十六章『偽りのパートナー』 その2
「やっぱり。辛い思いをしていたのね。……それじゃあ、次。君が抱えているのは、どんな悩み?」
一言一言、愛を囁くような、色香のある声色で、天川は質問を続ける。
トゥルーダイヤ・リングが優れているのは、効力が単純な二択に限定されないところである。
イエス・ノーでは答えられない質問でも対応することができるのだ。
瑞樹は、唾を飲み込む。
瞬きを忘れ、じっと天川の白い首元を見る。
もし、黙秘が有効ならば、それを貫き通すに越したことはない。
「お願い、黙らないで。私がこうして傍にいるうちに、ね?」
やはり無駄か。その辺りは瑞樹も既に察していた。
こうして天川が尋問役に選ばれたということは、トライ・イージェス側も、現時点ではなるべく事を穏便に運びたいと考えているのだろう、と。
他の社員――新入りの五十嵐克幸を除いてだが、いざとなれば瑞樹といえど、仮借なしに情報を吐かせようとするだろう。
特に繋がりの深い、剛崎や鬼頭であろうとだ。
トライ・イージェスは決してクリーンなだけの組織ではない。
いざとなれば、限りなくブラックに近い手段も実行することも、瑞樹は知っていた。
「…………分かりました。言います」
天川が、心なしかほっとした顔を作る。
瑞樹は、温度の上がった手で、添えられた天川のそれを強く握り返し、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「……実は、先日、大学の友達を殺されたんです」
天川の目が、わずかに見開かれた。彼の友人の死を聞かされてではない。
両者、そのまま無言で、互いの反応を窺う。
ただ指輪の石だけが、変わらない青さを維持し続けている。
「僕は、あいつの命を奪った奴に復讐をしたい。ですが、奴は強い。真正面から向かっても勝ち目が薄いでしょう。だから色々作戦を考えてはいるんですが……中々思い浮かばなくて……」
瑞樹の両手から、揺らめく赤い炎が生じる。
無論、天川を焼くために出したのではない。
忘れようにも忘れられない、あの忌まわしき光景を想像して産まれた、相楽を焼くための憎悪の炎である。
そして同時に、窮地を脱するための演技でもあった。
瑞樹は、追い込まれた時のため、事前に脱出路を用意していた。
言い逃れたり、黙秘をするのではなく、もう一つの隠しておきたい秘密をあえて差し出す。
嘘に真実を混ぜておくのは、信じ込ませるための基本テクニックだ。
安全策とは言い難い。これとてギリギリのラインである。
相楽慎介も血守会の関係者である。トライ・イージェスの調査力を持ってすれば、それを調べ上げられたうえ、瑞樹との繋がりも洗い出してしまうかもしれない。
そうなればもう終わりだが、リスクに恐れ二の足を踏んでいる場合ではなかった。
トゥルーダイヤは、炎の中で青さを保ち続けている。
これは今思いついた策だが、最悪、どうしようもないほど追い詰められたら、この炎でトゥルーダイヤを燃やしてしまおうと企んでいた。この火力ならば可能なはずだ。
憎しみが募るあまり、勢い余って壊してしまったといえば、何とか言い逃れできるだろう。超希少品だからといって躊躇している場合ではない。
「……そう、だったの。辛い思いをしたのね」
天川は、そっと瑞樹の指輪を抜き取った。
そして、彼の細く小さな体をそっと抱きしめる。
「変な疑いをかけてしまってごめんなさい」
「いえ、気にしないで下さい」
「実は鬼頭さんが、もしかしたら瑞樹君と血守会の間に、関わりがあるかもしれないって言ってて。ほら、ご両親が血守会と戦った経験があるでしょう?」
「心配して下さってたんですね。ありがとうございます」
もはや瑞樹がうろたえることはなかった。危機を切り抜けたことで、より強靭な落ち着きを得ることができたのである。
心臓付近に当たっている柔らかさはどうしても生理的に気になってしまうが、隙を突かれてまた指輪をはめられないよう、拳を握っておくだけの注意深さも残っていた。
天川が、一層声を落として、耳元で囁きかける。
「これだけは分かってくれるかしら。私達は、あなたの味方だから。甘えたくなったら、いつでも胸に飛び込んでいらっしゃい」
「……はい」
ほとんど息を吐く音と同じ声で瑞樹が答えると、天川はそっと体を離した。
「会社には、それなりの報告をしておくわ。悪いようにはしないから」
「分かりました」
「ねえ、せっかくだから、これから私と一緒に、一夏の過ちを犯してみないかしら? 瑞樹君を抱いてたら、私、クラクラしてきちゃった」
