十五章『三人の創設者』 その1
瑞樹が五相にEF格闘技の選手登録書類を渡した日まで、時間は遡る。
トライ・イージェス社の最古参社員、鬼頭高正は、新宿の歌舞伎町にいた。
偶然彼の姿を見かけた瑞樹が予想していた通り、彼の目的は風俗やキャバクラに行くことではない。
目的は、地下である。
比喩表現ではなく、物理的な場所としての地下だ。
鬼頭は歌舞伎町の一角に建つ、とある雑居ビルに足を踏み入れた。
入ってすぐの所にある地下へ続く階段には、立入禁止の柵とロープが張られていたが、無視して跨ぎ、階段に足をかける。
灯りのない、ほとんど真っ暗な下り階段は、闇の世界へ繋がる道である。
これも比喩ではなく、言葉通りの意味である。
歌舞伎町の地下深くには、法の光が届かない世界が広がっている。
裏社会の、更に奥の奥。
表では出回ることのない、あらゆる"モノ"が、極一部の人間によって、倫理に外れた取り扱われ方をされる。
人々の間では"歌舞伎町アンダーワールド"という名で都市伝説として語られていたが、実在する世界であった。
長い階段を降り切ると、短い廊下の先に仄かな灯りが見えてくる。
鬼頭の目の前に、エレベーターと、二人の黒服の男が現れた。
それぞれ特殊警棒とサブマシンガンを所持している。
男は二人とも、鬼頭と対峙しても何ら引けを取らない、重量級の格闘家顔負けの体躯を誇っていた。
訪問者の姿を見るなり、うち一人がガムをクチャクチャ、警棒を弄びながら近付くが、鬼頭が懐から何かを出すよりも早く、色黒の顔がさっと青ざめる。
トライ・イージェスの威光にではない。
「こ、こりゃ……ダンナがいらっしゃるとは。どうぞどうぞ」
鬼頭の顔を視認するなり、急に下手に出始めた。
鬼頭は特に反応を示さず、無言でエレベーターに乗り込んだ。
定員九人のエレベーターには開閉ボタンしかついておらず、ドアが閉まるとすぐに降下が始まる。
五秒たらずで停止し、ドアが開く。
ひどく殺風景な、コンクリート造の部屋が鬼頭の目に映る。
鬼頭がエレベーターから降りると、すかさず三人の黒服が周囲を取り囲んだ。
「お手数ですが、ご協力を」
鬼頭は所持していた武器や通信機器の類を全て外し、男の一人に渡した。
そしてもう一人によるボディチェックを受けた後、部屋の中ほどに用意されたゲートを潜る。
「ご苦労様です。どうぞ」
鬼頭は部屋の奥にあるエレベーターに乗り込み、更に下階へ降りる。
例に漏れず最低限のボタン、一本道である。
今度は二十秒近く降下が続いた。
ドアの先に広がっていたのは、さながら高級ホテルのロビーを思わせる華美な空間だった。
中央にしつらえられた純金製の噴水が放つ黄金色の液体は、シャンパーニュ。
水晶の膜を敷いたように磨かれた大理石の床、条約で規制されているはずの生物の剥製、人工的に製造された、美女と極彩色の花々を掛け合わせた観葉植物人間――
それら全てを、高い天井から吊り下げられたシャンデリアが眩く彩っている。
広間には十人ほどの人間がいた。
アンダーワールドの"住人"と思われる、海外の超一流ブランドのスーツやドレスを纏った男女、サブマシンガンを携帯した黒服の警備員、この町で"出店"している店員らしき男――
鬼頭が現れると、一瞬、全員の視線が彼に注がれた。粘っこいような、温度を感じないような、およそ人間らしからぬ眼差し。
が、すぐに外れた。興味が薄れた、値踏みは済んだ、理由は各々異なる。
歌舞伎町アンダーワールドは歌舞伎町の真下に位置し、広さも地上とほぼ同じである。
碁盤目状に近い形で縦横に通路が走っているが、案内板などは一切存在しない。
