十五章『三人の創設者』 その3
トライ・イージェスでの仕事は激務だった。
二人が前職で得ていた信頼や人脈は相当のものだったらしい。
設立当初から、仕事の依頼が絶えることはなかった。
四六時中、各地を飛び回っては狩りや護衛、救助を行う。
中野区のオフィスに留まるどころか、ろくに家にも帰れない日々が続いたが、気にもならなかった。
元より帰る家などないような人生だったのだから。
思えばあの頃が、人生で最も輝いていた時期だったのかもしれない。
創立以降、経営状態が順風満帆だったこととは関係ない。
頼もしいだけでなく、理解ある仲間に囲まれていたからだ。
一人、二人と増えていく仲間は皆、人付き合いが不得手な自分にも良くしてくれた。
仕事柄、殉職による別れは避けられないことは分かっているが、だからこそ仲間の数が減るのは辛かった。
束の間の幸福が終わったのは、あの人の妻となる女性の入社がきっかけだった。
彼女を一目見た瞬間、自分は女としては決して叶わないだろうと理解した。
容姿、愛嬌、声、母性、慈愛……列挙するのも嫌になる。
それほど、早見加奈恵という女性は、嫌味のない魅力に溢れていた。
似た者同士である中島雄二と惹かれ合い、結ばれるのは、運命の必然だったのだろう。
だからと言って黙認できるほど、当時の私は達観できなかった。
私なりのアプローチを、行ってはいた。
会話の量を増やしてみたり、食事に誘ってみたり、贈り物をしてみたり……
正直、詳細を思い出したくはない。あまりに無様だった自覚がある。
醜い女が醜い求愛行動をするなど滑稽の極みだが、形振り構ってなどいられなかった。
私の中で燃え盛っている情熱の炎が、およそらしからぬ振る舞いに駆り立てていたのだ。
あの人は、こんな私によく付き合ってくれたと思う。
出会った時と変わらずに、偏屈で対人関係に不器用な私のことを決して笑うことなく、尊重し、真摯に話を聞いてくれた。
色々なことを教えてくれた。
私は必死で、あの人が好きなものの全てを知り、好きになろうとした。
ただし、どうしても、肝心な一言は最期まで言えなかった。
断言できるが、仮に伝えたところで、結果は変わらなかっただろう。
交際も結婚も、切り出したのはあの人の方だからだ。
だが、想いを口にできなかった後悔は、今もずっと胸の奥に残って消えずにいる。
早見加奈恵は、優しい人だった。
他の仲間達と同じで、自分に対しても分け隔てない強さと温かさをくれた。
「わたし、瀬戸さんのこと、尊敬してるんですよ。強くて凛としてて、素敵だなって」
「そうでしょうか。とてもそんな人間ではないと思っているのですが」
いつも互いに敬語で会話していたが、別に不仲だった訳ではない。
彼女は私より年上で、私は彼女より仕事上、先輩だったからだ。
互いに良き同僚だったと思う。
彼女の力は、自己犠牲心で血液を薬に変えるというもので、私も何度も助けられた。
何より、能力を抜きにしてもよく気のつく人で、居心地が良かった。
だから彼女はきっと、私があの人へ抱いていた想いに気付いていたのだと思う。
ある時期、ちょうど血守会との戦いが本格化し始めた頃を境に、私への接し方に、後ろめたさに近いものを感じた。
恨んではいない。
いや……正確には、恨みたくはないが、恨んでいた。
私は、嫉妬していた。
とんだお門違い、逆恨みだということは重々承知している。
自覚した上で、私は彼女に対し、醜い感情を抱いていたのだ。
許せなかった。
私の方があの人と先に知り合い、付き合いが古かったのに、後から現れた彼女が、身も心もさらっていってしまった。
何より一番許せないのは、こんな幼稚じみた、拗ねた思いを未だ抱えている自分自身だ。
私は、今も弱い人間のままだ。
それからの時期は完全な暗黒時代のようなもので、思い出したくもない。
ただ、仕事に支障はなかったはずだし、彼女とも表面上は上手くやっていたと信じたい。
他の同僚が陰ながらフォローしてくれたことも大きかった。
思い出したくなさすぎて、かえって浮かんできてしまうのが、二人の結婚式だ。
出たくはなかった。
同僚である鬼頭高正、剛崎健の説得に折れる形で参加はしたが、今でもその選択をしたことを後悔している。
幸せそうな二人を見るたび、臓器が捩じ切れそうだった。
私に余計な気を遣わせまいと、他の参席者へ向けるのと変わらない笑顔を自分に投げかけてくるたび、発狂しそうになった。顔面の皮膚に亀裂が入り、醜い素顔が表れてしまいそうだった。
