることは、自身の能力を封じられることを意味する。
「逃がすかッ!」
「うるせェよ!」
五十嵐の足を狙って発火させるが、素早く移動されて不発に終わる。
デカブツの癖に――相楽の苛立ちが、徐々に募っていく。
相楽の発火能力は一発ずつしか撃てないため、連射が利かない。
発動までのタイムラグがほとんどなく、決して容易に回避できる能力ではないのだが、彼が今対峙している相手のように、それを可能にしてしまう人間が相手となると、少々分が悪くなる。
一方、五十嵐の方も決め手を欠いていた。
彼のEFは、攻撃力という点ではゼロである。相手を倒すには自身の肉体や武器が必須だ。
並の相手ならば容易に仕留められるが、相手はあの相楽慎介である。
手持ちの武器が警棒と拳銃しかなく、両方とも特効性がない以上、苦戦は必至であった。




