二章『会う男女と追う男女』 その2
二人は手を繋いで、春日通りをゆっくり西へと歩いていた。
翌朝も清々しい快晴だった。
しかしそんな好天、青空を昇っていく太陽とは対照的に、瑞樹の気持ちは沈んでいた。
「あまり落ちこまないで。わたしは気にしてないし、ちゃんとわかってるから」
栞は繋いだ手を大げさに振り、瑞樹を励ますが、反応は薄い。
すっかり男としての自信を失っていた。
顔は少し俯きがちで、一歩一歩が重たい。
背中も丸まり気味だ。
「もう」
仲睦まじい二人が唯一上手く行かない部分、それは肉体的な相性であった。
一言で言えば、瑞樹が反応しないのである。
何度チャレンジしても結果は同じだった。
本人は原因を、犯人に植え付けられたトラウマのせいだと思っていた。
栞は彼の事情を既に本人から聞かされていることもあり、上手く行かないことを責めることはしなかったし、幻滅するどころかむしろ癒しになってあげたいと思っていた。
「また次、ゆっくりがんばっていけばいいんだよ。元気を出さないほうがわたし、がっかりしちゃうよ」
そこまで言われたことで、ようやく瑞樹は少し元気を取り戻した。
「……ありがとう」
心から、彼女と付き合えて良かったと思う。
だからこそ、ちゃんと愛せるようになりたい。
そのためにも、一日も早く犯人と決着をつけなければ。
犯人を殺してトラウマから解き放たれる保証はないが、少なくとも前進するきっかけにはなるはずだ。
瑞樹は一瞬栞の手を離し、立ち止まって大きく伸びをした。
「今度の連休、少しだけ遠出してみようか」
「うん、いいね! わたし、横浜とか鎌倉のほうに行ってみたいかも」
「分かった。行こうか」
「楽しみだな。夢の国もちょっと興味あるけど、きっとすごく混んでるよね」
「連休中だからね。特に人が多いと思うよ」
「そうだよね」
「あ……」
「あ?」
代わりとして有明コロシアムにも行きたい、と言おうとして瑞樹はやめた。
栞は、格闘技はおろか、争い事全般が好きではないからだ。
「あ、赤レンガ倉庫とか、趣があって良さそうだね」
「確かに! それなら横浜かな? 中華も食べようよ」
次のデートの話題で盛り上がっているうちに、傾斜のある駅ビルが見えてくる。
後楽園駅に到着した。
栞の自宅は北区の王子にあるので、彼女はここから電車に乗るのである。
出入口の辺りまで行った所で、どちらともなく名残惜しそうに繋いでいた手を解いて、軽く抱き合う。
「それじゃあ、また明日ね」
「うん、気を付けて」
明日以降、また大学で会えるというのに、わざわざこんな別れ方になってしまうのは、恋愛感情という麻薬のせいかもしれないし、あるいは別の種類の親密さゆえかもしれない。
ともあれ、二人は手を振り合った後、互いに背を向けて歩き出した。
一人になった瑞樹は、水道橋駅まで徒歩で向かい、そこから電車に乗って地元の三鷹へと戻っていった。
座席についた瞬間、睡魔がじわじわと瑞樹を襲う。
電車に揺られると、何故にこんなにも眠くなるのだろう。
既に鈍くなり始めた思考力で、瑞樹はぼんやりと考えを漂わせる。
普段ならここまで眠たくなったりはしないのだが、夕べのこともあり、すっかり心身共に弛緩していた。
目蓋が重い。
意識が途切れるのも時間の問題である。
向かい側の席に座っている男女が自分を監視していることなど、気付きもしていなかった。
「……随分気持ち良さそうだな。夕べはさぞ愉しかったんだろう」
ストレートパーマをかけた前髪を長く伸ばした、オレンジがかった明るい茶髪にサングラス姿の男が、視線を斜め前の瑞樹から外さないまま呟く。
外見に反して、落ち着きのある声色だった。
声は電車の音で掻き消され、瑞樹本人までは届いていない。
「それはそうよ。年頃の子だもの」
