二章『会う男女と追う男女』 その1
ランチは国分寺にあるフレンチレストランのコース料理で取ることにした。
無事に仕事が終了した打ち上げも兼ねての選出である。
ここは秋緒が行きつけにしている隠れ家的な場所であり、地下で外の景色が見られない反面、土日でも空いている利点がある。
バロック音楽のかかった薄暗い店内は小洒落た雰囲気を醸し出しているが、気取った様子はない。
入店した秋緒の姿を見るや、オーナー兼料理長が男は愛想よく迎え、奥の一番良い席へ案内してくれた。
オープン直後だったため、他に客はいない。
静かに時を過ごすことができた。
この日の前菜はプリプリのエビ、カリカリのクルトン、トロトロの半熟玉子を乗せたシーザーサラダ、メインはノルウェーサーモングリルの赤ワインソースがけにカリフラワーピューレを添えたもの、デザートはムースショコラ。
二人とも一般より食が細いため、この手の店にありがちな、量が少ないという点に文句をつけることはなく、純粋に繊細な味わいだけを楽しむことができた。
最後に出される飲み物は、二人とも迷わずホットコーヒーを注文した。
ランチを終えて自宅に戻った時には、時刻は午後一時半を回っていた。
今日は土曜日なので、報酬が振り込まれるのは早くても月曜日以降となるため、銀行口座を確認する必要はない。
つまり、車と道具を片付けた時点で解散扱いとなる。
瑞樹は夕方から人と会う約束をしていた。
秋緒には既にその旨を伝えており、秋緒の方も門限で束縛したりすることはない。
瑞樹はスーツから私服に着替え、家を出る時間まで自室で軽くうたた寝をしたり、大学のレポートを書いたりして過ごす。
そして午後五時過ぎ、秋緒に「出かけてきます」と一声かけてから家を出た。
向かうのは水道橋。
千代田区と文京区の境目、都心をぐるりと囲む山手線の中に位置しており、三鷹からは電車一本で行ける場所だ。
新宿駅に入った所で、瑞樹は空気が変わったのを感じ取る。
山手線の中に入ったのだ。
乗客の数が明らかに増え、車内が圧迫されるが、座っている瑞樹にはあまり影響がない。
と、乗り込む乗客の流れに乗って、瑞樹の目の前に老婆が立った。
声をかけて席を譲ると、しわくちゃの顔を更にほころばせて礼を言われた。
瑞樹は窓の外へと目を向ける。
暗くなりかけた世界を押し返すように、電気の灯りが煌々と都市を照らしている。
やはり山手線の外と比べて、圧倒的に高層ビルの数が多い。
上部に有名企業のロゴが入ったビルもちらほら見える。
住宅地も大体がマンション、それも外観からして高級そうなものばかりだ。
一戸建ては圧倒的に少なく、古い木造住宅は見られない。
通学の時などに見慣れているはずなのに、ついまじまじと見てしまった。
そう思っているうちに目的地へ到着する。
土曜日夕方の水道橋駅は人混みでごった返していた。
午前中、日野市の現場やレストランでの静けさが恋しいと、瑞樹は少し思う。
こんなにも人が多いのは、東京ドームで野球のナイターやコンサートイベントがあるからではない。
山手線の内側だからである。
現在の東京は、山手線を境界として、上空や地下にも及ぶ、非常に強力な結界が常に張られている。
人間や無害な生物が結界内外に出入りすることは自由だが、変異生物や邪霊の類は一切内部へ入ることができない。
それだけではなく、山手線の内側にいる人間は"力"を使うことができなくなる。
つまり山手線の中にいる限り、瑞樹は炎を起こすことができない。
この山手線結界は、日本最大手の結界セキュリティ会社・雪墨株式会社によって開発された。
結界を通れる存在と通れない存在の高度な識別、あらゆる外敵を拒むほど強大な出力を常時生み出せる機構など、詳細な技術は全てトップシークレット扱いとなっている。
分かっているのは、結界発生装置が主要駅に設置されていること、また常に厳重な警備で装置が守られていること、そしてこの結界が国民の安全確保に大いに貢献しているということである。
