十八章『常に見られている』 その2
そして、九月も中旬になろうかという日のある夜、瑞樹の身に更なる事件が起こった。
生命を脅かす類のものではなかったが、彼にとって決して好ましくない、起こってはならないものであった。
栞とデートをした日の帰り。
池袋でロマンチックな恋愛映画を観て、美味しい創作パスタを食べて、別れ際にこっそり抱き合って甘いキスをして、上機嫌で家路につく。
自宅に着いてドアを開けた瞬間、重力が百倍になって、浮ついていた気持ちを押し潰した。
いつも秋緒が真っ先に言う「お帰り」という穏やかな声がなかった。不気味なくらい静かだ。
しかし、灯りのついた家内、何より気配が、彼女が既に帰宅していることを物語っている。
嫌な予感が、瑞樹の胸を貫く。
まさか――その先を想像する前に、微かな足音がするのを聞き取った。
「ただいま戻りました」
亡霊のようにリビングから姿を現した秋緒を見て、つとめて自然に挨拶をしてみせたが、彼女は微かに頷くのみだった。
その表情は厳しい。最後にこんな顔を向けられたのはいつだろうか、と瑞樹は思う。
「話がある。来なさい」
秋緒はリビングの方を顎でしゃくった。瑞樹は荷物を持ったまま、彼女に従う。
ソファーではなく、食卓の椅子の方に向かい合わせで座る。
少しの間、重たい沈黙が流れた。自分が先に理由を尋ねるのを待っているのではと瑞樹はひらめくが、あえて無言を貫くことを決める。
やがて痺れを切らしたように、秋緒が口を開いた。
「何故、私に黙って、無断で参加していた?」
低いトーンには、叱責のニュアンスが色濃く込められていた。
やはりか。瑞樹は一瞬どきりとする。
だが、それだけであった。帰宅するまでの甘ったるい気持ちはとうに霧消していたが、自分でも驚くほど冷静になっているのを感じていた。
隠し事をするのや、それを追求されることに慣れてしまったからだろうか。
ただあくまで慣れただけで、有効な弁明を咄嗟に思いつくことはできなかった。
秋緒は、瑞樹の様子を、眼鏡越しの細い眼で仔細に探っていた。
眼球運動。瞬きの回数。体の動き。呼吸。いずれも大きな変化はない。
何かを覚悟している人間が取る反応であった。
「黙っていては分からないだろう」
取り調べでで黙秘する被疑者の如く、無言を貫いている瑞樹に、秋緒の方が先に戸惑いを見せ始めた。
彼に対する日頃からの甘さが、抑え切れず漏れ始めてきたのだ。
同時に、不甲斐なくもなる。
長年共に暮らしてきて、瑞樹のことは言葉がなくとも何でも分かるようになっていたつもりだったが、今の彼が何を思っているか、何を覚悟して黙っているのか、全く読み取れずにいた。
瑞樹は言葉を探し続けていた。
元よりそのつもりはなかったが、到底しらを切り通せそうな雰囲気ではない。
秋緒が更に言葉を継ぎ足そうとするわずかに前、瑞樹がボソリと漏らした。
「……守るためです」
「何だって?」
瑞樹は説明した。かつて天川に使ったのと同じ手法を以って。
血守会の命令で、栞を守るため、という真実の代わりに、もう一つの真実を差し出す。
自分の精神を守るため、戦う機会を求め出場した。
沙織が自分の魂にくっつき、夢の中に出てくることも、この時併せて説明した。
「そんなことがあったのか……どうして、もっと早く話してくれなかったんだ」
「内面的なことで、完全に僕の問題ですし、先生に心配や迷惑をかけたくなかったんです」
「気にするなと、いつも言っているだろう。それにしても、今までよく耐えていたな」
突拍子もなく聞こえるであろう瑞樹の話を、秋緒は全面的に信用しているようであった。
彼に落ち度があったとするなら、彼女の能力を、愛情を、甘く見積もりすぎていたことだ。
「だから、他に隠している部分についても、話してみなさい」
秋緒の追及の手は、まだ緩められなかった。
「何のことですか。今話したことで全てですけど」
「言いなさい。怒ったりはしないから」
塗り固めた嘘の防波堤は、一閃の下に崩壊した。
既に本丸到達にまで追い詰められているにも関わらず、瑞樹は動揺した様子を表に出さなかった。
しかし実際の所、内では落ち着きは徐々に失われており、代わりに苛立ちが心の奥底から湧き始めていた。
「……どうやって、僕が有明に行ってることを知ったんですか」
「いつも言っている通りだ。キミのことは、何でも分かるんだ。それで、理由は?」
決して、噛みつく意図はなかった。
まだ僅かだった苛立ちがもたらした、ほんの些細な軽口のつもりだったのだが、瑞樹がこの後漏らした一言が、場の空気を変えてしまう原因となってしまった。
「まるで小さな子どもを扱うみたいですね」
「……何だって」
秋緒は、眉をわずかに引きつらせた。
売り言葉に買い言葉、と呼ぶにはまだ遠かったが、瑞樹が未だ理由を語らなかったこともあり、つい強めの語調で返してしまう。
「私はただ、キミのことを思って心配しているだけだ」
「それが子どもみたいだって言ってるんです。僕だっていつまでも、先生に手を引いてもらうほど幼いままじゃないんですよ」
「く、口答えをするのか!」
「違いますよ。思ったことを自然に言ってるだけです」
「私は、キミの……一応、保護者なんだぞ。目を届かせておくようにするのは当たり前だろう」
血守会の監視。トライ・イージェスの追及。沙織の遍在。
頭では仕方ないと割り切り、顕在意識では耐え抜かんと抗い、戦い続けても、瑞樹の潜在意識には、確実にストレスが堆積していた。
そこに今現在の口論が引き金となって、遂に決定的な一言を口から絞り出してしまった。
「だから、そういうのが、生活の全てを常に見られているみたいで……気持ち悪いんです」
秋緒は、二、三度、目を瞬いた。
その後、眼鏡が落ちそうになるほど、額から鼻、顎に至るまで、顔を歪ませる。
怒りではない。悲しみ。
明らかに傷付いた顔であった。
しまったと、瑞樹が思った時にはもう手遅れだった。
左の頬が、熱くなっていた。
「あ……」
卓上に身を乗り出し、右手を震わせ、呼吸を荒げている秋緒。
その面容が、衝動的な怒りから、段々と後悔に、更なる深い悲しみに沈んでいく。
心の準備がまるで出来ていなかったがゆえか。
瑞樹は、初めて見るその変化を、最後まで正視していることができなかった。
「ど、どこに行くんだ!」
逃亡である。
痛みではない。反抗心でもない。
あえてラベルを貼るのならば、罪悪感。
秋緒から受けた初めての体験を引き金として、体が突発的に動き出してしまったのだ。
リビングを飛び出し、廊下を駆け抜け、玄関から外に飛び出す。
完全に予想外であった瑞樹の行動を、秋緒は阻止することができなかった。
そのまま力なく、卓上に突っ伏す。滑り落ちた眼鏡が、乾いた音を立てて卓を打つ。
彼女もまた、いや、瑞樹以上に激しい罪悪感に襲われていた。
「私は……私はさっき、あの子に何をした」
あんなことをするつもりはなかった。
なのに、どうしても激情を抑えることができなかった。
何故? 同居を始めてから今に至るまでの努力を、気持ち悪いの一言で切って捨てられたから?