こうして思い返していても、鮮明に情景が蘇る。
スピーチ、音楽、料理、ケーキ、祝福、ライスシャワー、口付け……
イベントが終わって夜になった頃には、全てがどうでもよくなっていた。
あらゆる絶望を通過して、麻痺してしまったのかもしれない。
残っていたのは、この一振りの剣があればいい、という一念。
入社祝いとしてあの人から貰った、この剣だけを恃みに生きていこう。
そう、精神的には、トライ・イージェスに入るまでの日々に戻るだけだ。
何も大きく変わりなどしない。
人生をかけて、強さを、剣の道を追求し続ける。
元々、私の力の根源もそこにあるではないか。
孤独を深めれば深めるほど力が増す。
まったく皮肉と言うほかないが、これが生前より課せられた運命なのだろう。
純白の花嫁衣裳を纏い、あの人の隣で幸せそうに笑う自分の姿。
あさましい妄想は、あの日を境にもう二度と描くことはなかった。
追憶の時間軸が、幼い瑞樹が現れる辺りに差し掛かった所で、秋緒は目を開いた。
空の色は藍になり、瞬く小さな星々の過去の光が視界に届いている。
過去に浸れる時間は終わったのだ。思い出は再び凍らせて、しまい込まねばならない。
だが。
今回は、容易に凍結できなかった。
あろうことか、あの人の息子の前で、大罪に等しい醜態を晒してしまったのが原因だ。
一瞬とはいえ、あの子に、本人を"完全に"重ねて見てしまった。
胸の前で交差させた、刀を抱く両腕が震え始める。
全て言い訳に過ぎないが、アルコールが入ったことで緩んでしまったのだ。
あの人の命を奪った犯人が、ついに討たれたと聞いて。
最初は自分が犯人に復讐するつもりでいた。
この剣で五体を切り刻み、心臓に刃を突き立て、必ず報いを受けさせてやると。
諦めざるを得なかったのは、あの子の心の内を覗いてしまったためだ。
家族を殺された上、肉食ができなくなるような深い傷跡を残しながらも、あの子の内には、決して消えることのない激甚な復讐心が燃えていた。
諌めるか、あの子が何と言おうと自分が復讐を代行してしまうのが、本来あるべき大人の姿なのだろうが、できなかった。あの子の気持ちが、自分には痛いほど良く分かったからだ。
それに優先順位を考えれば当然のことだ。赤の他人より、息子の方が、先に犯人に復讐する権利がある。
正直、あの子であろうと、譲りたくない気持ちはあった。
その度、必死に抑え込んだ。
耐えられたのは、二人の幸せな姿を見続けるしかなかったあの頃よりは楽だったからだ。
せめて、自分は導き、護る立場にあろうと思った。
あの子が、強すぎる憎悪に飲み込まれてしまわないように。
その炎で、我が身までも焼き尽くしてしまわないように。
そのためなら何でもする。
自分の何を犠牲にしても構わない。
過保護とそしられようと、誰にも理解されなかろうと、あの子に全てを捧げる。
それが生き甲斐であり、贖罪だ。
犯人が死に、復讐を終えた今も、この想いは変わらない。
助け続ける。護り続ける。
血守会にも、あの子を汚させはしない。
もし、生き残ったのが妹の方――中島愛美だったら、同じことができただろうかと、時々考える。
妹の方は母親似だったため、どうしても一枚壁を作って接してしまっていた。
結論はいつも同じだ。曖昧にはぐらかして、逃げる。考えたくなかった。
「…………ごめん、なさい」
誰に向けて放った言葉なのだろうか。
秋緒の声は、普段からは想像できないほど弱々しかった。
謝罪の言霊は、追い詰められた人間をますます弱体化させる。
「許して、下さい……」
辛い。寂しい。切ない。苦しい――
無数の小さな針が心臓を突き刺して苛む。
痛い。痛い。痛い。痛い――
目に涙が滲んでくる。
秋緒は、哭いた。
しんと静まり返った空と湖と山は、あやしもしない代わりに、黙って受け入れていた。
哀哭し、ひとしきり思いを発散させた後は、別の情動が湧き上がってきた。
秋緒の指が、普段存在を忘れている箇所へと滑る。
こんなことをする自分を、深く恥じる。
身を清めるという当初の目的は、既に忘却しつつあった。
この場所でなら、全てを曝け出しても、何を行っても、何人からも見聞きされることはない。
そんな打算だけがあった。
「…………して……います」
許してくれるだろうか。いや、黙って見逃してもらおう。
湖水が、まるで熱湯に感じられる。
胸に抱いた刀が、命が宿っているように重い。
秋緒は溢れる想いのままに身を委ねた。
 




