十八章『常に見られている』 その1
沙織から八幡の藪知らずの瞬間移動方法を聞き出して以降、瑞樹の密かな訓練が始まった。
禁足地とされている藪知らずの中へそうそう忍び込む訳にもいかないので、イメージトレーニングが主である。
人間と場所、それぞれをターゲットにした瞬間移動を一回ずつ試した後、実戦に移る。
正味三回の利用を計画していた。
もちろん、いつ結界が補修されるか分からないため、あまりのんびりはしていられない。
練習自体はスムーズに進んだ。
彼には元々瞑想の習慣があり、秋緒からイメージトレーニングの重要性を説かれていたことも功を奏し、転送先を脳内に思い描くことは容易だった。
速やかに予行演習へと移行するつもりだったが、ここで思わぬ事態が発生した。
とある日の夜、藪知らずに訪れた時のことだ。
(くそッ! 結界が塞がれている……!)
かつてしたように、結界が張られていない、穴の部分に手を入れようとした瞬間、電気ショックにも似た痛みに打たれたのである。
瑞樹の胸に暗雲がたちこめ、鬱々とした気分になる。
他に穴がないか、藪知らずの周囲を調べてみたが、隙間さえ見当たらなかった。
(一体誰がこんな出しゃばった真似を!)
暗殺計画の要を突然に封じられてしまったことで溢れ出る、逆切れにも似た悪態は、家に帰っても中々止まらなかった。
夜、ふて寝を決め込もうとしていた瑞樹の元にメールが届いた。
送信者は五相だった。帰る途中、念の為にメールで理由を聞いておいたのである。
『深夜にすみません。藪知らずの結界ですが、どうやら血守会側に中島さんの作戦が漏れ、対策を取られてしまったようです。相楽慎介は彼らにとっても重要な戦力のため、殺させる訳にはいかないと判断したのでしょう』
思わず携帯電話を床に叩き付けそうになった。
計画の内容は誰にも話していないはずなのに、一体誰が……
瑞樹はすぐに得心した。監視している奴だ。陰湿な密告者め。
未だ正体さえろくに知らないが、憎悪に任せて灰も残らないくらい焼き尽くしてやりたくなる。
今も見られている可能性があることを思うと、尚更だ。
が、こういう展開になることも考えてはいた。
最悪の場合として、瑞樹はこのような策を思い浮かべていた。
結界を破壊し、素早く侵入。警備が駆け付ける前に瞬間移動を行う。
上手くいけば、少なくともその場で捕まることだけは避けられるだろう。
しかし彼に、この手を採用するつもりはなかった。
リスクがあまりに大きすぎる。
こんなことをするくらいなら、他の手を考えた方がマシだ。
幸か不幸か、復讐心を糧に耐えることは慣れている。
計画が早々に頓挫してしまったことは悔しいが、また出直しだ。
とりあえずそうは納得したものの、神経が昂ってしまい、瑞樹はこの夜中々寝付くことができなかった。
「こうなって、結果的には良かったんじゃないかな」
ようやく寝付けたと思ったら、夢の中の沙織から予想通りの台詞を吐かれ、瑞樹はムカっとする。
「悩まなくても大丈夫。瑞樹君なら、真正面から戦ってもあの人に勝てるよ。実際に殺された私が言うんだもの、説得力あるでしょ?」
いかにも彼女らしい奇妙な物言いだったが、瑞樹は笑うどころか、ますます怒りを増幅させる。
「黙ってろ。というか、いい加減消えてくれ。もうお前に用はない」
「消したいなら、もう一度私を殺すしかないと思うよ。瑞樹君にできるかな? 今度は、誰の助けもないよ。一人ぼっちで、私を殺さなきゃいけないんだよ?」
憎しみを向けさせるための挑発だと分かっていた。
「……言ったな」
「やる気になっちゃった? いいよ、遊びましょう。時間は、いくらでもあるんだから。これからも、ずっと」
「もう喋るな。その口に、二度と消えない火の玉を詰め込んでやる」
その上で瑞樹は、沙織の口車に乗り、タイムアップ、すなわち目が覚めるまで戦い続けるのだった。
瑞樹がふと疑問を抱いたのは、目を覚まして少し時間が経った後、洗顔している最中のことである。
――あの女は、いつまで僕の夢の中に棲みついているのだろうか。
どうせ夢の中の出来事に過ぎないとたかをくくっていた。
夢の中でいくら傷付こうと、疲労しようと、目を覚ませば全ては元通りだ。さしたる影響はないと思っていた。
きっかけは、沙織が何となしに言った一言だ。
「時間は、いくらでもあるんだから。これからも、ずっと」
まさか、自分が死ぬまでずっと、離れられないのではないか。
いや、それだけではなく、死んだ後も、束縛から逃れられないのではないか。
不安は連鎖的に、似たようなものを引き寄せる。
最近、ほんのわずかではあるが、日常生活で感じていた違和感。
思考のエアポケット。自我を忘れ、純粋に意識だけを認識している時。
気が付くと、いつもどこかに円城寺沙織の存在があった。
かつての、脳細胞が焼け焦げそうな憎悪を伴ってではない。
もっと普遍的に、空気のように遍在しているのだ。
背後霊とも違う。
万物には生命が、あるいは神が宿っていることを実感している感覚に近い。
まるで生命(=神?)の一部が、円城寺沙織で構成されているかのような――
「魂が欲しい」
「魂と繋がっている」
沙織は頻繁に"魂"という単語を用いていた。