「勘弁して下さい。これでも彼女の前では誠実な男で通してるので」
「あら、残念。それなら、観覧車に乗りましょう」
「いいですよ」
天川に手を引っ張られながら、瑞樹は頭の中で呟く。
――本当は、素直に頼りたい。
秋緒も、トライ・イージェスの人達も、とても親身になってくれている。
だからこそ今のような状況でも、この世界に自分の味方は誰もいないなどと、悲劇のヒーローを気取る気にはならないのだ。
しかし、栞を確実に護るためには、秘密を貫かなければならない。
きっと今もどこかで、血守会の目が光っているはずだ。
気を抜ける瞬間などない。
「――あの状況で、よく口を割らず騙しおおせたものだ」
天川に付き合わされた翌日、今度は血守会の指導者・奥平に付き合わされることになった。
とは言っても、どこかに外出するということもなく、いつも通りアジトに呼び出されただけだが。
やはりあの時も監視されていたのかと、瑞樹は暗澹たる気持ちになる。
「あれだけ我慢してやったんです。栞のことは」
「心配するな。彼女の身の安全は、現状維持だ」
安堵した気持ちを隠し、瑞樹はつっけんどんに言う。
「今日の用件を早く言って下さい。疲れてるんです」
「よく動いて、帰りが遅かったからかね」
含みを持たせた言われ方をされ、瑞樹は舌打ちする。
奥平は聴こえていないといった風に、葉巻を吹かした後、言葉を継いだ。
「有明コロシアムの大会が現在進行中ではあるが、次の任務を言い渡す。これから引き合わせる人物と、親しくなってもらいたい」
「は?」
また任務か。と思う前に、疑問が声に出てしまう。
奥平の真意が掴めなかった。
今、瑞樹は奥平の執務室と思われる部屋におり、二人の他には誰もいない。
案内役だった阿元は、瑞樹をここに連れてくるなり、早々に去ってしまった。
去り際、瑞樹のことを同情が入り混じった目で見ていたのだが、当の瑞樹は気付いていなかった。相楽ほどではないが、阿元に対しても憎しみの念を抱き続けているためだ。
「相手は年頃の娘だ。私には分からない感情だが、喜びたまえ、とでも言うべきだろうか。気負わず、"妹と付き合うよう"接してもらえればいい」
具体的な年齢はまだ分からないが、相手は年下の女の子らしい。
それに、栞と別れ、その相手を恋人にする必要もないようだ。その点にだけはホッとする。
「阿元君に呼びに行かせているのだが……もう少しで到着するだろう」
待ち人が到着するまでの十分間、瑞樹は奥平と目を合わせるどころか、ドアの方を向いて、視界に入れようとすらしなかった。
あまり仲良くなりたいとも思わなかったが、相手がどんな人物か、気にはなった。
相楽のような外道の犯罪者だけは勘弁してもらいたいところだ。
想像のネタもすぐに尽き、瑞樹は改めて部屋を観察してみる。
奥平の心象風景を投影したような、殺風景で乾いた部屋だった。
約六メートル四方の部屋には、マホガニー材のデスクと棚、奥平が今腰かけている革張りの椅子以外、何もない。
地下で窓がなく、壁や床がグレー一色のため、余計に息苦しく感じる。
「つまらぬ部屋だろう」
奥平が、自嘲気味に言う。
「そうですね」
瑞樹は仕方なしに返事をする。一言も発したくなかったのだが、仕方ない。
「今となっては何を楽しめばいいのか、分からないのだよ。酒も、煙も、暇潰しや誤魔化しにしかならぬ。私が現在気にかけているのは、一つだけだ」
「結界の破壊、ですか」
下らないことを、という部分は飲み込み、瑞樹は言い捨てた。
奥平は明確に答えなかった。代わりに、
「眠れるだけ、いい」
とだけ呟いた。
その意味を質そうと思いかけたところで、デスクの上に置かれた電話が鳴り始める。
「私だ。……うむ、分かった。御苦労。入りたまえ」
どうやらお相手が到着したようだ。
瑞樹は、固唾を飲んで、ドアが開かれるのを見守る。
金属製の重厚なドアが、鈍い音を立ててスライドした。
「すいませ~ん、遅れちゃいました~」
気の抜けた、間延びした少女の声が、擦るような足音に被さって聞こえてきた。
阿元に続いて現れた少女の姿を見て、瑞樹はわずかに眉をしかめる。
確かに年下だった。正確な年齢は分かり辛いが、高校一、二年生くらいだろうか。
低めの鼻、丸い目と顔の輪郭は中々愛嬌があるが、マスカラがやたらに濃く、両耳には大きなピアスがぶら下がっている。
明るく染められた金髪は根元付近が黒くなってプリン状態になっており、また服装は派手目で可愛らしい系のものを選んでいるものの、靴はハイテクスニーカーだ。おまけに汚い。踵を潰して履いているのが更に拍車をかける。