しかし、このような結界が張られている一番の理由は、言うまでもなく、日本の象徴を確実に守り通すため、首都機能や主要産業及び大企業の本社を守るためであった。
雪墨株式会社は旅客鉄道のみならず私鉄各社、また東京だけではなく、京都を除く他の大都市にも大規模な結界を提供しているが、山手線のそれほど完全ではない。
東京都内は国内でもトップクラスに安全な場所とはいえ、変異生物や邪霊が生活圏に現れ、襲われるケースも発生する。
住宅や施設向けの、建造物用結界も存在しているものの、普及率は百パーセントではない。
国民の自衛意識が高まり、変異生物駆除の業者が生まれ、行政も対策に力を入れ、また武器類の所持に関する規制が大幅に緩和されたとはいえ、不安を拭いきれない者がいたり、守り切れない弱者が現れるのは自然の成り行きである。
庇護を求めて山手線の内側へ集まり、人口密度が増すのも当然の成り行きといえるだろう。
もっとも、この強力な結界が原因で、山手線内の地価の異常な高騰、東京への一極集中問題が一層縺れる、ホームレスの公園占拠などといった問題も表面化し、二十数年前には一部の過激派による大事件が起こったりもしたのだが。
そもそも山手線の結界と言えど完璧ではない。物理的な武器や兵器による攻撃までは防ぎようがなく、人間の悪意を遮断することもできない。
そのため山手線内の犯罪がゼロになることはなかった。
水道橋方面も例に漏れず、山手線結界完成に伴う再開発の波に飲まれはしたものの、過去から雰囲気をガラリと変えたということはない。
東京ドームや小石川後楽園などの主要施設はそのまま残っているし、せいぜい全体的に建物が新しくなって背が伸びた程度である。
今、瑞樹が向かっているミーツポートも、姿を変えないまま残っている。
瑞樹は人波をかき分け、ミーツポートの入口階段を登って、その先にあった手すりにもたれかかり、待機状態に入った。
二階に上がったのは、上から下をよく見たいからだ。
上から見ると、人の多さが改めてよく分かる。
ある場所では一定の流れに沿って、また別の場所では混ざり合うように人々の群れが動いている。
その流れは渓流を思わせた。
その中に瑞樹は、お目当ての相手を発見した。
その姿が彼の目に一際ハッキリ映っていたが、背が高かったり格好が奇抜だったからではない。
魚の中に人間が混じっていたからでもない。
人の流れに翻弄されながら、何とか瑞樹のいる場所へ向かおうとしている。
瑞樹は手すりに身を預けるのをやめ、体を階段のある方向へと向け直した。
一、二分ほど待っていると、階段からお目当ての人物が頭から体、そして足へと姿を見せた。
瑞樹の表情が緩む。
ベージュのトレンチコートに黒のパンツ、中に赤のボーダーシャツを着た女性。
年齢も身長も、瑞樹よりわずかに下ぐらいだろうか。
黒髪のショートボブにくりっとした目、小さな鼻と口がよく調和している。
女性側も、瑞樹の存在に既に気付いたようだ。
笑いながら小さく手を振り、瑞樹の下へと走り寄っていく。
「ごめんね、待った?」
「いや、僕も着いたばかりだよ」
「どうしようか、少し早いけど、ごはん食べに行く?」
「そうだね。満席になる前に、どこかに入っちゃおうか」
どちらともなく手を取り、再び人混みへ身を投じていく。
女性の名前は青野栞。
瑞樹とは同じ大学の一学年下で、およそ二年近く前から交際を続けている。
二人の関係はごく一部分を除いては良好であり、恋人になってからは一度も喧嘩や意見の対立を起こしたことがない。
仲睦まじい大学生カップルだと、誰が見ても思うだろう。
栞の提案で、夕食は魚料理が美味しいと評判の和食店で取ることになった。
デートの時の食事は、必ず肉以外のものと決めていた。
現在、瑞樹は肉類を一切口にすることができずになっていたからである。
匂いを嗅ぐだけでも少し気分が悪くなるほど深刻だった。
原因は、十一年前、家族を殺した犯人に植え付けられたトラウマのせいだった。
