十九章『血よりも濃いもの』 その4
「瑞樹兄はさ、逃げだしたいとかおもわないの? いろいろツライんしょ?」
先に話を切り出してきたのは知歌だった。瑞樹の横顔を覗き込み、尋ねる。
瑞樹は答えなかった。ただ、少し寂しげに笑った。
「……そっか」
知歌も曖昧に返し、自分の肩を瑞樹のそれにくっつける。
「あたしはね、ショージキ、瑞樹兄がきてくれてうれしかったよ。えーと、ワルイイミじゃなくて、たんに会えてよかったってことね」
弁解を付け加えた後、言葉を連ねていく。
「まだ知りあってゼンゼン時間たってないけどさ、こんなアニキが最初からいたらちょっとは人生マシになってたのかなとか、でもそしたらゼッタイ瑞樹兄には会えてないよなー、とか、ちょっといろいろ考えたりして……」
「こんな背が低いお兄ちゃんでいいのか」
「いーよ、カッコいいから。カオだけじゃなくてね」
知歌は即答し、歯を見せて笑う。
「そうか、ありがとう」
「……あとさ。秋緒おばさんみたいな人が……その、本当の…………」
言っている内に何か込み上げて来るものでもあったのか、知歌は濡れた子犬が水気を払うように首を振った。
それきり、うつむいて黙り込んでしまう。
瑞樹が、横目でちらりと知歌を見る。泣いてはいなかった。
「いいんじゃないか。メイクも崩れないし、声を出さなければバレないよ」
茶化すと、知歌は弾かれたように立ち上がり、
「バ! バッカじゃねーの、誰が泣くかっての……」
最初の一文字だけは明確に音として出てしまったが、後は強い囁き声で言う。
目を精一杯細く鋭くし、瑞樹を睨み付ける。
「悪かったよ。落ち着きなって。あと先生の地獄耳を甘く見ない方がいい」
瑞樹は両手を胸の前で小さく上げてとりなす。
知歌はフン、と鼻を鳴らし、再び彼の隣に座った。どうやら心の方に、よほど容易には触れられたくない部分があるらしい。
「あーあ、あたしも、このウチの子だったらよかったのにな」
知歌は天井を見上げながら言う。奇しくもそれを隔てた先にあるのは秋緒の部屋であったが、彼女はそのことを知らない。
瑞樹は口を挟まなかった。結局言うのか、とは心の中で思っていたが。
そのうち、知歌の方から勝手にまた近付いてきて、今度は頭を瑞樹の肩へと乗せてきた。
嗅ぎ慣れたシャンプーの香りが漂う中、まるで猫みたいだという感想が浮かび、瑞樹は少し笑ってしまう。
「瑞樹兄のカノジョって、どんなヒト?」
「なんだよ、いきなり」
「いーじゃん、おしえてよ」
ひひひ、と知歌は笑う。
どうやら引き下がるつもりはないようだ。本当に修学旅行の夜みたいだと瑞樹は思った。
瑞樹は諦めて、恋人のことを思い出してみる。
「そうだな……臆病で大人しそうだけど、意外と積極的だったり、本が好きだったり、知らない引き出しを幾つも持ってたり。そんな感じかな」
「うわ、あたしとゼンゼン逆じゃん」
「そうだね」
「じゃさ、見た目は? やっぱあたしとゼンゼンちがう?」
「まだ続くのか?」
「トーゼン」
やれやれ、と思いながら、瑞樹は栞の外見的特徴を、適当な芸能人に例えて簡潔に説明した。
他にもどちらから告白したか、初めて行為をしたのはいつかなど、様々な尋問を受けたが、適当にお茶を濁しつつ回答する。
「あー、楽しいなー。こんなにイロイロ話したのひさびさかも」
色々な情報を聞き出せ、知歌はようやく満足したようだ。
頭を瑞樹の肩から離し、大きく伸びをする。
「僕にも聞かせてくれよ、知歌のこと」
「しょーがないなー、トクベツだかんね」
知歌はすっかりご機嫌な様子だ。これはチャンスかもしれない。
瑞樹は慎重に内容を選び、彼女の内情を引き出そうと試みる。
とはいえ、秋緒が近くにいる以上、具体的な単語を出すのは危険だ。上手く避けていかなければならない。
「知歌、昼間の約束、分かってるね」
「……うん。ダイジョーブだよ」
ウインクする知歌に頷き、瑞樹はまず軽い取っ掛かりを作る。
「どうしてあんなに美味しい料理を作れるの? まさか、才能の一言で片付けたりしないだろう?」
「アリーに教えてもらったりしたんだ」
「アリー?」
聞き覚えのない名前だったが、夕飯の味付けの記憶が閃きをもたらした。
「……五相さんか」
「うん。アリーっていいヒトだよねー。なんであんなトコにいんのか、わかんないんだけど」
「そう、だね」
意外なことに、知歌と五相は仲がいいらしい。