秋緒先生は一目見ただけで嫌悪するタイプだろうと、瑞樹は思った。
妹の愛美とは影が重なりもしなかった。
仮に愛美が生きていて、現在まで成長したとしても、年齢にズレがあるのだが。
「五分の遅刻だ」
「だから~、すいませ~んっつったじゃん」
悪びれもせず、少女は面倒そうに言う。
奥平は一度話を打ち切り、瑞樹に紹介する。
「我々の同志、柚本知歌君だ」
「ど~も~」
力を抜いた手の平をひらひらさせ、少女は瑞樹に挨拶をする。
「どうも……」
と、瑞樹がオウム返しに返そうとするとほぼ同時に、
「うわーっ!」
知歌は唐突に大声を上げた。部屋全体へ反響する音量に、瑞樹と阿元は反射的に身を竦める。
「へ~、ちっちゃいけど顔はチョ~カッコいいじゃん。おじさんの言った通りだ!」
瑞樹の顔をジロジロ見て、知歌は満足げに頷いた。
小さいは余計だろう、と思いながら、瑞樹は薄い愛想笑いのようなものを作る。
「気に入ったようで何よりだ。では、存分に親睦を深めてくれたまえ。中島瑞樹君」
「は~い。よろしくぅ~」
差し出された手を、瑞樹は仕方なしに握り返す。
彼女の手は、かさついていた。
アジトを出るために三人が部屋を出た後、奥平は葉巻をトレーに置き、宙をねめつけた。
独り言のように、低い声を出す。
「……君は、顔見せをしないのかね」
「いやー、自分はいいっすわ。ガラじゃないし、そもそもあのガキが嫌いだし」
何もない場所から応答があった。
発音こそ明瞭だったが、声色には人間らしさがなく、チープな電子機器を通したようなざらつきがある。
「愚問だったな。引き続き、観察を続けてくれたまえ」
「了解しましたー」
阿元の運転する車に乗り、機構不明の瞬間移動を使ってアジトを出る。
来た時と同じ、がらんとした倉庫が視界に飛び込んできた。
「ここ、どこ?」
「新木場だよ、江東区の」
「なんもおもしろくないトコじゃん。移動してよ」
「俺はお前らの運転手じゃないんだ。電車で行けよ」
「そんなコトいっていいのかな~? あたしら、ジューヨージンブツなんでしょ?」
口論は知歌の方が勝ったらしい。阿元は舌打ちし、
「どこまで行かれますか? 救世主殿」
皮肉たっぷりに尋ねる。
「シブヤにいって」
「……めんどくせぇなぁ」
わざと聞かせるつもりだったのだろう。阿元はほとんど消え入るような声ながら、せめてもの抵抗を試みていた。
瑞樹は阿元に対して、いい気味だと心の中で冷笑する。
道中、知歌は機関銃の如く、隣に座る瑞樹に話しかけていた。
「瑞樹兄って、どんな子が好み? あたしはとにかくカッコいい子がいいんだよね。アイドルでゆうなら~……」
「……ってお菓子食べたことある? チョ~ウマいんだよ! あたし週五くらいで食ってるし」
「この前見たドラマがめっちゃ泣けてさ~。もうあたし、鼻水も止まんなくて。あ~、やべ……」
瑞樹とコミュニケーションを取るというより、自分のことを延々と語っているのに近い。
瑞樹は相槌を打ちつつ、求められた時だけ答え、あとは聞き役に徹していた。
彼女に無関心だった訳ではなく、むしろ真剣に耳を傾けていた。
奥平との約束を守るためではない。血守会の関係者である彼女の情報を、可能な限り手に入れておきたかったからである。
だが、気になる点があった。
髪や服から、明らかに煙草の臭いがするのだ。
まさか、この年齢で吸っているのだろうか。外見からして、そうしてても不思議ではないが。
些末なことながら、つい考えてしまう。
秋緒先生が対面したら、怒りのオーラを抑え切れなくなるだろう、と。
阿元は背中越しに、ささやかな同情を送っていた。
口数の減った瑞樹を、苛立ちに耐えているものだと解釈していた。
(とんだ災難だな。ま、頑張ってくれ)
実際のところ瑞樹は、もっと前向きに物事を捉えていたのだが。
渋谷駅の東急南口付近に到着した所で、知歌は車を停めるよう命じた。
「いこっ」
返事を待たず、知歌は瑞樹を押して車から出ていく。
「礼も何も無しかよ……ま、精々頑張るんだな、坊ちゃん」
阿元は愚痴りつつ、早々に走り去っていった。
「ごっくろ~さ~ん! で、どうしよっか。おじさんからは、仲よくしろっつわれたけどさ」
「何か目的があって、渋谷に来たんじゃないのか」
「いや? テキト~だけど? 遊ぶんならやっぱシブヤっしょ」
早くも軽い頭痛が瑞樹を襲う。これから先が思いやられる、という不安しかない。
気が滅入る暇もなく、知歌は更に衝撃的な言葉を叩き込んだ。
「手っとりばやく、ホテルいく?」