こうなってしまうまではむしろ肉類は好物であり、母親の作ったハンバーグは特に好物だった。
しかし今では世の中で最も受け付けられないモノの一つとなってしまっている。
焼く前の、ピンク色のドロドロを見るのも躊躇われる。
栞は瑞樹の抱えている事情を全て知っていた。
彼女は承知の上で、瑞樹の傍にいることを決めていた。
栞は肉料理が好きだったが、この程度のことは気遣いの内にも入らない、当然のことだと考えていた。
それに瑞樹の性格上、肉が食べたいといえば無理にでも付き合おうとしてくれることも分かっていた。
和食店は、ミーツポートより少し歩いた先、ちょうど東京ドームの裏手にある複合商業施設の中に入っている。
ギリギリのタイミングで、待ち時間なしに入ることができた。
個室ではないが、吸音効果のある仕切りがついており、ゆっくりと会話に興じることができる。
お通しである魚のすり身の南蛮揚げと飲み物がすぐに到着する。
瑞樹は瓶ビール、栞はウーロン茶を頼んでいた。
テーブルに設置させているタッチパネルで料理を注文し、乾杯をしてから、本格的な会話が始まった。
「瑞樹くん、今日の午前中は仕事だったんでしょ? 相手はどんなだったの?」
「犬の変異体だよ。全部で十数匹いたんだけど、色々な種類がいたな」
全部先生が片付けちゃったんだけどね、と苦笑して瑞樹は言う。
「そっか、でも瑞樹くんがケガしたりしないでよかったよ。……あ、別に弱くて頼りないからってことじゃないからね」
「いや、構わないよ。駆除を任せてもらえなかったのは、僕がまだまだ頼りないからだろうし。もっと強くならなくちゃな。強くならないと……あいつにも勝てない」
瑞樹の声のトーンが段々と落ち、瞳の色も深く沈んでいく。
グラスを握る左手の力が少し強くなり、中に入っている黄金色の液体を沸騰させんばかりに睨み付ける。
が、栞の一言ですぐに意識を引き戻された。
「強くなるためには、まずはおいしいお魚をちゃんと食べて、栄養をとらなきゃ」
「……そうだね。ありがとう、栞」
瑞樹は微笑み、グラスを傾けて口内を湿らせた。
栞も同じ動作をなぞる。
しばし二人無言で見つめ合っていると、最初の料理が運ばれてきた。
白身魚の唐揚げだ。
「栞、レモンかける?」
「ううん、かけない。かけるのは邪道だよ」
「だよね。流石、分かってる」
いただきます、と唱和し、二人は箸を伸ばす。
魚肉がさっぱりしている分衣がジューシーで、物足りなさを感じさせない。
二人の関係のように熱々な魚を、ほくほくさせつつ咀嚼する。
続いてやって来たホタルイカの酢味噌は、甘酸っぱいような、甘しょっぱいような、絶妙な所を突く味だ。
一匹ずつ丁寧に骨と目と口が取り除かれているので、そのまま丸かじりできる。
「おいしいね」
「ああ、味付けがいいよね」
ビールとよく合うため、ついつい飲むペースが早くなってしまう。
だが、瑞樹の色白な頬が朱色に染め上げられる様子はない。
彼はアルコールに強い方だった。
瑞樹が食事を楽しんでいるのを見て取れて、栞は安堵する。
空になったグラスにビールを注ぎ、新しい話を振る。
「そうそう、友だちが言ってたんだけど。『愛称で呼び合わないの?』って」
「僕らが?」
「うん。そうしたほうがいいのかな?」
「仲が深まるならね」
「じゃあ、ちょっと考えてみよっか。例えば……みずきゅん、とか」
「却下」
「ちょっとかわいい響きを狙ってみたんだけど、ダメ?」
「可愛さはいらない。それなら僕は、しおりん、って呼ぼうか」
「いいよ」
「えっ」
「みずきゅんが恥ずかしくないなら、好きなだけ」
「……ごめん、やっぱりあだ名問題はしばらく保留にして欲しい」
そんな他愛ないやり取りをしている内に、残りの料理が到着した。
ぶり大根は煮汁がよく染み込んでおり、口内で溶かされるのを待っているかのように既に柔らかくなっている。
そして、一番の目玉、メバルの煮付け。
ここで出されるメバルは通常のそれとは少々異なる。
