十九章『血よりも濃いもの』 その2
瑞樹の念が本当に通じたのか、数分もしないうちに秋緒がドアを開けて姿を現した。
「……入りなさい」
待ってましたとばかりに、瑞樹は知歌を伴って再度玄関へ入る。
が、秋緒に手で制された。
「何か言うことがあるだろう」
俯きがちでいた知歌はゆっくりと顔を上げ、秋緒を見る。
先程までの威勢は雷雨が流し砕いてしまっており、ひどくしおらしい様子であった。
「えっと……おせわに、なります」
目をわずかに逸らし、ぽつりと呟いた。その横で瑞樹が苦笑いを添える。
流石に秋緒もそれ以上は何も言えなくなり、ため息を漏らして中へと誘った。
そういえばこの家へ最後に友人を連れてきたのはいつだったかと、ふと瑞樹は一瞬、過去に思いを馳せた。
リビングのソファ、いつもの定位置に秋緒と瑞樹が腰かける。知歌は瑞樹の左隣に座った。
場の空気はまだ張りつめたままだ。さながら面接のようだと瑞樹は感じた。
寂とした部屋の背景音楽は、激しい雨と雷の音。
もっとも知歌にとってそれは、リラックスになるどころか、余計に緊張を増すだけでしかなかったのだが。
ここは手を貸してやるかと、瑞樹が会話の口火を切った。
「知歌、簡単に自己紹介でもしたら?」
「……柚本知歌、です」
口調がぎこちないのは不服だからではなく、雷に恐怖しているためであることは、秋緒も既に承知していた。
そのため、その点を追求はしなかった。
「柚本さんは、瑞樹君とはどこで知り合った?」
秋緒の質問に、知歌は口ごもる。
ここで下手を打ってはいけないということは分かっているようだ。
「え、えっと…………部屋の中で……です」
「部屋?」
「大学の友人と渋谷に行った時、一緒にカラオケへ行ったんですよ、その時に」
怪訝な顔をする秋緒に、瑞樹がしれっとした顔で補足解説した。
秋緒は眉をぴくりと動かしたが、語気は荒げずに、
「……なるほどな」
腕を組んで天井を睨んだ。
と、そこに強い閃光と爆音が窓から飛び込んでくる。
知歌がまたしても怯えた仔猫になった。瑞樹と秋緒は無言でしばし顔を見合わせる。
両者ともに表情に硬さはなく、むしろ柔らかい。
「家族のことなど、聞きたいことはまだあるのだが……まあ、今は大目に見るか」
秋緒が眼鏡に手をやり、独り言のように呟くと、萎れた向日葵が蘇るように知歌へ生気が戻っていく。
「そ、それじゃあ、いてもいいの!? ……ですか?」
「"可哀想な少女"をこの天気の中、放り出す訳にもいかんからな」
秋緒は前半部分を少しだけ強調し、微かに笑みを浮かべて言った。
「あ、ありがとー! おば……先生さん!」
「ありがとうございます、先生」
「ねーねー、ウチのなか、見てもいい?」
無事に滞在の許しを得た知歌は、早速瑞樹を引っ張り家内探険に出発した。
流石に秋緒の部屋や、武器類が置かれた倉庫に立ち入らせはしなかったが、3LDKに倉庫とガレージの付属した空間を、まるで秘密基地を探すように、キラキラと輝いた目で見て回る。
そうしているうちに、外の荒天は終息を迎え、雷の音も大分遠ざかっていた。そのことも知歌を勢いづけているようだ。
最後に入ったのは、瑞樹の部屋だった。
「キレーな部屋じゃん。ちゃんとかたづけてんだ」
七帖の洋室を見回し、知歌は感心の声をあげる。
「いや……実は時々、先生に……どうも片付けが苦手で」
頬をかきながら、瑞樹が照れて言う。
「瑞樹兄もケッコーだらしないトコあんだね」
知歌は呆れたと言わんばかりに、大げさなため息をついた。
「うるさいなあ」
「にしてもおばさん、瑞樹兄に甘いよね。ほかのことでもそーでしょ?」
的確な指摘に、瑞樹は何も言い返せなかった。
「おっ、よさげなベッドがあんじゃん。えいっ!」
知歌は、部屋の隅に置かれたベッドに飛び込んだ。
枕に顔を埋め、
「瑞樹兄のニオイがするー」
そんなことを言う。
「僕のって、どんな匂い?」
「なんか、安心するカンジ」
「よく分からないな」
瑞樹はデスクチェアに腰を下ろし、軽く首を振る。
家や個人にそれぞれ匂いがあるのは理解できるが、知歌の説明は理解できなかった。
