十四章『出場命令』 その1
このような形でこの場に立つことを、予想すらしていなかった。
瑞樹は、現在自分を取り巻いている風景、状況を、半ば他人事としてぼんやりと観察していた。
三六〇度、遠巻きに広がっている客席。
こうして実際に囲まれる側として立ってみると、とても広く遠く感じられる。
石床の硬さも、普通のものと何ら変わりがない。一切の汚れなく清められている。
天井から降り注ぐライトの光は、太陽よりも眩しい。そのせいか、室温が高く感じられた。
これだけ仔細に観察し、ありありと味わってみても、まるで無感動なことに気付く。
原因は分かっている。血守会のせいだ。
奥平から課せられた新たな命令。
それは、有明コロシアムのEF格闘技のイベントに参戦することであった。
命令の真意は分からない。ただ出場を命ぜられただけだ。
特定のイベントに優勝しろとも、ランクを上げろとも言われなかった。
「勝ち続けなければ青野栞に危害を加える、などとは言わん。安心して、好きに試合を楽しむといい」
奥平から付け加えられた言葉は、それくらいである。
ニュアンスからして、参加することに意義があるとでも言いたげだった。
確かに、選手としてEF格闘技に出場したいとは考えていた。
しかしこんな形ではない。血守会に首輪をつけられた状態ではない。
何のくびきもなくここに立っていたならば、この眩いばかりの光景に胸を打たれていたのかもしれない。
だが、今更それを問うた所で詮無きことである。
心の在り方に関わらず、戦うしかないのだ。瑞樹は視線を、眼前の敵に向け直した。
選手登録にあたって必要な手続きのうち、障害になりうるものに関しては、血守会が全て工作を行うと、事前に奥平から説明があった。
瑞樹がまず行ったのは、未だ記憶にはっきり残っていた、スカウトマン・増田育夫の連絡先に電話をかけることであった。
増田はスピーカーから飛び出てきそうなほどに喜び、直ちにアポを取り付けてきた。電話をかけたのは昼過ぎだったが、当日の夕方に早速打ち合わせを行うことになった。
「まさか、本当に連絡をもらえるとは思ってませんでしたよ。いや、ありがたいありがたい」
指定された新宿三丁目の喫茶店へ向かうと、既に先着していた増田が滝のような汗を流しながら握手を求めてきた。
「すみません、唐突に連絡をしてしまって」
「いえいえ、全く問題ありませんよ、大歓迎です。ところで……彼女、大反対しませんでした?」
「ちょっと事情が変わりまして。大丈夫です」
その言葉を、瑞樹と栞は別れてしまったと男は解釈したのか、
「そうですか……では、その気持ちも戦いにぶつけて勝ちまくっちゃいましょう!」
同情するように曇った表情を作り、激励を贈った。
誤解してもらった方がある意味好都合と判断したので、瑞樹は特に弁明せず、
「そうですね。ちょうど今、溜まった気持ちをぶつけたい気分なんです」
とだけ返した。
五相から聞いたところ、この増田は血守会とは無関係らしい。
瑞樹は現在の身分を添えた簡素な自己紹介を行った後、ミルクティーを啜りつつ、増田の説明に耳を傾ける。
学生でも、変異生物駆除の就労をしていても、前科さえついていなければ、選手登録に問題はないらしい。
過激派テロ組織に無理矢理加担させられてます、とは言えなかった。もっとも、露見したところで、あの奥平ならば何としてでも通してしまうのだろうが。
増田はしばし、諸々の確認を行うために端末を操作していた。
しばらくして、瑞樹にも見えるよう、モニタを動かす。導き出した結論によると、瑞樹が現在参加できるのは、夏休み限定で行われるトーナメント戦のみらしい。
これに出ませんか、という増田の勧めに、瑞樹は二つ返事で参加を承諾する。
「中島君は、将来的にはプロとして身を立てたい、なんてことは考えてます?」
「今の時点では、そこまではちょっと」
血守会のことを抜きにしても、プロになることなど、あまり真剣に考えてはいなかった。
現実味に乏しい、といった方が正しい。脚光を浴びている光景を夢想したことはあれど、それを本当にしようとは思っていなかった。
ましてや今は、血守会の命令で出ようとしているのだ。これは好きなものに対する冒涜にもあたるのでは、とさえ瑞樹は感じていた。
「そうですか。ま、将来性のある身のようですし、色々ありますよね。じゃあまずはお試しで参戦するって形にしときましょうか。はいじゃあこれ、書類です。書けるとこだけ今書いちゃいましょ」
増田はテーブル上のものを端に寄せ、バッグから書類とペンを取り出して置いた。
わざわざこの場で書かせようとしているのは、決意が鈍らない内に契約を取りたいからだろう。