魂が何なのか、瑞樹は極めて曖昧にしか捉えられていなかったが、いつからか意識のごく一部が沙織と同化し、五感とプラスアルファで認識している全てに、限りなく透明に近く存在を薄められた彼女が投影されているのは理解していた。
あの女に魂を掌握されている状態というのは、こういうものなのか。
自分が深いレベルで縛され、溶け合ってているという事実に、瑞樹はついに明確に気付くようになってしまったのである。
――どうだろうね。
心臓がある位置の更に内側から、声が聞こえた気がした。
それは単なる幻聴か。それとも深層意識から本物の沙織が語りかけてきたのか。
瑞樹は頭を上げる。水に濡れた自分の顔が鏡へ写っている。
紛れもなく自分だ。
だが、顔や鏡、水……すべてに、確かに沙織がいた。
不思議なことに恐怖はなかった。
精神を乗っ取られるのではという心配も、驚くことに、怒りや憎しみさえもない。
夢の中で実物を見ると、変わらない憎悪が湧いてくるが、いつの間にか現実世界では憎めなくなっていた。
だからこそ、これまで支障なく、疑念もなく日常生活を送れていた。
また、恐らくこれからも、沙織に心身を侵食されたりすることはないだろう。
だが、このままでは良くないという漠たる警告が、"自分"の部分から発せられていた。
瑞樹は決めていた。すぐにでも、多嘉良に相談しに行こう。
瑞樹の急な訪問を、彼の担当医・フランク=多嘉良は快く迎え入れた。
「――なるほど。面白い、もとい珍しい現象ですね」
「何か解決策はないでしょうか」
「うーむ、メンタルを越えてあまりにスピリチュアルな領域となると、私の守備範囲から外れてしまうのですが」
コーヒーカップを置き、多嘉良は腕組みをして考え出す。
「既に中島君も分かっているでしょうが、一番手っ取り早いのは、彼女をもう一度夢の中で殺すことですよね」
「ええ」
「ただ問題がある、と。かつてのように、彼女のことを激しく憎み切れないのでは?」
多嘉良の指摘は的を射ていた。
瑞樹はコーヒーを飲む手を止め、目を閉じる。
「自分でも、一体どうしてしまったのか分からないんです。以前はあんなに憎んでいたのに、今は何故か……」
「一度復讐を達成したことで気持ちが昇華されたのと、彼女の存在が君の魂と結びついて、君自身であるかのように錯覚しているからではないでしょうか」
「分離させる方法をご存知ないですか?」
「……いっそのこと、共存を図ってみては?」
唸り声のあとに出てきた多嘉良の助言は、寝耳に水だった。
「お話を聞いた限り、彼女はもう君や周りの人に直接的な危害を加えることはできないのでしょう。どうです、ここらで一度手打ちにしてみれば」
「ですが、僕には」
「一度、実際に殺すことができたのだから、いいじゃないですか。許してみるんですよ。彼女が、君に憎まれることで愛を感じるというならば尚更です」
いちいちごもっともすぎる正論だった。
確かに瑞樹が助言を寸分違わず実践できれば、いくらもしない内に解決を見ていただろう。
実践できれば、の話だ。
瑞樹がこうして悩み、訪れている時点で、土台無理なのは火を見るより明らかである。
それは本人も多嘉良も、薄々分かっていた。
「……許すという感覚が、分からないんです。あまりに長い間憎みすぎていたから」
「ゆっくり解きほぐしていきましょうよ。無理に彼女を許そうとするんじゃなく、まずは自分を労わることを優先させて。君と彼女の魂が同一化しつつあるなら、自分を許すイコール、彼女を許すことにもなりませんか?」
瑞樹は内心あまり納得していなかったが、頷いて、ひとまず曖昧に承服してみせた。
結局、多嘉良から欲しかった助言は得られず、甘いコーヒーを飲むためだけに訪ねたようなものになってしまった。
瑞樹はコーヒーと診察の礼を言い、席を立ち退出した。
「お疲れ様です」
「失礼します」
多嘉良の助手役・神崎貴音と廊下ですれ違い、短い挨拶を交わす。
神崎は瑞樹の様子がいつもと違っていることを、敏感に察知していた。
「先生。中島瑞樹さん、いかにも不満げな空気を醸し出していました。診察ミスですか?」
多嘉良の部屋に入室した神崎が入室早々、暴言を吐く。
「ちょっと、いきなり失礼な! 私の診察はいつも完璧、パーフェクトですよ」
「そうですか。で、よろしいのですか」
「何がです?」
「先生は、彼の潜在能力の全てを見たいのでしょう? 力の源泉である憎しみを薄めるなど、正気とは思えませんが」
「いいんですよ。私の目が届かない所でいくら暴れられても意味がありません。彼の夢を覗き見ることはできませんからね」
「はあ」
「それに、憎まれ役は、血守会の人らが立派に引き継いでくれてます。全く無問題ですよ」
多嘉良は眼鏡をずり上げ、声を出さずに笑った。
「有明での茶番など比較にならないほどの炎、この世の終わりのような大火を、近い将来、彼はきっと見せてくれるはずです。楽しみだなあ。想像して興奮するだけで日焼けしちゃいそうだなあ」
「先生、頭、大丈夫ですか?」
神崎は無表情で突っ込んだ。
沙織の問題を解決することのできないまま、時間だけが過ぎていく。
多嘉良の言葉はその日の夜の内にもう忘れてしまった。やはりもう一度殺して消し去った方が早いと、憎しみに駆られて戦いを挑み続ける。
結果は、夢の中の沙織を充足させるだけであり、日常では穏やかな和解を進行させているだけだった。