隣に座っている女も、負けず劣らず派手な格好をしている。
上は黒Tシャツに赤いライダースジャケットを羽織り、下はグレーのダメージデニム、赤いレースアップブーツ。
プラチナブロンドのロングヘアが不自然なほど目立っていたが、これはウィッグである。
男同様、女の口調もやけに落ち着きがあり、更には少々ハスキーであった。
「どうする? このままついていくか?」
「そうね。一応見届けましょう」
「あああ、まだ坊ちゃんの充実ライフを見せつけられるのかよ」
「ぼやかないの」
視られていることなど露知らず、瑞樹は三鷹駅に着く直前までたっぷりと眠りこけ、働ききっていない頭のまま、電車を降りて改札を抜けた。
男女も同様に三鷹で降り、瑞樹の後ろを、つかず離れずの距離でついていっていた。
明らかに周囲から際立っている外見にも関わらず、二人が大きく怪しまれることはなかった。
理由の一つは、二人がそれぞれギター、ベースケースを所持していること。
これならば容姿と相まって、一見バンドをやっている人間にしか見えない。
素顔を隠すにはうってつけであった。
もう一つの理由は、所作が極めて自然であったことだ。
尾行の気配を消していたのはもちろんのこと、動きも尾行らしさを見せず、市民の一部として溶け込んでいた。
瑞樹が眠っていたこと、栞と会って少々気持ちが浮ついていたことを差し引いても、気付けなかったのは致し方なかったのである。
男女の方も、自分たちの存在が察知されるなど、九十九パーセント思っていなかった。
しかし残りの一パーセントは、思いもよらない方向からやってきた。
「……ん?」
駅を出て、見慣れた住宅地に差し掛かった頃、瑞樹は立ち止まった。
自分に向けてじっと注がれる視線を感じたのだ。
目線を下ろして左側前方に向ける。
歩道の隅で三毛猫が座り込み、こちらを見つめていた。
何だ、猫か。
瑞樹は視線を外して再び歩き出す。
すると野良猫が、彼の行く先を塞ぐように目の前へ走って回り込み、甲高い声で鳴いた。
瑞樹は大の猫好きという訳ではなかったが、道を塞がれ鳴かれても無視できるほど、無関心にできなかった。
歩道の端に寄ってからしゃがみ込むと、猫は待ってましたと言わんばかりにトコトコと近寄ってくる。
瑞樹が猫に無警戒だったのは、変異生物ではないと判断できたからだ。
変異した動植物は一目見れば分かるほど、外見に変化を及ぼしている。先日駆除した野犬がいい例だ。
この猫は別段変わった所のない、メスの三毛猫だった。
人懐っこい性質のようで、頭を足にこすりつけ、しっぽで撫でつけてくる。
瑞樹はしゃがみ込み、背中を撫でてやった。
すっかり野良猫に親愛の情を抱いていた。
撫でる手を首根っこへと移動させたところで、猫は意外な行動に出た。
瑞樹の手をすり抜けるように小さくジャンプし、瑞樹の膝から肩へと素早く飛び乗った。
瑞樹は猫の俊敏さに驚かされるが、反射的に両腕を出して落ちないように何とか受け止める。
次に猫が取った行動は、更に瑞樹を驚かせるものだった。
「私は変異生物ではありません。人間が能力を使って話しています。動揺せず、私を離さず、ナデナデしながらこのまま聞いて下さい」
瑞樹はまず自分の耳を疑った。
聞こえたのは間違いなく、人間の言葉、人間の女の声だったからだ。
しかもそれは、今自分が抱えている生物の口から発せられていた。
本能的な嫌悪感がこみ上げ、能力を発動させそうになる。
「あなたに危害を加えるつもりはありません。どうか話を聞いて下さい。いいですね? 分かったら、小さく頷いて下さい」
囁くような小声。
心当たりのない声で、知っている人間のいずれにも該当しなかった。
少なくとも害意がないのは本当のようだ。
殺す気なら、最初に飛びかかった時点でやっているはずである。
