十五章『三人の創設者』 その2
瑞樹がUSTCに初出場した日。
瀬戸秋緒は独り、山梨県にある河口湖のほとりにいた。
訪れた目的は仕事ではなく、鍛錬である。
世間の盆入りの時期に合わせて休暇を取るつもりはないが、毎年この時期は、河口湖を訪れることにしていた。
重ねて、慙愧に堪えない出来事も起こしてしまったため、心身を清める意味でも行かなければならないと考えていた。
前日、日の出よりも早く出発し、到着してからは、湖岸にて日がな一日、寝食も忘れて瞑想と剣を振ること、自分を襲う変異生物を斬ることに費やす。
青々と澄んだ水面の向こうに悠然とそびえる富士山を背景に、秋緒は存分に汗を流し、剣と気を研ぎ澄ませていく。
周りには一切の人気がなかった。
富士山を中心とした、富士五湖の辺りまでの区域に、現在人は居住していない。
正確には居住できなくなったという方が正しい。ジアースシフトによって世界の在りようが変わった日から、紆余曲折を経て、今では完全に人外の楽園となっているためである。
最も大規模な変化が起こったのは、日本の象徴・富士山であった。
外見上はほぼ変化がなかったが、富士山全域に霊気が立ち込めるようになったのである。
その霊気はあらゆる人間を、更には機械の侵入さえも拒み、富士山を完全なる不可侵の神域ならしめた。
ジアースシフト後も、幸いなことに未だ噴火の兆しは見られないが、一度この霊山が火を噴けば、降り注ぐ火と灰、巨大地震で日本が壊滅してしまうとさえ言われている。
また、富士山一帯から現れ、麓に降りてくる変異生物は、巷に溢れているような実力者程度では手に負えないほど強大な力を有していた。
加えて、無尽蔵という言葉を使用しても差し支えないほど、狩っても際限なく現れる。
そのため、かつて観光地として賑わっていた河口湖周辺も、今となっては半壊、風化しかけた建物ばかりが並ぶ、捨て去られた死の町となっていた。
理由は判明していないが、変異生物たちは、河口湖の辺りより先へ勢力を拡大する意図はないようであった。
秋緒にとっては、正にそこが狙い目であった。
誰にも邪魔されず剣を究める修行をするには格好の場所である。
何より、ここは彼女にとって思い入れの深い地でもあった。
秋緒がまだ学生だった頃、後にトライ・イージェス社を共に立ち上げることになる人物――鬼頭高正、そして中島雄二と初めて出会ったのは、この場所だった。
夕暮れ時になって、秋緒は剣を下ろし、大きく息を吐いた。
既にどれほどの回数剣を振り、現れた変異生物を斬ったか、もはや数えていない。
眼鏡や腕時計は外していたが、こんな時でも彼女はかっちりとしたスーツ姿である。
汗が止めどなく溢れ、顔を伝って滴り落ちる。ジャケットやパンツが肌に張り付き、スレンダーなラインを強調していたが、誰も見ている者はいないので気に留めない。
雲に霞んだ夕陽が、富士山からややずれた位置の山麓へと沈みかかっていた。
漣に薄い橙の光を反射して照らし返す遠くの湖面が美しい。秋緒はうっとりと目を細める。
彼方の明媚さとは対照的に、彼女が立つ周辺には無数の血と肉片が散乱し、虐殺現場さながらの光景が広がっていた。
全長五メートルを優に越える熊も、妖術を用いて千変万化する狸も、貪食な大蛇も、突然変異で人間大になった昆虫も、動物園から脱走して定着・変異・繁殖したライオンや虎も、秋緒に近付くものは皆平等に切り刻まれ、累々たる死骸の一部と化した。
視界の凄惨さは、じきに訪れる夜の闇が全て覆い隠してくれるだろうが、粘膜を犯しそうな悪臭や、黒い濃霧の如く集り、神経を摩り下ろす羽音を鳴らす蠅まではどうにもならない。
臭いは秋緒のスーツや髪、体にも染みついてしまっており、蠅もひっついてくる。帰る前に徹底的な脱臭をせねば、と考える。
手にしている愛刀は血を塗り重ねすぎて、刀身を赤とも黒ともつかないグロテスクな色相に変えていたが、切れ味は些かも落ちていないどころか、むしろ鋭さを増していた。
不思議と、蠅は一匹たりとも決して刀に触れようとしなかった。
血を吸う妖刀を思わせるが、剣そのものが呪われているのではなく、また秋緒の能力が禍々しいためでもない。
到着から一昼夜以上、ほぼ不眠不休で修行に明け暮れ、流石に疲労を誤魔化せなくなってきた。
一度休息を入れようと、秋緒は刀を地面に突き立て、鞘を置いた。そして身に着けているものを脱いでいく。
さらしに手をかけようとした時、背後に気配を感じた。
振り返ると、百メートルほど先に、灯を放つ黒猫が五、六匹いた。
無論、ただの黒猫ではない。赤い火を纏った左右の車輪に脚と胴体を挟まれ、異様に大きい頭部からは眼球が飛び出し、大きく裂けた口からは細かく鋭い牙が覗いている。
死体を奪う妖怪、火車である。