しかし鬼頭は、勝手知ったる我が家のように、目的の場所を目指し、広場から伸びる通路の一つへと歩を進めていく。
地上の賑やかさとは対照的に、地下は静かな場所であった。
警備員が通信機をやり取りする声が主で、道端にいる人々の囁き声が時折混ざる程度である。
通路のあちこちにはドアがついているが、向こう側からは一切の音が聞こえてこない。
ドアを開けて入らない限り、中で何が起こっているか、知る由はない。
アンダーワールドの北部、多数のドアが短い間隔で通路の左右に並ぶ一画で、鬼頭は立ち止まった。
複雑な植物の意匠が施された鉄製のドアを、ノックもせずに開く。
中は四畳半ほどの薄暗い空間で、敷かれた真紅の絨毯、更に奥へと続くドアの他には何もない。
ドアの前には、チャイナドレス姿の妖艶な女が立っていた。
鬼頭が片手を上げると、女は頷き、通信機で短いやり取りを交わし、
「どうぞ、お入りください」
と、優雅な仕草で一礼した。
女によってドアが開けられ、鬼頭は中へ入っていく。
広さや装飾よりも、麝香の香りが真っ先に情報として飛び込んでくる部屋だった。
さして広くない空間には、玉虫色の壺や咲き乱れる桜を描いた屏風、異形の化物を水墨で描いた掛け軸などが所狭しと、趣味の悪い配置で飾られている。
鬼頭はそれらのいずれにも心を動かさず、部屋の中央に配された長椅子に腰かけている部屋の主に目をやる。
「おお、よく来たな。座れ座れ」
青いストライプスーツにピンクのシャツを合わせ、短いモヒカンを金髪に染め上げ、まるまる肥えた中年男――金田は、耳に障る甲高い声を上げ、鬼頭を手招いた。
鬼頭は誘われるがまま、金田の向かいに腰を下ろす。
「久しぶりだな、鬼頭」
「……ああ」
「仕事の調子はどうだ?」
「……悪くない」
「そうか。俺もここ最近、やっと仕事が軌道に乗り始めてな。ほれ」
金田は両腕を広げる。
彼の両隣には、誰がどう見ても未成年と思われる少女が、ほとんど裸体に近い、あられもない姿で座らされている。
加えて二人とも、明らかに顔色が悪い。
突如現れた鬼頭の存在に怯えていたこともあるが、一番の理由は別にあった。
「おい、行け」
金田はアルコール臭い息を吐きながら、右側の少女に命じた。
少女は消え入りそうな声で「はい」と答えて立ち上がる。
鬼頭と金田を挟む卓には、灰皿と札の貼られた酒壺、そして柄杓が置かれている。
「失礼、します」
少女は一礼し、ほとんど密着状態で鬼頭の隣に座った。
足取りはおぼつかず、呂律も若干怪しげであった。
鬼頭の鼻が、少女の体臭や吐息に濃いアルコール臭の混ざっているのを感じ取る。
「俺は、いらん」
鬼頭は短く答えて座り直し、少女から少し距離を置いた。
「ん、そうか? 好みじゃなかったか? それともお前、酒が嫌いだったっけか? 思い出せんなあ。飲みすぎかな? 久しぶりだからかな?」
金田は独り言のように呟き続ける。
「二人で話をしたい。人払いを」
「気にするな。こいつらはただの"器"だ」
鬼頭を取り巻く空気がわずかに変化したことにも気付かず、金田は隣に座らせたままの少女の頬を撫でた。
少女は震える手で柄杓を手に取り、酒壺から中身を掬い上げる。そして、蕾のように小さい唇を半開きにし、含んだ。
すかさず金田が少女の顎を掴んで引き寄せ、唇を重ねる。
液体を啜る下卑た音が部屋いっぱいに響き、時折男女のくぐもった声が漏れる。
幻と言われる銘酒と少女の唾液が混ざった液体を存分に口内でねぶり、飲み下した後、金田は絶頂に達さんばかりに顔をとろけさせる。