未だ心拍数は下がらず、緊張は解けないが、瑞樹は小さく頷いた。
いつでも炎を出せるよう心構えをしておきながら。
猫は一度猫の鳴き声を上げた後、再び人間の言葉で話し始める。
「あなたは今、尾行されています。お気付きになられていましたか?」
瑞樹の表情が一瞬硬直するが、すぐに解ける。
答えを事前に知っていたからだ。
しかし、今実際に尾行されていることは探知できていなかった。
「それは多分、僕の知っている人達だ。それよりお前は誰だ? 僕からすればお前の方が余程怪しい」
「あの尾行がいなくなったらお教えします。とりあえずあなたはこのまま、まっすぐ家に帰って下さい。尾行は私が何とかやめさせます」
「従う理由も信じる理由もないな。知っている人間と見ず知らずの相手、しかも人の言葉を話す不気味な猫と、どちらを信じるかなんて考えるまでもない」
「どうか信用して下さい。尾行の人達を傷付けるつもりもありませんし、何でしたら私のことをあなたの近しい人に話しても構いません」
近しい人とは先生のことか。
瑞樹はすぐに察しがついた。
「何故わざわざ、僕に尾行のことを知らせようとした? お前の正体は誰で、目的はなんだ? この質問に答えないなら、僕は従わない」
猫はしばし無言になる。
が、やがて観念したように話し始めた。
「私の名は神崎貴音と申します。目的は、あなたの精神的な手助けをすること。尾行のことをお教えした理由は……数日のうちにすぐ分かるでしょう。少なくとも、あなたがデメリットを被ることは全くありません」
神崎貴音。
聞いたことのない名前だった。
もっとも、偽名の可能性もあるが。
瑞樹は背中を撫でていた手を止めて、顎の下へ当てた。
「……分かった。このまま何事もなかったように帰ればいいんだな」
疑惑は消えないが、瑞樹はひとまず猫の言葉に乗ることを決断した。
下手に断って付きまとわれ続けたり、攻撃に移られるよりはマシだと考えたのだ。
「ありがとうございます」
瑞樹の目や指先や掌からは疑念や敵意、殺意が滲み出ているというのに、やけに淡々とした口調で、猫は答えた。
「必ず、あなたについている監視を解除してみせましょう。それでは……」
猫は瑞樹の腕の中からすり抜け、しなやかな動きで着地し、淡いエメラルドグリーンの瞳を瑞樹に向けた。
「あ、そうだ。何か食べ物持ってませんか? マグロ缶とまではいかなくても、ちくわでもいいんですが」
「……持ってるわけないだろう」
瑞樹の呆れたような答えに猫は少々不服を感じたのか、これまでよりも低い声で一鳴きした後、ぷいっと尻尾を向け、ノソノソと去っていった。
周囲を見回したい気持ちを抑え、瑞樹は再び自宅への道を歩き出す。
早足にならないよう、意識してゆっくり歩く。
別に監視されていること自体はショックではなかったし、仮に自分で気付いたとしても、いつも通り振る舞えばいいだけだと考えていたが、喋る猫なんてものが現れたせいで、変に気になるようになってしまった。
傷付けずに尾行をやめさせると言っていたが、一体どうするのだろう。
相手はプロだ。
更に、気を付けているとはいえ、今の自分の心理的動揺や、それに伴う動作のぎこちなさも読まれている可能性がある。
生理的な反応に近いものだから、百パーセント抑え切れるものでもない。
そこはどのように誤魔化すのだろう。
瑞樹の頭の中に様々な疑惑が巡るが、混乱する前に思考を止めた。
意味がないからだ。
とりあえず何か異変があったら、猫の言った通り秋緒に上申すればいいし、剛崎たちから質問があれば素直に答えればいい。
至ってシンプルな結論に達したところで、我が家の前へと到着した。
秋緒は仕事で外出しているようで、家の中は無人で静まり返っていた。
階段を登って自室へと入る。
