十九章『血よりも濃いもの』 その3
一番風呂で瑞樹が一日の疲れを流している間、リビングでは知歌と秋緒が向き合って座っていた。
「あの子がいない内に聞いておきたいことがある」
「なに? ……ですか?」
「……無理して敬語を使わなくてもいい」
秋緒は呆れ顔を浮かべ、本題に入る。
「本当に瑞樹君とは、カラオケボックスで知り合ったのか?」
「しつっこいなー、そうだってゆってんじゃん」
棘を含んだ知歌の言葉から、秋緒は真実を覆い隠すための過剰反応を読み取った。何も言わず、じっと知歌を見据え続ける。
知歌は目をそらしてしまいそうになったが、生来の気の強さで負けじと睨み返す。
秋緒はまた少したじろぎかけるが、肚に力を入れて踏み止まる。
「そうか、悪かったな。ではついでに聞かせてくれ。キミはEF保有者か?」
知歌はこっくりと頷く。
「差し支えなければ、どんな能力か教えて欲しい」
知歌は特に嫌な顔もせず、自分のEFについて全ての情報をつまびらかに公開した。
秋緒は黙然と耳を傾けていた。が、やがて眼鏡のブリッジに指をあて、
「……頼みがある。これからも、瑞樹君の助けになってやってくれないだろうか」
「なになに? いきなり」
「最近のあの子は、様子が少し変だった。だが、キミと話している時は、大分精神的に楽になっているようだ。心を開いているのだろうな。だから、どうか……」
頭を垂れようとした秋緒を、知歌は飛び上がりながら慌てて制し、
「そ、そんなカタクルシーことゆわなくても、フツーに仲よくするから! お……秋緒さんってば、ちょっとシンパイしすぎなんじゃない?」
「……そうだな」
秋緒は苦笑した。
彼女自身、瑞樹に過保護気味なことは自覚している。
「ついでにもう一つ、おかしなことを聞いていいだろうか。キミは、瑞樹君に恋愛感情を持っているのか?」
「んーん」
知歌はあっさりと否定した。
「瑞樹兄は瑞樹兄だもん。スキはスキだけど、カレシってよりアニキってかんじ?」
「……まあいい、か」
「なにが?」
「独り言だ。気にしないでくれ」
秋緒は軽く面を振る。少なくとも、自分が口を出すことではないと思った。
将来、瑞樹がどうするのか、最終的には彼自身が決めることである。
正確には、再び瑞樹と揉めることを潜在的に恐れていた。
「瑞樹君が出てきたら、次に入浴するといい。化粧落としなどは自由に使っていい」
「はーい」
秋緒の表情と声は、大分和らいでいた。
ほどなくして瑞樹が浴室から姿を現し、入れ替わる形で知歌が次に入っていく。
知歌の入浴は、年頃の少女にしては早い。
浴室にテレビモニタがついていることに驚いたが、観たいものもないし、そもそも湯船にのんびりと浸かっていられる性質ではないので、洗うものを洗ったら、即座に浴室から出る。
髪を雑に乾かし、秋緒から借りたバスローブを身に着け、二人が寛いでいるリビングへと直行した。
知歌の姿を見るなり、二人の会話がぴたりと止んだ。
「どうかした?」
タオルを当てて顔を隠している知歌を見て、瑞樹が尋ねた。
「……はずかしい」
タオルの下から、少しだけくぐもった知歌の声が返ってくる。どうやら泣いている訳ではないようだ。
瑞樹はすぐに理由を察した。栞がよく同じ行動を取るからだ。
「気にするなよ。可愛い素顔が見えるだけだろう?」
「うわ、クサっ!」
甲高い声をあげる知歌。
しかし満更でもないようである。顔を覆う障壁が少しずつ剥がれ落ちていく。
「マ、マジで、おかしくない、かな? うっわ、チョーはずかしいんですけど」
二人の前に、知歌の素顔が晒された。
眉は消失していたが、マスカラのないつぶらな両目は愛嬌が感じられる。
生活習慣のせいか、肌が多少荒れ気味なのが目立つが、瑞樹にはさして減点対象に映らなかった。
「やっぱりマスカラがない方が可愛いじゃないか」
「ちょ、やめてよ瑞樹兄ったらマジで!」
「本当だって」
(瑞樹君……それは天然でやっているのか?)