少女はすかさず、酒が零れて濡れた金田の唇周りや、青髭でざらつく喉を舐め取り始めた。
命令される前に行われた行為であった。
「ぐふふふははは、たまらんな、最高の酒だ。どうだ、お前もおこぼれとはいえ、最高級の酒を飲めて嬉しいだろう?」
「はい、ご主人様。光栄です」
無理をしているのが明らかな笑顔だった。
「どうだ鬼頭よ、やっぱりお前も飲みたくなったんじゃないか? あれ? お前は、酒が嫌いだったんだっけか?」
鬼頭は答えるどころか、少女にも一瞥さえくれず、金田を正面から見据えた。
見たものを圧殺しそうな眼力だったが、男はネジの緩んだ笑みをやめようとしない。
「ぐふふふふふ……ああ、そうだ。それより、これから"三人町"でイベントがあるんだが、観てくかい? 互いに家族をカタにした、本気の殺し合いだ。見物だぜ」
「いい加減にしろ。用件に入るぞ」
「相変わらずの朴念仁だな。で、何が聞きたい?」
「……質問は二つだ」
「高くつくぜ」
「一つ目は、血守会のアジトの場所だ」
「はははは、酔ってるのか? 血守会は既に壊滅しているだろう」
「教えろ」
鬼頭はそれ以上、何も言わなかった。
「ははは、殺気が漏れてるぜ。だがな、お前がいくら俺を殺したいって考えようが、ここだって結界の中だ。勝ち切れんよ、お前一人じゃあな」
金田の言葉は、ハッタリではない。
これほどの地下深くでも、山手線の結界は効果を発揮している。
結界の庇護対象は善悪を問わない。
「ところで、ビジネスの前にどうだ、スッキリしていかないか? 俺とお前の仲だ、特別にタダで卸してやるぜ。入園前から初潮前まで、何だったら腹を改造ったのも……」
金田の口を塞いだのは言葉ではなく、垂直に蹴り上げられた卓、そして、めり込んだ鬼頭の靴底であった。
「……て、てめぇ! ここでこんな真似してどうなるか、分かってんのか!」
鼻と口から滂沱たる血を流しながらも、金田は些かも怯むことなく凄んだ。
派手な物音を聞きつけた部下達が、奥の扉から続々と現れる。
年端もいかぬ少女ではなく、屈強な男たち。総勢十数人それぞれが青竜刀や銃などの武器を所持している。
「話し合いに応じようとしなかったのは、お前の方だ。早く答えろ。血守会のアジトの場所は、どこだ」
状況を歯牙にもかけず、あくまで簡潔に回答を促す鬼頭。
それに対して取った金田の行動は、限りなく最悪に近い選択であった。
「昔のよしみだと思って、下手に出てりゃ舐めやがって……殺れ!」
この後、部屋の中で繰り広げられた光景を、金田に侍らされていた少女二名はこう語る。
「鬼が、暴力だけで、悪魔たちを次々殴り倒した」
鍛え抜かれ、鋼鉄をも凌駕する五体から振るわれる、圧倒的な暴力。
武器も、EFも、この程度の相手には不要であった。
拳を、蹴りを見舞えば骨は砕け、投げれば紙屑のように飛んでいく。
刃や弾丸は、亡霊を相手取っているように虚しく空を切るのみ。
瞬く間に血の海と化した部屋に立っているのは、鬼頭ただ一人だけだった。
部屋の隅で震えている少女二名は無傷だったが、恐怖のあまり完全に腰が抜けており、金田は両脚をへし折られ、自分で動くことすらままならない。
残りは全て、完全な戦闘不能状態になっていた。
麝香に血生臭さが混じり、恐怖と絶望を胃袋いっぱいに詰め込まれたことで、重度のアルコール依存症だった金田も、一時的にではあるものの、流石に素面に戻った。
「そうか、修羅場潜り続けて、昔以上に強くなったって訳か。分かった、話すから、これ以上は勘弁してくれ」
金田の脳裏に、忌々しい過去が蘇る。