「きもちいー、このまま寝ちゃいたいー」
「どうぞ」
静かになる分、その方がいいかもしれないと、瑞樹は思った。
知歌はそのままベッドの上で動きを止め、すぐに寝息を立て始める。
瑞樹はパソコンを起動し、ネットで適当に暇潰しを行う体制に入った。別に見られて困るようなものはないが、知歌を部屋に一人置いておくのはどうも落ち着かない。
五分ほど経過したところで、遠慮がちなノックの音がした。
「どうぞ」
瑞樹が応対すると、ドアから秋緒が顔を覗かせた。
訪問の理由は分かっていた。
「別におかしなことは何もありませんよ」
「そ、そうか。……少し、話があるのだが」
秋緒が、ややぎこちなく言う。
流石に無碍にできないので、瑞樹は知歌を部屋に残し、秋緒と共に階下のリビングへと向かった。
「昨夜は本当にすまなかった」
開口一番、秋緒は深々と頭を下げた。
「どんな理由があったにせよ、手を上げてしまうとは……私は……」
「いえ、そんなことを言わないで下さい。僕、むしろ嬉しかったんですから。先生が本当に心配してくれてるんだって」
瑞樹が慌ててフォローする。
秋緒は、ゆっくりと顔を上げ、瑞樹をじっと見つめた。
この子のことを、もっと信頼してあげよう。この子は、自分が思うより、ずっと強く逞しい。
胸の中に幾つかの言葉が込み上げてくる。
秋緒は、決意したように、一度軽く頷いた。
「……私はもう、何も言わない。EF格闘技に出ていることも、もう咎めはしない。キミの好きにするといい」
「先生……」
「ただ、これだけは分かって欲しい。確かに、キミのことを実年齢よりも子ども扱いしていた節はあった。それは認める。……だが、決してキミを不愉快にさせる意図はなかった。ゆ……敬愛するご両親の息子を、どうしても失いたくなかった。傷付けたくなかったんだ。そうでないと、私は……あの人達に顔向けができないから」
秋緒らしい、愚直すぎるほどの言い方だった。
瑞樹の方も、そこまで言われずとも、彼女の気持ちは痛いほど分かっていた。
同居を始めて十年余、言葉だけではなく、行動で数え切れないほど証明されてきたのだ。
傷付かぬように。飲み込まれないように。
秋緒は全精力を注いで瑞樹を護り、教え、導き続けてきた。
だからこそ、罪悪感が強く刺激される。
栞を守るため仕方がないとはいえ、ここまで何も言わず頑なに隠し続け、秋緒を憔悴させ、こんな吐露までさせてしまうのは、秋緒に対するある意味での裏切りだと思っていた。
瑞樹は熱くなった目頭を手で隠し、詫びる言葉を連ねる。
「すみません、先生……本当に、迷惑ばかりかけてしまって……いつも……」
「いいんだ」
秋緒は、瑞樹の頭をそっと撫でた。
「私にできることがあるなら、何でもしよう。そしてこれからは、もっとキミの自主性を尊重するよう努力する。だから、今しばらくは、私に……保護者の役を、させてもらえないだろうか」
瑞樹は、何も言えなかった。微かに頭を動かし、秋緒の手にされるがままでいた。
窓の外からは眩しい光が差し込み、部屋を照らしている。
外の雷雨は、完全に止んだ。
知歌が目を覚ましたのは、瑞樹が自室に戻ってから大分経った後、日の暮れかかった頃だった。
「……んぁ、おはよー」
「随分よく寝てたね」
「いーユメみちゃった。プールいっぱいに入ったプリンの中で泳いでるの」
「できるなら僕も見たいよ、そういう夢」
知歌は顎が外れそうなほどのあくびをして、ベッドから降りた。
すると今度は、知歌の腹部から生理音が鳴る。
「ハラへっちった」
「先生が言ってたけど、良かったら夕飯、食べてく?」
「マジ!? そりゃモチモチ! ラッキー!」
二人は急ぎ足でリビングへ行き、秋緒と合流する。
「今日は僕の当番でしたよね。それじゃあ今から……」
「ちょっとまったぁ!」
思わぬタイミングで、知歌が横槍を入れてきた。
「なに、リクエスト? 言っとくけど、僕はそんなに料理上手じゃ」
「んーん、ちがくて。あたしもちょっと、つくるの手伝いたい……なんて、ね? いちおー、お礼がしたいし」
意外な申し出に、瑞樹は目を丸くした。
「知歌、料理得意なの?」