明かりをつけてからバッグを置き、脱いだパーカーを椅子の背もたれにかけ、自身はベッドの縁に腰かける。
寝転んで休む気分にはなれなかった。
いつまたあの不気味な猫が現れるか分かったものではない。
既にバルコニーへ侵入しているのではと思い、窓の方を見てみるが、向かいの家の窓や屋根が見えるだけだった。
通常の、恐怖に駆られた人間ならばここでカーテンを閉めていたかもしれないが、瑞樹はそうしなかった。
迎え撃つことができなくなるからである。
先生はどこへ出かけているのだろうか。
瑞樹は連絡を取ろうかと一瞬考えたが、仕事中に手を煩わせたくないという思いが勝り、一人で待ち続けることにする。
帰宅後、一息ついたところで切り出せばいいだろう。
それに瑞樹は、一人で見えざる敵を待ち構えることには慣れていた。
(あの猫……奴の関係者じゃないだろうな)
"奴"とは、瑞樹の家族を殺した犯人のことだ。
かつて幼い瑞樹に告げたように、犯人は毎年一度、欠かさず瑞樹の元に現れていた。
コンタクトを取ってくる手段は様々であった。
どこから番号を入手したのか、瑞樹の携帯電話にかけてきたり、道端で背後からいきなり声をかけられたり。
場所も神出鬼没で、瑞樹が今いる自室にバルコニーから現れたこともあるし、中学校の修学旅行でたまたま単独行動していた時に現れたこともあった。
奇妙なことに、犯人は幾つかのルールを遵守していた。
一つは、季節にばらつきはあるものの、幼い瑞樹に宣言した通り、姿を見せるのは年に一度だけであるということ。
二つ目は、必ず瑞樹が一人でいる時に姿を現すこと。
三つ目は、戦い(犯人は"デ-ト"と言っているが、瑞樹は死んでもそれを認めようとしなかった)になるのは人気のない場所で、周囲の人間を巻き込もうとはしないということ。
そして四つ目は、絶対に瑞樹を殺そうとはせず、それどころか微かな殺意すら見せないということである。
最初に宣言したことを、徹底的に守り続けていた。
瑞樹がどれだけ激しい憎悪を抱いて焼き殺しにかかっても、犯人は屈託のない笑顔と愛情で応えた。
瑞樹が向けてくるネガティブな感情を余すことなく味わっていたのだ。
憎まれることで愛を確かめ、感じているようだった。
更には傷を負わせて血肉を啜ることで、欲を満たすこともあった。
しかしこのような場合も、重傷にならないよう加減しており、戦いが終わった後に回復薬を置いて去るという徹底ぶりである。
犯人は、瑞樹を愛していた。
瑞樹の常識的な感性ではとても信じがたいことだったが、紛れもない事実だった。
ベッドから立ち、両の拳を握り震わせる。
体温が上がっているのを感じる。
いつの間にか思考対象は、喋る猫から犯人のことへと変わっていた。
犯人のことを考えるたび、憎しみが尽きることなく湧き起こってくる。
弱い自分への嫌悪感に苛まれる。
自分がもっと強かったなら、余計なものを燃やしてしまうことはなかったのに。
もっと早く決着をつけられ、呪縛から解き放たれることができるのに。
幸い、この時は心が危ない方向に進む前に踏み止まれた。
自覚することができた。
全身の力を抜き、腹をへこませ息を吐き切る。
息は炎となり、さながら竜が吐くブレスであったが、何物も燃やすことなく、空気中へ溶けて消えていく。
火が壁や家具に吹きかかっても、それらを焦がすことはなかった。
ゆっくり腹式呼吸を繰り返すことでリラックス効果を得られることは知られているが、瑞樹はそこへ自分の能力を同時に発動させることで、憎悪の昇華をも行っていた。
人間が火を吹くのはあまり見栄えの良い絵面ではないので、一人の時や、その他必要な場面でしか行わないのだが。
呼吸を十数回繰り返したことで、ようやく気分が落ち着いてきたので、昼食を食べに部屋を出た。