二十数年前、大分昔、たった三人の男女に、自分のグループのみならず、このアンダーワールド自体を壊滅させられかけた記憶。
新事業に成功し、アルコールと少女の体液に溺れてしまったことで、記憶力だけでなく、危機察知能力や本能のセンサーまでもが鈍麻してしまったらしい。
少しでもまともでいたなら、鬼頭の前であんな真似はしなかった。
「最近、血守会がまた動き出したのは聞いている。だがヤサまでは知らない。本当だ。何でも今回は、相当巧妙にやってるらしいからな」
「調べろ」
「……調べさせよう」
金田は取り出したハンカチーフで、顔の血を拭いつつ答える。
「二つ目だ。お前、いつからガキを扱うようになった」
「……五年前からだ。ふとしたきっかけで始めてみたんだが、実入りが良すぎたんでな。ついつい手を広げちまった。……言っとくが、俺は後悔も反省もしねえぜ。なんせ俺は、生まれながらの外道だからな」
「そうか。ところで、だ」
鬼頭は、間を空けずに言い放った。
「先程言ったな。ガキを、俺に無料で卸してくれるんだろう。全部よこせ」
「なっ、なんだと!?」
金田は言葉に詰まる。
「……か、勘弁してくれ。全部持ってかれちゃ、こっちも商売あがったりだ。もう契約成立してるのだってあるんだぞ」
金田の弁明を聞き、みるみるうちに鬼頭の顔面へ幾つもの深い皺が刻まれ、文字通り鬼の形相が浮かんだ。
「てめェ、商売人の癖に、すぐ前にてめェで言ってたことを曲げんのか?」
悪魔も泣いて逃げ出すような、ドスの利いた声。
それ以上に、血の臭いと化合して充満している殺気が尋常ではなかった。
もはやこいつは、生物として圧倒的に格が違う。金田は改めて、嫌という程理解してしまった。
当時とは、違うのだ。
「……チッ、小僧っ子の時分から、お前と関わりを持っちまったのが運の尽きだ」
遂には観念し、たまたま近くに落ちていた柄杓を掴んで、底にほんのわずか残っていた酒露を舐めた。
「名簿ごと全部提出するよ。奥の部屋だ。お前のせいでこっちは動けないんだから、連れていってくれ」
そう言っていたものの、現在の金田の心中に、鬼頭への恨みつらみは確実に存在していた。
しかし、それを現実化させようとは微塵も考えていなかった。
仮に後日、トライ・イージェスや、社員と近しい人間に報復を試みた場合、どうなるか。
単に殲滅されるだけならばまだいい。
それ以上の終焉が待っているのは想像を待たない。
あの時の三人のうち、一人はもう死んだらしいが、もう一人の女は健在と聞いている。
おまけに鬼頭同様、あの時以上に力を増しているらしい。
歌舞伎町アンダーワールドの他の住人に、助力を申し出る訳にもいかない。
この町では、自分の領分で起こったトラブルは、自身で解決せねばならないという不文律が存在する。
部屋ごとに完全な防音機能が備わっているのがその象徴だ。
それ以前に、あのトライ・イージェスに進んで首を突っ込みたがる者などいないだろう。
メンツのために根絶やしの憂き目に遭っては、たまったものではない。
「情報提供料の振込先はどこだ」
「調査後に伝える。前金はいい」
「そうか。……しばらくそこで待ってろ」
後半部分は金田ではなく、少女たちに向けたものである。
やるべきことを終え、再び地上に戻った鬼頭は、早速電話をかけた。
「……鬼頭です。お疲れ様です、社長。歌舞伎町アンダーワールドの少女売買の件、話をつけました。それと、血守会のアジトを調査させる契約も取り付けました。詳しくは社に戻ってからお話致します」
電話を切る。
少し動いたからか、小腹が空いたのを感じる。
「……ケーキでも買っていくか」