二人のやり取りを見て、秋緒は心の中で突っ込みを入れる。
なお止む様子のないじゃれ合いを尻目に、秋緒は自分も汗を流しに浴室へと向かった。
三人全員が入浴を済ませ、しばし水分を補給しながら談笑を交わしていると、時刻が日付が変わる頃へと迫っていた。
そろそろ寝ようと秋緒が促すと、知歌は少々不満げな顔を見せたが、反抗することなく従った。
知歌の寝床は、瑞樹の部屋に決まった。
一応は女の子だからと、瑞樹が彼女にベッドを譲ったのである。
予備のブランケットを引っ張り出し、二人が二階に上がっていくのを見届け、瑞樹はリビングを消灯してソファに横たわる。
別段寝辛さはない。意識が沈んでいくまで、さほどの間もかからなかった。
窓の外で薄く滲んだ月が放つ光だけを灯りにし、秋緒は自室の中央に坐していた。
解かれた髪は濡れ羽と広がり、細面に眼鏡はかかっていない。
両目は開いているのかどうか分からないほどの細さで、特定の場所を注視するともなく視界全体を認識している。
細く長い呼吸に連動して、腹部が緩やかに膨張と収縮を繰り返している。
眠りに入る前の瞑想は、彼女の日課であった。
普段は容易に心を空にすることができるのだが、この日は中々雑念が消えない。
原因の一つは言うまでもなく、突然の来訪者・柚本知歌の存在である。
生真面目の星の下に生まれついたような気質の持ち主である秋緒は、知歌のような風貌の少女は生理的に受け付けない部類に属していた。一目見てつい嫌悪感を露わにしてしまったのもそのためだ。
しかし、嫌いだからと無情に切って捨てることもできなかった。
放っておけなかった。
知歌の姿を見ていると、嫌が応にも重ねてしまうのだ。
雰囲気も性格も全く異なるが、全てを失って独り佇んでいた、小さな少年の姿を。
燃え尽きて、忽然と消えてしまいそうな危うい儚さを目の当たりにして、手を差しのべずにはいられなかったのだ。
また、これまでの人生経験から来る直感が告げていた。
――あの少女は、十中八九、家庭に問題を抱えている。
それでも秋緒が深く踏み込めなかったのは、プライベートな事情に触れられたくない雰囲気を漂わせていた知歌に対する気遣いもあったが、何より口下手な自分では問題を余計に悪化させかねないという懸念があったためである。
誰かに相談した方がいいだろうか。しかし親しい知人が特にいない。警察も今はまだ持ち出さない方がいいだろう。
いつの間にか瞑想は、考え事へと変化していた。
それを自覚したところで、部屋の外からドアの開閉音が、続いて床の軋む物音が、ゆっくりしたリズムで微かに刻まれるのが耳に入った。
秋緒はあえて究明はせず、再び瞑想に没入し始めた。
瑞樹は森の中にいた。
孟宗竹、ブナ、ヒノキ、ヤシの木、イチョウ……季節感や統一性を無視して色々な樹木が百数十メートルはあろうかという高さで伸びている。
すぐに夢だと理解し、ため息をつく。緑の香りに、濃厚な"奴"の気配が混ざっている。
幾度にも渡る邂逅ですっかり瑞樹は、分かるようになってしまった。
「瑞樹君と知歌ちゃん、まるで兄妹みたいだね。微笑ましいなあ」
目の前に生えている竹の幹が左右に割け、中から沙織が現れる。
色鮮やかな十二単を纏っているのは、あの有名な物語になぞらえてのことだろう。だが瑞樹は無視した。
「何も言ってくれないの? せっかく一枚一枚頑張ってイメージして、着てみたのに」
瑞樹は全く別のことを考えていた。
これはまだ、あくまでも仮説にすぎないが、沙織は自宅で眠らなければ出てこないのかもしれない。
「黙らないでよ。私、寂しいよ」
「帰れ。月じゃなく、あの世に」
「あら、ロマンチック」
透明な声を弾ませ、沙織は艶然と笑う。
そのまま長い黒髪を逆立て、瑞樹と"戯れ合う"体制に入ろうとしたが、ふと、枝葉の屋根が被さった薄暗い上空を見上げる。
そして、一人納得したように呟く。
「やっぱり来ちゃった。今日はもうお別れかも。仕方ないか、またね」
沙織が手を振ると、視界が端から急速に溶暗していった。
重なって、全身を揺さぶられている感覚が少しずつ強くなっていく。
地震か。いや、違う。
瑞樹が目を開けると、知歌の眉なし顔がアップで飛び込んできた。
知歌がソファの前にしゃがみ込んで、瑞樹の顔を覗き込んでいた。
「……あ?」
「寝ながら怒ってるみたいなカオしてたけど、どしたん?」
「嫌な夢を見てたんだ」
瑞樹は一度深呼吸した後、ゆっくりと上半身を起こした。
薄暗いリビングの周囲を、頭上を見渡す。沙織の姿はないが、気配はごく薄く遍在したままだった。
無論、知歌もその範疇に含まれている。
「寝れなかったからきちった」
瑞樹の心情など露知らず、知歌は無邪気に笑って言う。
「来たのはいいけど、一緒には寝られないよ。先生からもお達しがあっただろう」
知歌がこのような行動に出ることは予想できていたので、驚きはなかった。
「わかってるよぉ。ちょっとでいーから、ハナシしよーよ」
「しょうがないな」
瑞樹がソファに座り直すと、知歌もその隣にちょこんと膝を抱えて座る。
明かりは消したまま、声は密やかに、二人は修学旅行のように夜話を始めるのであった。