それだけのことで、私はあの子に手を上げたのか?
本当の子ではないのに。あの人達の息子を、横から掠め取ったにすぎないのに。
醜い。醜すぎる。時代が時代なら切腹物の行為だ。
秋緒は頭を抱え、悩乱する。
そもそも本当は、瑞樹がどうしてもと言うなら、EF格闘技の出場を認めるつもりでいた。
思うようにさせてやりたかった。
秋緒は、恐れていたのだ。
瑞樹がまた暴走してしまうことを。中島雄二が遺した最後の命を、傷付け失ってしまうことを。
ある意味で、彼女は臆病であった。
あらゆる変異生物や犯罪者を恐れない彼女が、たった一人の命が危険に晒されることさえ、過剰なまでに恐れていた。
それは人間としてごく自然な心情であったが、特殊な生い立ち、過酷な修行の日々、孤独が友だった人生が、そんな当たり前を受け入れることを許さなかったのである。
「すまない……瑞樹君…………ごめんなさい……雄二さん」
涙声。決して誰にも見せられない、弱い姿。
秋緒はそのまま、しばらくの間身動きが取れず、体内の水分を漏出し続けていた。
家を飛び出していった瑞樹は、早くも我に返っていた。
自宅から数百メートル離れた路上で立ち止まり、振り返る。
深夜の路上に人影はなく、静かだった。街灯の安定器が放つ低い微音と、遠くで鈴虫の鳴いている音がクリアに耳に届いてくる。
夜空は夏を終えたことで透明度を増していた。月や星が涼しげな光を放っている。
なんで逃げてしまったのだろう。完全な失策だったと悔やむ。
瑞樹は左頬に手を添える。
まるで力が入っていなかったので、既に痛みはない。
それどころか、秋緒に手を上げられたことを、嬉しかったと再解釈できるほどになっていた。
今まで叩かれたどころか、声を荒げて叱責された経験さえなかった。
その秋緒が、激昂して頬を打った。
やはり、先生は、いつも心底本気で自分の身を案じてくれているのだ。
今、秋緒は恐らく自己嫌悪に苛まれているだろう。
すぐに戻り、自分の逃走と失言を認めて平身低頭、謝罪することに抵抗はない。
ただ、それだけでは根本的な解決にはならないのだ。
関係が修復されれば、再び有明コロシアムの件を問い詰められてしまう。
上手く切り抜けられる方法を考えつくまで、帰らない方がいいだろう。
もうじき大学が再開するため、遅くともそれまでに片をつけなければならない。
とりあえずは今、これからの過ごし方を考えなければ。どうしたものか。
栞の家に向かうという選択肢は真っ先に除外された。個人的なトラブルで迷惑をかけたくない。しかも深夜だ。
同様の理由で、五相や剛崎なども除外される。
大学の友人、梶谷や茅野は共に実家暮らしだ。それ以前に松村のこともあり、今は顔を合わせたくなかった。
そうだ、二人に対する接し方も考えなければならない。
次から次へと降りかかって来る問題を改めて数え直すと、泣きたくなってくる。
年甲斐もなく、文字通り泣き喚いて大暴れしたくなる。
瑞樹が本当にそうしなかったのは、一言で言えば、決して絶望に心折れない強さを持っているためだ。
その礎となっているのは、幼い頃より父から聞かされ続けてきた「強くありなさい」という言葉であり、家族の死、特に二度に渡る妹の喪失を想う気持ちであり、秋緒の圧倒的な強さであり、友人の死である。
それらを、激甚な復讐心が、最愛の人・青野栞を想う愛情が、無理矢理にまとめ上げていた。
苦難の数だけ、愛し愛された数だけ、瑞樹は強くなってきた。
――いつか、全ての敵を、燃やし尽くしてやる。
不屈の闘争心が、瑞樹に火をつける。
が、すぐに身震いした。この時期、夜になると少し冷えるのだ。この辺りで夜行性の変異生物に襲われる心配はほぼないが、そちらの方が問題であった。
結局今夜は、最寄りの駅近くのネットカフェで過ごすことを決めた。