「先に規約などを読ませて頂いてもよろしいですか?」
「え? ええ、もちろん構いませんよ。お若いとはいえ、流石にしっかりしてますねぇ」
瑞樹は苦笑を返し、細々と書かれた文章に目を走らせていく。
契約書などにサインをする際は、規約などをきちんと読み、理解してからすべきだと、かつて秋緒から教えられていた。
仕事の手伝いで書類を扱うこともある関係上、瑞樹は同年代の若者よりも遥かに契約の重みを知悉していたのである。
一通り読んでみたが、特に不自然な点や、謂れなき不利益を被りそうな記述はない。
また、先日奥平から押し付けられたもののように、血判を押す必要もないようだ。
瑞樹は氏名、生年月日、住所など、必要事項を次々と書き込んでいき、書類の下部に移る。
残りは『自分は試合中に死んだり精神に異常をきたしても、自己責任の元に文句を言わないことを誓約する』サインと捺印である。
自身の分と保護者承諾の分、二つの枠が用意されていた。
「怖い言葉で書かれてますけど、今まで"現実"で本当に死んだ選手はいませんから大丈夫ですよ。ごくわずか、精神的に軽く病んでしまった人はいますけど、その場合も全額医療補償が効きますし、病院もコロシアムのすぐ近くにありますから。夢の国より安全……なんて言ったら各方面から怒られますかね」
ペンを止めた瑞樹を見て、増田は笑いながら言った。
瑞樹もその点については特に気にしてはいない。そもそも死んだら文句も何もないだろう、と突っ込む余裕さえあった。
ペンを止めたのは別の理由だ。
学生が選手登録するにあたっては、保護者もしくは身元保証人の承諾が必要となる点である。
「あとは家で書いてきます」
瑞樹はさっさと書類一式を自分のバッグにしまい込み、ペンを増田に返却した。
「分かりました。申込期限がありますので、なるべく早くお願いしますよ。何より私も、早く中島君の活躍が見たいですからね」
全項目に記入捺印後、速やかに郵送することを確認し、しばらく増田ととりとめのない雑談をした後、瑞樹は喫茶店を出て増田と別れた。
そのまま地元へは戻らず、新宿付近を少し歩くことにする。
本格的に夜を迎え始めた新宿は、一層の賑わいを見せ始めた。東へ行くと二丁目へ入ってしまうので、駅のある西側へ行く。
都心部、山手線の内側ということもあり、相変わらず凄まじい人口密度だった。新宿大ガード東側ですぐに足を止め、本来の目的に戻る。買い物や人間観察がしたいから歩いたのではない。
瑞樹は五相に電話をかけた。選手登録にあたっての"障害"をクリアするため、彼女に書類を渡す手筈になっていたのである。
五相から、すぐ瑞樹の下へ取りに行くと言われ、電話を切った後。
視界の端、通行人の群れの中に、見覚えのある姿が映った。
(あれは、鬼頭さん?)
羊の中に猛牛が混ざっていれば誰でも分かるように、すぐに分かった。
鬼頭高正。
瑞樹の父である中島雄二、瀬戸秋緒と共に、トライ・イージェス社を立ち上げた三人のうちの一人。
そして現在も社に残り、第一線に立ち続けている唯一の人物である。
剛崎以上の強面、プロレスラーのように屈強な体格、真夏でも崩さない黒スーツ。
軽装にならないのには事情があるのだが、それにしてもあまりに目立つ。どう見ても堅気には見えない。現に今も、周りの通行人は一定の距離を取っており、逆から流れてくる人間も、あからさまに鬼頭から目を逸らして道を空けている。
さながら、鬼頭の周囲に結界が張られているようだった。
瑞樹とて、知り合いでなければ、あの通行人たちと同様の行動を取っていたであろう。
鬼頭の方は瑞樹に気付いた様子はなく、そのまま歌舞伎町の方へと消えていった。
歌舞伎町に何の用事があるのかは不明だが、まさかキャバクラや風俗に行こうとしている訳でもあるまい。
瑞樹が声をかけなかったのは、鬼頭を苦手としているからではない。
これから"取引"を行うにあたり、知り合いと遭遇するのは避けたかったからである。
相手が鬼頭とあれば、尚更だ。
五相は、瑞樹が予想していたよりも早く到着した。
「大丈夫ですか」
増田から受け取ったばかりの書類を手渡す際、瑞樹は一声かけた。
彼女の面持ちは未だ、先日行われた処刑を原因とした沈痛さを残していた。
「はい……すみません、私よりも中島さんの方が、松村さんとのお付き合いが長いというのに、私ばかりこんなに落ち込んでしまって」
「付き合いの長さと、親密さは比例しませんよ」
瑞樹は慰めの言葉をかけた。
松村がよく会っていた年上の女性というのは、五相であることを、彼女本人から聞いた。
二人がどこまで親密で、本音を見せ合っていたのかは瑞樹の知るところではない。ただ、二人の性格を照らし合わせるに、それなりに親しくしていたのだろうという確信めいたものはあった。