「まっかせといてよ! つーかあたしにゼンブおまかせ! みたいな?」
やけに自信満々だ。
まあ、人は見かけによらないという言葉もある。実はかなりの腕前なのかもしれない。
瑞樹は好奇心に負け、知歌に任せてみることにした。彼がそう言うならと、秋緒も特に異存はないと頷く。
食材は自由に使って構わない、献立も任せる旨を伝えると、知歌は勇み足でキッチンへ向かった。
「おっ、色々あんじゃん! 燃えてきちゃったんですけど」
知歌の出す声と物音を背中越しに聞きながら、瑞樹はテレビを見始め、秋緒は再び読書を再開した。
調理の最中、特にトラブルが発生した様子は見られなかった。
次第に漂い始めてくる匂いから予想を立てる。
和食か。瑞樹の口元が緩む。
バラエティ番組が面白かったからではない。
嗅覚は最も記憶との結びつきが強い感覚だと言われている。
遠い昔、母親の作る夕食を、こうやって待っていたことを思い出したのだ。
時々ではあったが、幼い妹も食事を作っていた。無論、ほとんど母親の仕込みあってだが。
瑞樹の腹の虫も騒ぎ始めた頃、知歌の作った夕食が全て出揃った。
「おまたせっ! さーどうだ!」
「これはこれは……」
瑞樹は思わず唸りながら着席する。秋緒も、意外だという顔を浮かべている。
豪語しただけのことはあり、確かに美味そうだ。
白米、豆腐とワカメとネギと油揚げのみそ汁、サンマの塩焼きと大根おろし、卵焼き、根菜類の煮物。
バランスも良い。ジャンクフードを喜んで食べていた少女の作品とは思えなかった。
「ちゃーんと瑞樹兄のコトを考えて作ったから。煮物があまり味しみてないのはかんべんしてよね」
「ありがとう。早速食べてみましょう、先生」
「そうだな」
いただきます、と唱和した後、瑞樹はまず箸で卵焼きを切り、わずかなとろみを帯びた一かけらを口に運んだ。
「こ……これは……!」
美味かった。
ふんわりと、甘く、舌の上で、黄金の装甲がとろけていく。
瑞樹の頭に、今まで食べてきた卵焼きの影が次々と差すが、現在食べているものが一番美味だという診断が下された。
「どーよ」
「あ、ああ、美味しいよ。ねえ、先生」
「う、うむ」
秋緒も瑞樹と同じ意見のようだ。箸の先を口に入れたまま、驚きの表情をしている。
「どーせ、あたしが料理ヘタだって思ってたんでしょ」
「まあね」
「うわ、ストレートにゆーかな、そーゆーコト!」
頬を膨らませる知歌をなだめつつ、次はみそ汁を啜った。
彼女の性格とは対極に位置する、繊細な出汁と味噌のバランス。
「すいませんでした、知歌さん」
「わかりゃあいーのよ」
知歌は胸をそらした。
「ところで、この量で足りる?」
「シンパイしなくても、ちゃーんとコメをたくさん炊いたから」
抜け目のなさに、瑞樹は苦笑する。
卓上の料理はすぐに三人の胃袋におさめられた。知歌は茶碗大盛りの白米を三杯おかわりしていた。
「ごちそうさま。……それにしても意外な特技だな」
「ん、ちょっとね。シュギョーしたりしてたから」
知歌は少し言葉を濁す。
プライベートな話題なのだろうかと察する。彼女は未だ、瑞樹に深く立ち入った話をしていない。
食後の片付けを済ませた後、知歌が秋緒に切り出した。
「あ、あの、先生さん。もしよかったら、なんですが。きょう、ここに、泊めてくれない、でしょうか」
敬語を使い慣れていないため、改まってはいたものの、ひどくぎこちない。
瑞樹の予想に反して、秋緒はあっさりと承諾した。料理で高評価を獲得したのが功を奏したのかもしれない。
「ただし、二人同じ部屋で寝ることは許さんからな」
「うんうん、分かってるって! 瑞樹兄、カノジョいるんだもんね。じゃ、あとでいっしょにおフロはいろ」
「なっ……何を言っているんだキミは!」
いたずらっぽい知歌の提案に、瑞樹よりも秋緒の方が過敏な反応を示した。
細面を赤くさせ、上擦った声で知歌に喚く。
「いーじゃん、減るもんじゃなし」
「ダメだ! 断じてまかりならん! ま、まさか既に入ったことがあるのでは……」
「んっふっふ、どーでしょー」
「瑞樹君、どうなんだ」
両者のやり取りを、瑞樹は引きつった笑いで見ていた。
 