いや、五相の性格ならば、知歌を外見だけで差別したりはしないだろうから、それで上手く行ったのかもしれない。
「アモっさんははっきしいってキライだけど」
「僕も正直言って好きじゃないな」
「だよねー。ヘタレっぽいのにメッチャ俺様だし、オッサンに気に入られてっからってチョーシのってるし。つーかやせろっての」
水を得た魚のように、知歌の悪態は止まらない。
適当なところまで言わせておいた後、瑞樹がなだめたことで、ようやく落ち着いた。
そして、改めて本題に入る。
「知歌は、あの人達が目指してるものに、抵抗はないの?」
知歌は立てた膝の間に半分顔を埋め、黙り込んだ。
言いたくない、というのではなく、表現する言葉を探しているように見える。
瑞樹は辛抱強く待ち続けた。
「…………ゴメン、あんまり、ない」
しばらくのち、知歌が口を開く。目を合わせず、視線を床に落として。
「こんなコト言ったら、怒る、よね」
「大事な理由があるんだろう? じゃなきゃ、知歌がこんなに悩んだりしないもんな」
知歌の唇が再び閉ざされた。
瑞樹は穏やかな顔を作り、彼女のぱさついた髪をそっと撫でる。
振り払いもせず、笑いもせず、知歌はますます顔を両膝に深く沈めた。
「瑞樹兄に言っても、わかってもらえないかもしんない」
自分が本当は結界を壊したくないと考えているからだろうか。
もしそうなら、それは自然なことだ。
「とりあえず、聞かせてくれないかな」
「……いまは、言いたくない」
知歌は意味ありげに、瑞樹を上目遣いで見た。
そこに込められたメッセージを読み取る。
「分かった。気が向いたらでいいよ」
「ありがと」
瑞樹はあくまで慎重策を採択した。
それに、極端にドライな考え方をすれば、知歌の主義思想がどうであれ、関係はない。
重要なのは栞を守れるかどうかだ。そして可能ならば山手線の結界も守る。
優先順位を、行動の是非を、間違えてはいけない。
その後十五分ほど、二人は取り留めのない会話を交わした。
「あたし、眠くなってきちった」
音楽についての話題が途切れたところで、知歌が一つ大きなあくびをする。
「だったら寝なよ。夜更かししすぎると、アイシャドーが濃くなるよ」
「はいはい、アニキはうるさいなぁ。……でも、もうちょっとしゃべりたいんだよなぁ」
知歌は唇を尖らせる。
と、不意に瑞樹の首から肩へ手を回し、顔を近付けてきた。
何をする気かと、瑞樹は体をやや硬直させる。
知歌が睦言のように、声を低めて囁いた。
「眠気覚ましに、外で一本吸ってきていい?」
「ダメに決まっているだろう」
声を発したのは瑞樹ではない。
二人は揃って心臓が飛び出すほど驚き、声のした方、リビングの入口を見る。
両腕を組んだ秋緒が、巌たる空気を放って立っていた。
足音どころか、声を聞いて認識するまで気配すら感じさせないその所作に、知歌だけでなく瑞樹も慄く。
「い、いつの間に……」
「まったくこの子は……臭いで分かってはいたが、未成年が吸っていいと思っているのか」
「うわ、マジで地獄耳。アンド地獄鼻」
知歌は口をあんぐりさせて、秋緒の鋭敏な五感に驚愕した。
その後、ささやかな抵抗を行う知歌から、問答無用で所持していた煙草とライターを没収し、秋緒は引き上げていった。
ただし、こっそり抜け出して瑞樹の元へ来たことについては一切触れずに。
「あーあ、とられちった。ムカついたからここで寝る!」
そう言って、知歌は瑞樹からブランケットを奪い取り、瑞樹の腿を枕にして横になってしまった。
「おいおい、これじゃ僕が」
「寝るんだからはなしかけないでー」
知歌は目を閉じ、わざとらしい寝息を立て始める。
瑞樹はしばし知歌の顔を眺めた後、嘆息して、ソファに深く腰かけ直し、目を閉じた。
翌朝も、瑞樹と知歌が同衾していたのを秋緒が目撃してひと悶着あったり、知歌の健啖ぶりが、貯蔵されていた食料を激減させたりと、幾つかのエピソードがあった。
秋緒が仕事へ出るのを見送り、残された二人は少しの間テレビを観ながら会話をする。
しかしそれもすぐに終わり、やがて家を出た。
「瑞樹兄、きょうは予定あんの?」
「ああ、有明で試合があるけど」
「そっか、がんばってね」
USTCの準決勝は夕方からだが、早めに現地入りしておきたいと考えていた。
「あたしも、きょうは行かなきゃいけないトコあるからさ。オッサンに呼び出されてんだ」
「気を付けて」
「うん」
今日は残暑が厳しい日だった。太陽が強く照り付ける、蒸し暑い空気の中、遅咲きの蝉たちが懸命の声を鳴らし続けている。