「これから少し、時間ありますか? 少し付き合って欲しいんですが。……実は僕も、辛くて」
本当はそこまでの辛さはなかったのだが、瑞樹はあえてそう言った。
悲しくない訳ではない。ただ、悲しみよりも怒りの方が強かった。
あの日、アジトを出る道中の時点で、既に怒りが優勢になっていた。
近しい人間を失うことに慣れて、心に防衛機構ができてしまったのだろうか。
瑞樹は危惧する。このまま行くと自分から、悲しみだけではなく怒りも含めたあらゆる人間的な感情がなくなり、サイボーグのようになってしまうのではないだろうか。
最悪、それでも構わないと、彼は考え始めていた。
「はい、私で良ければ」
案の定、精神的に弱っている五相は食いついてきた。
「…………ごめんなさい」
ただ瑞樹に誤算があったとするなら、五相は彼が思っていた以上に気がつき、また自制心が強い反面、温情に対する耐性が低い人間であったということだ。
五相は堰を切ったように、人目もはばからず、涙を流し始めた。瑞樹がハンドタオルを取り出すよりも早く、彼の小さな体を抱きすくめる。
「彼女のいらっしゃる中島さんに、こんなことをするのは、良くないって分かってはいます…………けど……ごめんなさい、少しだけで……いいですから」
その後は、無言だった。
瑞樹は抱き返しも、拒みもしなかった。
耳元から、押し殺した嗚咽が流れ込んでくるのも、無抵抗に受け入れていた。
「本当にすみませんでした。私ったら……」
「気にしないで下さい。僕も役得でしたから」
五相からの三度目の謝罪を、瑞樹は三度目の冗談で返した。
涙で発散できたからか、徐々に込み上げてきた羞恥心のせいか、五相の立ち直りは思いのほか早かった。
四度目はなかったが、代わりに、気まずそうに瑞樹に尋ねた。
「その、中島さんは、お辛くありませんか。私にできることがあったら、遠慮なくおっしゃって下さい」
「……正直言いますと、今は辛さよりも怒りの方が強いんです」
口調が静かなのが不思議なほど、瑞樹の答えには強い嫌悪感が込められていた。
彼の頭の中では、禍々しい面構えをしたミリタリージャケットの男が鮮明に描かれていた。
「あの男は許さない……松村を殺した報いは、必ず受けさせます」
瑞樹と松村はおよそ二年ほどの付き合いで、交友が始まったのは大学に入ってからである。
EF保有者という共通項こそあれど、何でも腹を割って話せるほど親しかった訳でもない。
劇的な出会いもなく、いつの間にか行動を共にしがちになっていただけだ。
それでも、紛れもなく友だったと言える。
二人の間に、確かに縁はあったのだ。
だからこそ、後悔していることもある。
もっと親身に相談に乗ってやれば良かった。
もしかしたら、あの日、EFを強化したいと言っていた時から、脱会を考えていたのかもしれない。
「相楽慎介について知っていることがあったら、教えて下さい」
瑞樹の心の中では、新たなる炎、相楽への殺意が燃えていた。
あの忌まわしき放火魔・相楽慎介を、必ず殺す。
人魂ではなく、この炎を流し込み、体内から骨もろとも焼き尽くしてやる。
松村も、無残に殺されてしまったあの人たちも、そうすれば少しは浮かばれるだろう。
これは、新たな復讐だ。
また新たな復讐の炎を燃やすことになるとはと、瑞樹は自分の運命を呪いたくなった。
だが、逃げたり、泣き寝入りする訳にはいかない。
円城寺沙織を討つことができたのだ。同じ人間である以上、相楽を殺せない道理などない。
運命や、平然と人を殺すクズなどに、負ける訳にはいかないのだ。
「……すみません、あの日まで顔を合わせたこともなかったので、私もよくは知らないんです」
五相は申し訳なさそうに言う。
その際、瑞樹から一瞬目を逸らしたのは、嘘をついたからではない。
彼の表情に、狂気を見てしまったのが理由であった。
円城寺沙織への復讐を口にしていた時と、同じ顔をしていた。
彼女の顕在意識が抱く彼への本心は、拒絶ではなくむしろ同調であったが、本能が反射的にそのような挙動を取らせてしまったのである。
何か情報が分かったらすぐに教えてもらう約束を取り付け、瑞樹は五相と別れた。
彼女への失望感はなかった。
それというのも、相楽を始末するための策が、既にうっすら頭の中にあったからである。
だが、現時点では絵に描いた餅ですらない、まるで確実性に乏しい方法だ。
それに今は、任務に集中しなければならない。秋緒に気付かれぬよう冷静を取り繕い、指摘された時用の答えを考えなければならない。
瑞樹は、思いっきり顰めた顔を、ネオンで彩られた新宿の夜空に向けた。