元来は葬式や墓場を狙う習性を有しているのだが、ここの火車はどうやら手癖が悪い上に悪食らしく、宝の山が放つ臭いに我慢できなくなり、現れたようだ。
秋緒は、こちらを襲う意志がなければ無視するつもりでいた。
しかし火車の方は、秋緒もお宝の勘定に含めているようだ。スタントバイクのように、悪路をものともしない走りで、最短距離を取って彼女へ駆けてきた。
間合いに入ったものから順々に、火車は一太刀で粉砕されていった。
秋緒は火車の登場に感謝していた。焚火を起こす手間が省けたからだ。
一糸纏わぬ姿となった秋緒は、刀だけを携え、仄暗い湖水へと足を進めていく。
湖にも凶暴化したブラックバスの変異体などが潜んでいるのだが、数はさほどでもなく、元より秋緒の鋭敏な察知力を持ってすれば対処は容易であった。
水は温かった。一歩一歩、足の裏に伝わるざらついた感触を確かめながら、ゆっくり深みへと進む。
中や底が見えないことに恐怖はない。ただ、火照った体を冷やしてくれるのが心地良かった。
水深が胸の辺りまで達すると、秋緒は胸の前で刀を抱き抱え、体の向きを反転させて底を蹴った。
湖面に仰向けになる。そのまま浮力に身を任せつつ、空の焼けた色を視界いっぱいに収める。
橙色は、人を感傷的にさせる作用があるようだ。
普段は奥底に冷凍保存していた記憶が、じわりじわりと解凍され、蘇っていく。
秋緒は、心のどこかで、このように浸ることを望んでいたのかもしれない。
この場所に来ると、いつも思い出す。
あの時――学生だった時も、今と同じく、独りでの修行に明け暮れていた。
人付き合いは苦手だった。
生い立ちも影響しているのだろうが、何より本質的な性分なのだろう。
物心ついた時には既に授かっていた力が、それを証明しているようにも思える。
異性よりも剣が好きだった。
今も自問自答していることだが、他を斬り、命を奪うこと自体を好んでいるのではない、と信じたい。
研鑽の量に比例して、剣が身体と一体化していく。
剣とは、命の、人生の具現。
そして戦いの際、白刃に積み重ねてきた全てを乗せ、生か死か、己の命運を賭す。
女としての本分、本能に背いていると言われようと、これらの感覚に勝る幸福はなかった。
だからこそ、自分には女性が一般的に備えていると思われる感情がなく、また無縁なものとも思っていた。
なのに。
あの人と出会った時、そのような頑なさは呆気なく崩れ去ってしまうのだった。
一言で言い表すならば、美しい人だった。
恐ろしいくらい整っている、日本人離れした彫りの深い顔立ち。長身に、すらりと長い手足。
淫魔が化けているのではないかと勘ぐってしまうほどの魔力を感じた。
この表現は決して誇張ではないと信じている。
それでいて性格は人懐っこく温厚(これは徐々に知っていったのだが)
公明正大で、敵にすら憐れみをかける人。
自分の持たないものを、幾つも持っている男性だった。
ちなみに鬼頭高正については、無口な強面という印象しかない。
二人は、所属している会社の仕事絡みの調査で、河口湖を訪れたらしい。
出会ったのはほとんど偶然だった。
「ここにある死骸、全部、君がやったの?」
「……はい」
「そうなんだ。凄い腕前だね」
不思議と、初対面からあまり嫌な感じはしなかった。
一目惚れ、と言われてしまえばそれまでかもしれない。
しかしこの時点では、単なる話しやすい人、以上の感情は抱いていなかったはずだ。
ともあれ、しばしとりとめのない話をした後。
出会って間もないのに、いきなりこんなことを言われた。
「僕と、ここにいる鬼頭君は、これから独立して防衛会社を立ち上げるんだ。卒業後でいいから、君の力を貸してくれないか? いやね、君があまりに魅力的だったもので、つい口説きたくなったんだ」
ひどく真剣な顔でのスカウトだったが、リップサービスなのは分かっていた。
これまでの人生、一度も"魅力的"などという単語を他人から使われたことなどなかったから。
自分の容姿が優れておらず、異性受けしないことも自覚していた。
それでも。あの声で。あの顔で。あの人柄で。
言い寄られてしまえば、ある部分では未だ愚かしいほど初心な私に、抗う術はなかった。
即決したのは当然の成り行きだったと言えるだろう。
もっとも、元々卒業後は、どこか変異生物駆除の会社に入ろうと考えてはいたのだが。
「会社名はね、もう決めてあるんだ。カッコいいやつをね」
トライ・イージェスという名前は、あの人が考えたものだった。
『三つの盾』には、人々を変異生物・犯罪者・災害から護るという意味が込められており、加えて、私達三人の創立メンバーを表しているそうだ。
名前に恥じない盾になろうと思った。私の得物は剣だし、他の二人も盾は使わないのだが。