いわば、メバルの変異体を調理したものである。
肉の弾力性はまるでグミのようで、なおかつ身離れは容易。
骨も食べることができ、固めの歯応えを楽しめる。
脂は濃厚でありヘルシー。
ローカロリー高たんぱく、舌がとろけるクセのない美味を体現した至高の魚だ。
瑞樹も栞も、一瞬にして平らげてしまった。
「こういう変異生物だったら歓迎だな」
世の中に存在する変異生物は、人間に危害を及ぼす、いわゆる害獣ばかりではない。
食材や植物、ペットなど、益をもたらすものも少なからず存在しているのだ。
締めに熱いお茶をもらってから、二人は店を出た。
来た道を戻る形で、東京ドームシティのアトラクションへと足を運ぶ。
とはいえ営業終了時間が差し迫っていたため、遊べる種類は限られている。
相談した結果、スカイフラワーにだけ乗ることにした。
スカイフラワーとは、高さ六十メートルのパラシュート型ゴンドラである。
何度か撤去論が持ち上がりながらもその度に乗り越え、この場所が後楽園ゆうえんちと呼ばれていた時から存在し続けている、由緒正しいアトラクションだ。
地価が高騰しても料金が変わっていないことに感謝しつつ、二人はゴンドラに乗り込む。
赤、青、緑とカラフルなイルミネーションで彩られたゴンドラは、二人を乗せてゆっくり地上から離れて上昇していく。
さほど強く吹いている訳ではないが、この季節の夜風は少々冷える。
栞が瑞樹にもたれかかると、瑞樹の方も彼女の肩を抱き寄せた。
元々ゴンドラは二人用で狭いこともあるが、完全密着状態になる。
隣にあるホテルほどの絶景ではないが、ゴンドラからでも皇居や秋葉原方面の高層ビル群がよく見えた。
散りばめられた灯、ライトアップされた眼下の木々や施設、豆粒のような人々は、恋人たちの目を楽しませ、ムードを盛り上げるには充分であった。
「百万ドルの夜景とまではいかなくても、きれいだね。夢の国まで見えないのがちょっと残念だけど」
「このゴンドラには夢が足りないってことだね」
瑞樹が冗談めかして言うと、栞がくすっと笑う。
その笑顔と体温に、瑞樹は、色気よりも親愛の情を感じる。
「ここでこうやって景色を見てると、瑞樹くんが告白してくれたときのことを思いだすよ」
「ああ……あの時は間違えて"落ちる"方を選んで、大変な目に遭ったんだった」
スカイフラワーといえば、ゴンドラが上昇と下降を繰り返すスリリングな動きが有名であるが、より景色を楽しんでもらうため、天辺まで上がったまましばし停滞した後ゆっくりと下降する、"落ちない"時間帯も夜間に設けられていた。
過去の瑞樹はそれを利用し、栞に告白する予定だったのだが、何をどう間違えたのか、彼は"落ちる"方を選択してしまっていたのである。
「『好き』まで言ってくれた直後にストーン! だもんね。おかしくてしょうがなかったよ」
想いを伝えようとした言葉が驚きのあまり、悲鳴じみた呻き声に変わってしまったことを思い出し、瑞樹は恥ずかしそうに顔を伏せた。
もっとスマートにやりたかったのに、醜態を晒してしまったことは一生の不覚として、彼の記憶に残り続けることだろう。
「恥ずかしいから忘れてもらいたいんだけど」
「いやだよ」
俯いて顔をそらしていた瑞樹の頬に、微熱を帯びた手のひらが添えられ、栞の正面へと引っ張られる。
「だって、おかげで一生忘れられない思い出にもなったんだもん。忘れたらもったいないよ」
互いの唇に柔らかい感触。
二人の胸を、温かな感情が満たしていく。
今だけは景色も夜空も月も目に入らない。
ゴンドラの中だけで完結する、二人だけの世界に浸っていた。
「これからも末永くよろしくね」
「こちらこそ」
スカイフラワーから降り、ドームシティを出た後、二人は湯島方面へと向かった。
少々距離があるが、散歩も兼ねて徒歩で行く。
これから起こることを、栞は男女関係の一部として受け入れ態勢に入っていたが、瑞樹は緊張とわずかな不安を抱いていた。
初めてだからではない。
別の理由があったのである。