そんな中を、知歌はキャップにサングラス、マスクといった出で立ちで歩いていた。
当然、顔いっぱいに珠のような汗が止めどなく浮かんでは流れていく。
「あち~、しぬ~」
「だったら帽子以外取ればいいのに」
「瑞樹兄、あたしに死ねっつってんの?」
素顔を見られたくがないためにそこまですることが、瑞樹には理解できても共感できなかった。
いや別に、と短く言葉を切り、自分はハンカチで額の汗を拭って、話題を変えてみた。
「それにしても、昨日はよくできたな。大切な部分はちゃんと隠して守ってくれた。九十点だ」
「え? そ、そりゃ、瑞樹兄のためだし? 当たり前じゃん」
素直に褒められたのがくすぐったくて、知歌はもう見えなくなっている顔を、必要もないのに背けて隠す。
また、暑さと照れで、彼女の顔はゆでだこのように真っ赤になっていた。
「ん、んなことよりさ、ちと、お願いがあんだけど」
「うん?」
「……肉、ちょっとでも食えるようにレンシューしてほしいな、って」
知歌は少し言い辛そうに、声を落とした。
「ツラいことがあったのはわかるけどさ、ムカシにおわったことをいつまでも引きずってても、しょーがないじゃん。あたしに言われなくてもとっくにわかってるだろーけど」
道路を並んで歩く二人のそばを、赤い自動車が追い越していく。
「それにさ、瑞樹兄が肉食えるようになりゃさ、あたしも……つくりがいがあるっつーか、いろいろ試せんじゃん?」
瑞樹は足元の少し先、灼けたアスファルトを見つめて黙り込む。
気に障ったからではない。
むしろ、もっともだと思っていた。自分でも分かっていたことだ。
一度克服しようとして失敗し、そのまま何もせずにいたのだが、そこを知歌はズバリ指摘してきた。
彼の周囲は気遣ってくれる人間ばかりだった中、このようにはっきり物申した人物は知歌のみであった。
そのことが、かえって瑞樹の心に響いたのである。
栞や知歌に限らず、今後の人付き合いにも支障が出てしまうかもしれない。
知歌の苦言は、肉食の克服をもっと真剣に取り組まなければならない、と考え直すきっかけを彼に与えた。
「……そうだね。知歌の言う通りだ。分かったよ、頑張ってみる」
瑞樹は頷いて笑ってみせた。
知歌も満足げに親指を立て、
「ん、瑞樹兄ならできるよ。じゃ、約束」
そう言って立ち止まり、瑞樹に両手を出した。
右手は掌を上に、左手は掌を下にしている。
その意味を図りかねている瑞樹が小首をかしげていると、知歌は呆れたように言った。
「知らないの? いま、はやってんじゃん。こうやって、おたがいに手首をギュッてすんの」
瑞樹は強引に手を取られて、右手で知歌の左手首をブレスレット越しに握らされ、左手首を腕時計越しに知歌の右手で掴まれた。
指切りと似たようなものかと理解する。
「約束、だかんね」
「なら僕とも約束だ」
すかさず瑞樹は言葉を切り返した。
「今後、煙草はやめること」
一方的に約束を取り付けられるのもなんなので、少しやり返してみようと思い付いたのである。
「え? ちょ、マジで!?」
知歌は慌てて瑞樹の手を外そうとするが、左手の方はびくともしない。
解いた右手も、あえなく瑞樹の左手に囚われる。
「やっぱり、吸うのはやめた方がいい。先生も喫煙者は好きじゃないしね。せめて二十歳までは我慢した方がいいよ」
瑞樹は柔らかい笑顔を浮かべ、サングラスの奥にあるつぶらな瞳を透かして見ながら諭す。
この間も手の力は緩めなかった。
知歌はあー、うーと、言葉にならない声を少しの間発し続け、体を捩らせていたが、やがて諦めたように脱力し、
「……ドリョクしてみる」
と、小さく呟いた。
知歌がこんなにも素直に聞き入れたことが、瑞樹には少し意外だった。
トラウマの克服を約束させた罪悪感がそうさせたのだろうか。
その後二人は電車で新宿駅まで共に向かい、別路線に乗り換える途中で別れることになった。
「そんじゃ、またこんど。秋緒おばさんにもよろしく」
「ああ、言っとくよ。禁煙を始めた、ってね」
「はいはい」
「それと、先生と連絡先を交換したからって、あまり頻繁に送ったりするなよ。仕事で忙しいんだから」
「わかってるってばぁ。そんじゃね」
特に名残を惜しむこともなく、知歌はあっさりした口調で手を振って遠ざかっていく。
やっと落ち着けると安堵しながらも、瑞樹は胸の内が温かくなっているのを感じていた。




